意味ある厳しさの中で打ちひしがれ、そこからようやく正しい努力をし続ける
多分これが人生の攻略法っぽいので、書いておきます。
……
自己探究はもう終わったと思っていたのに、なぜかずっと続いている。最近はずっと悩んでいる。
そしてこの記事はおそらく、前回の記事
の続きです。
あと、もう2026年ぽいですね。こんにちは〜。
意味のあるものを。
過去に言ったことのある「努力はしなければしないほうがいい」というの
は、あまりにも言語化の解像度が低くて雑すぎたな、ということを結論づけました。
いま改めて考えてみると、
”意味のない”努力はしなければしないほうがいい。それはただ思考停止を表すだけだから。
叶えたい目標があるなら、意味のある努力をすればいい
自分で「意味ないなこれ」と思ったら、やめればいい
ということになります。
ただそれだけのことを、ここ数年間ずっと考えてあれこれぶつかって試してきたわけです。
思えば「努力とはどこからどこまでのことを指すのだろう?」「才能とはそもそもなんだろう?」ということから始まり、今こうして答えが僕の中で出た。タイトルの通り。
そしてもう、ここを掘り下げる気は起きません。
常にあらゆることを考えながら、そのとき置かれている状況でやるべきことをやればいいだけ
もう、これしか思わない。
全ての事象を自分で考え、意味づけをする
ブラックな労働環境にただ耐えることは一切の意味がなく、しなければしないほどいいでしょう。そこでの正しい努力とは、労働基準監督署に訴えたり裁判を起こしたり転職活動をすること。周囲の人や公的機関も頼って。
自分で「ここの大学で学びたい!」と内発的動機を発端に受験勉強に取り組むことは、意味のある厳しさの中での正しい努力。
みたいな。ただ、それだけのことです。
……
で、ここから問題になるのは、僕はこのことに気がつくのに何故こんなにも時間がかかったのだろうかということ。
教育の悪しき面
小学四年から中学三年まで不登校だったのですが、そこでの経験を踏まえいつも思うことがあります(悪なのは小学校。中学校はよいところで、メンタル回復のため家にいた)。
それはまさに「”意味のない努力”を強制させられる」こと。
なぜそれを学ばないといけないのかを何も教えてもらえず、「いいからやりなさい」で終わらせるどこまでも愚かで浅はかな大人たち。
自分でそこに独自の意味を見出して効率的なやり方をすることを否定し、無駄ばかりの型に強制収容してくる人権無視のシステム。
しかしまぁこれはもう10年以上前のことだし、悲劇のヒーローを気取るつもりもありません。
高校では優しい環境でのんびりと過ごしたことにより復活し、そして卒業時には何を思ったか河合塾で一年間の浪人を経て私立文系大学へ。
この浪人は、今いう「意味のある厳しさの中で正しい努力」をしたと振り返ります。
がしかし進学した大学では周囲の程度の低さに落胆し(これは当時そう思うことしかできなかった、それくらいの大学にしか行けなかった僕の問題でもある)、人生を諦めたような態度になる。
結局3年次で中途退学し、何を思ったか音大の作曲科に入る。
「俺ってすげー!」という井の中の蛙でしかないどこまでも誤った自己理解と、芸術という言葉を実に都合よく解釈し努力することを放棄。
しかし周囲の凄さに圧倒的に打ちひしがれたことによりようやく目覚め、今こうして「意味のある厳しさの中で正しい努力をする」と向き合えたわけです。
ちなみに。音大を無意味に特別視されたくないので言っておくと、学生でも教員でも、縦の人間関係を構築すること(つまり上下関係)や忖度をすること、権威に縋ったり偉そうに自己を誇示したりするのが心底大好きそう──それも音楽より──な人が一定数存在しています。
自分と正面から向きあい、健康な心を保つ
意味のある厳しさの中で正しい努力をしていると自分が高まり、すると周囲には同じような人が自然と集まるので、どんどん正の循環が加速していく。
そりゃそうです。
……しかしそこに居続けるには、何より健康な心が必要であり、そしてそのためには自分と逃げることなく正面から向き合うことからまずは始まるわけで。
自分って、こういうこと言うキャラだったんだなぁ、と思います。
がしかしこれは別に未知の領域に来たわけではないなとも感じてて。
心を病む前は確かに持っていた気持ちなのです。だから、ようやく復活できたよと言うほうがしっくり。
メンタルが安定していないと正常な思考は働かなくなるし、それこそ意味のない厳しさの中で無駄な努力をしてしまう危険性がある。
僕がいま言っていることはやや手強い主張のような気がします。
いや、どうだろう。社会ってそんなもんなような気もする。とりあえず、ハードっぽいということにしておきます。
だから、いつだって健康な心が必要。
ひろゆきと山田勝己のバランスを。
