【連載小説】 何を知る #101 甘い顔で笑うから ③
いつもなら匂いでわかるのに……。
鼻水のせいだ……。
ピンクのシャツを着た小野田が、階段を下りてきている。
……バレませんように……。
……素通りしてくれますように……。
ピンクのシャツはわたしの横を通って、数段下で止まった。
「……泣いてる?」
のんびりとした声だった。
「泣いてないです」
と首を振ると、溜まっていた涙が一滴、ほっぺを伝って落ちていった。覚悟を決めて顔を上げると、いつもの無表情の小野田と目が合った。
「気にしな」
「甘いもの、好き?」
その声は同時で、お互いが言った言葉を確認するための間があった。
……甘いもの?
「え、あ、苦手ではないですけど……」
と答えると、小野田は無表情のまま、
「おいしいケーキがあるんだよね。化学科の教員だけでは食べきれないくらい。……よかったら、食べに来ない?」
と言った。
……ちょっと興味あるかも。
お菓子が好きな小野田が言う、おいしいケーキ……。
「あ、はい、いただきます……」
「おいで」
そう言った小野田が背中を向けて、階段を下りていく。わたしはその5mくらい後ろを歩く。
……はめられちゃったな、と思いながら。
「失礼します」
化学準備室に入ると実花先生がいた。
「お久しぶりですね」
とわたしが言うと実花先生は、
「やだ、小野田先生に泣かされたの?」
と言って、いたずらっぽく笑った。いいえ、とわたしが答える前に、
「実花先生、茶化さないでください」
と、冷蔵庫の中からケーキを出している小野田が先に答えた。
……なんか、かっこいい。
と思ってしまってから、別にかっこよくないもん、わたしは違うもんね、と思う。
立ったままのわたしに、実花先生がパイプ椅子を持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
お礼を言うと実花先生は「ううん」と小さく言ったあと、そのまま準備室を出て行った。小野田とわたしの二人っきりの準備室に、ポットからお湯を注ぐ音が響いている。
「……すみません、手伝います」
「いいよ。座ってて」
と言われてしまい、わたしはおとなしくパイプ椅子に座った。何も置かれていない、小野田のデスクを眺める。
『小野田には小野田の風が吹いている
俳句部門 特別賞 小野田 景都 殿』
……これ、文化祭のときのやつだ。講評のときには、『自分には悪口を言ってもいいが、生徒間では絶対に言わないように』なんて言ってたけど……。結構気に入ってたんだ。わざわざラミネートしてからデスクマットの下に入れるくらいに。
……小野田って、よくわかんない人……。
小野田の足音がして、わたしは背筋を伸ばした。
「どっちがいい?」
そう言って小野田は、わたしの前にケーキを二つ並べた。一つはチョコレートで、もう一つは抹茶だと思う。ケーキと聞いていたのでホールケーキを扇形に切ったものを想像していたが、チョコも抹茶も長方形をしていた。
「チョコレートのほうで……」
とわたしが答えると、小野田は自分の席に抹茶のケーキを置いた。そしてわたしの前と自分の席に、マグカップを置いた。その中身は紅茶だった。
「ありがとうございます。いただきます」
……チョコレートより、チョコレートの味がする……。濃くて甘くて、とってもおいしい。
無心で食べ進めていると、小野田がケーキに手を付けず、こちらをじっと見つめていることに気づいた。
……わたしがどうして泣いていたのか、訊きたいんだろうな……。
心配してケーキまで食べさせてくれる小野田には悪いけど、教えないもんね。
とはいえ、ずっと無言で見られているのも気まずいので、何か話題を考える。
「ケーキ、とってもおいしいですね。……でも、食べきれないくらいたくさん、どうしたんですか。何かあったんですか」
「実花先生が買ってきた。……誕生日だから」
「あ、そうですか」
と言ってから、
「え、実花先生って誕生日4月でしたよね」
と訊ねた。
「あ、いや、誕生日なのは、俺」
そう言った小野田は、わたしからすっと目を逸らした。
「え、おめでとうございます。いつですか、今日ですか」
「あ、土曜日」
「土曜日……」
誕生日を訊かれて、曜日を答えるんだ……。
本当に、変な人……。
「実花先生が27歳だから……先生は25歳になったんですよね」
「うん」
小野田はちっちゃい声で返事して、またわたしから目を逸らした。
……?
ケーキを食べる手をゆっくり動かしながら注意深く小野田を見ていると、小野田はケーキにも紅茶にも手をつけず、デスクの引き出しに手をかけた。
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