神楽坂、スカートは紅し[3]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】
[3]神楽坂で夜空を見上げましょう
夏が過ぎ、季節がひとつ巡った。
阿波踊りの夜に芽生えた「いつか」の願いは、胸の奥で小さな灯となっていた。
神楽坂の空気は少しずつ冷たくなり、そして──秋がやってきた。
「ドッグフェスタ、ですか」
随分と涼しくなったが、陽射しはあたたかい。
そんな穏やかな十月の午後、一枚のポスターを航大から渡された。
「ええ、この日一日は普通のカフェではなく完全ドッグファーストのドッグカフェになります。そのポスターは去年作成したものですが、色々なイベントを企画して、最後に集合写真を撮るんです」
「本当にお祭りですね」
「インスタでハッシュタグ『いぬすたぐらむと神楽坂』で探していただければ、去年の動画とかヒットしますよ」
「へえ……」
早速スマートフォンでインスタグラムを開き、ハッシュタグを探す。
「去年のおかきくんだ!」
「そうですそうです、店のインスタに載せたものですが、おかきは撮影し甲斐があると永井さんがおっしゃっていて」
「永井さんがですか?」
「当日、分かることですよ」
思い出し笑いをする航大を、茉侑は不思議そうに見つめた。
──ドッグフェスタ前日。店は午前中で閉め、午後は皆で飾りつけ。
「さて、やるわよ〜!」
腕まくりをして気合を入れる弥生の隣で、茉侑も手に持った飾りを確認する。
航大は買い出しに出かけていて、今はふたりきりだった。
「……私、こういうの、久しぶりです」
「飾りつけ?」
「いえ……誰かと一緒に、イベントの準備をするのが」
「ふふっ、いいわよね、こういうの」
「はい、なんか……楽しいです」
しばらく静かに作業をしていたが、ふと、弥生がぽつりと口を開いた。
「実はね、私、犬が好きで。昔、一匹だけ飼ってたの」
「そうだったんですか」
「でも、あっという間に看取ることになって、それが本当に辛くて。それ以来、もう飼うのはやめようって決めちゃって……」
少しだけ視線を落としながら、それでも弥生は微笑んでいる。
「でもね、ここのドッグカフェタイムがすごく好きで、毎日通ってたの。そしたら、航大くんが『パート、しませんか?』って声かけてくれて」
「……なんだか、素敵なお話です」
「私にとっては、ここが『第二の居場所』って感じかな。だから、ドッグフェスタの時期は特に嬉しいのよ」
金のモールを手にして、ふわふわと空中で形を整えながら、弥生が微笑む。
茉侑はその横顔を、少しだけ羨ましく思った。
「……あの、弥生さん」
「ん? なあに?」
茉侑は手を止めて、迷いながらも言葉を紡ぐ。
「荻野さんって、なんていうか、優しすぎると思いませんか?」
「……急にどうしたの、そんなこと言って」
「いや、変な意味じゃなくて……。その、料理もできて、話もちゃんと聞いてくれて、誰にでも優しくて……。それなのに、なんで私を家に置くのかなって、考えてしまって……」
ぽつりぽつりとこぼれる不安。
声に出してしまうと、自分でも驚くほど本音だった。
「もし、誰かと付き合ってたりしたら、こんな……素性のわからない女なんて、普通、家に住まわせないじゃないですか……」
弥生は黙って、手を止めたまま、優しい目で茉侑を見つめていた。
少しして、小さく笑う。
「珍しいわね、茉侑ちゃんがそんなにしゃべるなんて」
「……すみません、変なこと言って」
恥ずかしさに俯く茉侑の横で、弥生はモールを壁に飾りながら言った。
「私もね、最初そう思ったの。『なんでこんないい子に彼女がいないの?』って」
視線の先には、カウンター席の端に飾られた一輪の白いダリア。
弥生はそれをちらりと見てから、少しだけ声を落とした。
「ここから先は、内緒話ね」
「……はい」
真剣な目をした弥生に、茉侑はこくりとうなずく。
「航大くん、毎年この時期になると、必ずその場所に花を飾るの。誰にって聞いたことはないけど、たぶん、昔、大切だった人がいたんだと思う」
その花の白さが、やけに胸に染みた。
