ひと夏のきみ(第1話)
あらすじ
仙台の大学生である吉田信二(よしだしんじ)は、大学3年生の就職活動の時期から大学に行く意欲をなくしてしまい、この春から休学している。休学から三か月ほど経ったある日、所属する研究室の教授から久々に連絡があり、大学へ出向いた。すると教授から「研究の手伝いのため、青森へ行ってきてほしい」と頼み事をされる。迷いながらも、教授に押し切られる形で青森へ向かう。青森に着くと、口数の少ない津軽弁の男性の軽トラに乗せられて山あいの温泉旅館に連れていかれ、なぜか地元で有名なとうもろこしの売り場を手伝う羽目に。唐突に始まった、青森での大切なひと夏の物語。
銀色の自転車を漕いで、広瀬川にかかる橋を渡る。道から見える緑色の防護ネットの先には、地元の私立高校のテニスコートがある。七月の暑い日差しの中で、テニス部員たちの元気な声が響いている。
その先の坂道を立ち漕ぎでどうにか登りきると、目的地である建物が見えてきた。僕が在籍している大学だ。門には「青葉大学」の文字が立派に彫られている。仙台市にあるこの大学に入学して、四年目になる。
しかし、僕は大学四年生ではない。この春から、僕は大学を休学していた。今日は所属している大学の教授に呼ばれて、およそ三か月ぶりに大学に来た。勝手は知っているはずなのに、少し緊張している。
自転車を駐輪場に置いて、文学部棟へと歩いて向かう。キャンパス内には講義を終えた学生たちが雑談しながら、それぞれ目的の方向に向かって歩いている。
途中にある大学の図書館の前では、ダンスサークルの部員と思われる三、四人がストレッチをしている。図書館の建物はガラス張りで、身体の動きを映すのにちょうどいいらしい。ちょうど図書館から出てきた眼鏡の男性が、ダンス部員を邪魔くさそうに一瞥しながら、その脇を通り過ぎていく。
キャンパスを五分ほど歩くと、古めかしい外観の建物が見えてきた。キャンパス内の建物はここ数年で建て替えが進んでいて、他の学部の研究棟は新築の建物へと生まれ変わった。一方、この五階建ての文学部棟は優先順位が後の方らしく、壁のひびなどはそのまま、古めかしい姿のままだ。
所々塗装がはげてぼろぼろの階段を上り、三階へ。階段からすぐの部屋に『木村教授』と書かれた質素なプレートが掲げられている。そのドアをノックして「吉田です」と声をかけると、中から返事がした。
ドアを開けると、古本とコーヒーが混ざったような香りがした。部屋の奥で、教授がコーヒーを淹れているようだ。
「やあ、吉田くん。しばらくぶりですね。よく来てくれました」
白のポロシャツにベージュの細いズボンを履いた木村教授が、コーヒーを淹れる手を止めてこちらを振り向いた。もう五十を過ぎているはずなのに、カジュアルな恰好が似合う人だ。背が高くて、髪は少し茶色に染めている。
「こっちの椅子に座ってください。今日は暑いですね」
教授は穏やかな笑顔と共に、椅子に座るよう僕に促した。すすめられるままパイプ椅子に座り、部屋の中を見渡す。
大学教授の研究室らしく、部屋中に分厚い書籍やノート、バインダーやクリアファイルが並んでいる。しかし雑然としているわけではなく、何かしらのルールに基づいて、あるべき場所に置かれているように見えた。
「吉田くん、少し痩せましたね。ご飯は食べていますか?」
教授がマグカップを二つ持ってきて、一つを僕の前に置きながら話しかけてくる。コーヒーのいい匂いがするな、と思いながら教授に返答する。
「そ、そうでしょうか。食事はそれなりに、ちゃんと食べています。最近は暇な時間があって、自転車を漕いであちこち行っているので、それで少し痩せたかもしれません」
教授は僕の答えを聞くと、嬉しそうな顔をした。
「それは、大いに結構です。暇な時間を持てるという経験も、人生において貴重なものですよ」
木村教授はそう言って、またコーヒーを飲む。僕もマグカップを手に取り、一口飲む。ほのかに、ナッツのような甘い香りがする。
「おいしいでしょう?助手の鬼頭くんが、この前ハワイに行ったときに買ってきてくれたものです。彼は、見た目は怖いですが、お土産のセンスはいいんですよね」
教授はマグカップを置き、机の引き出しから眼鏡拭きを取り出した。眼鏡を外して丁寧にレンズを拭きながら、教授はまた静かに話し始めた。
「吉田くんが休学してから、もう三か月くらいですね。何か困っていることはありませんか」
「まあ、特に問題ないです。というより、バイトくらいしかすることもないですし」
