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神楽坂、スカートは紅し[2-1]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】


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[2]神楽坂で暮らしましょう

1 朝日がのぼる、坂に立ち

 ピピ、ピピ、とスマートフォンのアラーム音が部屋に響く。

「うう……ん」

 茉侑は手を伸ばし、スマートフォンを掴んで、即座にアラームをオフにする。画面には5:55の数字が並んでいる。
 ──先生、ちゃんと起きれていますよ。
 目を覚ました茉侑は、地元にいた頃の主治医を思う。優しい女医で、非常に聡明な人だった。

 茉侑の病気、双極性障害Ⅱ型の治療は長期間に渡ると言われている。最初はうつ病と診断されたが、妙に元気でハイテンションな時がある、と主治医に相談したところ、うつ病ではないことが分かった。のちに診断されたのが双極性障害Ⅱ型という病気だ。症状は人によって違うが、軽い躁状態とうつ状態を、波のように繰り返す。
 ゆえに躁状態が、茉侑を東京へといざなったと言っても過言ではない。

 主治医に「お薬だけはやめないでね」と言われていたので、派遣社員の頃も近場のメンタルクリニックで事情を説明し、投薬治療を続けていた。死にたいはずなのに、生きようとしているのはどういうことなんだろう、と茉侑自身でも不思議に思う。

 元恋人と同棲をするにあたり、主治医と元恋人が面談をしたことがある。その時に主治医がいつもの笑顔ではなかったことを思い出す。あの先生のことだ、何かを見抜いていたのだろう。

「やめよ」

 そう呟いて、思い出すのをやめる。薬の残量はまだあるが、東京でしばらく生活するとなると足りなくなるはずだ。この近辺に良いメンタルクリニックがあるかどうか調べようと再度スマートフォンの画面に向き合った時。
 
 ──かちゃり、という上階からの音。何かが開いたような音だった。部屋のドアとはまた違う、金属らしき乾いた音。
 気になるが、行っていいものだろうか。茉侑は少し悩んだ。もし気のせいで、まだ航大が眠っていたら……。

 何を考えているんだ、私。茉侑は自分の額をぺちっと叩いた、その時だった。

「あ、こら、おかき!」

 小声だが、航大がおかきを追いかけている音がする。トトトト、という音が近づいてきた。

「きゅうん」

 小さくおかきが鳴く。
 こんなにも穏やかな朝があっていいのだろうか──そんな不安が、胸の奥にふっと波紋のように広がった。
 それでも、おかきの声がたまらなく可愛くて、茉侑はふすまをサッと開けた。

「おかきくん、おはよう」
「素早いな……あ、おはようございます。早いですね」

 少し息切れをして階段を下りてきた航大が挨拶をしてくるが、茉侑は航大の格好を見て目を丸くした。

「おはようございます……その格好は」
「ああ、朝稽古していまして」
「剣道、ですか?」

 航大は濃紺の剣道着を着て、竹刀を持っていた。

「はい、精神統一するのに向いていて。基本的に朝は雨の日以外、稽古をしています」
「雨の日以外?」

 茉侑が不思議に思い尋ねると、航大が「ああ、相原さんは二階の構造をご存知ないですよね」と、額の汗を拭いながら茉侑を見た。

「え、ええ」
「今後もしかしたらお使いになるかもしれないので、一緒に二階へ上がりませんか?」

 二階を使うかも? どういうことなのだろう。茉侑の頭の中が「?」でいっぱいになる。

「簡単に説明すると、バルコニーなんですが……」

 航大はそこで言葉を止める。

「見るか見ないかは相原さんのご判断で。僕はとりあえず二階うえに上がりますね」

 さっきの金属音も気になる。茉侑は静かに航大の背中を追いかけた。小さくて幅の狭い木の階段を上がる。上がりきると、右手に小さな窓がある。正面を見るとこちらも小窓のあるアルミドアがついている。左隣は航大の部屋のようだった。アルミドアの前で茉侑を待っていた航大が説明を始める。

「ドアを開けていただければ、バルコニーなんですが」

 航大がアルミドアをかちゃり、と開ける。さっきの音はこのドアの音だったのか、と茉侑は納得した。先にバルコニーに出た航大が「おいでおいで」と手招きする。
 茉侑は開かれたドアの先を見て、思わず息を呑む。気がつけば、足がバルコニーへと勝手に向かっていた。

「ふかふかですね……!」

 茉侑は一面の緑の上に立っていた。開放感があって、吹き抜ける風が気持ちいい。人工芝だろうか、まるで天然芝と変わらない感触が足裏を通して分かる。

「リフォームする際に、減築しているんです。店舗の上にバルコニーを作って、休みの日はおかきと一緒にこの人工芝の上でゴロゴロしています。それで相原さんにここを紹介した理由がこちらです」

 航大がL字型のバルコニーの南側へ歩いていく。すると、小さな階段があった。どうやら航大の部屋の上あたりのようだ。二人で階段を登る。

「洗濯物はここで干しているので、良ければ。あと、ちょっとだけ眺望もいいんですよ」

 そう言って航大は指を西に向ける。

「わあ……」

 この辺りはマンションもあるが、戸建ても多い。航大の店の周りにはマンションと戸建ての割合が半々だった。色んな屋根の色が見える。西に向かって高台になっていて、様々な建物の表情が見られる。

「神楽坂のメインストリートは、この北にある坂道から始まるんです。名前は『早稲田通り』。実は『神楽坂通り』はもう少し下の方にあるんですよ」

 航大はマンションで埋もれている一角を指で指し示す。東の方角へと伸びているようだ。

「もうすぐ阿波踊りの時期なので、とても混雑しますが楽しいですよ」
「阿波踊り……って徳島のですか?」
「はい、町おこしの一環で始まっています。東京で有名なのは高円寺なのですが、神楽坂も負けないくらい頑張っていますね」

 そう話す航大は、本当に楽しそうな表情をしている。

「ちなみに、この店の前の道にも名前があるんですよ」
「え?」
「どんな名前だと思いますか?」

 航大が笑いながら茉侑に訊いてくる。茉侑は全く想像できなくて、混乱していると、更に航大は声を出して笑った。

「そんな真剣に考えなくてもいいんですよ。正解は『朝日坂あさひざか』と言います」
「そうなんですね」
「今の時間にぴったりでしょ?」
「本当ですね……」

 朝日坂。何かが始まるような、そんな名前の坂に、この店は存在している。


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