神楽坂、スカートは紅し[2-4]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】
4 踊りの腕は、空をさし
一方、茉侑は「あまり食欲がない」と航大に伝えたことで、小さな豆腐ハンバーグ──これは人間も食べられるドッグカフェ用のものらしい──と少しのライスにコンソメスープという控えめの昼食をとることになった。
この店はランチタイムが十一時半から十四時まで。十四時半からドッグカフェタイムに入るという。わずか三十分の休憩でやっていけるのだろうか? 茉侑は航大の身体を心配した。
──私が他人を心配するなんて。
三年間、他人と関わろうとしなかった茉侑にとって、その感情の芽は驚きと戸惑いそのものだった。
「ごちそうさまでした」
休憩からカフェに戻ると、客の流れは落ち着いていた。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい、茉侑ちゃん」
航大の「おかえりなさい」と、弥生がニコニコと名前を呼んでくれること。その何気ないワンシーンが、茉侑の心を浮上させる。
「あの、ハンバーグ、すごくおいしかったです」
「でしょ、犬にも人間にも人気なの、豆腐ハンバーグ」
ドッグカフェタイムだけの提供だから、飼い主さんとワンちゃんが奪い合うのよ、ハンバーグ──と弥生がさも可笑しそうに話す。つられて茉侑も微かに笑った。
「あ、やば」
「どうしたの、航大くん」
航大がレジの前でちょっと腕を組み考え込んでから、茉侑の方を見た。
「今の間に、相原さんにはおつかい行ってもらおうかな。銀行で入金と通帳記帳をお願いします」
「わ、わかりました」
「銀行、すぐなので分かると思います。メイン通りに出たら右折して歩けば見えてきます」
店内の灯りで光るビニールポーチに現金と通帳が入っている。茉侑は航大から受け取ったそれを大切に抱きしめた。
ぎらぎらした真夏の陽射しが、街を白く照らしていた。アスファルトは熱を孕み、所々から陽炎が立ちのぼっている。
店から歩いて五分もかからない距離。
冷房のきいた銀行のATMで要件を済ませ、外に出た瞬間、世界は溶けるような熱に包まれていた。
「……暑い」
地面からも、壁からも、じりじりとした熱気が押し寄せる。
手で仰いでもちっとも涼しくないのは当たり前の話なので、茉侑は帰り道を急ぐ。
その時、ふと、ある店のガラス戸に貼られたポスターが目に入った。
『神楽坂まつり ほおずき市・阿波踊り大会 開催!』
涼しげなほおずきの絵柄と、元気な踊り手たちのイラスト。真ん中には大きく縦書きの筆文字で『神楽坂まつり』と書かれてあり、最初の二日間は『ほおずき市』、後半の二日間は『阿波踊り大会』と記されていた。
ポスターは、少し色褪せた店先に、眩しく浮かんで見えた。
祭りなんて、何年ぶりだろう。
どこか遠い世界のことのように、ぼんやりとポスターを見つめていた。
「おかえりなさい」
「おかえりなさい、暑かったでしょ」
航大と弥生の「おかえり」に、茉侑は小さく頷く。
冷房に対してこれほど感謝したことがあっただろうか。茉侑は航大にビニールポーチを返却すると、少しだけ腕を広げ、全身で冷房を感じた。
「……あの、荻野さん。今日、帰り道で『神楽坂まつり』のポスターを見たんですけど」
「ああ、そうです。あさってから始まるんですよね」
「あら、それなら私が夜にシフト入るから、航大くん、茉侑ちゃんを案内してあげたら?」
「え、僕が、ですか?」
航大が少々考え込む。
「うーん、高見さんには夜のシフトより、朝のシフトに入ってもらって、店も早めに閉めちゃうなら、いいかもしれませんね」
「そうよ。せっかく神楽坂に来たんだもの、一度くらいお祭りの空気を味わって!」
弥生が明るく、そして勢いよく茉侑へ視線を向けるが、茉侑は戸惑ったような、微笑んでいるような複雑な表情を浮かべている。
「……人が多いところは少しだけ苦手なんです。でも、神楽坂のお祭りって名前の印象からして楽しそうですね」
「正直メイン通りは人が多いので、しんどいかもしれません。ただ、少し下ったところにあるセルフのコーヒーチェーンの店内で座りながら見るのなら楽かも。お祭りの雰囲気は見られますよ」
「そんな場所、あるんですね」
「ええ。実は僕、その店で働いてたんです」
「えっ」
茉侑は、昨日話してくれた航大の過去を思い出す。
「昔の話ですけどね。まあ、慣れた場所ですし、居心地も悪くないです。きっと、楽しいですよ」
航大はそう言って、茉侑に微笑んだ。
◆
航大の店は、十四時で一旦クローズにし、航大と弥生が休憩をとる。十四時半から十六時まではドッグカフェタイム──といっても一般客も入れるのだが──になる。近所の犬飼いさんたちが集まり、犬好きの人たちも来店し、ランチタイムとはまた違った賑やかさになる。
「お友達がいっぱいだね、おかきくん」
茉侑はおかきを眺めながら、微笑んだ。
おかきは立派な『看板犬』として活躍。飼い主に挨拶し、犬に挨拶し、一般客へは、しっぽをぶんぶんと振り、アピールを忘れない。可愛い可愛いと言われて満更でもなさそうなおかきの姿を見て、茉侑は「将来大物になるなあ」と感じた。
十六時からは一時間クローズ。航大はレジ管理、発注などをこなし、弥生は店の清掃をする。
「じゃあまた明日、お疲れ様でした!」
「お疲れ様です」
