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努力なんてしなければしないほど良い

26/1/7追記


25/12/4 さらに追加で↓


25/11/6 新しく思ったこと↓


25/2/11追記

増補改訂版


24/11/20追記


昔から学校の話題を最初に振られるのが嫌いだった。「俺は学校行ってない」と当時言う勇気はなかったし。
今までも年齢を言うと「大学生?」と聞かれる。実際そうなのだが、専門学生の人だっているだろう。
そして大学4年であると伝えるとほぼ必ず就職はどうかと聞かれる。なぜ道が就職(それも”正社員”での新卒入社を期待しているのだろう)だけだと思っているのか?
まぁ一般(この言葉は嫌いだが)にそれが大多数の選ぶ道だから、というのはわかる。


結果が全てだ

まず最初に、僕は「結果が全て教」の狂信者であることを述べておきます。結果が求められている場面において、成果が出ていないのに「でも一生懸命頑張りました!」と言う人に対して「だから何?」と言って冷酷に突き放すタイプの人間です。

「結果が求められている場面において」というのが重要です。生きるにあたって物事に意義なんかなくていいし、大きなゴールとか、コンフォートゾーンから出るとか、パーパス(笑)なんていらないしどうでもいいと思っています。

目標を達成することが人生と考えていたり、”努力”することそのものに意義を見出したりする人は、ただ嫌な気持ちになるだけだと思うので、これ以降読むべきでないことをお伝えしておきます。

頑張ることは美しくもなんともない

頑張ることが美徳であるかのような風潮が理解できない。
いや、正確に言うと昔はそうであると心の底から信じていたが、ある時から考えが変わった。信じていたものが全て崩れた。「最後は努力と根性だ」とかアホなことを言っていた自分がなつかしい。

「一生懸命やればいつか報われる」なら全人類が幸せになっているし、燃え尽きて精神を病んでしまう人はいないはずだ。

そもそもただ闇雲に「頑張る」なんてのは思考を放棄した怠慢である。それをさも尊いことであるかのように錯覚し、ひどい場合は他者にも求める。

どんな努力教信者の人でも、現代において洗濯機を使わず洗濯板で手洗いしている人に「頑張ってるね」とは言わないだろうし(流石にこれは皮肉のように聞こえる)、PCを使わず紙とペンでデスクワークをしている人に「頑張ってるね」とも言わないだろう。

つまりはそういうことだ。
全ては過渡期であって、新しい道具が生まれたらそれを使う。そして今までその技能を習得するために費やしてきた時間は不要なものとなり、その空いた時間で新しいことを行う。

「頑張る」というのはそれが道具で代替できないときに用いる手段の一つに過ぎないのであって、(この行為そのものが”道具”として捉えられるかもしれない)そこに必要以上に意味を求めたり、無理やり意義を見出そうとしたり、ひどい場合は自己投影からの自己陶酔に走ったりしてしまうから面倒なことになる。

そしてそれを疑うこともせず、条件反射的に賞賛する人が多いから、「頑張っているのに成果が出ない人」にとっても、「何も頑張らなくても成果が出ている人」にとっても、互いに生きづらい社会なのだろう。

「頑張る」というのはただの手段であって、それ以上でもそれ以下でもない。

完璧な世界はいつ訪れるのかもわからないし、永遠に訪れないのかもしれない。「頑張っていれば報われる!」という気持ちの良いぬるま湯に浸かっているだけで問題なかったあの頃に戻りたい(嫌味)。
まぁ戻ったとしてもいつか結局結果がどうであるかということに直面することになるとので、意味がない。

これを書いていて、ある苦手な大学教員に授業運営の方法について「ここは変えた方が良いのではないか」と意見をしたら、「他の人は頑張っているのにあなたは頑張りが足りない云々」と求めてもいない回答を長文のメールで言われたのを思い出した。

働くことが尊いだなんてただの幻想

何をどう感じるかは人それぞれなので、「労働者」が向いている人は向いているし、向いていない人は向いていない。ただそれだけの話。

それなのに働くこと(労働)が過度に賞賛されたり、尊いものとして扱われたり、綺麗であるとか、はたまた偉いとまで言われる意味がわからない。

好きなことをやって生活をすればいいだけの話ではないのか。過剰に労働を賞賛する人間は、自らが好きでもない労働していることに起因する「成功者」への僻みと自己防衛にすぎないだろう。

