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【知見の断面#19】「本気を出さない部門」に、本物の権限だけが残るとき

📢 はじめに
いつもご覧いただきありがとうございます。
今回は、ある企業のコンプライアンス部門をめぐる話です。
悪意のある人間は、この記事にも一人も登場しません。
それでも、この部門は結果として、優秀な人材が離れていくきっかけになってしまいました。
今回は、経営側の設計責任について踏み込んだ、すこし棘のある筆致になっています。「善意で作られた制度が、なぜか現場の判断力を奪っていく」という構造を、一人の室長の退職をきっかけに分解していきます。


🖋「雇用対策になってきてしまっている」


こんにちは、peng noteです。

ある企業のコンプライアンス室長が、退職を控えたある夜、居酒屋のカウンターで酒をひとくち飲んでから、静かにこう漏らしたそうです。

「この部門は、雇用対策になってきてしまっている」

ここでいう「雇用対策」とは、人材を活かすための配置ではなく、役割そのものを作るための配置になっている、という意味です。

彼は優秀な人物でした。事業の文脈を読む力があり、リスクを取ることの意味を知っている、合理と非合理のバランスを自分の手で引き受けてきたタイプの人間です。
だからこそ、この一言は単なる愚痴として片づけられませんでした。彼は、組織の設計上の問題を正確に見抜いた上で、去る決断をしていました。

彼が見ていたものは何だったのか。そして、それは一つの会社だけの話なのか。今回はこの問いを、構造として分解していきます。
体裁が整うとはどういうことなのか。何が整い、何が整わなかったのか——その答えは、彼が去ったあとの椅子に、誰が座ったかを見ればわかります。

なお、ここでいう「本気を出さない部門」とは、そこで働く人間が手を抜いているという意味ではありません。
経営が、その部門を本来必要な機能として設計してこなかった、という意味です。

🖋経過——「本気を出さない部門」に、誰が座るのか


コンプライアンス室、品質管理室、業務監査室——名称はさまざまですが、ここでは便宜上「コンプライアンス部門」と呼びます。この種の部門が、日本企業のガバナンス機能として強く意識されるようになったのは、2006年の会社法施行前後からです。2015年のコーポレートガバナンス・コード策定、ESG投資の潮流が、これをさらに加速させました。

上場企業であれば内部統制の整備はほぼ義務であり、そうでない企業にも社会的な要請は及んでいます。
株主、監督当局、格付機関、メディア——あらゆる方向から「ガバナンスをどう確保しているか」を問われる時代になりました。

しかし、経営の本音は別のところにあります。多くの経営者にとって、この種の部門は「やらなければならないもの」であって「やりたいもの」ではありません。限られたリソースは、コアビジネスを動かす人材、事業を開拓する人材に投下したい。コンプライアンス部門は、少なくない経営者にとって、社会的な「見せ方」のためにコストをかける部門として扱われてきました。

だから、設計は最低限になります。優秀なリーダーを一人立て、あとは丸投げする。外から見て問題のない体裁は、それで整います。コンサルティングの現場でもたびたび耳にすることですが、日本企業ではこの種の部門が「キャリアの最後に数年在籍する部門」という色合いをいまだに濃く残しており、経営者の関心も十分でないケースが少なくありません。

優秀な室長がいる間、その会社は「指摘を受けない程度の体裁」を手に入れます。それが、この種の部門の、いわば最良の時代です。しかし、この体裁は誰が支えているのか——答えは単純です。部門を任された、たった一人の判断力です。制度ではなく、個人の資質が、その均衡を持ちこたえさせているに過ぎません。

問題は、その人物が去ったあと、その椅子に何が座るかです。多くの企業では、短期的な事業成果が評価されやすい結果、優秀な人材を事業部門へ優先的に配置する傾向があります。
コンプライアンス部門は、ビジネスの文脈で言えば「コストセンターの中のコストセンター」です。利益を直接生まないだけでなく、成果そのものが見えにくいため、投資判断の優先順位から外れやすい。そこに精鋭を投じる合理性を、多くの経営者は持てません。