掃除が終われば弥生は帰宅。忙しいときは閉店までいることもあるが、基本的には夕方までの勤務だ。
店は二十時まで開いている。ランチタイム以外は簡単なパスタ、サンドイッチのみの取り扱いで、飲み物メインの夕方からは静かになる。
「というのが、一日の流れです」
閉店時間になり、掃除を始める。茉侑は洗い物を担当していたので、少々腰が痛い。
「一応僕の身長に合わせて特注してあるのですが、シンクにずっといると腰にきますよね。すみません」
「いえ、私の方こそ……朝はご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
「朝のことは気にしないでください」
航大は本当に「何もなかった」かのように掃除を進めていく。
「あ、あの……」
茉侑は急に自分の状況を説明したくなったが、その声はとても小さく、航大には届かなかった。
モップで床を磨きながら、航大が質問する。
「お祭り、怖いですか?」
「え?」
「人混み、つらいでしょう? 無理にとは言いませんから」
「いえ、とても楽しみになりました」
まだ、話さなくても大丈夫なのかな。
茉侑は航大の懐の大きさに感心しながら、テーブルを拭いた。
◆
「楽しんできてね」
「高見さん、午前勤務ありがとうございました」
「いいのいいの。じゃ、お疲れ様でしたー!」
今日は神楽坂まつり三日目の金曜日。
店を午後から閉めて、祭りを楽しむ準備にとりかかる。
「さてと、店の片付けをして、ゆっくりしましょう。お祭りは見学でも体力使いますし」
「おかきくんはどうするんですか?」
「留守番です。大丈夫ですよ、いつもなら夜の九時までひとりで留守番ですし」
「でも、淋しい思いさせるのは嫌なので、適度にお祭りを楽しめたら私は大丈夫です」
茉侑のおかきへの優しさに、航大は心の中で「あなたは本当にあたたかい人ですね」と呟いた。
早稲田通りを飯田橋方面に下って行ったところに、コーヒーチェーン店はあった。茉侑の地元には展開していないブランドだったので、この間の銀行へのおつかいの時は気づかなかったが、都内ではそこそこ有名なところのようだ。
「この時間に来られてラッキーでした。あと三十分遅いと、結構混むんです」
航大はアイスコーヒーを、茉侑はアイスカフェラテを注文し、「窓際よりも、少し離れたここのほうが見やすいですよ」という元店員・航大の言う通りの席に座る。店内には段差があり、確かに坂が写真のように切り取られて見えて、窓際よりも眺めは良さそうだ。
「ちらほら観覧客の方、いらっしゃいますね」
「撮影したい人たちは早めに場所取りしますね。歩道も狭いですし、この時間から人が増えてくるので混雑するんですよね」
一口カフェラテを飲む。確かに航大の店のカフェラテの味に似ている、と思った。この場所でたくさん修行したのだろう、と航大の方を見やる。
「ん? どうかしましたか?」
「い、いえ」
眼鏡の彼は出逢ってから、何も変わらない。
向かい合わせに座っている二人は、それぞれの飲み物を味わう。
航大が問いかけてくる。
「阿波踊り、見たことはありますか?」
「いえ、よさこいはあるのですが……阿波踊りは」
「そうなんですね。基本的にチームのことを『連』と言います。あと特徴があるとしたら、男女で踊りが違います」
「男女で?」
「はい、踊り方の違いは、女踊りのほうがイメージしやすいかもですね。浴衣に編み笠で優雅で綺麗です。男踊りは法被や鉢巻姿ですね。腰を落としてリズミカルに踊ります」
「お詳しいんですね」
「祖父母が神楽坂で暮らしていたときに、色々教えてもらったんです」
少年・航大から見ても懐かしい記憶なのだろう、ふっと笑顔を浮かべる航大は、亡き祖父のことを思い出しているかのようだった。
人の流れの隙間から、ふわりと揺れる紅い帯が見えた。
浴衣の裾が、風のように翻る。踊り子たちは列をなし、肩と肩がほとんど触れあう距離で、すり足のように進んでいく。
まるで水面に映る光の筋。
冷房の効いた店から見ているだけなのに、音が、熱が、ここまで届いてくる。
「あれが、女性連です」
航大が低く呟く。
両手を高く掲げ、指先を小さく震わせながら、揃った動きで進む女踊り。
「……綺麗」
ゆっくり、でも強く前に進む姿に、茉侑の胸が震えた。
揃った腕が斜めに伸び、空に向かって静かに差し出されている。指先はまるで風を撫でるように柔らかく──しかし、力が抜けているわけではない。
「……あんなに、ずっと、上げてるんですね」
茉侑が呟くと、航大がうなずいた。
「そう。女踊りは、腕を上げ続けるのが基本です。形が崩れたら連の顔に泥を塗るからって、踊り子たちは本番中、絶対に下ろさないって決めてるんです」
茉侑は目を凝らす。
遠くて表情までは見えないが、わかる気がした。汗でメイクが崩れても、絶やさない笑顔。真剣な眼差し。
高く掲げたその手に込められたものは、誇りか、祈りか。
歩幅は小さく、でも確かに前へ。
茉侑の胸に、ひとつの思いが芽生えていた。
──もし、私が踊るなら。
傷を隠すためじゃなく、何かを伝えるために。
それが、叶う日がくるだろうか。
──いつか私も、踊ってみたいな。
声にならない言葉を心の中にしまって、ゆっくりカフェラテの最後を飲んだ。
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