神楽坂、スカートは紅し[1-2]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】
2 パスタと君と、こんばんは
「いらっしゃいませ、おひとりさまですか?」
「は、はい」
「どうぞお好きなお席に」
眼鏡をかけた黒髪の真面目そうな男性店員が、少しだけ笑みを浮かべ、茉侑を席に促す。程よく涼しい店内はがらん、としている。店内を見渡し、空が綺麗に見えそうな大きなガラス窓のそば、モスグリーンのソファ席を選び、腰かける。
──あ、思っていたよりもフカフカ。
座り心地の良いソファに、沈んでいた茉侑の心は少し浮上した。
夕暮れ時、空がオレンジから濃紺のグラデーションに染まっていて、綺麗だ。しばし夕暮れを堪能していると、店員がメニュー表を小脇に抱え、よく冷えたであろう水と紙タイプのおしぼりを持ってきた。
「メニューです。お決まりになりましたらお呼びください」
「ありがとうございます」
メニューを渡されて、茉侑は我に返る。コーヒーはもちろん紅茶にスイーツもパスタもあり、メニューを見ているだけで腹がぐうと鳴る。
生きてるって、こういう時に実感するよねと自嘲気味になる。しばらくメニューとにらめっこして、一番心惹かれるものに決めた。
「すみません、蒸し鶏と高菜のパスタとアイスカフェラテお願いします」
「お飲み物は今すぐお持ちしますか?」
「はい、お願いします」
男性と話すとき、どうしても早口になり、視線を合わせられない。元恋人のことが頭をよぎるからだ。あの日、床に散った赤い花びら。思い出せば、喉の奥が強張る。
これまでの恋愛は、傷だらけだった。腕の傷を見て、露骨に顔を曇らせる男もいれば、執拗に理由を問い詰める男もいた。
「生きていても仕方ない」──そう思っていた。どれだけ消えようとしても、この世界は茉侑を手放してくれなかった。
結局、臆病で中途半端。
この三年で、言葉の数がぐんと減った気がする。苦しいとか、寂しいとか、言うだけ無駄だと、どこかで思っていた。
茉侑はフォークを握り直し、目の前のパスタを口に運ぶ。
考えたところで、答えなど出るわけがなかった。
「お客様、そろそろ閉店のお時間ですが」
「え、もうそんな時間……」
店員の声にハッとして、腕時計を見ようと視線を落とした瞬間──ぎょっとした。
外が暑くて、冷房の効いた店内が心地よかったせいだろう。いつの間にか、カーディガンの袖を思った以上に捲ってしまっていた。
慌てて袖を引っ張り戻す。何事もなかったように振る舞いながら、腕時計に目を落とす。
──見られていないだろうか。
不安が頭をよぎる。けれど、今は時計の針がもうすぐ午後八時を指そうとしている事実のほうが深刻だった。
茉侑は四年前から使っている、少しくたびれた赤いスマートフォンを取り出し、旅行アプリを開いて今夜の宿を探そうとした。
その時だった。
「お困りですか?」
「はい?」
思わず声が裏返る。
身構えたせいか、肩に力が入っているのが自分でも分かった。
「僕、超能力者なんです」
突然の言葉に茉侑は面食らった。超能力者とは?