ビデオテープ(懐かしい響き!)に入っている、ミスターサスケの勇姿は今も鮮明に覚えています。
そして最近、なんとはなしにYouTubeでSASUKEを検索してみたらこんなものがありました。
すごい。めちゃめちゃ懐かしい。ついに公式から出てたんですね。
ひと昔前のYouTubeは、SASUKEの無断転載が横行していたイメージ。
……
人生に希望を持てないと、心が死にます。僕はそれで何度か死んだ。
山田さんは、内なる熱い気持ちに従って意味のある厳しさの中で正しい努力をし続けてきた。
だから、完全制覇をすることができていなくてもそこまでの道のりが確かに自分を大きく成長させてくれるものとなり、挫折をして自分の限界を知り大いに打ちひしがれることにより、人生は希望があって深いものとなっているのでしょう。
それが、観る者に感動を与える。
……がしかしあまり詳しくないのでこんなことを言っていいのかわかりませんが、彼は鉄工場の経営をしていたり様々な活動をしたりでお金が結構ありそうです。
だからいつでも好きなように筋トレへ打ち込めて、SASUKEに出場することができたんじゃないか? と思ってしまう。
そんなわけで、ひろゆき的な視点も大事になってくると。
しかしそうやって現実ばかり見つめて悲観的に生きていると、これまた心が死んでくる。
だから、両者のマインドセットのバランスを保つ。そんなことを思ったわけです。
あとはなんだろう、僕はこの年齢にしてようやく気がつくことができたのですが、義務教育あたりの段階でスポーツを真剣にやっていた人は早々に気がついているのだろうなぁと羨ましく感じます。
まさに、意味のある厳しさの中で正しい努力をする経験をすることができると思うから。
でもどうだろう。気をつけないと、身体競技の世界は意味のない厳しさに晒されてしまう機会が多そうですね。偏見かなこれ。
人生って、バランスが取れている
最近は音楽の捉えかた、向き合いかたが自分の内側から崩壊していくのを強く感じます。
これまでと同じように楽曲を聴くことは出来なくなり、そもそも再生しなくなった曲たちが山のようにある。Spotifyのお気に入りプレイリストに入れていた2,000ほどの作品は9割以上を消しました。
というかそもそも、無音が好きです。好きですというか好きになりました。
音が鳴っていると、あれこれ考えてしまう。これはどういう意味で配置されたサウンドなのだろうか? どこまで本気で熱量を込めて作られたものなのだろうか? と。
それに、特に意味もなく音感があるせいか全て音名で聞こえてきて疲れるということもあるのかもしれません。
だから、悲しいです。
うん、そう、悲しいんだ。どんな言葉がしっくりくるのだろうか、と迷い探していたのですが、これがピッタリきました。
これまではただ純粋に「楽しい!」だけで流していた音たちに、何か意味を求めるようになってしまった。
もっと言うと、「音楽を沢山聴いていて、音楽を好きである自分」にどこかアイデンティティーのようなものを感じていた。いや、結構強く感じていたのかもしれません。それが人生の大きな構成材料であったとまで言えるかもしれない。
だからいま、それらが全て崩れ去っていっているからすごく苦しいのだろうなぁと。自分という存在そのものが何か、無くなりそう。
そして、そうやってこれまでの自分がなくなっていくのを感じるだけじゃない。
新しい自分へとステップを踏んで行く、未知へと開拓を始める怖さと楽しさも同時にあるのです。
自己の在り方、そしてそれに対する認識が変わっていくから、それもかなりすごい速さで変化しているから、僕の弱い心はそれに耐えきれそうになくなっている。
ずっと使われずにいて錆びついた歯車がようやく動き出す。新しいギアへと交換も行われていることでしょう。
それらがキリキリと悲鳴をあげているから、悲しいという気持ちが生まれるんでしょうね。
自己探究はもう完了したと思っていたのに
悩んで悩んで、それでようやく見つけたと思った音楽(作曲)の道なのに、最近自己探究がまたしても顔を出してきました。
元々僕があれこれ考える性格であることに加えて、音楽という分野そのものも大いに悩みやすい特徴を持っているからでしょう。
そして、もし仮に音楽を扱うことをやめたとしたら、その先には何もないことが見えてしまっています。
というのはつまり、せっかく学んだ専門知識を他のことに転用することができないという問題。
例えば理工学系分野なら、取り組んでいる研究に飽きたとしても数学的技能を活かして幅広く活躍できるかもしれません。
……が、これも結局隣の芝生は青いだけのだろうなとすぐに思い至って。
理系院生の友人は、研究が上手くいかずほぼ毎日ラボに缶詰状態で、発表したものもすぐ教授に直される。そんなこんなの連続で、「なぜ自分はこれをやっているんだろう、中退しようかな」ということを2回くらいは真剣に思ったらしい。
