「『書くこと』の哲学 ことばの再履修」(佐々木敦著、講談社現代新書)
この意味で私の「批評」は、批評の対象である作品や作家と、それについて書く私と、それを読むことになる読者との一種の共同作業のようなものです。私にとっての「批評」は、誰かが読み終えたところから始まるのです。
久しぶりの読書感想文です。
一言でいうと、非常に評価が分かれそうな本です(笑)
帯にこう書いてあります。
読み終わると、なぜか『書ける自分』に変わっている
一読して、なるほどとと共感するところも多かったのですが……
う~ん、はたして、読み終わると書けるようになるのか??
確かに大事なことがたくさん書いてありそうだけど、これ読んだからって書けるようになりそうな気はあんまりしないなあ……というのが、率直な印象でした。
どちらかというと、あんまり結論を言わないなぁ(笑)と思っていました。
そう思って読み進めていたら、後半でこんなことが書いてありました。
私の批評に「結論がない」と思うような人は、批評に「知る」と「わかる」ばかり求めていて、そこには「(自分で)考える」がない。ゆえに私は批評でも「結論」をあまり重視していません(レトリック的には「終わり方」を非常に重視していますが)。脱稿とは、まさに稿を脱しただけであって、それが読者に受け渡されてから、真に「批評」が始まると思うのです。
批評以外でも基本的には同じことです。結末は世界の終わりではない、むしろ始まりなのだと考えてみること。言い換えれば、それは要するに、とりあえずの終わりに過ぎない。作者から読者へと手渡されるバトンが「結末」なのであって、そこがゴールなのではない。
どうりで!くそう(笑)
しかしながら、こういう書き方をされて、読み終わってみると、「じゃあ、君はどう考える?」にちょっとだけ応えてみたくなります(笑)
余白の多い文章でしたので、読み終わってなるべく早い段階で、私なりに思ったことを書いて残しておこうと思います。
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章立て
まず、目次・項目に着目しようと思います。
第一部 「書けなさ」から脱出するためのマインドセット/マインドハック
第一講 日本語を「外国語」として学びなおすこと
第二講 「ことばにできないもの」はどこにあるのか?
第三講 書いてはならない?
第四講 上手な文章、下手な文章
第五講 ことばの多様性
第六講 ロジックとレトリック
第七講 話し言葉と書き言葉
第八講 反射神経について
第九講 スローライティング
第十講 ことばと思考
第二部 書き終えるまで
第十一講 書き始めるまえに
第十二講 書き始めるために
第十三講 書き進めるために
第十四講 書き続けるために
第十五講 書き終えるために
第十六講 書き終えたあとに
補講一 人称について
補講二 外国語について
「書くこと」の倫理について──あとがきを兼ねた補講三
大きく分けて、第一部、第二部、補講の3分割
第一部は、マインドセットの部分。
第二部は、実践編という建付けです。
補講は、言い残したことの補足という感じです。
第〇講で分けてあるので、大学とかの講義みたいな感じがします。
ただ、意外と第一部と第二部に書いてあることの「差」のようなものはさほど感じませんでした。
マインドセットのイメージとしては、一回積み上げた積み木をいったん崩して、もう一度積み上げ直す作業のようなイメージがありました。
同じ積み木は、一度、積み上げたことがあるのであれば、比較的スムーズにもう一度積み上げることができると思います。
そんな感じで、積み上げていくと「自分の持っていたもので、新しい何かを見つけられる感覚」が得られるのではないかと思います。
さっきも言ったように、この本はあまり結論めいたことが書いてありません。それを求めて読み進めると肩透かしを食らうと思います。個人的には、もうちょっと核心に突っ込んでほしいかなあという印象もありました。しかし、そこから先も含めて自分で考えましょうということなのでしょう。
私も、ふだん結構曖昧な書き方をしていると思いますが、そんな私でも(?)、そのような印象をいだきました。
なので、ここはあくまでも、本の中に答えを求めるよりは、積み上げていく過程で「自分の持っているもので、新しい何かを見つけられる感覚」を探した方がよさそうです。
そんな捉え方で、読み進めていくと良い気づきが多い本という印象があります。
第一部 マインドセット
日本語を外国語のように学び直す
第一講に書いてあるんですけど、これが序盤のハイライト箇所でした。
自分が使っていることばを、外国語のように見ること、それによって、自分のことばを他人の目線で見ることができる。それによって、母語の限定された束縛から自由になれる。そんな感じです。
まさにマインド。
第二講以降は、ここ(日本語を外国語のようにとらえる)からの派生と考えるのがいいのではないかと思います。
日本語を外国語のように自覚することで、「ことばにできないもの」に気がつく(第2講)、「書けないもの、書いてはいけないもの」に気がつく(第3講)。
あるいは、上手な文章、下手な文章の違いに気がつく(第4講)、ことばの多様性に気がつく(第5講)。
たぶん、ここまでがひとまとまりです。
まず自分の文章を、あたかも外国語のように見つめることによって、クセに気がつく。自分の文章、自分の「ことば」が何なのかに気がつくプロセスです。
読むことで自分のことばをより広める
そのうえで、自分の「ことば」を広げる。これは、誰かの力をお借りするのが有益で、他者の「ことば」を読むこととあります。