声にならない衝動が喉の奥で震える。言葉が詰まる。
「でもね、航大くんは誰かを重ねたりしないわ。そういう人じゃない。ただ、苦しみを抱える人を、放っておけないだけ。……きっと、それだけなのよ」
その言葉が、やさしく茉侑の胸に届く。飾り付けの手を、そっと止めた。
金のモールが陽の光を跳ね返し、小さな光の粒を壁に散らす。茉侑は、それをただ見つめていた。
航大の優しさが、苦しいほど嬉しくて──茉侑は、何かが溢れそうで、そっと唇を噛む。
誰かに優しくされるたびに、私はいつも逃げたくなった。
でも今は……どうして、こんなふうに思うんだろう。
彼の声や、笑い方や、くしゃっと目尻を下げる顔ばかりが、頭を巡る。
私は、とても航大に大切にしてもらえているのだ、と噛みしめながら。
この人の隣にいると、なんだか息がしやすい。それだけのはずだった。
それだけのはず、だけれど──。
◆
ドッグフェスタ当日。
店内は朝から大騒ぎだった。
犬、犬、犬! まさにわんこのカーニバル。中には飼い主の手作り衣装に身を纏った愛犬もいる。もちろん、おかきもタキシード姿で、いつも以上にきりりとした表情で「こんにちは」のご挨拶をしている。
「わあ、可愛いー!」
思わず茉侑が声を上げる。
「この日のために手作りしたんです」と、飼い主がにこやかに答えるのを聞いて「そうなんですね!」と茉侑は笑顔になった。
その弾んだ声に反応してか、茉侑の周りにはわらわらとビジョンフリーゼ、ボーダーコリーにスタンダートプードル、ミニチュアダックス──様々な犬種が集まってきた。
「わあ、わあ! 素敵だよ、みんな!」
しゃがみ込み、犬たちと目線の高さを合わせて愛おしく優しく接している茉侑を横目で確認して、航大はそっと微笑んだ。その時、常連のゴールデンレトリバーが、航大の頬をべろんとなめて前足をかけてきた。
「ちょ、ちょっと待って……ハナちゃん! 眼鏡が……」
思わず身をよじる航大。眼鏡はズレて、シャツには毛がくっついているのに、彼は苦笑いのまま、犬をなでていた。
「ハナちゃん、航大くん大好きだもんね」
弥生が言うと、愛犬家の皆が「確かにハナちゃんの愛は本物だ」なとど言っている。
その姿を見て、茉侑はふと──胸の奥がふわりと、あたたかくなるのを感じた。
以前の自分なら、「変な人」と笑っていたかもしれない。あるいは、感情に気づくことすらなかったかもしれない。
けれど今は違う。
どうしてこんな瞬間に、こんなにも幸せを感じるのだろう。
「ただの職場の人」「ただの家主」だったはずの航大が、どこかとても身近に思える。
──ああ、私、今この人といて幸せなんだ。
初めて気づいた感情だった。
カップを両手で包み込んだときみたいな、じんわりとしたぬくもりが広がる。
笑い声と、コーヒーの香り。
この時間が、長く続けばいいのに──そう思った自分に、少しだけ驚いた。
それと同時に、「どうか『また』壊れないで」と思う自分もいた。
幸せを感じると、不安になるのは昔からだった。
フェスタのメインイベントは、「おすわり合戦」と「マテ選手権」だった。
輪を作るように参加者とその愛犬たちが並び、合図とともに一斉に「おすわり!」
おかきは得意げにぴたっと座り、しっぽだけが嬉しそうに揺れている。
「おかきは可愛いねえ」
スマートフォンのカメラを起動させてニコニコとしているのは、永井。
夫婦揃っておかきファンの永井家、あいにく永井の妻は仕事で「あなた、ちゃんとおかきくんを写しておいて!」と頼まれたらしい。カメラロールには愛らしいおかきの姿が何枚も収められている。
進行を担当する弥生が張り切った声をあげる。
「はい、次は『マテ』ですよ〜! 飼い主さんは手を出さずに、声かけ禁止です!」
トリーツ──ご褒美を鼻先に置いて「マテ!」の合図。
参加者たちの緊張感が増す中、あちこちでわんこたちがフライング。
おかきはぴしっと静止──かと思いきや、ピクリともしないまま口だけ開けて、そーっとトリーツを舌で巻き取った。
「ズルいぞ、おかき!」
航大がツッコミを入れる。