その椅子に配置されやすい人材には、大きく二つの傾向があります。

一つは、悪意はなく、むしろ善意でルールを守ることを信じている人間です。ただし事業運営の経験がなく、経営判断やリスクテイクの重みを自分の体で知りません。この種の人間がルールを作ると、ルールは増えやすくなります。判断基準は「現場が回るかどうか」よりも「規程上問題がないかどうか」に寄りやすく、ルールは保守的に、例外を認めない方向に傾いていきます。

もう一つは、与えられた権限を最大限に行使することを、自らの使命として受け止める人間です。
会社から権限を与えられた瞬間、他部門なら「融通の利かなさ」として受け取られていた性質が、コンプライアンス部門という土台の上で、制度的な正当性を帯び始めます。
彼らの主張は完全に間違ってはいません。ルール上の根拠があり、コンプライアンス上の問題を指摘している以上、正面から否定することは難しい。
専門資格の有無ではなく、事業判断の文脈を理解し、リスクの大小を見極める能力が必要になる場面で、社内規程全体に波及するルールを作る権限と、経営者への報告権限という実質的な権限だけが与えられている——ここに、この部門が持つ構造的な特殊性があります。

問題は、その権限を行使する人間の「重要性評価の観点」にあります。
何が重大で何が些末か。何をケースバイケースで判断し、何は原則を貫くべきか。このバランス感覚は、事業の現場で意思決定の結果を引き受けた経験によって磨かれます。

去っていく人間の多くは、傷ついたのではなく、この構造に見切りをつけたのだと考えることもできます。この種の問題で組織を去った人々の言葉には、共通して怒りや恨みではなく、諦めに近い、もっと冷たい何かがありました。「議論する気にもなれなかった」「勝手に衰退すればいい、と思った瞬間に、もう終わっていた」「バカバカしかった」。

この「バカバカしさ」は、「否定しきれない正義」を、ケースバイケースも例外も許さず一方的に振りかざされることから来ます。
争おうとすれば、相手は「コンプライアンス」を盾にします。コンプライアンスに反論することは、反コンプライアンスに見えてしまう。この非対称性の中で、誠実に会社に貢献してきた人間ほど、あるとき静かに結論を出します。「こんなことに、自分の時間を使う価値はない」。

それは追い詰められた撤退ではなく、知性と矜持を持った、能動的な見切りです。「勝手に衰退していけばいい」——その言葉が心の中で完成した瞬間、その人間の退職は実質的に決まっています。手続きは、あとからついてくるだけです。

組織は、その瞬間に気づきません。退職届に「コンプライアンス部門のせいで辞めます」とは書かれないからです。「一身上の都合」という五文字がそこに置かれ、誰もその五文字の奥を掘りません。
しかし、去っていったのはどういう人間か。合理と非合理のバランスを引き受けてきた人間です。現場で判断し、その結果の責任を背負ってきた人間です。ルールだけでは答えの出ない場面で、最後に決断してきた人間です。つまり、その組織が本来もっとも活用すべきだった判断能力が、最初に組織の外へ流出していくのです。これは、一つの企業だけの話には見えません。

🖋教訓——権限と判断力の乖離、そして三つの処方箋


ここまでの流れを、構造として整理します。

結局、この問題の本質は一つです。権限を与える設計と、人材を配置する設計が、分離していたことです。

日本企業がとった「コストをかけず体裁を整える」という設計は、経営合理性としては筋が通っていました。しかし、その設計には一つの矛盾が埋め込まれていました。経営が本気で設計しなかった部門に、社内規程全体に波及するルール制定権と経営者への報告権限という、本物の権限だけが残ったのです。

権限の重さと、それを行使する人間の質の間に生じた乖離は、優秀なリーダーがいる間は目立ちません。その人間の判断力が、権限の重さと均衡を保っているからです。しかしリーダーが去ると、乖離が表面化します。権限だけが残り、それを支える判断力が薄くなる。そして権限は、使われなければ部門の存在意義がなくなるという理由だけで、使われ続けます。現場への影響を適切に評価できなくても、重要性の判断ができなくても、使われます。