我慢が美徳であるかのような風潮は本当に嫌いだ。意味もなく忍耐を強要する人は努力している自分(笑)に酔いしれているだけだ。また、仕事をして疲れることがさも美しいかのような言説は理解できない。疲れずにこなす方がはるかに効率的で生産的だ。
そもそも今後AIを主軸としたオートメーション化が進むわけで、そんな時に「仕事をしている自分」にだけ価値を高くおいていると、自我や自尊心が崩壊するだろう。場合によっては自己の中で解決することができず、ラッダイト運動のようなことが発生する。そこまで見越して考えるべきだ。

物事というのはどうやら「多数vs少数」の構図になるようで、何も考えていなくても大多数に属していればそれだけで結構上手くいく。そのため見識を広げたり思考したりすること放棄し、結果として少数に属する人間を叩くことになる。これは職務に限った話ではない。ジェンダーや趣味だってそうだ。

なぜ正社員として働くのがどうとか言われるのか、それはただそういう生き方をする人が多いというだけの話で、そして適正がないのにそれを行なっている人がそうでない人を攻撃する。

「お金のために働く」でも「働きたいから働く」でもなんでも良いが、そこにいろいろと理由や意味を求め、何がしかを見出そうとするから人に労働を強要したり、拗れたりするのでは。仕事に自己の個性を見出すのは危険ではないか。

努力をすると他者に攻撃的になる

ニートや生活保護受給者を叩くような人は、自分が嫌な仕事をしていて”頑張っている”のに報われなくてあまり幸せではないから、という嫉妬の感情に基づくものがほぼ全てではないか。

私は「努力したから上手く行った」というような発言をする人が苦手だ。いわゆる「成功者」はたまたまその事物に適正があって、そしてそれが運良く社会で金銭的価値をもちやすいことであった、というただそれだけの話だ。それをさも自分がすごいからだ、というのは傲慢も甚だしい。

向いていないことはやらずに、ただ好きなこと、得意なことだけをやるべきではないか。人間という種が誕生した頃はそうだったはず。そしてそうでないものは死に絶えていく。それで良かったはずなのが、なんかよくわからんが親の都合で勝手に誕生させられて、「生きる意味」を探すべきだとの圧力をどこからか勝手に背負わされて、適正がない社会にたまたま生きてしまっているからそうなっているだけで。

頑張るとストレスが溜まるので、それが他者への嫉妬やそれに伴う攻撃に繋がってしまう。だからなるべく頑張りたくないし努力をしたくない。そもそも目標なんていらないと思っているが、しかし達成したいことがある場合、「努力した量=成果」ではない。成し遂げたい目標が、自分が自然にこなせる能力の範囲を超えてしまう場合に努力が必要となる。

努力して上手くいったという経験があると、頑張ることで(だけで)成果が上がると誤解してしまう。成果が求められているなら、成果が上がれば過程なんてどうでもいい。そもそもその”成果”とやらは、達成する必要があるのかないのかをもう一度確認する必要があるが。
もし何かを成し遂げたいなら、楽しく上手く行った方が良いに決まってる。努力がどうこういう人は、”努力”なしにうまく行っている人への嫉妬でしかない。

誰かが「頑張って」いるのか、「努力」しているのかなんて本当にどうでもいい。ただ全ての人がその人らしく生きることができているならば、それはそこで完結している。

私は「頑張ってね」とか「すごいね」と言われて、それを素直に受け取ることが昔からできない。昔というか、大学受験のために浪人生となったあたりからだろうか。
その人が言う「頑張り」は当然既に最大限行なっているので、わざわざ言われる必要はない。
いや、もちろんその人は応援してくれているのだということはわかる。しかし、その言葉の裏にある「こいつを操作してやろう」のような魂胆をどこか感じ取ってしまい、素直に受け取ることができない。
「頑張ってね」ではなくて、「楽しんでね」と言ってくれる人が好きだ。

あえてこういう言い方をすると、「いかに努力をしないで目標を達成できるか」を考えることこそが”本当の努力”と言えるのではないか。なぜなら人間のエネルギーと時間は有限であり、余裕を持てた方が心が豊かになるし、他者にも分け与えやすくなるからだ。

苦労は金を払ってでも避けろ

「苦労は買ってでもしろ」という言葉が嫌いだ。
意味のある(成長になる)苦労と意味のない(成長にならない)苦労を履き違えてると一生上手くいかない。


「やった方が良いこと」「得なこと」は世の中にたくさん溢れている。しかし人生は有限であり、そんな他者の意見ばかり取り入れていたら何も出来ない。


あっても問題ないストレスとあってはいけない(何の意味もない)ストレスがあるが、ストレスは基本ない方が良い。成長にあまり関係ない。

私は長らくストレスがかかっていてあまり楽しくない状態が続いていたせいで、それが普通であり、幸せが特別なことなのだと錯覚していた。だが基本的に人間は幸せであるべきで、そして自分が幸せで満たされるからこそそれを他者にも分け与えることができる。自己犠牲の幸せなど存在しない。

