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神楽坂、スカートは紅し[1-1]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】

あらすじ
「傷だらけでも、春はきっと彼女にはあかく、やさしく咲く」


気分の波が激しくなる病──双極性障害Ⅱ型。
希死念慮に囚われた茉侑まゆは、静かに神楽坂の街へ辿り着いた。

出会ったのは、カフェを営む穏やかな男性・航大こうだいと、かしこくてやさしいトイプードル「おかき」。
過去には触れず、ただ寄り添う二人の温かさに、茉侑の心に微かな光が灯り始める。

そして芽吹いていくのは、「恋」と「自分を取り戻す」という小さな奇跡。
初めて淹れてもらったアイスティーの優しさ──その日常が、逃げたかった日々を遠ざけていく。

だが、決別したはずの過去は容赦なく彼女を追い詰める。

傷と向き合いながら、ふたりは何を選び取るのか。
静かに芽吹く、愛と再生のラブストーリー。

306文字

※この物語には、自傷行為や精神的な困難に関する描写が含まれます。読む方のご体調やご経験により、思わぬ影響を受ける可能性がございます。無理のない範囲でお読みいただければ幸いです。

ですが、このお話は「生きる」ことをもう一度選び直す、一人の女性の物語です。

本作はフィクションであり、特定の行為を推奨するものではありません。


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[1]神楽坂で逢いましょう

1 赤く咲かずに、落ちた花

 ──その赤は、まだ、つぼみのままだった。
 咲くことも、枯れることも、選べないままに。

 その未熟なままの歩みに、ひとすじの汗が頬を伝う。
 まだ何者にもなれないまま、彼女は歩いていた。



「このマンションで死なれると色々と迷惑だから、頼むから他のところで死んでくれない?」

 そんな言葉を聞かされたのは、凍えそうな夜だった。
 彼女は、ただ立ち尽くしていた。
 恋人の言葉に、優しさはひとかけらもなかった。
 こんなことを言われる日が来るなんて、想像もしていなかった。
 刃物より鋭い一言が、胸の奥深く、音もなく突き刺さる。

 気がつけば、彼女は涙を流しながら、キッチンのまな板の上に出しっぱなしにしていた調理用具を手に取っていた。

 なにもかも、おしまいにしたい。
 彼女は腹にそれを押し当てた。ただ、終わらせたかった。
 けれど、思ったよりも腹の脂肪は厚く、手応えがない。確固たる意志がなければ、何も変えられないし、うまくいかない──そんなことを、この状況で考えていた。

 ──私は生きたいのか、死にたいのか。
 熟考しても、答えはわからない。まだどこかで現世に未練があるのかもしれない。知らず知らずのうちに手加減をしていたようだった。
 それでも、と最後の力を振り絞って、さらに押し進めてみる。
 あれ、こんなもの? と拍子抜けするくらい、何も起きない。

 少し身体を傾けたとき、ようやくじわりと滲み出したそれは、心が泣き出した証のようだった。
 不思議と痛みは感じない。うっかり包丁で指を切ったときのほうが、よっぽど痛かった気がする。

 恋人は一瞬目を見開いた。だが、言葉はなく、視線を逸らした。
 
 ──ああ、これで終わりなんだ。
 彼女は諦めに似たため息を一つ吐くと、最後に残った感情を、押し込めるように意識を集中させた。

 フローリングの床に落ちた一滴の赤は、彼女の中で朽ちていく愛の象徴のように思え、その赤を見つめたまま、震える左手をゆっくりとスマートフォンに伸ばした。

 ──三年後の夏。
 ふと『あの日』を思い出し、痛くもないのに痛む気がして、腹の古傷をドルマンスリーブの長袖カーディガンの上からさする。

 彼女──茉侑まゆには、両腕にアームカットの痕が何本もある。暑い夏でも長袖を着ているのは、それを隠すためだ。へその下には太くて白い傷痕。
 自分で刺したものだからとはいえ、受け入れるまでに時間がかかった。「なぜこんなことをしてしまったのだろう」という怒りにも似た感情だ。

 精神にかかわる病が、ある程度世間に浸透してきた今でも偏見はまだまだ残っていて、居心地の悪さを感じることが多々ある。でもそれが『普通』の日本なのだから仕方ない。茉侑にとって、この傷は『邪魔者』でしかない。  
 生きたいのだろうか、死にたいのだろうか。そんな自問自答をずっと繰り返しながら、仕方なく今日まで生かされてきたのが、茉侑だ。

 三年前の『あの日』、茉侑は自分で救急車を呼んだ。
 室内の様子から事件の可能性もあると判断されたのか、私服警官が数人来て、部屋は一時ざわついた。
 病院での処置は、軽い縫合と二週間の経過観察だけで済んだ。
 刺した位置が、あと四ミリ深ければ内臓に達していたらしいが、出血も多くはなかった。
 命に別状はなし。ただ、それだけのことだった。

 この間、恋人は本当に何もしなかったし、だんまりを決め込んでいるようだった。
 都合の悪いときは何も言うまいという恋人の沈黙は、茉侑の「楽しかった」と思えた心の日記帳を、黒インクでじわじわと滲ませていった。

 抜糸までの二週間、現実と向き合い、このままではいけないとノートパソコンで派遣会社を探し、Web面談を済ませた。
 同棲していた部屋の荷物を彼に気づかれないよう片づけ、抜糸の日に未練など全くなく、消えるように去った。