この乖離が表面化するとき、組織の内側では二つの現象が同時に進みます。一つは、英語圏の経営学に「Instruction Creep」と呼ばれる現象です。

複雑な組織で、異なる人間が時間をかけてルールを追加・変更し続けることで、簡素化ではなく蓄積だけが進み、明快さと一貫性が失われていきます。問題は、ルールが増えること自体ではありません。
増えたルールを、状況に応じて運用する判断者が不足することです。
もう一つは、現場との摩擦です。ビジネス経験に乏しく、管理部門だけでキャリアを積んだ人材が部門のトップに立つと、管理一辺倒・過剰チェックが加速し、従業員のエンゲージメント低下や離職につながるケースが見られる、という指摘は業界でもしばしば聞かれます。どちらも、権限の重さに判断力が追いついていないという、同じ根から生えている現象です。

金融庁は2025年、コーポレートガバナンス・コードの改訂に向けた有識者会議の中で、形式的な体制整備にとどまらず実質化を進めることの重要性を示しています。これは、制度設計の側からも、形式と実質の乖離がすでに看過できない水準に近づいていることを示唆しています。

この問題を、部門に座る個人の資質の問題として語ることは、あまりにも単純です。その人材を責めても、何も変わりません。彼らは、その椅子に座るべき人間として、経営が選んだ結果そこにいるだけです。問題は、そういう選択を構造的に生み出している設計そのものにあります。

皮肉なのは、この問題で最も割を食っているのが、当のコンプライアンス担当者自身かもしれない、という点です。少なくとも、多くの担当者は、経営が十分な投資をしなかった部門に配置され、与えられた権限の中で職務を果たそうとしているだけです。それにもかかわらず、現場からは煙たがられ、去っていく優秀な社員の背中を、結果的に押す役回りを引き受けさせられています。問題の所在は、その配置と権限の設計を放置してきた側にあります。

① 部門新設時に、「権限の重さ」と「配置する人材の質」を一致させる審査基準を持つ

社内規程全体に波及するルール制定権や、経営者への直接報告権限を与える部門には、それに見合う事業経験・意思決定経験を配置要件として明文化すること。「体裁を整えるための最低限の設計」がそのまま権限の実質を規定してしまうことを、入り口で防ぐ必要があります。権限を与える設計と、人材を配置する設計は、本来セットで検討されるべきものです。

② 部門を「キャリアの終着点」ではなく、事業経験者のローテーションポストにする

優秀なリーダーが去ったあとに空く椅子を、事業運営の経験がない人材だけで埋め続ける構造そのものが問題の根です。数年単位で事業側の人材を還流させる設計にするだけで、Instruction Creepの進行速度は大きく変わります。ローテーションは、部門の権威を弱めるための施策ではなく、権威に見合う判断力を絶やさないための施策です。

③ 部門の権限行使に、重要性判断の第三者レビューを組み込む

「使うことが仕事だから使う」という力学を止めるには、権限行使そのものを目的化させない仕組みが要ります。ルール適用の重要性・妥当性を、部門の外からも定期的に検証する経路を持つこと。これがなければ、権限は必ず自己増殖していきます。レビューの目的は部門を萎縮させることではなく、判断の基準を組織全体で共有し続けることにあります。

では、経営者は日々、何を見ればいいのでしょうか。部門が何件の指摘をしたかではありません。その指摘によって、事業判断の質が実際に上がったかどうかです。指摘の件数は、部門の存在感を測る指標にはなっても、権限が正しく機能しているかどうかの指標にはなりません。

🖋おわりに


この問題は、椅子に座った個人の資質の話では終わりません。組織が「本気を出さなかった」設計の帰結として、制度的な権限だけが一人歩きし、それに最初に気づいて去っていくのは、その組織が本来もっとも手放したくない判断能力を持った人材です。

権限と判断力の乖離は、優秀な人材が抜けた瞬間から進行を始め、放置すれば、その変化に気づくための判断力そのものも組織から失われていきます。コンプライアンス部門を「体裁のための最低限」で設計したままにしていないか——これは、一度整えて終わりにできる論点ではなく、経営が定期的に問い直すべき論点です。


peng🌱note(ペンノート)

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