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浜松クリエイター・ファシズムの功罪

 ファシズムやファシストという言葉にあなたはどういうイメージを持つだろうか。ヒットラーやムッソリーニのように歴史のなかだけの話と思うだろうか、あるいは政局のよくある悪口ととらえるだろうか。この記事ではファシストが、現代日本のあなたの身近なところで、クリエイターや作家や詩人という仮面を被りながら、ファシズムというしくみをうまく活用してふつうに仕事をして生活をしているかも、という話をする。

私は六〇年代末から七〇年代にかけての全共闘・諸党派の運動は、理論的にはマルクス主義やアナキズムの言葉が用いられたが、本質的にはプレ・ファシズム的なものだったと考えている。そしてこのプレ・ファシズム性こそが、この運動の最大の思想的遺産である。ファシズムの自己経験のない反ファシズムは、最悪のファシズムの前身でしかないだろう。

千坂恭二『思想としてのファシズム「大東亜戦争」と1968』彩流社

タテイシヒロシさんの異常な拒絶反応

 上の記事について陰に陽に数人とやりとりをした。そのなかでももっとも反応が大きかったのがタテイシヒロシさんである。タテイシヒロシさんはメールで数点質問してきて、それに私が答えたあとで、インスタグラムの投稿を出した。そのなかに「比喩として出した"固有名詞"」とあり「その比喩を使った時点で、僕は彼(引用者註:引用者)の書く言葉の全ては"下劣な言葉"だと認識することにしたので、多少なり察して共感を得たならば、どれほど美しい言葉とてまやかしだと思っていい」とする。もちろん、どんな言語であっても言葉はすべてまやかしだ。
 それにしてもタテイシヒロシさんの拒絶反応は不可解なほど異常である。もしかしたら当該のクリエイターを擁護するための演出に過ぎないのかもしれない。しかし擁護するなら演出で批評排除の雰囲気づくりをするより記事へまともに反論した方が効果的だろう。いずれにせよ、異常な拒絶反応や完全な沈黙の背後には何かしらの真実が隠されているものだ。
 ここで、タテイシヒロシさんが伏せた比喩の固有名詞を明かそう。それはナチス、もしくはアイヒマンである。私のメールより引用する。

槍玉にあげているのはいわばシステムについてですから。そのシステムをシステムと気づかずに浴びている人は責められるべきか否かを(引用者註:「タテイシさんが」)疑問に思うのは当然です。ユダヤ人をアウシュビッツ収容所へ送ったのはナチス党全体の意思だから歯車に過ぎないアイヒマンは責められるべきか?

尾内発タテイシ宛メール

例に出したアイヒマンもふつうにナチスの官僚として会議をして法律と命令を忠実に守り書類を右から左へ流して仕事(生活)していただけなんですよ。

尾内発タテイシ宛メール

 この比喩はタテイシヒロシさんのお気に召さなかったようだ。すくなくともそのように演出されている。しかし、ナチスやアイヒマンが状況を説明するに一番ふさわしい比喩であることは、実はタテイシヒロシさんの投稿そのものによって裏付けられている。それを次に解説する。

尊敬する友人や知人

 タテイシヒロシさんのインスタグラム投稿には「僕の尊敬する友人や知人」や「僕の作家と呼ばれる(或いはクリエーターと呼ばれる)多くの友人・知人」と繰り返し書いてあり、彼らを批評の対象とすることへ抗議している。そしてナチスのナチズムは、異論はあるけれど、ファシズムとも呼ばれる。このファシズムについて千坂恭二は下記のように定義している。

あえて図式化して言えば、ファシズムは一体なんなんだと言えば、ファシズムは自由はないんです。平等もないです。その代わり適度に自由があり適度に平等がある。ファシズムは自由・平等・博愛の博愛なんです。友愛でもいいです。ファシズムは友達を大事にしましょうという思想です。

千坂恭二『思想としてのファシズム「大東亜戦争」と1968』彩流社

 ファシズムの訳語として結束主義が使われることがあるけれど、ファシズム fascismo の語源はラテン語のfasces 束桿とされ、束ねた武器を示す。毛利元就の三本の矢の教えとほぼ同じだ。
 また、凡そ共産党も同志との結束や仲間意識は強い。ファシズムはイタリア共産党が分離する前のイタリア社会党のシステムをムッソリーニがパクったシステムだから当然なのだけれど、左右の全体主義はおおむね結束や仲間意識を大事にする。そして、その結束や仲間意識を断ち切ろうとする言論や批評を弾圧する。歴史をひもといてナチスドイツやソ連などの言論弾圧を鑑みればファシズムと批評との相性の悪さは明らかだ。そして、タテイシヒロシさんはインスタグラム投稿で「会話を求めようとしている人がいるならば、餌になるだけだからやめた方がいい」「noteは見なくていい」などと彼のフォロワーへ呼びかける。つまり、批評の存在を軽視し、批評より自分の友人や知人との結束や仲間意識を重んじ、その結束をほどかないようムラのすみずみへ呼びかけているのだ。ご自身はその尊敬すべき友人や知人のために反論する努力すら怠ったというのに。
 どうやら私の出した比喩はまったくの的外れではなかったようだ。

自覚あるファシストたれ

 タテイシヒロシさんはデザイナー・ライターをされているらしいけれど自身をクリエイターではないとしている。しかし浜松の他のクリエイターにもファシズム的傾向は見られる。
 こすりすぎて申し訳ないくらいけれど、やはりこの方に登場していただく。みんな大好き宮下ヨシヲさんである。

