神楽坂、スカートは紅し[4-2]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】
2 神楽坂で、生きていく
朝、航大はいつものように開店準備をしようと店のガラスドアを開けた。
郵便ポストには、航大宛の封筒と数枚のチラシが入っていた。
その中の一枚を見て、航大は息を飲んだ。
【近隣にお住まいの皆様へ】
最近、神楽坂・矢来町周辺で以下のような不審者の目撃情報が寄せられています。
・三十代男性/黒いコート/髪は短髪/夕方~夜にかけて人の出入りを見ている様子あり
・近隣の住人に対し「犬の散歩をしている女性のことを知っているか」と尋ねていたという報告あり
※不審者を見かけた際は、無理に声をかけず警察に通報してください。
神楽坂警察署 TEL 03‐XXXX‐XXXX
読み進めるうちに、胸の奥が冷えるのを感じた。
まるで、誰かが茉侑の居場所を探り当ててきたような、そんな内容だった。航大はそっと振り返る。
「……これ、偶然だと思いたいけど」
いや──思いたいだけだ。ガラス越しに見える茉侑が、静かにホットミルクティーを飲んでいる。
「まだ、時間はある。落ち着け」
自分に言い聞かせながら、航大はチラシをポケットにしまった。
◆
「今日も忙しかったですね、お疲れ様です」
「茉侑さんのおかげですよ、こちらこそありがとうございます」
つつがなく閉店し、最後の掃除。
航大は紫色のレンタルモップをカウンターに立てかけ、茉侑と一緒にテーブルを拭いていた。おかきは邪魔をしないように、プライベートルームへの扉の前で丸まってうとうとしていた。
その時だった。開くはずのないガラス扉が静かにカランと音を立てた。
「すみません、もう閉店でして……」と、航大が申し訳なさそうな表情で顔を上げる。
しかし、その表情はすぐに真顔へと変わる。男の出している気配に、だ。
黒いコート。グレーのスーツにネクタイ、真面目そうな眼差し。だが、そこに「何もない」という気配こそが、奇妙な不気味さを漂わせていた。
次の瞬間、普段は温厚なおかきが、すぐさま起きて「うう……」と唸り、ワンワン! と低い声で吠えた。
──まさか!?
慌てて茉侑のほうを見ると、茉侑の顔色は真っ白になり、その男から一歩距離を置くために後ろに引いた。口元を両手で押さえていて、身体は小刻みに震えている。
コイツだ。茉侑を追い詰めていた「存在」は。
「茉侑、こんなところにいたのか」
「波田さん……」
波田、と茉侑に呼ばれた男は、薄ら笑いを浮かべている。波田の革靴の乾いた音がコツン、と響くたびに、茉侑が一歩下がる。
「もう三年か。どこをほっつき歩いているかと思えば、東京とはな」
波田はジロジロと店内を見まわし、そして航大を見た。
「あの男に抱かれたのか? どうだったんだ」
一歩、また波田が近づく。茉侑はそれに合わせて、一歩下がる。
「まあいいさ、早く戻ってこい。俺も市議会で忙しい」
市議会? 航大の中で一本の線が繋がる。
それは上京した次の日、茉侑がフラッシュバックを起こしたときのこと。あのときは永井と区議会議員選挙の話をしていた。それで……!
