不眠症 精密検査結果
薬を飲んでも眠れなくなり、ようやく重い腰を挙げて検査に来た。
予約した心療内科に到着するや否や、問診票を15枚近く渡された。
睡眠障害者に対してなんて酷い仕打ちだと不満に思いつつ、これで長年の悩みが解決するならと、働かない頭を無理やり動かして、1時間かけて書き終えた。
提出を終えても診察室には進めず、問診票を元に簡単なカウンセリングを受けた。カウンセラーの女性は終始笑顔で穏やかな口調だが、受け答えのたびに、手元に何かをメモしている。
5分ほどの質疑応答を終えると、最後に女性から白紙を渡されて、"実のなる木"を描くように指示された。それで何が分かるのか、僕にはさっぱり検討も付かなかったが、余計な診断を受けないように、自分なりに、至って普通の木を描いて提出した。
「ありがとうございました。カウンセリングは以上です。診察の準備ができたらお呼びするので、待合室でお待ちください」
案内されるがまま、待合室に戻る。
心療内科には何度もお世話になっているが、ここまで精密な検査を受けたのは初めてだ。これだけ時間をかけたのなら、病名も治療法も無事に分かって、眠れるようになるのかもしれない。
淡い期待と漠然とした不安で、少し前から動悸が止まらない。
「斉藤さん。診察室にお入りください」
ついに来た。自然と背筋が伸びる。病院に入ってから1時間半もの間、一口も水を飲んでおらず、口の中はカラカラだ。静かすぎる院内に、心臓の音が鳴り響く。
扉の前で唾を飲み込む。失礼します。就職の面接に臨むような、張り詰めた気持ちで重い扉を開ける。
阿弥陀如来坐像──────

「平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像002」 より
京都の平等院鳳凰堂に安置されている国宝。平安時代を代表する仏師・定朝が手がけた現存する唯一の作品で、その特徴として、空間を包み込むような、優美で柔和な表情が挙げられる。
いつの日か遥か西国の古都で拝観した仏像が、デスクの向こう側で鎮座していた。窓から差し込む光が、後光の様にその御尊容を照らし、荘厳さを一層際立たせている。
「どうぞ、おかけください」
低く重たい声で我に帰る。目の前にいたのは仏ではなく、心療内科のドクターだった。僕は慌てて荷物棚にカバンを降ろし、席に着く。
よろしくお願いします。一息ついてから、改めて対面する相手を見据えた。
数多の修羅場を潜り抜けてきた百戦錬磨の風格。患者の入室もカウンセラーとの事務的なやりとりも、水が海に向かって流れる様に、全ては自然の摂理だと言わんばかりの佇まいだ。仏像と見間違うほど、清濁併せ呑む寛容な空気が、一挙手一投足から醸し出ている。
僕が今、どれだけ突拍子もない行動をとっても、この表情が歪むことはないのかもしれないと、あれこれ思案を巡らせていると、目の前の御尊顔の口が開く。
「結論からお伝えしますが」
緊張感が一気に高まる。そうだ、僕は睡眠障害の診断に来ていたのだ。
もしも、もしも万が一、世界で数人しかいない稀有な症例で、大学病院を紹介されたらどうしよう。
ザ・タイムショックの回答者席の様な、仕組みも理屈も、形状から全く予想できない医療機器で、より精密な検査を受けることになったらどうしよう。
その結果、人類の命運を握る貴重なサンプルであることが発覚し、決して表舞台には出てこない政府直属の闇組織に、怪しげな人体実験をされたらどうしよう。
今、何問目だろう。
病院に向かう電車の中で見ていたyoutube動画、『【亜人】ガチで天才な主人公、永井圭を解説!!【ゆっくり実況】』のせいで、陳腐な妄想が広がる。
最悪治療法はわからなくてもいい。せめて病名は付いていてくれ。
ビビビッ。急激な心拍数の増加を、皮肉にも、会社の福利厚生で貰ったApple Watchが告げる。
僕は固唾を飲んで阿弥陀如来の次の言葉を待った。
「斉藤さんは…」
ドクン。ドクン。
「ADHDです」
トルネードスピン!

