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神楽坂、スカートは紅し[5](終)【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】


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[5]神楽坂、スカートは紅し

 ──波田はあの後、逮捕された。市議会議員も失職。週刊誌や新聞が大々的に報じたことで、今までの悪行が白日の下に晒された。これまで茉侑にしてきたことも踏まえて、今後裁判は行われる。
 茉侑は警察への聴取には「わかりました」と、震える声ながらもまっすぐに応じた。

 波田が市議会議員だったこともあり、マスメディアが現場となった航大の店を取材しにきたこともあったが、これ以上茉侑を傷つけないために、航大、永井、弥生があらゆるコネクションを駆使し、航大は知人の記者に頭を下げ、弥生と永井は近隣住民へ事情を説明して回った。

 騒がしかったのは一時いっときだけ。静かな日々が、彼女のために守られた。
 

 茉侑は、店に出られる状況ではなかった。しばらくは、ぼうっと日当たりの良い屋上で座っているだけで動くことをしなかった。フラッシュバックに襲われる日もあれば、誰かの笑い声や流れてきた曲ひとつで、突然涙があふれる日もあった。感情の波に飲まれて、今日という一日がとてつもなく長く感じられた。その間は航大と弥生でそっと彼女を見守っていた。

「傷」と向き合い、打ち勝った彼女がここで終わるわけない。
 茉侑が涙をこぼす夜には、その背中を航大がさすった。悪夢にうなされるたび、何度も『大丈夫だから』と彼女を寝かしつけていた。
 彼女の表情に、色はなかった。
 
 変化の兆しが見えたのは、事件から一ヶ月半を過ぎてからだった。
 おかきが常に茉侑のそばにいるので、航大が「どっちが飼い主かわからないな」と苦笑いを浮かべた時、少しだけ彼女が笑った気がした。その小さな変化でも、航大の目の奥が熱くなった。

 大丈夫、彼女は必ず戻ってくる。

 その間、航大はなるべく「いつもの日常」を過ごしていた。どうか彼女が安らかに眠れますように、どうか彼女が明日あすが来ることを怖がりませんようにと、日々を積み重ねるように、店に立ち続けた。

 二ヶ月後の、とある夜。
 茉侑は夢を見た。
 そこには逮捕されたはずの波田がいる。彼が「鬼」の形相で茉侑めがけて走ってくる。しかし茉侑は逃げなかった。

 茉侑の後ろにいるのは、航大とおかきだ。

「私はもう、あなたに支配されない! 私には、守るものがあるから!」

 そう叫ぶと、波田の姿は灰になって消えていった。

 ──茉侑は目覚める。夜明けの出来事だった。

 夢の中では勇ましかったのに、現実ではまだ手が震える。
 けれど私は確かに、あの人の支配から一歩、外に出たんだ。
 朝が来るたびに少しずつ、私は私に戻っていく──茉侑はそう感じた。

 そして、今日はその第一歩。
 

 
 航大は「何かの音」に起こされた。おかきは既に起きていて、しっぽをぱたぱた振っている。

「おかき、やけに早いな。どうしたんだ?」

 そう言いながら、ふと鼻をくすぐる香りに気づく。階下から、美味しそうな匂いが漂ってきていた。
 まさか、と航大は扉をあけて、階段を駆け下りる。

 そこには──
 小さなキッチンで、卵焼きを焼く茉侑の姿があった。

「航大さん、おはようございます」

 振り返った彼女の笑顔は、これまでで一番「綺麗だ」と思える笑顔だった。
 航大は涙ぐみ、そして感情の赴くままに茉侑を背後から抱きしめた。

「……危ないですよ」

 茉侑は驚きながらも、やはり笑っていた。
 涙声のその笑顔に、航大はこらえきれない想いを頬に流していた。
 足元ではおかきがくるくると回り、元気よく「きゅん!」と鳴いている。

 航大は、茉侑の耳元で囁いた。

 ──茉侑さん、おかえりなさい。
 

 卵焼きの朝から数日後。
 茉侑は「ここにいられてよかった」と感じながら荻野家の家事をしていたが、やはり、プライベートドアの向こう側が気になる。
「少しずつホールの仕事を再開したい」と航大に相談したところ、もう少し休んだ方がいいと言われた。航大は茉侑のフラッシュバックを心配してのことだったが、

「弥生さんと永井さんにお礼が言いたくて……」

 そう茉侑が呟いたので、「朝だけ、明日だけ」と航大が許可を出した。

 翌日の朝。永井はいつものように朝の一杯を飲むために、そして弥生には航大から事情を説明し、朝からシフトに入ってもらった。幸い、客は永井だけで、茉侑は少し怯えながら、でも前を向いて、プライベートゾーンから一歩踏み出した。

 永井は静かに「おかえり」と微笑み、弥生は「戻ってきた」茉侑の姿を見て涙を流さないように笑顔を作り、震える声で「おかえりなさい、茉侑ちゃん」とそっと茉侑を抱きしめた。弥生の温かさに触れ、茉侑のほうがこらえきれず、せきを切ったように涙がこぼれ落ちた。