航大は奥歯を食いしばる。こいつがずっと茉侑の『死神』だったのだ、と。
波田はゆっくりと歩を進めながら、冷めきった目で茉侑を見つめた。
「三年もかけて、何してた。『自分の人生だ』とか思い込んでたか?」
茉侑は一歩下がる。おかきが低く唸った。
「なぁ茉侑。お前、自分がどれだけ『社会のお荷物』か自覚してるか?」
茉侑は何も答えず、また一歩、波田から距離を取った。
「誰もお前なんか、必要としてねえんだよ。職場でも、家族にも、友達にも。だから俺が手を差し伸べてやった」
航大が静かに前に出ようとする。だが、波田の言葉は止まらない。
「俺はな、地元の市議会議員で、ちゃんと社会で生きてる人間なんだよ。一方で、お前はどうだ? ひとりで何もできなくて、男に依存して、自己都合で職を転々として……生きてる意味あるのか?」
茉侑の瞳が揺れる。波田はそれを見逃さなかった。
「──誰よりも『壊れてる』お前を、俺だけが理解してやった。それを感謝するどころか逃げ出して、挙げ句、こんな安っぽいカフェで『やり直し』か? 現実見ろよ。お前みたいな女が、『幸せになる』なんて幻想だ」
そこでようやく、航大が一歩前に出る。が、波田は微笑んだまま、声のトーンを一段下げる。
「今なら許してやる。『もう一度やり直したい』って頭を下げるならな。そうすりゃ俺が、救ってやることも、考えてやらなくもない──いいから、来い。な? いつまでも間違った夢、見てんじゃねえよ。早く来い」
呆れたように波田が手を茉侑へと伸ばす。
「……ない」
震える小さな声で茉侑が呟く。
「あぁ?」
「私は、行かない! この街で、生きていくの!」
──茉侑は波田の顔を睨みつけ、顔を真っ赤にして叫んだ。
それは今まで茉侑が秘めていた「生きたい」という、心からの叫び。
茉侑の言葉に、波田から笑みが消えた。一瞬、空気がねじれたように航大は感じた。
「俺が、ここまで言ってやってるのに……そうか……そうだよな」
波田の声が低くなり、喉の奥から絞り出すように話し出した。
「何もない」雰囲気から、「憎しみ」へ染まっていくスイッチがカチッと響く。ポケットから取り出した折り畳みの刃物の音だった。
「議員の俺が、お前みたいな──ぶっ壊れた女を拾ってやったんだ。なのに俺を捨てやがって、どれだけ恥かいたか……世間じゃ、俺のほうが価値ある人間なんだよ! 生きてたって仕方ねえだろ! 俺が終わらせてやるよ!」
容赦なく襲い掛かる波田。茉侑は金縛りにあったかのように動けない。しかし、震える右手で硬く拳を作った。
もう、この人に支配されたりしない! そう思って強く目を瞑った。
「させるかっ!」
航大はその瞬間を狙っていたかのように、近くにあったモップの柄をつかみ、竹刀のように構え、「はっ!」と声を上げて振り下ろす。
ドン、と肉を打つ鈍い音が響いた。柄の部分が、波田の手首へと正確に打ち捉えた。
「うわっ!?」と悲鳴を上げ、波田の手から刃物が弾け飛ぶ。カランと床にそれが落ちたのを確認し、航大は踏み蹴って遠くに飛ばす。
だが、それだけでは終わらせない。
航大は波田の背後に躍りかかると、モップの柄を横に滑らせ、そのまま喉元を締め上げる。
波田の喉が潰れたように鳴り、喉仏がきしんだ。抵抗する腕は足を使って押さえつけながら、全身でモップを押し込んだ。「ぐうっ」と、波田が声にならない呻きを漏らす。
その呻きを合図にしたかのように、航大はすぐに力を緩めた。持っていた「武器」をそっと床に離すと、右手で波田の片腕を背後に回し、もう片方の手で肩を押さえつけ、逃げられないよう固定した。
「茉侑さん! 早く一一〇番を!」
波田の背に馬乗りになっている航大。茉侑は震えて固まっていたが、
「茉侑さん、茉侑!!」
航大の怒鳴り声が、遠くから聞こえる。
彼は自分の名前を呼んだ──「茉侑」と。その声に、胸の奥に張り付いていた氷が一瞬で砕ける。
思考が戻った。身体に、心に、血液が流れ始める。
手が震えてスマートフォンを取り出すのもやっとだったが、なんとか一一〇を押す。
「もしもし、あの、その、男に襲われて……場所は神楽坂六丁目……」
パトカーのサイレンが聞こえてくる。
ガラス扉の向こうに何人もの警察官が茉侑の視界に入ってきた。
静かに扉が開き、航大が波田に馬乗りになっている姿と、立ち尽くす茉侑を確認した警察が「その下になっている男ですか?」と茉侑に訊く。茉侑は震えながらコクリと頷くと「確保!」という声と共に、航大が馬乗りになっていた波田に手錠をかける。
