神楽坂、スカートは紅し[2-2]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】
2 ひかるトマトと、朝の声
和室に戻って、着替える。半袖の白いTシャツにデニムを穿き、黒のVネックカーディガンを羽織り、長い髪はポニーテールにした。
「相原さん、朝ご飯どうしますか? 何か作りましょうか?」
シャワーを浴び終えて、紺色のポロシャツにチノパンというラフな格好の航大が、小さなキッチンでコーヒーを淹れていた。その言葉に茉侑が「あ!」と軽い悲鳴を上げる。
「ど、どうしました?」
「私、昨日のお食事代払ってないです、すみません! 今お支払いしますね」
茉侑が慌てて和室へ戻ろうとしたところを、航大が声で引き留める。
「お金は結構ですよ!」
「え? でも……」
「相原さんが言っていたじゃないですか、『一宿一飯』の恩。それに含まれてます。気にしないでください」
「じゃあ朝食はいただきますが、お支払いさせてくださいね」
「困ったなー、うち『まかない有り』なんですよね」
航大がしらじらしく腕を組んで考える素振りを見せると、茉侑は狼狽えた。
「おいしかったですか?」
唐突な質問だった。あの時は色々とぐるぐる考えていて、味のことを覚えていない。困ったどうしよう、と茉侑が更に狼狽えていると、航大は思い切り吹き出して笑った。
「相原さん、顔に出すぎです! おっかしいなあ!」
え、私そんなに困った顔していたの? と茉侑が両頬に手を添える。
「今、『困った顔してるの?』とか思っていませんか?」
「え、なんでわかったんですか!?」
茉侑の言葉に更に航大が笑う。涙まで浮かべて、相当ツボに入ったらしい。
「だから、言ったじゃないですか。僕、超能力者なんですって」
右手の人差し指で涙を拭いながら、航大はひとしきり笑い終えると、茉侑の様子をうかがった。茉侑は呆然としたまま、硬直している。
「すみません、悪ふざけが過ぎましたね。あの時、相原さんは味わうという様子ではなかったので、分かっています。なので、朝ご飯は味わってもらえたら嬉しいです」
航大なりの気遣い。茉侑は「はい」と素直に答えていた。
時間は午前六時四十五分。店の開店は七時。
航大は店舗のカウンターに入ると、テキパキと準備し始める。
「相原さんはオープンしても食べ続けていいですからね」
その言葉に、茉侑は目を丸くする。
「いえ、そういうわけには……」
「もしお願いするとしたら、忙しくなった時ですね。お皿洗いや、お帰りになったお客様のお皿を下げていただけると助かります」
航大は話しながらドリップマシンの様子を見て、頷いている。トースターからは弾んだようなチン! という音が鳴った。
「相原さん、トマト食べられます?」
「はい、好きです」
「からしは?」
「大丈夫です」
「じゃあ、これで……完成! どうぞ。飲み物どうします?」
「ではアイスコーヒーを」
「了解」
カウンター席に座っている茉侑の目の前に差し出されたのはBLTサンドだった。トマトがきらきら光っていておいしそうだと茉侑は心底思った。すぐにアイスコーヒーも用意され、食べる準備は整った。
「どうぞ」
「いただきます……って荻野さんは食べないのですか?」
BLTサンドを持ちながら、茉侑が尋ねる。
「あー僕、朝ご飯食べないタイプ……というわけではないのですが、さっき試作品つまみ食いしちゃって。それで今朝はもういいかな、と」
「なるほど」
茉侑は納得し、一口頬張る。咀嚼し終えると、たまらず叫んだ。
「え!」
「ど、どうしました?」
「こんなBLTサンド食べたことないです!」
「な、何かおかしい味がしたとか?」
航大は急に不安になり、前のめりに茉侑に尋ねる。
「マヨネーズソースがこんなにもおいしいなんて……野菜もシャキシャキで瑞々しくて、でも野菜本来のおいしさを邪魔することなく調和しているというか……。BLTサンド、奥が深いですね! ベーコンもあっさりしていておいしいです!」
粒マスタードを効かせたマヨネーズソースには、ほんの少しクリームチーズが混ぜられていた。ベーコンも他店のものより厚めに切ってある。食パンも航大の祖父の知人の店から仕入れたものだ。
茉侑はあっという間にBLTサンドを平らげた。
「ごちそうさまでした……幸せです」
「美味しいものは裏切らない、ですからね。ありがとうございます」
「そうですね。荻野さん、いい主夫になりますよ」
茉侑の本心は「いやいや何をおっしゃる」と航大に軽くあしらわれた。だが、その耳が赤くなっているのを茉侑は見逃さなかった。
「さて、そろそろ看板と札を変えないとな」
航大がカウンターから一度外に出て、ドアにかけてあった「CLOSE」の札を「OPEN」に裏返し、手書きの黒板タイプの立て看板を入口に置く。
すると店の向かいの戸建から、青いストライプシャツにグレーのスラックスを穿いた年配の男性が出てきた。郵便受けに入っている新聞を片手で取り、航大の顔を見ると優しく微笑んだ。
「おはよう」
「おはようございます。今日は?」
「オリジナルブレンドで」
「かしこまりました、どうぞ」
航大はさも『当たり前』のように、その男性を店の中に招く。
「おや、先客か。珍しいな」
