「エリート魔術師な旦那様の最愛は「使い魔」!? 〜不遇令嬢の仮初妻から始まる溺愛生活〜」第1話

【あらすじ】
魔法が使えない上に後ろ盾の母も亡くし、実家で虐げられていた公爵令嬢・ルナリアはある日、異母妹に陥れられて命を落としてしまった……かに思われたのだが、どういうわけか見知らぬ屋敷の中で目を覚ます。そこはラヴィオンという名のエリート魔術師の家だったのだが、彼はルナリアが幼い頃から恋い慕い、しかし「無能」と蔑まれる自分では釣り合わないと諦めていた相手だった。そんな彼はルナリアを丁重に看病してくれただけでなく、驚くような提案をしてくる。仮初の妻になってはくれないか、と。それを受け入れたルナリアは分をわきまえた生活を送ろうと自らを律していたのだが……あの、すごく高待遇でいっそ申し訳ないんですけれど!?

【第1話】

「お母さま。この場が王宮の宴に仮託した私のお見合いの席だとは、十分すぎるほど十分に察しているつもりです。それでもあえて申し上げさせていただきますが、私はラヴィオンさまと政略結婚をしたくはありません」

 私が母におずおずとそう申し出たのは、この世界で彼――ラヴィオン・ウィンターベールさまの姿を初めて目の当たりにした、九歳のとある春の日のことであった。

「どうして? ラヴィオンくんのこと、そんなに気に入らなかったのかしら?」

 こてりと首を傾げた私の母・マリアベルは、困ったように微笑みながら、そっと私と視線を合わせて問いかける。

「いいえ!」

 対する私はぶんぶんと首を横に振り、はっきりとした口調で「違うんです、そうではなくて!」と呟いた。

「むしろ、好きです。ラヴィオンさまのことはとっても気に入りました」
「じゃあ、どうして?」
「……したくって」
「うん? なあに?」
「好きだから! 好きだからこそ私は絶対に、ラヴィオンさまと恋愛結婚がしたいと思っているのです!」

 思い切って叫んでから、一秒、二秒、三秒。
 永遠にも思われた静寂は、母のふっと吐き出した笑い声によって不意に破られたのだった。

「ふ、ふふっ! そう、そうなのね……!」
「ラヴィオンさまのことは、私が必ず落としてご覧に入れます! 婚姻自体はお母さまが思っておられる通りにきちんと結んでみせますから! だから、だから……っ!」

 焦って言葉を重ねる私の頭を、母は優しく撫で擦ってくれた。
 そして、私を安心させるように、穏やかな笑みを浮かべて言ってくれたのだ。

「良いわ、ルナリア。全てあなたの言う通りにしましょう」
「ほ、本当?」
「ええ。その代わり、そこまで言ったからにはきちんとラヴィオンくんを落としてご覧なさいな。サマーグロウ公爵家とウィンターベール公爵家の婚姻は、政略的にも大きな意義があるのだからね」
「はい!」

 元気よくそう返事をしたときの私は、自分の未来は自分自身の力でいかようにでも切り拓けると、子供らしい無邪気さで本心から信じきっていたのだ。
 だから自らの胸の中にある明るい未来への展望が蜃気楼のように儚いものであるということを、愚かにもこのときの私はまだ、欠片も知る由もなかった。

******

「ルナリアお嬢サマ、まだお掃除が終わっていないんですかぁ?」

 我が家に仕える侍女がにいと唇の端を吊り上げながら意地悪く嗤うさまを目にしたとき、私の胸の中に去来した感情は「ああ、またか」という諦念、その一言に尽きた。
 なにせ、私はこの手の嫌がらせを毎日のように受けているのだから。
 今更ショックを受けたり、ひどく狼狽したりということもありはしない。
 こういうときは曖昧な笑みを浮かべ、ただ嵐が過ぎ去るのを待つに限るというものだ。
 大概の場合は、私の反応がなければつまらないと興味をなくし、くるりと踵を返してくれる。
 しかし今日は、どうも虫の居所が悪かったということであるらしい。

「……何を笑ってらっしゃるんですかぁ?」

 眉を吊り上げた侍女のそばにその仲間の侍女たちまでもが寄ってきて、私に不快げな声を浴びせかけてきた。
 そして――ばしゃり。
 私が掃除用に置いていた汲んだばかりの水が入った木桶を、どう考えても悪意を持って、こちら側に向かってどんと蹴倒してきたのだ。

