ひと夏のきみ(第2話)
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木村教授からの唐突な言葉に、僕は一瞬固まった。「青森に行ってほしい」と言われるとは、まったく予想していなかった。
返答のない僕を意に介さず、木村教授が続けて話し始める。
「去年、研究室のみんなで、青森に調査実習に行ったことは覚えていますよね?そこにいた神さんという方、覚えていますか?」
「えっと…はい。覚えています」
大学三年生の秋、まだ僕が大学に通っていたときのことだ。教授のゼミに所属している学生たち10人で、青森県の農村地へ調査実習に出かけたことがあった。
ゼミの研究テーマが「地方の持続可能性」というもので、調査先の町は木村教授が以前から町の総合計画の策定協力などで関わっている場所だった。ゼミに所属している当時の三年生全員で、インタビュー調査をするために青森へ遠征したのだ。
当時、ゼミの仲間たちはそれなりに仲が良く、夏休みに遠くへ出かける調査実習は半分旅行のような気分で楽しんだ。
その時のインタビュー調査について、現地のコーディネーターのような役割で色々調整してくれていたのが、神達夫という人だった。年齢は七十代で、頭の髪の毛はもうほとんど残っていない、目つきが怖い人だった。
「そうですか。あの調査実習は楽しかったですよね。宿泊先の近くに温泉もあったし、夜は花火もしましたね」
木村教授は素敵な夏の思い出として記憶しているようだ。しかし僕の中では楽しいだけの思い出ではなく、どちらかというと苦しんだ記憶の方が残っている。
その夏、僕らゼミのメンバーと木村教授は、古民家を改装した一棟貸しの宿泊施設に宿泊した。
調査先は青森の山間部にある町で、山や畑など緑でいっぱいだった。宿泊先の古民家は田んぼとりんご畑に囲まれていて、自然が豊かな場所にあった。到着した当初は、いつもと違う環境にワクワクしていた。
大変だったのは、実際にインタビュー調査が始まってからだった。
ゼミ生はそれぞれ、今回の調査に協力している市役所の担当の人と一緒に町内を回ることになっていた。しかしなぜだか、僕だけ神さんと一緒に行動することになったのだ。
神さんは、インタビュー相手との調整など、こちらがお願いすること以上に幅広く対応してくれていた。木村教授とも以前から付き合いがあったようで、これまでも大学生の受け入れに何度か協力していたらしい。
この町で生まれ育った神さんは、都内の大学を卒業した後、広告会社で仕事をしていたらしい。五十代の半ば頃に会社を辞めてこの町に戻ってからは、一人でイベント会社を設立したそうだ。地元のお祭りやイベントの実行委員会など幅広く関わっている。顔が広いようで、町を歩いていると、すぐに誰かが神さんに声をかけてくる・
そういう事情もあり、調査実習の現地コーディネーターとしては、とても頼りになる人物だった。
一方で、その神さんと三日間、ほぼずっと二人きりで行動していた僕の負担は計り知れないものだった。
とにかくエネルギッシュで行動力のある神さんは、人の話を聞かず、計画にない突発的な予定を次々と追加した。インタビューの対象者はあらかじめ木村教授と相談して決まっているはずなのに、「この地域の観光のことなら、あの旅館組合の組合長が一番いい」とか「元の町長で、この町のことをなんでも知っている人がいるから」とか言って、勝手にどんどん電話をかけて、インタビューの約束を新たに取り付け始める。当初の計画にない予定を次々に追加するので、スケジュールもどんどん後ろ倒しになっていく。
その上、急にセッティングされたインタビューなので質問項目も用意していない。スムーズに質問できずに困っていると神さんから「何をもたもたしている」「聞きたいことを自分で理解しないのか」と説教が飛んでくる。
インタビューが終わる頃にはすっかり夜になり、他のゼミ生が予定通りに宿に戻ってくつろいでいるのを横目に、くたくたになりながら遅い夕食を食べる日が続いた。
なぜだか宿泊先まで神さんも付いてきて、毎回僕の近くに座り、ビールを飲みながら説教が始まる。昼間のインタビューの不手際や、実習に対する姿勢、若者としての心構えなど、毎晩話をされて参ってしまった。
疲れて早く寝たいのに中々話が終わらず、しかし調査実習の段どりをしている神さんを無碍(むげ)に扱うこともできない。三泊四日の調査実習が終わる頃には、心身ともにくたくたに疲れ切っていた。
そういうわけで、自分の中では神さんにはお世話になったという気持ちよりも、苦しめられたという記憶の方が強い。
