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神楽坂、スカートは紅し[4-1]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】


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[4]生きる証

1 冬のデートに、あかがさす

 秋のドッグフェスタが終わり、気がつけば冬。
 穏やかに過ぎた年末を超えて、年が明けた。
 航大は「今年は相原さんがいるから」と、実家には帰らず店舗兼住宅で過ごした。
 茉侑自身、仕事もだが、この奇妙な同居生活に馴染んできた一月の下旬。

「明日はお店をおやすみします、相原さん」
「え?」

 まかないの夕飯を食べているときだった。航大がペペロンチーノを頬張った、その瞬間。

「具合、悪いんですか?」

 茉侑が思った以上に心配そうな表情をするので、航大がむせた。

「いえ、違うんです。ちょっとコーヒー豆の仕入れに」
「いつも宅配で届くものと違うんですか?」

 茉侑のお気に入り、蒸し鶏と高菜のパスタを食べようとしていた手を止めて尋ねると、航大が「趣味なんです」と呟いた。確かに店が少し暇になっているとき、様々な豆をコーヒーミルで挽いているな、と茉侑は思い出す。

「それで提案なんですが」
「なんでしょう?」

 茉侑が姿勢を正したので、航大もつられて姿勢を正し、眼鏡越しの瞳が真っ直ぐ茉侑へ向く。

「ご一緒にどうですか? 新宿まで、ですけど。美味しいアイスクリーム屋さんもあるんです。アイス、お好きですか?」

 航大の「らしい」デートのお誘い。

「はい、アイス大好きです」

 ちょっと気恥ずかしくて、それだけ言うと茉侑はパスタへと静かに向き合った。

 茉侑は冬になって、ひとつだけ衣類を購入した。紺色のダッフルコートだ。基本的に服は通販で買っていて、少しずつではあるが「茉侑の服」が増えてきた。とはいえ、やはり茉侑くらいの年齢の女性の平均よりはずっとずっと少ない。

 さてどうするか。何を着るべきか。
 スーツケースからベーシックなブラックのショートブーツを取り出す。
 出かけるときの「おめかし」を考えるのも本当に久しぶりで、はあ、と溜息を吐いた。その様子をじっと見ているのは、おかきだ。

「おかきくん、どうしたらいいと思う? 仕事で穿いているデニムにダッフルを合わせるより、この黒のスカートのほうがいいよね?」

 おかきはしっぽを軽く振って首を傾げた。


 翌日。
 午後三時すぎ、新宿西口。人通りはまだ多くはないが、少しずつ「一日の終わり」が街ににじみ始める時間帯。西日の反射がビルのガラスに映り、冷たい空気を金色に照らしていた。
 「こっちです」と航大が軽く手を上げ、地下街へ向かって歩き出す。
 その背を追いかけながら、茉侑はなぜか少しだけ緊張していた。店では見慣れたはずの横顔なのに、私服で隣にいるだけでまるで別人のように見える。空気が違う。距離感も、少し違う。なぜこんなに心臓が音を立てて聞こえるのだろう。

 案内されたのは、地下街の隅にひっそりと佇む小さなコーヒー豆の専門店だった。木の温もりを残した外観、扉の横には「世界中の『香り』をあなたに」の文字と、犬のイラストが描かれている。

「このお店、すごく雰囲気いいですね」
「趣味の豆はここで手に入れているんです。本当に色々な種類がありますから」
「豆って奥深いんですね」

 茉侑の言葉に、航大が「ええ、そうですね」と微笑む。
 カウンターでは髭をたくわえたロマンスグレーの紳士が「今日はどこの豆にしますか?」と航大に声をかける。

 香ばしい空気に包まれて、航大と茉侑の会話も自然とゆるやかになっていく。

「コーヒーの香りだけで癒されますね」

 茉侑が顔をほころばせながら言う。
 お目当ての豆を数種類手に入れた航大は、その紙袋を大切に左手で持ち「じゃあ、行きましょう」と微笑んだ。
「え? どこへ」
「言ったじゃないですか。このあと、アイスを食べに行きますよ。美味しい店があるんですよ。本当です」