「た、食べたの……? 今? 器用すぎでしょ!」
弥生の言葉に、店内が爆笑に包まれる。
わんこたちのファッションショーでは、拍手とフラッシュの中、おかきがしっぽをふわふわと振っている。茉侑は思わず「かわいい……」と呟いた。
──なんて、にぎやかで、あたたかい空間なんだろう。
わんこたちへの振る舞いは、茉侑が食べた「豆腐ハンバーグ」。愛犬家たちはコーヒー片手に犬への愛を語っている。その輪の中に自分がいるだなんて、と茉侑は驚きながらも、楽しいと思えた。
──今、自分は生きてる。ここで、笑っている。
◆
夕暮れの街が、ゆっくり夜に変わっていく頃。
ドッグフェスタが終わり、皆が帰り、後片付けをして、弥生が帰り、しん、と店は静まり返る。
お気に入りの曲をBGMに、航大は最後の仕事をしていた。
茉侑には先に風呂に入ってもらっている。
締め作業を終えるため、航大はカウンター奥のパソコンに数字を打ち込んでいると、メールを受信した表示がパソコン画面に浮かび上がった。
「こんな時間に……?」
メールソフトを立ち上げると、差出人はフリーメール。名前もなし。明らかに“捨てアドレス”だ。開いた本文には、たった一文だけが記されていた。
『あの女の抱き心地はどうだ? せいぜい楽しめ』
思わず眉をひそめる。悪質な冗談。だが、心の奥がざわついた。
「まさか──」
頭をよぎるのは、彼女の過去。今の茉侑を知る者が、こんな文言を送るだろうか。
彼女の存在を、この店を、知っている者が──?
航大はメールを消さなかった。
見なかったふりも、できなかった。
航大は、茉侑が何らかの精神疾患を患っていることを初日に気づいていた──腕の傷を見てしまったから。何かしらの事情で男性が怖いということも察していた。
そんな彼女が、今ようやく仕事にも慣れてきて、自分の居場所を作ろうとしている。
──まだ、言わない。言うわけにはいかない。
彼女は笑っている。それなら、守る。ただそれだけだ。
◆
茉侑が洗濯物を干すために屋上に出ると、航大が缶ビール片手に空を見上げていた。
航大は振り返り、ビールの缶を見せる。
「……珍しく飲んでるでしょ」
「そうですね、なんだか不思議です」
航大の隣に立った茉侑は彼の手元に目をやる。
ビールの缶は、どこか重たそうで、中身はさほど減っていないようだった。
本当は、航大は「飲みたい」と思っているわけではないのかもしれない、気分だけ酔いたいのかもしれない。
茉侑は静かに神楽坂の夜の街を眺めていた。
今日の終わりの風はどこか優しく感じられたのは茉侑の気のせいだろうか。
「今日は、昔の……大事だった人の命日なんです」
航大が、ぽつりと呟く。
二人の間に少しの沈黙が流れる。茉侑は弥生の言葉を思い出していた。
「あの日、一生分の涙を流したから、毎年『今日』は泣く日じゃなくて、空を見上げて笑う日にしようって、勝手に決めたんですけどね」
一生分の涙を流した──その言葉の奥にある日々を、茉侑は想像することしかできなかった。
「それでドッグフェスタを……?」
「そうですね、その人も犬が好きだったので」
航大の黒髪が夜風に吹かれて、揺れている。
──僕、超能力者なんです。
あのとき、彼は私をどういう気持ちで見つめていたのかは、わからない。
茉侑は航大の横顔を見つめる。
この人はどれだけの辛い日々を過ごしてきたのだろう。どうしてこんなにも強くいられるのだろう。
私も誰かの過去を、静かに受け取れる人間でありたいと、初めて思った。
二人はしばらく、黙って空を見ていた。
秋の夜風が、洗濯物を静かに揺らしている。
星のひとつが、さっきよりも少しだけ明るく見えた気がした。
茉侑が口を開く。
「東京でも……星って、見えるんですね」
「はい。少しだけ、ね」
東京の白みがかった夜空に、確かに瞬くものがあった。あれはフォーマルハウト──秋の宵にひとつだけ輝く、みなみのうお座の星。
それが誰かの記憶でも、願いでも──今は、ただ静かに、美しいと思った。
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