茉侑が振り返ると、茉侑の父親くらいの年齢だろうか、身なりが清潔な男性が現れ、少々動揺する。
「彼女、お客さんじゃないですよ。しばらく店でお手伝いしてくださる、相原茉侑さんです」
「あ、は、はじめまして……」
茉侑は慌てて席を立ち、男性にお辞儀する。
「お嬢さん、そんなにかしこまらなくて結構。私は向かいに住んでる永井と言います。航大くんの店の一番客、だよな?」
最後は航大への問いかけだった。航大は苦笑いしながら「そうですね」と相槌を打つ。
いつも一番に来られるんだ、そう思った茉侑は自分で食べた皿やコップを片付けようとした。
「相原さん、片付けの仕方をお教えします。でもその前に……」
何やら航大がキャッシャー下にある引き出しから何かを取り出そうとしている。
「フリーサイズなので大丈夫だと思いますが、カフェエプロンです。リボンは前結び式です」
おしゃれなカーキのエプロンだった。肩紐だけ素材が違い、黒色だ。
「あとお皿は、カウンターに入ってシンクにつけ置きします。グラスは追い付かないので、フチだけスポンジでサッと洗ってから洗浄機でガッと洗います。食器も時間があれば手洗い後に洗浄機を使います」
「はい」
茉侑は真剣に聴き、覚える。すると、永井と名乗った紳士が豪快に笑った。
「はっはっは。航大くん、お嬢さんが綺麗すぎて緊張しているな?」
「してませんよ!」
「そんなムキになる航大くんを初めて見たよ、おじさんは」
永井の笑いは止まらない。航大は頭に手をやりながら、ドリップマシンに向き合ってコーヒーを抽出している。
「今度から酸味強すぎる豆使いますよ、永井さん」
そう言いながらカウンターにコーヒーカップを乗せたソーサーを出す航大は、少しふてくされていた。
「やめてくれよ、航大くんオリジナルが好きで通っているんだから」
「あ、相原さん。よければ今の間にテーブルをこれで拭いていってくれませんか?」
まるで永井の言葉を遮るかのように、航大が拭き掃除用のクロスと、除菌スプレーを茉侑に押し付けた。
茉侑はというと、なるべく心を平穏に保つべく、他人の会話は聞かないようにしていた。
食器類はどうしたらよいのだろう、と戸惑いながらシンクに一旦置き、拭き掃除をすることにした。シュッとスプレーしてはクロスでサッと拭く、を何度か繰り返しているときだった。
「区議会選挙の時期か……また賑やかになるんだろうな」
「そうですね。まああの人たちも必死でしょうし」
永井が新聞の地域版の記事を読みながら怪訝そうな表情を浮かべ、航大はそれに相槌を打つ。
茉侑のテーブルを拭いていた手が、止まった。指先が、じんわりと冷たくなる。
『選挙』
その言葉が、耳の奥にひとつ釘を打ち込む。
静かに、けれど確実に、何かが崩れていく。
──聞きたくない! 思い出したくない!
茉侑の脳裏に浮かぶ、『あの男』の姿。
持っていたスプレーボトルを手放し、耳を塞いでしゃがみ込む。スプレーボトルがガコン、と床に鈍い音を立てたのと同時に、「相原さん!」とさりげなく茉侑の仕事ぶりをチェックしていた航大がカウンターから飛び出してくる。
「どうしましたか」
「お嬢さん、大丈夫かい?」
すぐ近くで、航大と永井の声が聞こえる気がする。その時だった。
プライベート空間と店を繋ぐ扉が少し開いていて、そこからおかきが店に侵入してきた。
「きゅう」
おかきは男性陣の間をすり抜け、茉侑の膝元へと直行した。
茉侑の耳に、おかきの声が届く。
「……おかきくん?」
茉侑は、涙を浮かべながら、おかきの方に視線を向けると同時に、自分が店の床にしゃがみ込んでいることに気づいた。二人の男性が、少し距離を置いて不安そうに自分を見つめている状況を、ようやく飲み込んだ。
フラッシュバックだ。よりによって、こんな時に。
「相原さん、とりあえずお水持ってくるので、そのままでいいですよ」
茉侑が『こちらの世界』に戻ってきたことを確認した航大は、すぐさまカウンターへと水を取りにいく。
「航大くん、私はどうしたらいいんだい?」
「永井さんはお席に戻って、そっと彼女を見守っててください」
手際よく氷の入った水を用意し、航大はまた茉侑のそばへ駆けていく。おかきが「きゅうん」と鳴くたび、茉侑はおかきの背中を撫でた。おかきの毛並みはふわふわで、ほんのりあたたかい。
まるで「大丈夫だよ」と言われている気がした。涙があふれ、そして頬を伝う。
──どうして、あなたはまだ邪魔をしてくるのですか?
「相原さん、お水飲んで。あとこれで顔拭いてください」
航大がガラスコップを茉侑に渡す。茉侑は素直にそれを受け取り、口に含んだ。冷たさが、自分の中の「鬼」を鎮める気がした。
航大が差し出したもうひとつのもの、それはハンカチだった。泣いている自覚がなかった茉侑は急に恥ずかしくなったが、遠慮なくハンカチを使い、涙を拭った。
「相原さん、コップとハンカチ預かりますね。少しおかきと奥で休んでいてください」
「……わかりました」
茉侑は「邪魔になるだけだ」と、おかきをそっと抱きかかえてプライベートルームへの扉を開ける。ちらと後ろを振り返ると、永井が心配そうな表情で見つめているのが分かったので、心からの謝罪を込めて頭を下げた。
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