 新宿の空は、少しずつ茜色に染まりはじめていた。
 地上に出て、甲州街道を越え、路地裏のビルに入る。アイスクリーム屋は一見わかりにくい場所にあったが、店内は温かなライトに照らされ、ガラスケースの中にまるで宝石のようにアイスがきらびやかに、そして整然と並んでいた。

「私は……チョコレートマーブルにします」
「僕はいちごミルクを」
「なんだか意外です」
「そうですか?」

 じゃれ合うようなやりとり。けれど、その空気はどこかあたたかい。
 二人並んでベンチに腰をかけ、頼んだアイスを口に運ぶ。茉侑の頬が少しだけ緩み、寒空の下でも幸せそうにアイスを味わっていた。

 ──こんなふうに笑える時間が、自分に訪れるなんて。

「ところで、さっきルミネのほう見てましたよね?」
「え? い、いえ……あの、ちょっとだけ……」
「洋服、気になってるんですか?」

 茉侑が黙ってうなずく。航大は立ち上がって、手にしていた豆の紙袋を軽く振った。

「じゃあ、寄っていきましょう。せっかく来たんですから」

 二人はアイスを平らげ、ルミネ1へと向かった。風が冷たくなってきて、アイスで更に冷えた身体に、ルミネ館内の少し強めの暖房は二人にとってありがたかった。

 とあるフロアのセレクトショップの前で、茉侑が足を止める。

「もう春物を取り扱ってるんですね」
「本当ですね」

 冬物衣料の最終バーゲン、そして「Spring!」とライトグリーンの背景にピンクの文字が躍るPOPが飾られていて、春物衣料が半々に置かれている。
 航大は、茉侑の視線を探る。どうやら気になるものがあるらしい。

 ──その視線は、店頭ディスプレイの赤いスカートに送られていた。

 赤なんて、私に似合うはずがない。
 そう思いながらも、茉侑は目が離せなかった。

「気になりますか? あの赤いスカート」

 隣に立つ航大が、店頭ディスプレイを見つめる茉侑にそっと声をかけた。

「いえ、でも。赤なんて、私には……」
「だったら尚更。似合うかどうかは、着てみてから考えたらいいんですよ」

 茉侑が言いよどむ間に、航大はすっと店内に足を踏み入れ、近くにいた店員に声をかけた。

「すみません、このスカート、試着できますか?」
「もちろんです、今でしたらサイズもそろっておりますので、ぜひ!」
「え、え?」

 あれよあれよという間に試着室へ案内された茉侑は、鏡の前でゆっくりとスカートに脚を通した。少し張りのあるテンセル混の生地が、腰にしっとりと沿い、ギャザーが美しい陰影を作る。
「深紅の色ってこんなに……」と、自分の肌がいつもより明るくなるのを茉侑は感じた。

 試着室のカーテンが開くと、航大が一瞬言葉を忘れ、目を見張り、息を飲んだ。

「お客様、本当にお似合いです。身長と雰囲気に、深紅がとっても映えてますよ。このスカート、テンセル混の軽やかな生地で、動くたびに綺麗に揺れるんですよ。手洗いもできますし、春から秋まで長く着ていただけます。シンプルコーデでも主役級になるスカートですね」

 店員のお姉さんが茉侑に対して、にこにこと説明する。
 鏡の中で、自分の姿をじっと見つめる茉侑。
 赤なんて似合わないと思っていた。でも今、少しだけ、胸がふわっと高鳴る。

「じゃあ、これいただけますか?」

 航大の申し出に、茉侑はぎょっとする。

「そんな、こんな高いもの……」
「高くないです。これは『臨時ボーナス』として受け取ってください」

 ──ありがとうございました。

 店員に見送られ、航大の手にはショッパーが握られていた。

「はい、毎日お疲れ様です」

 航大が目尻を下げる。

「あの、私お支払いしますから」
「一度くらい格好いいことさせてください」

 航大はそう言ってショッパーを茉侑に渡した。
 深紅のスカートがちらりと見える。
 自らが初めて選ぶ『希望』であり『未来』の色──それが、この赤なのだと茉侑は思った。