なんでもない世間話のように休学のことを聞いてくるので、僕も自然に答える。教授と顔を合わせて話すのは久々だけど、教授の口調のおかげで緊張もほどけていく気がした。
木村教授の話し方は穏やかで、分かりやすい。休学する前は、教授の講義が好きで、積極的に受講していたことを思い出す。
大学三年生の前期までは、みんなと同じように大学に通っていた。単位も順調に取得していたし、友人もそれなりにいて充実していた。
ところが、就職活動が少しずつ本格的になってきた三年生の秋頃から、雲行きは怪しくなる。会社のインターンシップや合同説明会が始まり、友人たちは次々と就活戦線へと参戦していった。けれど、僕はその波にうまく乗れなかったのだ。
大学を卒業した先に、社会に出て働いている自分をどうしてもイメージすることができなかった。この前まで一緒に大学の講義を受けていた友人たちが、次々と就活に夢中になっていくのを見て、その姿についていけなくなった。
何となく就活サイトで目についた企業にエントリーをすることもあったけれど、志望する業界も、やりたい事も見つからない。そうしている内に就活自体がくだらないものに思えてきて、やがて就活サイトを見ることもやめた。
心配して連絡をくれる友人もいたけれど、それに返答するのも煩わしく、無視するような形になった。大学で友人と顔を合わせるのも気まずくて、やがて講義にも行かなくなった。
その分、一年生の頃から続けていた全国チェーンのファミレスのアルバイトにのめりこみ、シフトを限界まで増やした。現実逃避のための行動だったけど、店長からは「このまま社員にならないか?」と熱心に誘われた。
それもいいのかもな、と思い始めて冬になった頃。教授から、一度話をしませんかと連絡が来た。普通なら大学に行くように説得されるところだと思うが、自分の状況を見て、「それなら休学するという道もあります」と提案してくれた。
こうして、僕は四年目の春から一旦、大学を休学することにした。休学してからも、教授はたびたび電話やメールで連絡を取ってくれている。先週の電話で、たまには研究室に来てくださいと教授から誘いがあり、顔を出したのだ。
「これも、別の子がくれた沖縄のお土産です。よかったらどうぞ」
教授は、テーブルの上にあった箱から個包装のちんすこうを取り出し、僕に一つ手渡しながら話を続けた。
「私もね、少しばかり長い休みが欲しいですよ。今の立場になると、まとまった休暇を取るのも難しいです。こうして人のお土産ばかりもらっていると、自分でもどこかバカンスに行きたくなります」
教授の言葉に笑いながら、ちんすこうを食べる。少し塩味を含んだ優しい甘さが、口の中でほろほろと崩れていく。
その後、教授がバカンスで行きたい国の話や、教授が注目している国内の温泉宿についての話が続いた。今日は何か話したい用事があって呼ばれたのだと思っていたが、中々話が始まらない。気になって、自分から質問してみた。
「あの、今日は何かお話があって呼ばれたのでしょうか」
すると教授は口にコーヒーを含んだまま、顔の前でぶんぶんと手を振った。飲み込んだ後、すぐに言葉を返す。
「いえいえ、吉田くんの顔が見たかった、というのが一番の理由ですよ。休学中とはいえ、気軽に研究室に寄って、近況をお知らせしてくださいね、ということを伝えたかったのです」
教授の言葉を聞いて、僕は少し安心した。久々に研究室に呼び出されたので、何の話があるのだろう、と少し心配していたのだ。
僕が安心してコーヒーをもう一口飲もうとしたその時、教授がまた話を始めた。
「ところで、吉田くん」
「はい?」
「せっかく研究室に来てもらった吉田くんに、ついでに相談したいことがあります」
教授はそう言うと、片手を広げて眼鏡をかけ直した。眼鏡の奥の目が光ったような気がする。やっぱり、本題があるんじゃないか。
「実は、吉田くんに頼みたいことがあります。何日か、青森へ行ってきてもらえませんか?」
(第1話終わり)
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第2話
第3話
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第5話
第6話
第7話
第8話(最終話)
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