診察室内の景色が縦横無尽に乱回転する。心の中のヒデちゃんは、笑顔でカメラに決めポーズ。元気そうで何よりだ。そういえば最近トルネードスピンを見ていない気がするけど、これは確かに危険すぎる。廃止されたのかもしれない。
いやいや、一旦落ち着つこうヒデちゃん。
そんなことより、なんだって?
僕が入室してからずっと眠たそうにしている、この短髪天然パーマ小太り中年ドクターは、今なんて?
「斉藤さんはADHDです。これまでの生活で苦労された経験や、ご自覚されたタイミングはありますか?」
ないよ。ないない。あるわけないだろ。
うつ病よりも実感がない。僕の敬愛する友達の一人に、打ち合わせ中に目の前の蝶々を追いかけ始める生粋のADHD、コンノ(名前出してごめん)がいる。確かに、僕は昔から忘れ物が多い。最寄りに着いても電車を降りれず、終電を逃すことがしばしばあるが、それは個性の範疇だ。”ADHD気味”の個性だと言われたら否定できないが、それを言い始めたら、人類は皆少しずつADHDじゃないか。コンノ(大好きだから許して)と比べたら、僕なんて微塵もADHDではない。
僕は断固として認めない。それってあなたの感想だ。エビデンスを出せ。検査結果を見せてくれ。
「こちらがADHDのスコアです。偏差値のようなもので、健常者が50、60以上をADHDとすると、斉藤さんは72ですね」
ガッツリだ。ガッツリADHDだ。ガッツガッツリガッツ石松だ。
診断基準より12もADHDだった。ADHD界隈のサラブレット、東大理三も夢じゃない。ショックで続きが頭に入って来ない。
診断を受け入れられない訳じゃない。自分の中にADHDの側面があることは理解していた。ここまでガッツリだとは思っていなかったが、ちゃんとした病院で1時間もかけて検査をして、診断されたのなら、きっとそうなのだと思う。
が、問題はそこではない。これは心の準備の問題だ。
自分がADHDと診断されるとは微塵も思っていなかった。寝耳に水だ。不眠症なので、普通に耳に水をかけられている。診断されるかもしれないと思いながら検査を受けるのと、突然診断されるのでは話が違う。頭がクラクラしてきた。今なら逆に、眠れそうな気がする。
言葉が耳の上を滑る。内容が頭に入ってこない。目の前には阿弥陀如来。修学旅行中に、難しい言葉で仏像の解説を聞かされていた時と、状況が完全にリンクしていた。
ふとデスクの上に目が移る。先程カウンセラーの先生が書いていた書類だ。受け答えの度に熱心に書いていたが、一体何が書いてあるのだろうか。
【申し送り:多動気味】
ハイお疲れ。解散解散。(CV:子安武人)
初対面の女性に、多動気味だと思われた。変な奴だと思われぬ様、普段通り、いやそれ以上に落ち着いて受け答えしていたはず。申し送りに書かれるほど多動だっただろうか。言われてみればずっと、袖のボタンをつけ外ししていた気もする。クソ、嵌められた。誘ったな゙…!?
そもそもADHDの検査だなんて一言でも言われただろうか。不眠のせいか予約時のやり取りも、受付時の案内もよく覚えていない。とにかく頭が働かず、早く眠りたい一心だった。
そうだ、不眠の原因は何なんだ?
先生、僕は最近薬を飲んでも眠れないんです。どうしてでしょうか。
もしかして、ADHDが原因ですか…?
なるほど、そういうことなら納得も行きます。ADHDにはそんな症状もあったんですね…
「いえ、違います。ADHDとはまた別に、斉藤さんは…」
「うつ病です。休職しましょう。」
僕が?うつ病?本当に?
→続きはこちら
◯検査の前段↓
社会不適合日記
毎週木曜20:00更新+不定期
うつ病と怠惰の狭間で、自身の社会不適合性を茶化しています。
次回は「線路に飛び込む人の気持ち」についてです。
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