「ゲホッ」
無様に咳き込む声が、静まり返った空間に響く。
航大は、連行されていく波田の背中を、記憶に焼き付けるように見送った。そして警察に何が起こったのかを軽く説明して、刃物を飛ばした位置を指で示す。
寒空の下、心配そうに見守っていた近所の人々に気づいた航大は、「お騒がせしてすみません、事情はまたご説明します」と頭を下げた。
「お怪我はないですか? 申し訳ありませんが、署で詳しいお話をお聞きしたいのですが……」
優しそうな刑事が茉侑に問いかけていたが、茉侑は返事ができない。航大は「すみません、少しだけ彼女と話をさせてもらってからでいいですか?」と茉侑を隠すように立ちはだかった。
「わかりました」と刑事は航大、茉侑たちと少し距離を取った。
「茉侑さん!」
「航大さん……」
小さな声。茉侑の身体は小刻みに震え、唇は紫色になっている。その姿に航大は、力強く、でも優しく茉侑を抱きしめた。
「もう大丈夫だから。もう大丈夫」
航大は静かに話し始めた。
「茉侑さん……僕ね、茉侑さんの『腕の傷』のこと、知っていました」
「え……?」
「茉侑さんがこの店に現れた日。カーディガンから見える傷。自傷行為だと分かりました。でもきっと触れられたくないだろうと、黙っていました。こんな時に白状してすみません。でも、これだけはお伝えしたかったんです。その傷は……『あなたが必死に生きてきた証』だと」
「こうだい、さん」
「もう大丈夫です。もう……我慢しないで」
その言葉に
「うわあああああああああああああ!」
茉侑がようやく泣いた。顔を真っ赤にしながら涙でぐちゃぐちゃにして、感情を爆発させた。
「よく頑張りましたね、よく耐えましたね……ちょっと情けないこと言っちゃいますけど、あの日、見えた瞬間に怖くもなったんです。自分に何ができるだろうって。でも、それでも目をそらしちゃいけないと思ったんです。あなたが生きてきた証を、ちゃんと見ていたいって」
更に茉侑を抱き寄せ、背中を撫でる。
「もう二度と失いたくなかったから、頑張りました」
航大が苦笑いを浮かべると、茉侑の涙腺は更に緩くなった。
「僕たちも行きましょう」
プライベートルームの扉の真横にある小さなクロゼットから、航大はダウンジャケットと、茉侑のコートを左手で取る。右腕は茉侑を抱きしめたまま。そっと茉侑の身体にコートを羽織らせ、そのまま茉侑の背を守るようにして、二人はパトカーへ乗り込もうとする。
「待ってください、おかきくんが……!」
パトカーのドアに手をかけようとした茉侑が、泣き腫らした目で顔色を変える。
「おかき?」と刑事が少し眉をひそめたので、航大が「ペットなんです、まだ中にいるのですが……」と努めて冷静に伝える。
「分かりました。私たちが付き添います。ペットの保護と、必要な荷物だけお持ちください」
「ありがとうございます」
航大と茉侑は、別の警官に付き添われ、現場へ一時戻る。
「おかき、どこだ?」
航大が、少し震えながらカウンターの下に逃げ込んでいたおかきを見つける。
「おかきくん!」
その姿を見た茉侑がしゃがみこみ、涙を流しておかきを抱きしめる。
「こんなに震えて……あの時威嚇してくれてありがとう、大丈夫、大丈夫だからね……」
「僕、リードとクレート持ってきますね。それはいいですか?」
「手短にお願いしますね」
警官を困らせないために、航大は靴を脱ぎ、プライベートルームに入る。キッチンから餌とフードボウル、二階に駆け上がりリードとクレートにトイレシーツ、そして寒い外が苦手なおかきのためのダウンベストを用意して、すぐに降りる。
茉侑はぎゅうとおかきを抱きしめている。おかきがいてくれて、良かった。航大はすぐに一件の電話を入れる。
連絡した先は──
「わかった、責任をもって預かるから」
この騒ぎはもちろん、向かいに住む永井にも知られたことであり、店の外でおかきが入ったクレートと荷物を渡す。
「うちの奥さんはおかき大好きだからな、大丈夫だよ」
眠る前だったであろう永井の格好は、上下スウェットにダウンジャケットだった。
「お嬢さん。大丈夫かい?」
「……はい」
「二人とも、気を付けて」
平和な神楽坂の街に似合わないパトカーが、二人を乗せて去っていくのを永井は寒空の下、見届けた。
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