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ひと夏のきみ(第3話)

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高速バスが東北自動車道を降りて、一般道に入った。車内アナウンスがあと二十分ほどで、目的地である弘前のバスターミナルに到着することを告げた。

バスの中で読もうと持ってきた哲学書は、結局最初の数ページしか読めなかった。「東大生が今一番読んでいる本」という帯につられて買った本だったが、これを楽しく読めないと東大には入れないんだなあ、という感想だけが残った。

仙台を朝の七時半に出発して、今が正午の少し前。九月の初めなのでまだ外の暑さは厳しいけれど、バスの中は冷房で寒いくらいだ。連休でもない平日の金曜日の割には、バスの乗客はそれなりに多かった。

結局、出発前に木村教授と話せたのは少しの間だけだった。あの後研究室にもう一度行って、十五分くらい話をして、往復の高速バスのチケットを渡されて終わってしまった。

木村教授いわく「行けば分かるようになっているから心配しないで」ということだったが、心配しかない。

予定では今日から一週間の滞在になるらしい。バイト先のレストランには、事情を説明してシフトを調整してもらった。店長から「青森にあるらしい、りんごが丸ごと一つ入ったアップルパイが食べたい」とリクエストがあったので、どこかで買わないといけない。

そんなことを考えている内に、バスターミナルに到着した。バスから降りて、乗るときにバスの下の荷物室に預けたスポーツバッグを運転手から受け取る。

木村教授からは、バスを降りたところに迎えの人がいます、と言われていた。しかし、それらしき人はいないようだ。

バス乗り場のすぐ近くにある立ち食い蕎麦の店を通り過ぎ、待合室へと向かった。中に入ると、Tシャツにジャージ姿の、六十代くらいの男性が椅子に座っている。その男性が座ったままで僕の方を見つめる。10秒ほど見つめた後に、声をかけてきた。

「あんた、吉田さんだが?」

少し怒っているかのような口調に、一瞬固まってしまう。どうやら、自分に話しかけているらしい。

「はい、吉田といいます。あの、木村教授から言われて、神さんという方に会うために…」

「話は聞いでら。車、こっちだ」

男性はそう言うと、待合室から出てすたすたと先に歩いて行ってしまった。慌てて後を追いかける。

歩いて駐車場へ移動して、白い軽トラックの後ろに荷物を置くように指示される。助手席に乗り込むと、すぐに軽トラは出発した。

迎えに来てくれたその人は何かを話すわけでもなく、無言で運転している。そのまま十分ほど走ったところで、沈黙に耐えられなくなって僕の方から質問してみた。

「あの、お名前は何というんでしょうか」

「ん?わが?」

「わが?」

名前を聞いただけのはずなのに、全く分からない二文字が帰ってきて困惑する。僕が困っていると、男性が話し始めた。

「『わ』は、こっちの言葉で『私』。わの名前は、岩渕いわぶち。」

岩渕さん。名前を聞くだけでも一苦労だ。

「岩渕さん。あの、今はどこへ向かっているんでしょうか?」

「今は、うぢの旅館に向かってる。いま、|きみが忙しくて」

また分からない言葉が出てきた。

「きみ、って何ですか?」

「きみは、こっちでとうもろこしのこと。今の時期、うぢの町ではとうもろこしが名物で、たくさん人が買いに来るのさ。その売り子を、あなたにも手伝ってもらいたい」

やはり細かいところは何を言っているのか分からない。それでも何となく聞き取ったところによると、僕はとうもろこしの売り子をさせられようとしているらしい。岩渕さんは、僕のことを何者だと思って迎えに来たのだろうか。

「あの、バスターミナルでも少し言いましたが、僕は大学の調査実習の打ち合わせをするように言われてきたんです。神さんという方と会うことになっているんですが」

「だがら、そう聞いでるって。大学の研究のために学生が来るから、何でも好きに使っていいって。とりあえず、何日かはうぢの手伝いをしてもらうから」

何でも好きに使っていいと言われているそうだけれど、当の本人である僕自身は全くそんなことは聞かされていない。

おそらくまた神さんが、ふがいない自分を鍛えるために色々な経験をさせようと仕組んだのだろう。何となく簡単にはいかないだろうと思っていたが、今回の青森訪問もやはり大変そうだ。