「あらあら。ご自慢のぬばたまの御髪(おぐし)が濡れてしまいましたわねぇ」
「濡れていると、漆黒の艶めきがいっそう際立って見えますわぁ」
「むしろそれを見せつけることを狙って、御自ら水を被ったのではなくって?」

 くすくす、とこれみよがしに嗤いながら、ようやく彼女たちも気が済んだという様子でこの場を立ち去ってくれる。
 その背を見ながら小さく息を吐いた私は、結んでいた髪を一度解いて含んでしまった水を両手で絞りつつ、ちらりと周りの惨状へと視線を移したのだった。

「……あーあ。今日もまた、一からやり直しかぁ」

***

 「悪鬼」――それは人に災いをもたらす、恐ろしい異形の存在のことである。
 いつから、またどのようにしてこの世に現れたのかは、誰一人として知らない。
 ただ気付いたときには私たちの隣にいて、本能がおもむくままに人間を貪り食らうようになった。
 人間と悪鬼は何百年にもわたり、血で血を洗う苛烈な戦いを繰り広げた。
 そんな中で、やがて人間の一部に、悪鬼との戦闘に役立つ特殊な能力を発現出来る者が現れるようになった。
 それが「魔法」であり、魔法を駆使して戦う「魔術師」と呼ばれる人間の起こりであると、国の歴史書には記されているという。

 今この国では、王家を頂点として、四つの魔術師家門が社会の中で圧倒的な権勢を誇っている。
 「水」の魔法に優れた者が多い、スプリングフィールド公爵家。
 「火」の魔法に優れた者が多い、サマーグロウ公爵家。
 「土」の魔法に優れた者が多い、フォールブルーム公爵家。
 「風」の魔法に優れた者が多い、ウィンターベール公爵家。

 その中で私ことルナリア・サマーグロウは、四大家門の一角を占めるサマーグロウ公爵家の、しかも本家の長子としてこの世に生を受けた。
 両親ともに優れた魔術師だったこともあり、当然私も将来は優れた魔術師として覚醒するであろうと誰もが信じていた。
 私自身だって、それを信じて疑ったことなどなかったのだ。
 しかし十歳で執り行った「使い魔召喚の儀」が、私の運命を完全に捻じ曲げてしまったのである。

 端的に言えば、私は魔術師として覚醒するために必須となる「使い魔」を、どんなに下位のものですらもこの手で召喚することが出来なかったのだ。
 魔術師は「使い魔」と呼ばれる存在を召喚したのちに、初めて魔法を使用することが出来るようになる。
 逆に言えば、使い魔がいなければ、どんなに些細な魔法であっても使うことは出来ない。
 使い魔を得られなかった私がどうなったかと言えば、当然の帰結として、魔法を行使することが出来ずに終わった。
 魔術師家系においては得てして「魔法が使えることこそが誇りであり、一族の人間としての存在価値だ」という意識が強いため、魔法が使えない人間など人間でないとみなされがちだ。
 サマーグロウ公爵家は殊にその傾向が強かった。
 「無能」、「出来損ない」、「一族の恥」――そんな烙印を押された私を、一体誰が歓迎するというのだろうか。
 一日前までは「立派な跡取り」として期待の目を向けていたはずの一族の者たちは、この件で瞬時に私に背を向けてしまった。
 それでも、母が生きていた頃はどんな逆風の中でもいつだって味方になってくれていたからましだった。
 しかし母が早逝すると、私を擁護する者は一族の中に一人もいなくなってしまったのだった。

「……そして、十八歳となった今に至る、というわけね」

 呟きながら、私室……としてあてがわれている公爵邸の離れの片隅にある物置部屋へと戻った私は、濡れた衣服を脱いで手早く身支度を改めていく。
 先程の侍女たちだって私の「無能」さを当てこすって嘲笑っていたのよねと、何度目とも知れぬ嘆息を漏らしながら。
 彼女たちはやたらと私の黒一色の髪に言及していたが、それは魔術師として覚醒した人間は髪の一房が自分の使用できる魔法の属性にちなんだ色に変化するからなのだ。
 ちなみに、火の魔法を操る人間は「赤」。
 使い魔召喚を終えていない幼子以外、サマーグロウ公爵家では一族の誰もが一房の赤い髪を持ち、それを過剰なまでに誇りとしている傾向がある。
 そういえば、幼少期の私は母の髪に交じる鮮やかな赤の煌めきに憧れて、贈り物として貰った舶来の真紅のリボンを髪の一房に編み込んでとよく母にねだっていたなあ。
 ……ということは、今は特に関係のない話だからこれ以上の無駄口は慎むけれど。
 とにかく見事なまでに黒一色な私の髪色を強調することで、彼女たちは私の劣等感を煽ろうとしていたように思われた。