ファシズム的いらつき

 部外者はまさに結束の外という意味だし、採点=批評を下品とするのも頽廃芸術 Entartete Kunst という蔑称にも似たファシスト的仕草である。他のクリエイターも同様のファシストか否かは分からないけれど、この発言から3ヶ月経っても部"内"者たちが一部をのぞいて何も対応をしてこなかったのだから同様と見て間違いないだろう。彼らはファシストもしくはそのシンパである。
 そして何を隠そう、私もファシストの一面がある。というのは私も文芸結社や文化団体に所属しているからだ。そして、文化をよく扱える者は文化の全体性を浴びることでファシズムを自己経験する。しかし、いちおうファシズムを克服できるファシストだと自認はしている。もちろんその審査は評者に委ねる。
 このようにファシストはたぶん大勢いる。あなたが考えるより多くいる。ただいろんなファシストがいる。でも、たとえば自覚あるファシストは尊敬できるけれど、自覚なきファシストは弊害にしかならない。自覚なきファシストは「最悪のファシズムの前身」だからだ。だから浜松のクリエイターたちよ、せめて自覚あるファシストたれ。

浜松クリエイター・ファシズムの特徴

 ここで、私は「浜松クリエイター・ファシズム」という言葉を提唱する。そして、浜松クリエイター・ファシズムの特徴を並べる。

  • 公募をせずに企画を打つ。

  • クリエイターとそれ以外を区分したがる。

  • 安易に文化と言いがち。

  • 集合写真を撮りがち。

  • 批評を好まない。

  • 人格攻撃を好む。

  • 技術はある。

  • ヤンキーイズムがある。

 ようはひとくくりに閉鎖的かつ排他的などと呼べるかもしれない。「安易に文化と言いがち」なのは三島由紀夫の謂うとおり全体主義による文化の全体性への嫉妬からだろう。また、クリエイター・ファシズムではなくクリエイター・ヤンキーイズム、クリエイター・ヤンキーという語も可能かもしれない。そしてやはり集合写真は撮りがちだ。

 他に各種クリエイター・イベントやリノベーションスクールなどを観察して気になった特徴があればご教示いただければ幸いだ。

代替としてのネットワーク

 ではクリエイターにはファシズム以外のあり様、つまり別のとりうるシステムはないのだろうか。いや、ある。それはネットワークである。下記のnote記事でネットワーク=網についてすこし触れてある。

 ファシストの結束や仲間意識による他者と分離しようとする力を膜とするならば、いわばネットワークは独立した一人ひとりが適宜つながって協働する開放系のシステムである。ファシズムも似たようなものかもしれないけれど、核による集中や膜による分離を避ける傾向がネットワークの大きな特徴だ。ただネットワークにも弱点がある。いや、実は弱点だらけなのだ。最大の弱点は、すこぶる「遅い」ということだ。

ファシズムは速度

四・世界の華麗さが新しい美によってゆたかになったことをわれわれは宣言する。それは速度の美だ

フィリッポ=トンマーゾ・マリネッティ、塚原史訳「未来派創立宣言」

 速度と機械文明と戦争を賛美した芸術の前衛運動である未来派 futurismo とファシズムとの密接な関わりは、未来派の創始者である詩人マリネッティのイタリア戦闘者ファッシ参加や国家ファシスト党入党などで知られている。

マリネッティが『未来派とファシズム』(一九二四年)で述べているように、むしろ「ファシズムは未来派から生まれ、未来派の諸原理によって育まれてきた」とさえ言える

塚原史『言葉とアヴァンギャルド』講談社現代新書

 ファシズムもまた速度を尊ぶことは、第二次世界大戦初期のナチスドイツによる電撃戦 Blitzkriegや高速道路網である帝国アウトバーン Reichsautobahnenからもうかがえる。
 だからクリエイター同志で結束して企画などの活動をするファシズムは、技術の進歩や広告宣伝における速度や効率の面では実は利点ばかりの優れたシステムなのだ。タテイシヒロシさんという活発な浜松の宣伝相 Propagandaminister がいるなら利点はさらに加速する。これは、民主制より寡頭制・独裁制の方が意思決定が速いのと原理は同じである。
 逆にネットワークは遅いのであまりものごとが進まない。個人で網羅的にちまちまやっているだけだから、ほんとうに進まないのだよ、諸君。でもその遅さと非効率を、私は好んでいる。
 核と膜を活用した集権による速度と効率、そして快感。それらがファシズムの優れた側面である。だからファシズムを偏重していこう!となるかはあなた次第だ。

痲薬としてのクリエイター・ファシズム

 ファシズムは速度と結束を重んじるシステムだった。そして批評できる人物さえ排除していけば閉鎖された膜のなかでその地位や権威は安泰なのだから、ファシズムは閉じたクリエイティブに合う優れたシステムである。だから浜松市のクリエイターたちがファシズムを採用してしまう傾向は致し方ない面もある。
 しかし文化やネットワークと比較して文明やファシズムを偏重してしまうと蔑ろにされる事象や群衆が出てくるなど、さまざまな弊害がどうしても生じる。それに、文明とファシズムは痲薬みたいなものだから一度どっぷりとハマればもう抜け出せなくなる。

速度が提供した快楽を味わった者にとって、停滞は死と同じだ。 

(村上龍『愛と幻想のファシズム(下)』講談社文庫)

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