第6講、第7講が、文体とか文彩の話だと思います。
第8講、第9講、第10講が、この言い方で伝わるのかわかりませんが、書くときの時間の使い方とかタイミングのことだとなんじゃないかなと思います。
つまり流れは、
一度自分のことばを外国語だととらえて、自分の「ことば」に気がついてから、さらに他者の「ことば」をよんで可能性を広げていく
そんな印象です。
そして、さっき申し上げたように、明確な結論があるような本ではないので、「余白」がかなり多くあります。
その余白は、自分で埋めていく方が本書の読み方としては、吉だと思います。
第二部 書き終えるまで
第二部は、書き出しから書き終えるまでの一連のプロセスが、語られています。
ここも、そうそう確かにと思うことがままありました。逆に言うとちょっと既視感というか、なんか一回考えたことがあるようなことも多かったので、基礎理論的な側面もあるのかもしれません。
自分の場合は、いままで書いた記事との共通点や相違点を考えたりしました。結構今までに書いたことと被っている側面があると思いました。
大変僭越ながら、この本を読んで思い出した自分の記事の一部を挙げておきます。
書き始めるところから、書き終えるまでを、時系列で追っていきながらそのときそのときの心持ちをおさえておくというのはいいかもしれません。
そう思うのは、やはり「書くこと」そのものは孤独な営みだからではないかと思います。
著者は、文章を言葉をつぎ足ししながら、行きつ戻りつで作っていると言います。これは、タイプが分かれると思いますが、私もそのタイプに近いです。
文章の構成もそこそこにとりあえず書き出してみてから、ある程度書いて、当初思っていなかったことを書きたくなってきます。当初思っていなかったことを取り入れると、先行きの見通しも変わっていく可能性があるんで、行ったり来たりしながら、いい感じの終着点を探しに行く。場合によっては、最後の結論すら当初思ってもいなかった場所にたどり着く、こんなこともあります。
直感を足がかりに、しかしロジックとレトリックを意識しながら書いていくと、ほんとうに不思議なのですが、ある時点で、自分が、というかその原稿自体が、どこに向かおうとしているのかが、鮮やかに見えてくる(ことがある)のです。
こことかも、とても共感しました。
この鮮やかな見通しを発見するのが、書いてて一番面白いタイミングです。それは書き出しのときには、想像していなかったことば。
私の場合、それは、他者の文章を読みこんだときに起こります。つまり、他者の文章の考察をして、それを過剰考察という形で記事にするときです。
他者の文章を読むときも、一回読んだだけの場合と、もう一回読みこんだ場合とで違う発見があります。あるいは、過剰考察記事を書きながら文章を読んでまた違うことに気がつく、こんな感じなので、進んだり、違う方向に言ったりの繰り返しです。
で、意外と推敲はさらっとやっています。一回書いたら、構成を変えるのはめんどくさいというのもありますが、そのとき見つけて既に書いた流れを崩すのはけっこう難しかったりします。
補講 書くことの倫理について
文章を書く作業そのものは孤独な作業です。書いている瞬間はどうしても一人。
ゆえに、常に書き続ける人はついつい自分のことを書いてしまうのかもしれない。
しかし、それでは本当にいい文章は書けないのではないかと思っていました。
実は、本書では、ずっと書いてあるようで書いていなかったことがあって、そこが最後までちょっと物足りなく感じていました。
しかし、そのことを著者は、一番最後に書いていました。
「他者=他人」を書けるようになることこそが「書くこと」を学ぶうえで最重要事項の一つ
著者は、そう書いています。
やっぱりそうかと合点がいきました。
実は、第一部でも、第二部でも、「他者」が、「書けるようにするために」さりげなく介在しているのではないかと思いました。引用が多く用いられているのもそう言った側面を感じさせます。
書く作業そのものは、孤独でも、多かれ少なかれ読み手を想像しています。「書き手」にとって、「読み手」は別人格です。この他者を想像できることが大事なのではないかと思いました。
私は、過剰考察と題して他人の文章をやたら詳しく考察するということをnoteでなぜかやっていますが、これもまた「他者の想像」の要素を含んでいると思います。
そして、他者の文章を考察するとき、「書き手」は、その他者の文章や人格を、「消費」するだけではダメなのだろうと思いました。「書き手」はそこから、何を「創造」できるか。それも、前に言ったことがある話なので、大トリで「他者」が出てくることも、すごくすんなりと合点がいきました。
これは、本noteのコンセプト本である「読んでいない本について堂々と語る方法」に書いてあることとも通底するものを感じました。
考察をする「読み手」が「他者を想像する」ように、これを語る「書き手」は「他者から創造する」、孤独な作業なのにこれだけ「他者」が介在するということが、文章を書くときの面白いところです。
最初、この本、大事なことはいろいろ書いてあるけど、「読み終えると、なぜか『書ける自分』に変わっている!」という感じがしないと言いました。
あまりにも余白が多い、これを読んで書けるようになるのだったら苦労はしない。
しかし、ふたを開けてみたら、結局5000字近い文章になっていました(笑)
ん?何か納得いかないけど、なぜか『書ける自分』に変わっている!
ということで、ちょっとイラっとしたけど、結局書けるようになりました(笑)
そんなわけで、久しぶりの読書感想文もやっぱり面白いので、またやってみますということで、「今日一日を最高の一日に」