 ルミネからの帰り道。
 夜の空気は都会にしては澄んでいて、冬の匂いが混じっていた。
 茉侑が赤いスカートの入ったショッパーを手にして、少しうつむき加減。

「やっぱり、派手だったかもしれません……。似合ってなかったですよね?」

 茉侑の言葉に航大は立ち止まり、しばらく彼女を優しく見つめる。

「いえ。とても、似合っていましたよ。茉侑さん」

 その声に、茉侑は顔を上げて航大を見た。
 航大は茉侑の様子をうかがう。彼女は驚いたような、けれど怒ってはいないような、不思議な空気を醸し出していた。

「……今、呼び方」
「変えました。すみません、どうしても……呼びたくなってしまって」

 航大が頭を掻きながら言い訳すると、茉侑は、ショッパーを胸元に引き寄せながら、小さく微笑んだ。

「……じゃあ、私も。航大さんって、呼んでもいいですか?」
「はい。もちろんです」

 航大が真剣に頷いた。
 
 ──赤いスカートが、ふたりの名前を近づけた。

 それは、夕飯を終えて航大がいつものようにおかきをブラッシングしていたときのことだった。
 茉侑はダイニングの椅子に座り、スマートフォンを触っている。

「最近スマホの調子が悪くて」
「そうなんですか?」

 おかきは気持ちよさそうに、お腹を上にしてうねうねと転がっている。

「もう四年以上使ってるんですけど……あれ?」

 茉侑の手が止まる。

「どうしました?」
「なんだろ、このアプリ……見覚えがないんだけど」
「見せてもらえますか?」

 航大は画面を覗き込んだ瞬間、言葉を失い、顔色が変わったと自覚できた。

「茉侑さん、これすぐ消してください!」
「えっ……」
「GPSアプリです。位置情報も切りましょう。操作してもいいですか?」
「は、はい……」

 茉侑からスマートフォンを受け取ると、航大はすばやく位置情報をオフにする。
 胸の奥がざわついていた。
 ──ドッグフェスタの夜に届いた、あの「気色の悪いメール」の文面が、頭から離れない。

『あの女の抱き心地はどうだ? せいぜい楽しめ』

 彼女には見せられなかった。あんなものを読ませたら、きっとまた茉侑の世界が壊れてしまう。自分にできるのは、ひとつ。守ることだけだった。

 航大の険しい顔に驚いたのか、おかきがそっと茉侑に寄り添う。そんな小さな動きで、ふと我に返った。

「心当たりは……ありますか?」
「……もしかしたら、あるかもしれません」

 航大は呼吸を整え、問いかけた。

「誰かから、逃げている?」

 ──茉侑は静かに頷いた。

「そうでしたか……」

 やはり、あのメールは彼女の過去と関係している。
 だとすれば、どうして今まで茉侑は見つからなかったのか。航大が言葉を探していると、茉侑のほうから先に口を開いた。

「私……ここに来る前、北陸にいたんです」
「北陸?」
「機械部品の製造工場で派遣社員として働いていました。敷地内に寮があったので、そこなら……と」

 逃げるには、確かにうってつけの環境だ。そして相手も馬鹿ではないらしい。その間は手出しをしてこなかったのかと航大は静かに頷く。
 その前は──と続けて、茉侑が観念したように話し始めた。

「関西が地元で、大阪の会社に就職して、一人暮らしをしてました」
「……じゃあ、東京に来たのは、最近なんですね」
「はい」

 少し間をおいて、茉侑は言った。

「同棲していた元彼がいて、何度も怖い思いをして……それで、逃げたんです」
「えっ」
「もう、何も信じられなくなって……あの目で見られるのが、怖くて……」

 声が震えはじめ、肩も小さく揺れていた。航大はフラッシュバックの兆候に気づき、そっと手を伸ばして背中をなでた。
 そして、優しく──まるで我が子に言い聞かせるような声で言った。

「茉侑さん。しばらく外をひとりで歩かないでください。買い物にも、僕がついていきます」
「そこまでしてくださらなくても……」
「守ります。必ず」

 航大は迷いなく、断言した。
 何かあってからでは遅い──スリッカーブラシを、無意識にぎゅっと強く握りしめていた。


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