「青森の神さんが、どうかしたんですか?」
できるだけ感情を出さないように返答する。木村教授はにこりと笑って、後を続けた。
「実は、来年あたりに青森での調査実習をまたやりたいと思っているんです。それで今の内から神さんをはじめ、現地の人たちと話を進めておきたいのですが、神さんが現地で打合せをしたいと言っているのです。そこで、吉田くん。私の代わりに青森へ行ってもらえませんか」
木村教授は軽い口調でそう言った。まるで、キャンパスにある購買でお菓子を買ってきてほしい、というくらいのテンションだ。しかし、青森まで一人で行って調査実習の打ち合わせをするなんて、学生にはかなりハードルが高いように思う。まして、僕は休学中だ。
「それって・・・僕が一人で行くには難しいんじゃないでしょうか。そんな大事な打ち合わせをできる自信はないですよ」
不安な気持ちを率直に伝えてみる。教授はマグカップを置き、慌てて話し始めた。
「いやいや、そんなに重大なことを頼むわけではありませんよ。調査実習の具体的な内容は、もちろん私の方で考えます。ただ、神さんが電話やパソコン越しの会話だと埒が明かないといって、現地で話したいことがあるそうです。そして、吉田くんをご指名なんですよ」
「え?」
あの神さんが自分のことを指名するなんて、ますます嫌な予感しかして来なかった。きっとまた、散々説教して絞ってやろうと思っているに違いない。
これは面倒くさいことになりそうだと思っているところに、教授は話を続けた。
「それに、これは吉田くんのためにもなると思っていますよ。というのも、吉田くんは卒業論文のテーマ、まだ決まっていませんよね。来年、復学したら結局取り掛かることになるので、時間のある今のうちから、少しずつ準備しておくのがいいと思います」
卒業論文の話を出されて、この話を断ろうと思っていた気持ちがストップした。確かに、卒論のことは気にかかっている。休学を決断した理由について、就活が思うようにいかないこともあったが、卒論にも全く手がつけられなかった、という理由も大きかった。卒論が前に進むきっかけが生まれるのは、確かにありがたい話だ。そう思っているところに、木村教授が畳みかけてくる。
「前回の調査実習の時の吉田くんのレポートは、大変出来が良かったですよ。青森に行ってもう少し調査の深掘りをすれば、十分に卒論として成立します。打ち合わせのついでに卒論の調査もできると思いますし、かなり前進しますよ」
木村教授の言葉はいちいち説得力があって、その通りだという気になってくる。穏やかで優しい口調にのせられて、段々その気になっている自分がいた。
「最後に」
教授が、また片手で眼鏡の位置を直しながら話す。
「今回は調査実習の準備として行ってもらうので、そこまで多くはないですが、謝礼としてバイト代を出します。もちろん、交通費もこちらで負担します。宿泊場所についても、先方に話を通しておきますので、費用は不要です。自己負担無しで卒論の準備ができると思えば、かなりいい話だと思いませんか?」
木村教授は、穏やかな笑みを浮かべながら僕を見つめる。ここまで言ってくれているなら、提案を受け入れた方がいいかも、という気分になっていた。何だか、木村教授にうまく背説得されただけのような気もする。
神さんに数年ぶりに会うのは気が引けるが、バイト代のため、卒論のため、木村教授のためだと思って、覚悟を決めるべきだろうか。不安はあるが、僕にとってもいい話のような気がしてきた。
「うーん、そうですか・・・。そういうことなら、はい、分かりました。僕でよければ、青森に行ってきます」
「それはよかった」
木村教授が、ほっとしたような顔をする。
「引き受けてくれて、安心しました。それでは、詳しい日程なんかは、また改めて連絡しますから。今のところ、再来月の最初、九月上旬くらいと思います。また連絡しますね」
木村教授に別れの挨拶をして、研究室を後にした。近況報告のために来たつもりが、なぜか青森へ行くことになってしまった。
階段を下りながら、早まったかもしれない、という気持ちが芽生えそうになったけど、もう後には引けない。後悔の気持ちが自分の中に生まれそうになるのを押さえつけながら、自転車を停めた駐輪場へと向かった。
(第2話終わり)
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第3話
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