何を言っているのか分からず、彼の冗談なのか、こちらを探っているのか、どちらともつかない。ただただ戸惑っていると、彼は「あはは」と目尻を下げて柔らかく笑った。
「失礼しました、冗談ですよ。僕、接客業が長いので、なんとなくお客様の雰囲気で『帰りたくないんだな』とか『彼氏の残業が長いのかな』とか、そんなことを察することがあるんです」
彼の笑顔が徐々に真顔に変わり、少し淋しげな表情で茉侑をまっすぐ見つめる。
「お客様の場合は、『これからどうしたらいいのだろう』という雰囲気が見えたので……」
その言葉に、茉侑は無意識に視線をそらす。
確かに図星だった。東京に出てきたはいいけれど、宿のことも忘れるくらい無計画で、ただ「誰も『私』のことを知らない場所に行きたい」と思っただけ。しかし、あまりの無計画ぶりを悔いている自分がいる。
「行くあてがないのなら、ここにいても構いませんよ」
唐突な、苦手としている『男性』からの申し出。
怪しむが、彼の言葉はとても偽善で言っているものに聞こえなかった。目の前の彼の落ち着いた声のトーンや柔らかさが、そう聞こえさせているのだろうか。
「もちろん、無理にとは言いません。ただ、この辺はビジネスホテルも少なくて、飯田橋のほうには宿も多少ありますが、正直宿代は高いです。ここは店舗兼僕の家なので、友達の家に泊まる感覚で使ってください」
「ですが……」
「困っている時は、お互い様です。昔、僕も助けていただいたことがありますし」
どう応じていいのか分からず、茉侑が言葉を選んでいると、彼が少し苦笑いして頭を掻いた。そして、唐突に
「犬、好きですか?」
と尋ねてきた。
「え。ええ」
「わかりました」
店の奥、彼のプライベートゾーンだろう場所へと、一瞬姿が消える。次に現れた時には腕の中に小さなレッドカラーのトイプードルを優しく抱きかかえていた。
──か、可愛い!
声にならない声は、心の中の音楽ホールで大きく響く。
「『おかき』って言います。オスで最近三歳になりました」
「おかきくん?」
まるでぬいぐるみのような愛らしい姿に、触れてみたい気持ちが湧き上がる。おかきと呼ばれた犬は、何故か飼い主の彼の抱っこを拒否しようとしているように見えた。
「どうした? おかき」
彼がおかきを覗き込んだ次の瞬間、おかきは前脚をピンと伸ばし、飼い主である彼の顔を思い切り押した。彼の眼鏡がずれる。
「いてっ」と彼が軽く叫んだ瞬間、おかきは彼の腕を飛び出し、茉侑の方へとハイジャンプ。
「危ない!」
ほぼ同時だったと思う。彼の声と茉侑の声が綺麗に重なった。
絶対落としちゃいけない! 茉侑は、おかきを守るために両腕を伸ばした。両手にずしりと小さな命が重く感じられる。
「な、ナイスキャッチです……」
「びっくりした……」
小さなやんちゃくんを何とか抱きしめていると、今度は茉侑の頬へ軽く鼻を押し当てた。
──なんて癒されるのだろう。
茉侑の心が少しほぐれる。小さな命が、心を掴んで離さない感覚。
彼は、ずれた眼鏡を直し、デニムのポケットからカードケースを取り出して、名刺を差し出した。名刺には
『Cafe Past&Future オーナー 荻野航大』
の文字。名刺に描かれた可愛いトイプードルのイラストは、間違いなく今茉侑が抱きかかえている、おかきがモデルだ。おかきの胸元に白い毛が混じっているのを忠実に表現していたからだ。
「改めまして、このカフェを経営している荻野航大と申します」
「あ、ちょ、頂戴いたします。私は相原茉侑と申します」
茉侑は、昔教わったビジネスマナーを思い出し、おかきを抱っこしながら、両手で名刺を受け取った。
「僕が男だから警戒されている気持ちもわかります。でも、うちにはおかきがいるので、万が一やましいことなんてしたら、僕の信用は失墜しますね」
そう話す彼──航大はため息を吐いた。
「とは言え、それだと相原さんが納得しないと思うので、あの張り紙見て貰ってもいいですか?」
航大が店舗の外を指さすと、入口のガラスドアの横に何かを貼っているのが確認できた。茉侑は扉を開けてそこに書かれている文字を読む。
『急募! アルバイト募集中です。
特にランチタイムに入れる方、優遇します。
詳細はこちらの電話番号かインスタグラムのDMにて』
求人広告……? ふと、茉侑はおかきの体温を感じながら考えた。
このまま東京で何をしたいんだろう。本当にここで働いていいのだろうか。更に泊っていけばと言う男性。一晩お世話になるだけでも気が引ける。
でも、もう『帰れる場所』なんて、どこにもないのだから──
茉侑はガラスドアを開けて、航大へ叫んだ。
「荻野さん、私、一宿一飯の恩で働かせてもらっていいですか?」
その声に、航大が笑顔で親指を立てた。
この人は、本当に何も求めていないのかもしれない。茉侑は少しだけ息がしやすくなったのを感じた。
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