「でも何度も同じ話を聞かされていれば、嫌でも免疫がつくというものよ。あの人たちがどれほど私の心を傷つけようとしたところで、これ以上傷つく心なんて残っていないんだからお生憎様。さっ、行きましょ」

 きゅっと髪を高い位置で括った私は部屋を出てもう一度水を汲み直し、広い屋敷の廊下を徹底的に磨き上げていく。
 ありがたいことに今度は誰にも絡まれず、自分の作業に集中出来た。
 そのおかげで侍女頭が作業状況の監視に来る前に、無事に掃除を終わらせることに成功したのだった。

「いかがですか?」
「……ふん。まあ、よろしいでしょう」
「さようですか。それなら……」

 今日の業務は、これで終わりでよろしいでしょうか?
 そう続けようとした言葉は、しかし侍女頭の一言によってすぐに飲み込まざるを得なくなってしまった。

「ロゼットお嬢さまがお呼びです。すぐにお嬢さまのお部屋へと向かってくださいましな。ル、ナ、リ、ア、さ、ま?」

「……はい。分かり、ました」

***

 ロゼット・サマーグロウ――彼女は血縁上、私の異母妹であることに相違ない。

 初めて出会ったのは、母が亡くなってからしばらくしてからのことだ。

 傍系出身の私の父・ロックスは、本家の娘である母・マリアベルと結婚したこと、そして家督相続は男子にという前当主の遺言があったことで、サマーグロウ公爵家本家の当主の座に形式上はついていた。

 だが父の当主としての正当性を担保しているのはマリアベルの血筋である上に、能力的にも優れていたわけではなかったので、実務にしろ社交活動にしろ実質的に当主の役割をこなしていたのもまたマリアベル自身だった。

 従って、その死に伴って、今一度当主について再検討する会議の場が一族の中で設けられることになったのだ。


 ……本来の一族の慣例に則るならば、当主の座は本家の血筋で継承するか、あるいは一時的に本家の血筋から外れたとしても可能な限り本家の血筋に引き戻すことが求められている。

 つまり血筋的には私が後継者候補筆頭になるのだが、「無能」の私が当主になることは難しかったので、存命の者の中で他に唯一本家の血を引く、母の妹の息子――私のいとこのディートリヒこそが、次期当主として最もふさわしい人物だと推挙されてもおかしくはないはずであった。

 ところが、そこで大きな問題として立ち上がってきたのが、母が悪鬼との戦闘の中で命を散らすことになったという事実。

 というのもサマーグロウ公爵家は魔法を極めて重視していて、そして魔法は悪鬼を倒すための力であるがゆえに、悪鬼に殺されるという死に方は何よりも恥ずべき汚点であると伝統的に考えられていたのだ。

 そこを突いた父は「一族に汚点を残した現・本家は、果たして本家としての正当性を有しているのか」などという主張をし始めた。


「……確かに、そのまま放置していては、父は当主の座を失うことになっていたのかもしれないけれど」


 しかも両親の関係性だって悪かったことは察していたけれど、それにしても妻だった女性をここまで貶めてでも当主の座を維持したいのかと、ひどく絶望的な気分に陥ったことは記憶に新しい。

 そんなふうに私が呆然としている間に、父は一族内の議論を「現・本家に本家たる資格はなし」ということで一つにまとめきってしまった。

 結果として、サマーグロウの「本家」は傍系家系筆頭――つまり本家に何かがあった場合は本家を一番に継ぐ資格があるとされていた、父自身の血筋へと移り変わることになったのだった。


