神楽坂、スカートは紅し[2-3]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】
3 沈む心と、小さな灯
航大は、永井が茉侑を気にしていることを察し、少しだけ話し始めた。
「……あまりプライベートなことは知らないのですが、彼女は『帰る場所』がないのだと思います」
「帰る場所が、ない? 身寄りがいないってことかい?」
航大は頭を振った。
「そこまでは僕も聞いていません。ただ、つらい経験をして、これまで生きてきたのだと思います」
「何故それがわかるんだい?」
「いつもの……僕の勘、ですかね」
「そうか。お嬢さんが元気になるといいのだが」
そう言うと永井は、残っていたコーヒーを飲み干し、カップをソーサーへと静かに置いた。
「ごちそうさま。じゃあ、これ置いておくよ」
航大お手製のコーヒーチケットを胸ポケットから取り出す永井に、航大は慌てる。
「え、永井さん、いつもなら高見さんが来るまでいらっしゃるじゃないですか。どうして」
「今日はまだ私だけだ。お嬢さんの様子、見てあげなさい」
そう言い残し、永井は店の扉を開けて去る。
カウンターに置かれたコーヒーチケット。航大はそこに描かれているトイプードルのイラストを静かに見つめた。
航大はプライベートゾーンの扉をそっと開けて、「相原さん?」と声をかける。返事があったのは数秒後だった。
「……はい」
かすれたその声に、航大はそっと言葉を添える。
「大丈夫じゃなくても、こちらは大丈夫です。無理なさらないでください」
その頃、和室の隅では── 茉侑が、おかきをぎゅっと抱きしめていた。 震える手。滲む視界。
『あの人』の言葉が、また脳裏をよぎる。
──だから、お前は普通じゃないんだ。
胸がぎゅっと締めつけられて、おかきをさらに強く抱きしめた。
「きゅん……」
おかきが小さく鳴く。
「あ……ごめんね。痛かったよね……」
かすれる声でも、言葉が出た。それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった気がした。
主治医の「アニマルセラピーにおいで」という言葉をふと思い出す。 今、おかきは確かに、茉侑の心を支えている。
くりくりとした黒い瞳が、じっとこちらを見つめている。
「きゅん」
その声が、茉侑の胸の奥に、小さな灯をともした。
その鳴き声に気づいたのだろう。
ドアの開く音がして、航大の声が、襖越し聞こえてくる。
「……相原さん、少し落ち着かれましたか?」
茉侑は、膝の上にいるおかきの温もりを確かめるように撫で、小さく「はい」と答えた。
「よかった。永井さんもお帰りになって、お客さんもいないので……」
少し間を置いて、航大の声が続く。
「アイスティーでも淹れようと思って。もし、飲めそうなら、お持ちします。あ、甘さ控えめのやつです」
茉侑は返事をしなかった。
ただ、おかきの背を撫でながら、その言葉を静かに受け止めていた。
──この人は、急かさない。強要しない。ただ「飲めそうなら」と言ってくれる。
──この人は、あの人とは違う。
茉侑は、そう思った。
よろめく足で、少しずつ立ち上がる。
「ありがとう」と小さくつぶやき、襖を開けて、おかきをそっと床に降ろす。
「きゅん!」
しっぽをぱたぱたと振って、おかきは「気にしないでね」と言うように、するりと二階へ駆け上がっていった。
ドアが開き、航大が現れる。 茉侑は咄嗟に俯いた。
「あれ、おかきは……?」
「……あの、二階へ……」
「すみません、いつも閉じてる柵が開いてて、下まで降りてきちゃったみたいで」
謝らなくてもいいのに──そう思いながら、茉侑は言葉を続ける。
「おかきくんに……とても癒されました。こちらこそ、本当に申し訳ありませんでした」
その言葉に、航大の足がぴたりと止まる。
「え? なんで謝るんですか?」
「え……?」
「相原さん、何も悪いことしてないじゃないですか」
