神楽坂、スカートは紅し[1-4]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】
4 レモンの輪切り、踊る夜
小さなダイニングで、『面接』が始まった。
おかきはというと、なぜか茉侑の膝の上で丸まって眠っている。
「どうぞ」と出されたアイスレモンティーは絶品で、夏の夜の蒸し暑さを忘れさせてくれる爽やかさ。薄くスライスされたレモンの輪切りがグラスの中で踊る。
きっと気を遣ってくれたのだろう、明るすぎるくらいの灯りが、茉侑に安心感を与えてくれた。
「まず雇用の件ですが、お給料もお出ししますし、家賃、光熱費、食費もこちらで負担しますので」
「そこまでしていただかなくても……」
茉侑が戸惑うと、航大は優しく微笑む。
「僕がお願いしたいくらいなんです、助けてほしいって。だから、受け取ってくれたら嬉しいです。それと……僕の話ですが、聞いてみて『何だか嫌だな、怖いな』と思えば、無理に働かなくて結構ですからね」
意外にも航大は、まるで茉侑の男性恐怖症を知っているかのように前置きをした。茉侑はやはり視線を合わせることができず、コクリと頷くだけだった。
その様子を確認して、航大がゆっくりと話し始めた。
「父方の祖父がこの場所で床屋をしていまして、リタイア後にすぐ亡くなり、祖母は僕の実家に。同居を始めたのをきっかけに、両親が僕の『夢のために』と、この物件を託してくれたんです」
夢のために物件を託す? 茉侑はそこで初めて顔をあげた。
「夢、ですか」
航大は、茉侑が店に入った時と同じような微笑みを浮かべながら頷いた。
「ええ、僕の夢は神楽坂でカフェを営むことだったんです。なので、大学卒業後はノウハウを学ぶために、独立大歓迎と謳っている大手のコーヒーチェーン店に就職したんです。でも僕、実は高校生までコーヒーが苦手だったんですよ」
「え!」
「就職したコーヒーチェーン店のコーヒーだけは不思議と飲めまして……今ではカフェイン中毒っぽいところがありますが、それまでは本当に飲めなかったですね」
少々苦い思い出のようだ。航大が初めて眉間にしわを寄せた。
「夢のために仕事も貯金も頑張って、元々あった床屋兼住宅をリフォームして、四年前にオープンさせたのがこのお店です。神楽坂は古い街ですから、若造はのけ者にされるかなと不安でしたが、意外にもすんなりと受け入れてくださって。祖父の孫だとわかったら『君がおぎやんの孫かい!』と泣きながら抱きしめてくれたおじいさんとかもいて」
「愛されていたのですね」
茉侑は思わず目を細め、微かに笑った。
「祖父はおもしろくて茶目っ気もあったので、自然と人を惹きつける魅力がありましたね」
航大も笑う。きっと素敵な祖父と孫の関係だったのだろう。
「あのウイルスが少し落ち着いてきた頃にオープンしたので、最初はちょっと苦労しましたが、土地柄観光客も多いので何とか軌道に乗せることができました」
「そうだったんですね……」
「相原さんがここで働きたいと思ったのは?」
ふと、航大が問いかけた。
茉侑は、アイスティーのグラスを指先でそっと回した。冷たさが、少しだけ現実に引き戻す。
「……一宿一飯の恩もあるし、それに……『ここにいてもいい』って、言ってもらえた気がしたんです。ちゃんと働いて、ここで誰かの役に立てるなら……私なんかでも、少しは……『生きててもいい』ような気がして」
でも、その先の気持ちを、どう言葉にすればいいのかが分からなかった。
──別に、ここでもう終わったっていい。
そんな投げやりな気持ちが、心のどこかにあった。
「……だからですかね。なんか、ここが『最後』でもいいかなって……思ってしまって」
ぽろっと口からこぼれ出た言葉に、自分自身で驚く。
心地よすぎる灯り。眠っている犬の温もり。知らない誰かの、怒鳴り声でも憎しみでもない、穏やかな声。
今、死ぬことが選べないのなら、誰かに怯えながら生きていたくはなかった。
航大は一瞬だけ視線を落とし、微かに息を吐いた。
「……ここが『最後』じゃなくていいように、したいですね。相原さんが、またどこかに行きたくなるくらい、神楽坂をエネルギーにして」
柔らかく笑いながら、けれど真剣な目で茉侑を見つめる。
「もちろん、いつまでもいてくれて構いませんけど」
航大の最後の言葉には、少し力が込められていた。
グラスの中の氷が、カランと鳴る。
茉侑が、ふと壁に掛けてある時計を見ると、短針が「十一」の上に乗る直前だった。
「もう、こんな時間なんですね」
「僕はそろそろ休みます、五時起きなので。相原さんはゆっくりと」
「はい」
茉侑が席を立とうと思った時、膝の上で丸まっていたおかきが寝ぼけながら伸びをし、ジャンプをして膝から降りて、航大の足元まで歩いて行った。
「……あの、お風呂、ありがとうございました」
「どうぞ、気にせず使ってください。今日も暑かったですしね」
「はい」
そう答えながら、茉侑は無意識に自分の髪を指で梳いた。ドライヤーの温もりがまだ髪に残っている。
ゆるやかに流れる夜の時間。ダイニングの灯りが、やさしく輪郭を照らす。
少しずつ、心の奥に潜んでいたざわめきが、静かに落ち着いていくようだった。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、相原さん」
ゆっくりと和室に向かう背中に、航大の優しい声が降る。
静かな夜。耳の奥で、どこかの家の風鈴の音がかすかに揺れていた。
茉侑は、深い夜にその身を委ねた。
夢を見る間もないほど、静かで優しい眠りだった。
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