「その後に父が連れてきた妾が、今の父の本妻にして私の継母であるシスリー。そしてその娘が、私の異母妹・ロゼットということになるわけなのよね」


 魔術師家系においては能力の確実な次代への継承のためにも、本妻・本夫以外に愛人を持つ例は決して珍しいというわけではなかった。

 とはいえ父もまさかその例に漏れず、しかも私と数ヶ月しか誕生日の変わらない妹までいるなどとは、夢にも思ってもいなかったのだけれど。


「それでも、いるものは仕方ないわ。だから、私も腹をくくることにしたのよ」


 そうして私は父の新たな本妻となったシスリーと、正当なる本家当主の実娘として迎え入れられたロゼットに、初めて対面することになったわけだ。

 しかし、なるべく友好的に接しようとした私に対し、向けられたのは二対の凍るように冷たい眼差しであって。

 ……一瞬にして、はっきりと理解できてしまった。

 この先一生、彼女たちが私を受け入れることなどありえないに違いないという現実を。

 その予感は的中し、すぐに私は彼女たちに召使い扱いをされるようになった。

 主が主ならば、使用人もそれに倣ってしまうものだ。

 加えて当主たる父も見て見ぬふりを決め込めば、私の立場が今まで以上に落ちぶれていくのは必然のことであった。


「失礼いたします。……ロゼットお嬢さま」

「お姉サマぁ、遅ぉい!」


 ……ほら、こんなふうに。

 自室で椅子に座り、緩く巻いた一房の赤髪を弄びながら、氷のように冷たい視線で私を射すくめてきた令嬢こそ私の異母妹であるロゼットその人に他ならない。

 今日も今日とて尊大な態度で私を一瞥し、そしておもむろに椅子から立ち上がるやぞんざいに言い放った。


「あたし、十分後に出かけるわ。だから、お姉サマもそのつもりで随行の準備をしといて」

「……えっ?」

「なあに? あたしに口答えでもしようっていうの?」

「いいえ、そんなつもりは」


 「だったら黙っていなさい」と言われてしまえばもはや、私には「はい」と頭を下げる以外の選択肢など残されてなどいない。

 慌てて自室に戻り外出の支度を整えた私は駆け足で庭を横切って、ロゼットが出てくるはずの本邸のエントランス前へ先回りしようと試みたのだった。


***


「あれ、ルナリア。これからどこかへ出かけるのか?」


 そうして庭に入った私は、そこでこの屋敷で唯一の「味方」とばったりと行き合うことになった。

 ディートリヒ・サマーグロウ――私の母の妹が産んだ一人息子で、本来であれば今頃サマーグロウ公爵家本家の当主になっていてもおかしくなかった人物だ。

 本家の名をうちの父に乗っ取られた今では傍流扱いを受け、しかも両親が早逝しているという後ろ盾のなさも相まって、私と同様に一族の中では孤立状態に陥っている。

 とはいえ「無能」の私と違って魔法はきちんと使える状態であるために、一族の末席には名を連ねることを認められ……もとい、他の魔術師たちが嫌厭する仕事を雑多に押し付けられているようだった。


「うん。ロゼットお嬢さまの外出に随行するよう命じられたから、少し出かけてくるわ」


 そう言うと、彼は眉をひそめ、「お前、またロゼット(あのおんな)からこき使われているのかよ」と心底不快そうに呟いた。


「大丈夫なのか? だってあの女、今日は新しく召喚した使い魔の力を試しに行くって言っているのを聞いたぞ!? それってつまりは魔法の使えないお前を悪鬼がいるところに連れて行くってことだろ。そんなの、正気の沙汰じゃねえぞ!?」


 ……うん。あれだけぞんざいに扱われた後だと、人の心の温かさというものというものがいっそう心に沁みるものなのね。


「まあ、これまでも色々あったけど生き残ってこられたんだから、今日だってきっと大丈夫よ。いくら嫌っていても、まさか命までは奪わないでしょう」


 あまり心配をかけないようにとへらりと笑いながらそう応じた私に対し、ディートリヒはぐっと唇を噛み締めた後に思わずと言った様子で口を開いたのだった。


「なあ。もう、こんなとこ逃げちゃわないか?」

「……うーん」


 実際のところ、そんなふうに考えたことがないわけではないし、いずれは……という気持ちがあることもまた事実だ。

 この家の後継者の地位を取り戻したいとか、あるいは「無能」を排斥するサマーグロウの気風を変えたいだとか、そういう意欲や高尚な志のようなものは、昔はともかく今の私の中からは失われてしまっていたのだから。