その言葉を残して、「おかきー!」と声をかけながら階段を登っていく航大の背中を見送る。
茉侑は、今まで感じたことのない、不思議なあたたかさを知った。
◆
「そろそろかな」
アイスコーヒーを注ぎながら、航大がぽつりとつぶやく。
「……何が、でしょうか」
茉侑が尋ねたときだった。
──カラン。
ガラス戸のベルが鳴り、扉が開いた。
「おはようございます!」
声がした瞬間、空気が変わった。
陽だまりが差し込んだような──そんな印象。
「おはようございます、高見さん」
慣れたように入ってきたその人は、細身のパンツスタイルに軽やかな笑顔をまとっていた。
──まるで、花のような人だ。
姿も、声も、笑顔も。
ひと目で「この人は、あたたかい」と分かる空気をまとう女性だった。
「あら? 新しいバイトさん?」
「高見さん、ちょっと待ってください。彼女は──」
航大が説明しようとしたが、それをひらりとかわして、女性は茉侑の前に立つ。
そして、ひまわりのような笑顔を咲かせながら、茉侑の手を握った。
「初めまして! 私、高見弥生と申します。これからよろしくお願いいたします」
ひとまとめにされた黒髪、すっきりとした目元。
茉侑は思わず「眩しい……」と感じた。
この人が、航大の彼女なのだろうか。
「高見さん、だから」
「あら、航大くん照れてるの?」
「違いますって」
──言わなきゃ。
「あの……お二人は、恋人同士……でしょうか」
一瞬、店内の時間が止まった。
「え!? ちょ、ちょっと待って、私が!? 航大くんの彼女!? あははっ、ないないない!」
弥生が笑い出した。けらけらと、まるで子どものように。
「私、二十四の娘がいるのよ? 航大くんが可哀想よ、そんな誤解されちゃ!」
「え……!」
私と五つしか違わないお嬢さんの、お母さん? 理解が追いつかず、茉侑は唖然とした。
「高見さんがお若いのは否定しませんけど、今お客様いらっしゃいますから」
「はーい、ごめんなさーい!」
そのやりとりを見ていた茉侑の胸の奥に、ひとつだけ明るい光が灯った気がした。
客が会計を済ませ、店を後にする。
店内は茉侑、航大、弥生の三人だけ。
「じゃあ、改めて。高見弥生です」
「あ、相原茉侑と申します」
「茉侑ちゃん? 可愛い名前ね。スタイルもいいし、モデルさんみたいよ」
笑顔を絶やさず話す弥生を見て思う。
初めて会ったのに、ずっと前から知っているような錯覚。茉侑は戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
ランチタイムは忙しすぎる、とのことで、一旦茉侑は早めの昼食を摂るためにプライベートゾーンへと下がることになった。航大の「相原さんは今朝から少々具合が良くない」という言葉に弥生が「それは休むべきよ」と同意したからである。
茉侑のいない間に、航大は簡単に今朝起こった状況を弥生に話した。
「あら……そうなのね」
何か思うところがあるらしい。弥生は少々考え込んでいた。
「上京して次の日ですし、ゆっくり仕事を覚えてくれたらいいなと思っています」
「それにしても、航大くんにしては『泊まらせる』っていう選択肢、珍しくない?」
手を止めずに、弥生が航大に尋ねる。
「……そうですね。自分でも少し驚いているのですが」
「思い出すようなことが、あったのね」
知っている口ぶりで、弥生は航大が用意した注文の品をトレイに乗せる。今日のランチはハンバーグとナポリタンのランチプレート。
「はい……思い出すというか、揺さぶられたというか」
航大はセットドリンクをトレイにサッと乗せる。
「あまり『過去』に引っ張られないようにね。今は今。茉侑ちゃんは茉侑ちゃんよ」
そう言い残し、客へランチのトレイを運んでいく弥生の背中を見つめて、航大はその通りだな、と自分の中にある小さなひっかかりを気にしないようにした。
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