 北陸地方のとある寮つきの工場で部品検査の派遣社員になった。
『あの日』から茉侑は男性恐怖症になり、女性が沢山働いているという口コミを信じて北陸まで飛んだ。
 幸い、上司以外九割は女性で構成された部署に配属。
 自身のことを誰も知らない土地で、必要最低限のコミュニケーション以外は誰ともかかわることなく静かに働き、約三年。
 ある程度の貯金ができたので派遣会社を辞めることにした。

 幼い頃は家族でよく電車旅をしたせいか、今でも電車が好きだ。テレビで観た北陸新幹線にどうしても一度乗ってみたかった。
 ただそれだけの理由で、今までのご褒美とばかりに奮発してグランクラスのチケットを取った。向かうは首都・東京。寮の最寄り駅からだと米原まいばら乗り換えで東海道新幹線の方が安くて速いのだが、旅の醍醐味はやっぱり「自分がどうしたいか」だと茉侑は思う。ふかふかの座席を堪能していたら、三時間ちょっとなんてあっという間だった。

 東京駅からは中央線快速に乗り換えて、辿り着いた場所は日本で、否、世界で一番のターミナル駅。

『新宿、新宿です』

 とてつもなく長い乗換案内の車内アナウンスが響く。茉侑は慌てて立ち上がり、目の前に置いていた銀色のスーツケースと共に新宿駅のホームに降り立った。
 七月、湿気を帯びた熱がホームを包んでいて、あまりの暑さに眩暈を起こしそうになりながら、暑さを和らげるため傷が見えない程度に袖を捲った。
 これからどこに行くかなんて考えてもいない。次は都営大江戸線でも乗ってぐるぐると周ろうか。気になった駅名で降りよう、そう決める。

 地上は暑いから、地下から攻めよう。人の波にそっと紛れ込み、下にある改札を目指す。
 しかしここは『新宿ダンジョン』。方向感覚は悪くない茉侑だが、どこへ向かっているのか分からなくなっていた。とりあえず西改札を出て、都営大江戸線を探す。スーツケースには必要最低限のものしか入っていないはずなのに、引いているとやけに重たく感じる。

 うっかり丸ノ内線の改札に入りかけたが回避し、何とか大江戸線へと向かう入口を見つけると、まるで先の見えないジェットコースターのようなエスカレーターに運ばれて、更に地下深くまで潜る。

「あれ?」
 よく見ると駅名は『新宿西口駅』。新宿駅を目指していたはずが、どうやらJRの改札の出る場所を間違えたらしい。
 まあいいや、と心の中で呟き、きっぷ売り場の上に設置されている都営大江戸線の路線図を見つめ、惹かれる駅名を探す。

 ──清澄白河きよすみしらかわ、とても美しくておいしいお水が飲めそう。
 ──月島つきしま、と言えばもんじゃ焼き、だっけ。

牛込神楽坂うしごめかぐらざか……牛込?」

 疑問の声が、思わず出た。
 神楽坂、という地名は聞いたことがあるが、牛込という農場感のある地名が気になった。うしごめかぐらざか……どんなところなんだろう。

「清澄白河、ごめん。今回は牛込神楽坂にする」
 何に謝っているのかわからないけれど、何があるのか気になる牛込神楽坂で降りることに決め、切符を買った。

 大江戸線に使われている車両は思った以上にコンパクトで、ちょっと可愛く見えた。その電車に揺られ、四駅目が目的地だ。茉侑は妙にそわそわとして、座席に座ることなく、ドア付近に立っていた。

「次は牛込神楽坂、牛込神楽坂」

 優しそうな女性の声で録音されている車内アナウンスが流れる。
 ドアが開き、ホームに降り立つ。エスカレーターで上を目指し、改札を出るとそこにはただただ長い通路が左右に伸びていた。

 どっちにいけばいいだろう。地図を見るのもいいが、少々面白みがなくなる気がした。茉侑は左を向いて黄色の行先表示を見上げた。一番近い出口は「出口A2 北町きたまち方面」と黒文字で書かれている。右を見るとエスカレーターがあり、ちょっと楽をしたかった想いが、茉侑を後押しする。

 何度かエスカレーターを乗り継ぎ、地上につく。そこは横断歩道に程近い場所だった。信号が点滅していたので、何も考えずに走って渡ってみる。
 右折の気分で歩くと、茉侑の首辺りまである高さの柱に

袖摺坂そですりざか

 と刻まれている。

「すれ違う人がお互いの袖をすり合わせるから、袖摺坂か」

 説明を読み、坂を見る。坂そのものは短い階段で、スーツケースを持っていても苦労することなく登ることができた。
 茉侑は次に突き当たりがあれば、右に行こうと決めて歩き出す。辺りを見渡すとマンションや戸建てが並ぶ住宅地だった。農場感は今のところ、ない。
 突き当たりが現れたので、静かに右折すると更にマンションが増えている。茉侑がいるところから数百メートル先に何やら大きな通りのようなものが見える。じゃあ、そこまで歩いてみるか、と足を運んでいた時だった。
 
 ──瓦ではなく、平らな屋根に見える。今流行りの太陽光発電だろうか。コンクリート打ちっぱなしの一戸建て。一階の道路に面したところはガラス張り。
 こぢんまりとした店の前で足を止める。

『Cafe Past&Future』

 過去と未来?
 ちょっと不思議な名前のオシャレそうなカフェに、まるで磁石に引き寄せられるように、茉侑はその扉を開けていた。

 ──外とは少し違う空気が、彼女を迎え入れた。


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