 だからこの家にそういう意味での未練は全くないのだけれど――。


「でも、今はまだ大丈夫かな」


 というのも、私にはこの家に――というかもっとはっきり言えば「サマーグロウの娘」という地位に、まだ一つだけ心残りがあったもので。

 だってこの家から出ていってしまったら、名門家の子息である彼に再会できる可能性は今以上に低くなってしまうと思ったのだ。

 彼――私の初恋にして最愛、ラヴィオン・ウィンターベールさまその人に再びめぐりあうことが出来る可能性というものが。

 無論、九歳のあの日からあまりにも状況が変わってしまったことは、誰に言われずとも十分に承知している。

 敵対意識の強い両家門の融和を推進していた互いの母が亡くなって、私自身も魔法を使えずに一族内での地位を失ってしまって。

 今や優秀な魔術師として名を馳せている彼と私とでは釣り合いようがないことくらい、私だって重々承知しているのだ。


 ……だからもう彼と結ばれたいなんて、分不相応な夢は語らないわ。

 それでも、どうかもう一度だけ。

 ただ一目で良いから彼の顔をもう一度見たいと願うことだけは、どうか許してほしいと思うの。


 それさえ叶えば心を整理して、サマーグロウ公爵家とは関係のない場所でしがない一平民として生きていってみせるから。

 彼は私が平民身分に落ちてしまえば、一生目にすることも叶わないであろう雲上人だ。

 しかしロゼットのそばに仕えていたならば、いずれ四大家門の交流会などで彼の姿をちらりと見ることくらいは出来るに違いない。

 だから、それまでの間だけの辛抱よ。

 その一心で私はいくら嘲笑の的になろうとも、ぐっと唇を噛んで今の立場にしがみついているというわけなのだった。


「ルナリアはいつだって大丈夫って言うけれど、本当に大丈夫なときもあれば本当は大丈夫じゃないときもあるからなあ……」

「今日は本当に大丈夫なときの大丈夫! だから、私のことより自分のことでも心配してなさいよ!」


 じゃあね、と手を振り私は本邸へ向かってぱたぱたと駆けていく。


「……頼むから、本当に頼むから、どうか無事に帰ってきてくれよ」


 去り行く私の背に向かってディートリヒがぼそりと呟いた言葉は、私の耳には届かず風の中に溶けて消えた。


***


「……ふうん。まあ良いわ。さっさと出発するわよ!」

「はい、お嬢さま」


 ……よし、ロゼットの機嫌を大きく損ねずに出発させることに成功したわよ!

 ディートリヒと別れてから数分。全速力で本邸へと向かった私が目にしたのは、どこか苛立ちを帯びたようなロゼットの冷笑であった。

 それでも変に激昂されるよりは、ずーっとましだと思うから良いとするわ!