音楽でも科学でも哲学でも、結局、人生というのは何を選んだとしても同じことなわけです。
日々新しいことを見て聞いて知る度に、自分という概念はそれら外界によって確実に書き換えられていく。
まぁ生きる原理を考えればそりゃそうだろってなるわけですけど、なんだろう。僕は自己認識が甘かったのだろうなぁ。
学びたいもの、本気で取り組みたいものを見つけた時点で何かが達成されると思い込んでいた、いやそれしか見ていなかったのが問題なのでしょう。
だから、創作に打ち込んでいく道中で曖昧さや上手くいかない厳しさに出会う都度、大きなダメージを受ける。それらは全く想定していなかったものだから。
そもそも、生きるということは「ただ音楽だけやっていればいい!」みたいに単純明快なものじゃありませんでした。
色々な人との関わりがあるから日々の生活は成り立つことができているし、健康維持や掃除など、他にやるべきことをちゃんとこなしてきてようやくやりたいことに安心して全集中することができる。
そして人生とは、どこまでいっても予測のできないものである。
最近、自分って何なの? ということをいつも考えています。
これは数年前まで真剣に悩んでいた、生きる意味や自己の在り方への疑問といったことではありません。
それらを通過した先にあった、上手くいかない生への葛藤です。
まぁ要するに、全ての人間が抱えているものに僕はようやくぶち当たることができたというわけですね。
あぁ、自分はなんて小さい存在なのだろう、ざこいのだろう、ってやつ。
健全な成長。
ラク、簡単なものは深みがない
人生って、やっぱりバランスが取れるようになってるんだなぁと思います。
なぜかはわからないけど、苦労すべきタイミング、努力すべきタイミングがあることを自然と感じ取るものですよね。
そこの期間に一気に取り組むことで、力をつけていくのです。
が、僕は今やることが多すぎて、しばらく何もしないで休んでいたい。
しかし昨年の無職期間はあまりにも暇すぎて、世間から隔絶されすぎていて心を病んだ。
電動アシスト自転車に乗ると、何もサポートがない自転車に比べて自分の筋力が低下します。AIに全てを丸投げすると、自分の思考力が低下します。
そうやってアウトソースするのが悪だとかそういうことではなく、それらは自分の人生からあらゆるよろこびを大きく奪ってしまうことに繋がってしまう、ということが言いたくて。
なのでこれも、自分で意味づけの選択をするというわけです。
洗濯板の手洗いは無意味と思っている人は全自動洗濯機を使い、手書きは無駄だと思っている人はコンピュータを使う。
確かに効率性はどうみても後者のほうが圧倒的に高い。
しかしだからといって前者は無駄なのか? といえば、そんなことはない。
どちらも意味をそこに見出せば楽しい活動となる。これは全ての物事に言えること。
新しいことを知ると、その瞬間から見る世界、生きる世界が大きく変わります。
それはつまり、自分の中に何かが蓄積されていってそれらが内側からこれまでの自己を破壊し次なるものを生成しようとしていると言えるでしょう。
深み、深度と呼ぶのでしょうか。
そこに含まれている意味が、ある事物が持つ意味の許容しうる量が広くて深いほど、魂から震える圧倒的な感動と喜びを覚えるのです。
だから、僕は音楽と言葉が大好きなんだと思った
音楽と言葉は、無限のフィールドを持っているように僕は思えます。
何かの問いを立てたときに、どこまでも広く深く意味を受け止めてくれて、そして果てなく拡張してくれる。思考の強度に耐えてくれるのです。
「思考の強度に耐える」というのは今思いついた言葉ですけど、これは僕の頭が良いとかそういうことが言いたいのではなく、「思考をどこまでも続けた際に、自分が望む限りずっと一緒に並走してくれるかどうか?」ということ。
それの典型が、哲学なのだろうなぁという捉え方を思いつきました。
哲学分野、人生哲学、哲学的思考、といったように「哲学」という言葉は様々な使いかたをされますが、思考の強度に耐えうる対象としての哲学ということです。
……
再開された(されてしまった)自己探究の一つとして「自分はどういう理由で音楽に惹かれているのだろうか?」ということがあって。
そしてそれはどうやら今まさに述べたこと、「思考の対象として、音楽という概念が好き」ということのようです。
感情の爆発としての音楽は、もうあまり求めなくなりました。聞(聴)くことも、作ることも以前に比べてほとんどしなくなった。
情熱はありつつも、音楽という現象についてあらゆる角度から静かに試行錯誤している自分がいます。

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(´・ω・)つ旦