「よく頑張ったわね、えらいわ」

 小さい子をあやすように、茉侑の頭を優しく何度も撫でる。

「永井さん、弥生さんっ、わた、わたし……!」

 茉侑は弥生の腕を振りほどき、真っ赤に泣き腫らした目で、どうしても「何か」を、どうしても、伝えたかった。言葉にならない思いがあふれて、茉侑は震える手で着ていた黒いカーディガンの袖を捲ろうとした。
 しかし弥生は、その必死な手の甲に自身の手のひらを添え、そっと制する。

「いいの。もう痛いほど分かっているから。私は、あなたの味方だから。安心して」

 ──傷があろうがなかろうが、あなたはあなただから大好きなのよ。
 弥生は心の中で呟いて、また茉侑を抱きしめた。
 永井は、その光景を見つめ、静かに朝の一杯を飲み干した。

 忌々しい事件から二ヶ月半。テレビは桜の満開情報を伝えている。
 Cafe Past&Futureのガラスドアには「本日、臨時休業いたします」と書かれた一枚の貼り紙。
 しかし、カフェの中には人影があった。

「本当にお人形さんみたいに綺麗ね!」

 目を輝かせて茉侑を褒めたたえているのは、弥生。

「お嬢さん、その紅はお嬢さんだけしか着こなせない紅だ」

 永井はそう言って、スマートフォンのカメラで茉侑を撮影し、微笑んでいる。

「あの、永井さん、恥ずかしいので……」
「何を言ってるんだい、恥ずかしくないし、神楽坂の桜のような存在だよ」

 永井の言葉に弥生まで「そうよ、そうよ」と同調している。

 あの事件の前日に航大から渡された『臨時ボーナス』。
 黒のボリュームスリーブカットソーに紅い春物のスカートを穿いている茉侑が、耳まで赤くして俯いて立っている。

 航大はというと──

「僕は、言いませんよ」と何故か拗ねたような声。

 あれ? とおかきを抱きかかえた茉侑は首を傾げた。この人の性格なら、真っ先に言ってきそうなのに。いや、決して航大に「綺麗だ」と言わせたい訳ではない、と想いは複雑だ。

「ねえ、そのスカートは、好き?」

 弥生がいたずらっ子のように茉侑に訊く。
 茉侑は、真っ直ぐ弥生を見て「はい」と笑顔で答えた。
 自分で選んだ、自分の意志で穿きたいものだったから。

 赤城神社まで、おかきを連れて散歩に行く。
 カフェを経営していると、不定休という便利な言葉で休みにできるから都合がいい。早稲田通りの坂を登り、メトロの東西線神楽坂駅の目の前の道を右折すると、見えてくる紅い鳥居。

「うわあ、綺麗ですね!」

 満開の桜だった。本数こそ多くはないが、その美しいコントラストに観光客もスマートフォンを掲げて撮影している。

「僕は、あの時から綺麗だと思っていますよ」

 え、何が? と茉侑は思ったが、「ある言葉」を思い出し、なるほどと納得した。

 ──とても、似合っていましたよ。茉侑さん。

 あの冬の言葉こそ、航大の伝えたかった言葉だったのだろう。まるで手柄を横取りされた気分だったのかもしれない。茉侑はクスリと笑う。

「おかきくん、抱っこします?」

 それまで坂をトコトコと頑張って歩いていたおかきに携帯していた水を飲ませながら、茉侑は航大を見上げる。

「わかりました。僕が抱っこします」

 航大はおかきを抱き上げ、鳥居をくぐる前に二人揃って一礼した。

「春なんですね」
「そうですね、春ですね」
「このアングルだったら、いい感じかなあ」

 茉侑の手には機種変更した桜色のスマートフォン。航大が選んだものだった。それで今年の春をたくさん切り取っていく。

「綺麗で嬉しくなります」
「僕もです」

 ふたりは、違うものを見て、同じ言葉を口にしていた。

 風は甘やかに頬を撫で、花の香りがふいに鼻をくすぐる。
 その風が、いたずらっ子のようにふわりとスカートをはためかせた。あの夏見た、阿波踊りの帯のように、くるりと舞うように。
 空は澄みわたり、ひとつだけ浮かんだ白い雲が、遠い記憶のかけらのように、ゆっくりと流れていく。

「また来年も見られたらいいなあ」
「きゅん」
「ふふ、おかきくんもそう思う?」

 茉侑の何気ない一言に、航大は少しだけ込み上げるものを感じた。
 
 参道に舞い落ちた桜の花びらが、まるで踊るように茉侑の紅いスカートの上にそっと重なる。
 それはかつて、フローリングに落ちた一滴の赤とは違う「あか」。
 柔らかな春と、決意の紅が重なって、「これから」を彩っていく。

 茉侑はそっと足を止め、桜の花を見上げた。
 紅を選んだ理由はわからない。でも、きっとこの色は私の誇りなんだ。
 
 ──私は、「私」と、歩いていく。この神楽坂で。

〈了〉

44484文字(空白・ルビ・注意書き含む/改行含まず)


最後までお読みいただき、ありがとうございました。
右下に「あとがき」リンクがありますので、
もしお時間がありましたら、作品の裏話ものぞいてみてくださいね。

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スキ一つで、私は東大寺の大仏を飛び越えて喜びます。

あなたの時間を、この物語に割いてくださって、
本当に感謝しかありません。改めて「ありがとうございました!」


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