 本邸前にはすでに馬車が停められており、ロゼットが乗り込んだことを確認して、ゆっくりとドアが閉められる。

 その様子を横目に見ながら、私自身は同行する荷馬車の片隅に、身を縮こまらせるようにして何とか腰を落ち着けた。


「……で、ディートリヒの言っていた通りの展開を迎えるというわけね」


 到着した場所は、街から少し離れた位置にある森の中であった。

 馬車から降りるなり、ロゼットは自らが新たに使役したという使い魔を召喚した。

 ぶるると嘶いたそれはあまり大きくはない馬型の下位使い魔で、がしがしと蹄で地面を蹴り、傍目に見ても戦闘する気満々であるように思われる。


「つまりこの子はこれからロゼットとともに、悪鬼との戦闘に臨むことになるのだわ」


 ……そんな場所に「無能」で何の役にも立たない私をなぜわざわざ連れてきたのだろうだなんて、考えるだけ無駄なことに違いないわ。

 大方ちょっと怖い目に遭わせて身の程を理解させたいとか、そういう子どもじみた嫌がらせであるという線が濃厚なのではないだろうか。

 まあいずれにせよ私には、ロゼットに付き従い、その一挙手一投足を間近で見守ることしか出来ない。


「行くわよ」

「はい!」


 だから私は使い魔の背に乗って優雅に移動し始めたロゼットの後を、必死に小走りでついて行ったのだった。


 そうしてしばらく森の中を進んでいったロゼットは、がさりと茂みをかき分けて現れた黒い犬のような物体を目にした瞬間に使い魔の背から飛び降りた。

 そう、あれこそが「悪鬼」。

 基本的に動物の形をしていて、どこもかしこも真っ黒で、鳥肌が立つほど禍々しい気を放っている物体である。

 今回は犬型のようだが、その形は一定というわけではない。

 子リス程度の小型なものから、熊型など人の背丈を超えるサイズの猛獣まで。

 大きさも強さもまちまちで、今回のものがそこまで大きくない犬型悪鬼なのは不幸中の幸いというところだろう。

 そんなふうに私が頭の中で考えているうちに、ロゼットは使い魔とともに火を使った攻撃を仕掛け始めていた。


「〈火炎〉!」

「ぶるるっ!」


 さすがは曲がりなりにもサマーグロウの血を引く娘というところだろうか。

 ロゼットの手のひらから放たれた炎に触れた悪鬼はすぐに苦しみ悶え始め、そして使い魔に食いつかれるとまるでもとから何もなかったかのように雲散霧消してしまった。

 ロゼットと使い魔はそのまま目についた犬型悪鬼を何体か打ち倒し、「大した事ないわね」と余裕たっぷりに笑っている。


「……さあ、そろそろ良いでしょう。帰るわよ」

「はい、お嬢さま」


 そうして満足したらしいロゼットが帰宅を宣言し、私も何事もなく終了したことにほっとしながらそれに頷いた瞬間、目の前にあった茂みががさりと大きく揺れた。


「何……?」


 見れば、そこにいたのは大きな体躯の真っ黒な狼だ。

 明らかに普通ではない気を放っており、これも悪鬼の一種であることは間違いないと思う。

 とはいえ、ここには魔術師とその使い魔がいるのだから――。


「……別に、問題はないわよね?」


 しかし戦闘を開始したロゼットをちらりと横目で見遣り、続いてその使い魔へと視線を移すと、何か様子がおかしいことに気付いた。

 端的に言えば、使い魔が悪鬼の勢いに押されているように見えたのだ。

 大丈夫なのかしらと思ったのもつかの間、どういうわけかロゼットの強い視線がこちらを射すくめてくる。


「ちょっと! こっちに来なさい!」

「は、はい!?」


 これまでの生活でロゼットの指示にはとにかく素早く反応することが身に染み付いていたため、私はほとんど反射的に彼女のそばに近寄った。

 すると――どんっ。


「……えっ?」


 次の瞬間には、私は地面の上に倒れ込んでいて。

 一拍遅れて、私は自分がロゼットに突き飛ばされたことに気付いたのだった。

 しかも、よりにもよって悪鬼の面前、戦闘の最前線というとんでもない位置に押し出されてしまっているではないか。


「な、にを……?」

「親愛なるあたしの『無能』のお姉サマ、せめてこのくらいはあたしの役に立って頂戴ね?」


 にっと口の端を吊り上げたロゼットは、そのまま使い魔の背に飛び乗りその場を去っていってしまう。


「え……?」


 ロゼットの背が遠ざかっていくにつれ、唖然とするばかりだった私の頭もようやく多少なりとも動き始めてくれた。


「な、なんてことなの……!」


 つまり、ロゼットは自分が逃げる時間を稼ぐための囮として、この私を使うことにしたに違いないわ!

 その推測は間違っていなかったようで、悪鬼は私に狙いを定め、がばりと大きな口を開けたかと思えばがちがちと歯を鳴らし始めた。


「に、逃げなきゃ……!」


 こんなの、どう考えてもこのままぼうっとしていたらおしまいだ。

 魔術師でもない私には有効な攻撃の手段がないのだから、今取れる選択肢はとにかく逃げるの一択しかないことは誰の目にも明らかなことであった。

 しかし恐怖心から足ががくがくと震えている上に、ここは奥深い森の中だ。


「うっ!」


 おそらくは木の根につまずいてしまったのであろう。

 足場の悪さも相まって、私は悪鬼とほとんど距離を取れぬままに転倒することになってしまったのだった。

 ……ああ、万事休すだわ。

 私は一歩、また一歩と近寄ってくる悪鬼の姿を、ただ呆然と見上げることしか出来ない。

 それでなくとも転倒の衝撃で、だいぶ意識が朦朧としてきている、と、いうの、に……。


「わ、私、こんな、ふうに、死ぬの、ね……」


 地面に倒れ伏し、目前に迫る悪鬼の姿を最後に、私はふつりと意識を手放してしまった。


 だから知る由もなかったのだ。

 その瞬間私の体が眩い光に包まれ、ぱっとその場から消え去ってしまっただなんて。

 あとに残されたのは、悪鬼が一体きり。

 とはいえそれも攻撃対象がいなくなればここにいる義理はなく、くるりと身を翻すやすたすたと、森の奥へ消えていった。

【第2話】

【第3話】


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