これから先の苦労を考えて暗い気持ちになる僕と、特に何も話す様子がない岩渕さん。二人とも無言のまま軽トラは弘前市内から出て、大きな川にかかる橋を渡った。橋の終わりには「ようこそ」と書かれた、大きな看板が見える。

前回は木村教授の車に乗ってそのまま宿泊場所に行ったので、この道は記憶にない。町の中へ入って行くにつれて、緑の木々が多くなっていく。

とりあえずは、このまま岩渕さんの手伝いをするしかなさそうだ。他に行く場所もないし、神さんの居場所も分からない。教授への不満は帰ったら伝えることにして、今は流れに身を任せるしかなさそうだ。

軽トラは真っすぐ道路を進み、どんどん山の方へ入っているようだった。

「もっと山の方へ登っていくんですか?」

「んだ。もっと登って行ぐ」

「岩渕さんのところで、とうもろこしの農園をやっているということですか?」

「いや、うぢは温泉旅館をやってる。親戚がきみの畑をやってて、夏の時期だけうぢの旅館の前に直売所を出すのさ。そごを手伝ってもらいたい」

言われてみれば、進んでいく道路沿いには、とうもろこしを販売している露店がちらほらある。軒先にとうもろこしが並び、何人か車で買いに来ているようだ。

やがて、軽トラは大きな道路から小さな脇道に入り、一軒宿の前に到着した。見た目は旅館というより大きめの民家という感じで、建物の横には「岩渕温泉旅館」と書かれた、木製の看板が掲げられている。

軽トラから降りると、旅館のすぐ隣にとうもろこし売り場が見えた。何名かの女性で店番をしているようだ。その内の一人がこっちに気づいて、近づいて来る。

「こんにちは。はるばるこんな山奥まで、ようこそいらっしゃいました。岩渕美代子といいます。迎えに行った岩渕の妻で、ここの女将です」

女将さんは茶色い髪を後ろでまとめていて、顔立ちがはっきりしている。ご主人より少し若く見えた。

「こんにちは。吉田といいます。どうぞよろしくお願いします」

「わざわざ仙台から、どうもお疲れ様です。今日から、うぢに泊まってもらいますから。先に部屋に案内するので、中に入ってください」

女将さんの後に続いて、玄関から旅館の中へ入る。スリッパを履いて、階段を登っていく。

「吉田さんの部屋は二階です、階段を上がってすぐ右の、この部屋です。小さいけどテレビもあるし、暑ければ扇風機をつけてください。エアコンないけど、窓を開けておけば充分だと思います」

確かに、気温は涼しくて快適だ。弘前のバスターミナルで降りた時も仙台より涼しいと感じたが、その時よりも更に気温が低い。山の方に来ていることを実感する。

「温泉はさっきの階段を下りて、廊下を進んだところです。お昼はまだ食べてないですよね?」

「あ、はい。バスから降りてそのまま来てしまって」

バスを降りたのが正午前で、ここまで来るのに一時間ほど経っていた。

「温泉のすぐ手前が食堂で、そうめんを用意してありますから。悪いんですけど、食べたらすぐに外に来てくれます?今日は金曜だからまだいいけど、明日と明後日は混むと思うから、今日の内に色々と教えておきたいの」

女将さんのテキパキとした言葉に、背筋が伸びる。ご飯を食べてひと休み、と甘いことは言ってられないらしい。

「はい。分かりました」

「じゃあ、私は先に戻るから。そうめん、ある分全部食べていいですからね。では後ほど」

そう言って、奥さんはパタパタと戻っていった。僕は荷物を畳の上に置き、階段を下りて食堂へ向かう。テーブルの上には、とても一人では食べきれなさそうな、大量のそうめんが置かれていた。

(第3話終わり)

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