灰の中の残り火――猫の加入、新しい困難、絵が浮かぶこと
「鈴木さんのご主人大学の先生でしょ。生命保険幾ら出たのかしら」
昭和の終わりのことだから、子どもの耳に入れたくない噂も流れました
(命を狙われるみたいだから、入りたくないとの夫の希望で、
私だけ自分の葬儀費用程度に入っていました)
1980年代当時は鬱病は治らないとされており偏見もあったので
私は小学1年のトラガラに「大学病院の何階と言ってはだめですよ」と
箝口令を出し、家族を守ることに専念しました
タオルを投げてもリングに立つボクサー
夫は療養して小康状態になると仕事の遅れを取り戻そうと
すぐ過労状態になるほど働きました
真面目過ぎて、休んでと止めても
階段を一段登ると次が見えるらしく
研究に没頭しました
そんな真面目な彼に、トラガラとヒカリのことを話すと
無理心中などを思いつめかねないので
6年の療養期間、私の眠りはとても浅く
小さな音ですぐ覚醒していました
夫は助かりませんでした。トラガラが小学6年の冬のことです。
歩く仲間
少年時代の父や母がいて
若い二人がいて
父子家庭になった父が子や牛と歩き
私が大人になり
夫と二人で歩き
夫婦と子ども二人に犬
私にトラガラとヒカリ、そして犬と猫が着いてくる
大人になった二人と動物達
老いて一人で振り返る今
歩いてきた道のりは紆余曲折しますが
旅の仲間には恵まれた気がします
猫が来た
トラガラが小6、ヒカリが小2、優しい女の子の犬
それと私で新しい生活を始めました
猫はヒカリが中学にあがる頃に希望し
あまり欲のない子でしたし
家族が増える体験が必要だと思い
獣医をしている友人に世話して頂きました
猫は外だと目が細いですし
小鳥を捕まえたり出来ますから
小さくても油断ならない先入観がありました
生後45日で友人がOKしてくれたので
我が家に迎えた子猫は
青く澄んだ瞳で、トラガラの手のひらに
おさまる大きさでした
ひと月くらいカリカリをぬるま湯で
ふやかしましたが
すぐにそのまま食べられるようになりました

上図のように、愛用の猫じゃらしを数本、プラスチックで出来たボールで中に鈴が入っているもの、私達家族が作ったネズミ型のおもちゃ。そして、何より彼が気に入って遊ぶ、紙をピンポン玉サイズに丸めたもの。
出典: ねえ、それって、「元気出して」なの? 「遊ぼう」なの?|Trgr / カラストラガラ
URL: https://note.com/karasu_toragara/n/na5134a69c967
少し大きくなると、息子の描いた絵のように
愛用の玩具を一式並べてあることがありました
遊びたりなかったのかな? と思った覚えがあります
新加入の猫がこうして話題を提供してくれますし
庭は犬がパトロールしてくれるので
母子家庭だから怖いと思うことなく暮らせました
「持ってます」
我が家の黒電話は丈夫で壊れなくて2010年代まで使いました
ですから留守電では無いため営業の電話もとることになります
たしかお墓の営業で「持ってます」とお伝えして
すぐにお話が終わったので、マンションでもなんでも
「持ってます」とお答えしていました
先方もお仕事ですから、買う見込みがあると
誤解を招くのはご迷惑だと考えたので
憧れと現実と図書館
岸 惠子、石井 好子、犬養道子。あの頃、読んだ
エッセイの中で語られたヨーロッパへの憧れがあり
ヒカリが大学を出たら、シーズンをずらせば
格安ツアーに行けるかしらと漠然と思いつつ
日々の暮らしに専念しました
10日に1度は図書館へ行き、家族のカードも空いていれば
貸してもらい、たくさん本を借ります
新刊本コーナーで未知の分野の知見に触れ
お気に入りのエッセイの棚へ迷わず行きます
学生時代のように小説に没頭するのは、それは
例えばトルストイの『戦争と平和』を
40代の私の細切れの時間で行うのは困難です
対してエッセイは一話が短いですし
そこから得られる知恵は豊かですし
ときには感銘も受けられるから
テレビよりラジオより雑誌より映画より
何よりも私に向いた存在でした
そして、図書館は森のような静謐があるので
いろいろなことがあっても
いつもの自分に戻れる場所でもありました
絵が浮かぶから
目がある。生きてたじゃない
物心ついた私は、絵が浮かぶものですから
肉も魚も食べられませんでした
父が料理を工夫してくれたのですが
困っている様子を覚えています
でも無理なものは無理でした
出典: 食の記憶の旅――1950年代から2020年代|鈴木薫
URL: https://note.com/p_s_n/n/n9ddbd1542655
以前書いたように、私は偏食がありました
今も牛肉は苦手です
母子家庭の子育ては、不登校やおそらく夫の家系の
遺伝によるヒカリとトラガラの発症が数年あけて起きたことなど
困難は起きました
けれど母を1950年に亡くし母の顔を知らずに育った私は
誰より子どもが私を失った気持ちを想像出来るはずですし
療養する人が一番苦しいと考えるので
個人的な不満を抱かず後悔するようなことを
二人の子に言わずに済みました
それは私の人柄や強さではなく
視覚的に絵が浮かぶ特性により
自分が逃げたらどうなるか考えるまでも無く
脳裏に浮かぶので
問題から逃げずに取り組むことが
一番ストレスが少ない道だったのだと思います
正確に言うと、絵が浮かぶので考えるまでもなかったのです
引退後
ヒカリを天に送り、あとはいかに私がトラガラに
負担をかけずに天寿を全うするかです
ゲーミングチェアを一人で組み立てますが
やはり老いてはいます
問題は明日なのか20年先なのか
寿命は分からないことです
西洋美術館も、町の図書館も
コロナ渦を経た今
私には海外のように遠く感じます
足になってくれたサニーももう手放しています
でも、1950年代の物がない山村で
骨結核を見つけてもらうまで
小学2年から4年までの3年間
原因不明の痛みで動けなかったことも
乗り越えていますから
あるものでどうにかすることは自信があります
それに、逃げずに戦った日々の記憶が
灰の中の残り火のように
胸の中にありますから
何もなかった少女時代と心細さが違います

しおりにどうぞ
おしらせ

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