何をやって何をやらないのかを真剣に選ばないとすぐにキャパオーバーしてしまう。

無駄な「頑張り」をするなら、本でもアニメでもゲームでも映画でも、何かしらの作品に触れるのが効果的ではないか。他者の人生を体験できる。
様々なことを得られる。先駆者が用意してくれているものを使わずに、わざわざ自分で人体実験をする必要はない。

頑張ること、努力や仕事をすることは偉くも何ともない。
“仕事は嫌なことをするからお金をもらえる”と知り合いの誰かが言っていたが、可哀想な人だと思う。
好きで得意なことをやって自分の能力を最大限発揮し、他者を幸せにしたおまけとしてもらうのがお金ではないのか。そのほうが人間的にも成長できる。

そもそも、余計な仕事をするくらいなら休んだ方が総合的な成果は確実に向上する。

朝の通勤時間帯の電車に乗るのが最も手っ取り早く実感できるが、ストレスを溜めている人は近くにいられるだけで迷惑だ。伝染してその場がすべて嫌な空気になる。

「社会に出る」って何?

「社会に出る」「社会人」という言葉が理解できない。いや、一般に用いられる意味としてそれらが「企業という組織形態で雇用され、労働者という形式で賃金を得る者」を指す言葉なのだということはわかっている。

ただ、そうじゃないだろうと強く思う。
人間誰しも生まれたその瞬間から社会人ではないのか。そもそも社会というのは他者との関係があるところ全てがそう言えるわけであり、一人で生まれてくる人間は存在しないため、そういうことだ。

職業欄に「学生」と書いても「会社員」と書いても「自営業」と書いても「無職」と書いても、それはただの肩書きでしかない(クレジットカード審査などで関係するかもしれないが)。
結局そういった社会的身分がいかなるものであろうと、本人の自覚と心構えが全てだろう。

だから学生がサークルで問題を起こしたりするのは、社会の一員=社会人としての意識があまりにも低いということに過ぎない。

なのでこの「社会に出る」という表現は、使用者によって意味が変化する「普通」とか「当たり前」といった言葉と同じ類のものだと思っている。

何か物を買うだけでも、それはその店の関係者やクレジットカード会社から物流、税金、と何から何まで全て社会と関わっているわけで。

それをたかが株式会社という組織形態で働いた経験がある,ないの2択で断じるのは何も考えていないと言わざるを得ない。


結局上記のようなことを言う人は、自分が好きでもない仕事をやっていて、そして好きなことを仕事にして上手くいっている人がどうしようもなく羨ましいだけだろう。

ただ好きだから仕事をする

不本意だと思いながらその仕事をしている人から、素晴らしい製品やサービスが生まれた例を僕は知らない。

WindowsもインターネットもMacもiPhoneもLinuxも、世界に革新をもたらした圧倒的な仕事の全ては、「ただそれが好きで面白くて仕方がなかった」人たちから生まれた。彼らの本を読めばわかるが、ほとんどの人がテクノロジーオタクで、ただひたすらコンピュータにのめり込んでいた”変わった人”たちだった。だが、まさにそれこそが仕事の本質というか、本来あるべき仕事や労働の姿ではないのか。

おそらく彼らに勤労感謝の日などで「働いてくれてありがとう」と言っても、「ただ好きだからやってるだけだ」と言われるのではないか。

ただ好きなことを追求していった結果もたらされた金銭も、嫌なことをやってもたらされた金銭も、”真面目に汗水垂らして働いて”もたらされた金銭も、ただ資産を保有しているだけでもたらされた金銭も、何もしていないのに地主の子どもとして生まれたから持っているだけの金銭も、「交換可能であり信用の上に成り立つ」貨幣においては、いかなる手段でそれらを獲得しようとも、価値としては全く同じなわけだ。いかなる手段で得たにせよ金銭の価値は同じなのに、それをゴタゴタいうから面倒なことになるだけであって。

そもそも現代のオフィスワークに代表される雇用されて労働するスタイルも、たまたまこの時代にそうやって従事している人の数が多いというだけの話で、それがあたかも絶対であるかのように語られるのはあまりにもおかしいのではないか。

なので「金のために嫌な労働を頑張る」とか、「食うために仕方なく働く」とか、「とりあえず大学生だから新卒で就職する」といった発想はそれそのものがズレているというか、仕事とは一体何であるかということを何も考えていない証拠ではないか。

働かずにゲームをしている人を批判する人は多いが、ブラック企業で無意味な労働をしている人を批判する人は少ない。
これこそまさに現代に蔓延る誤謬ではないか。
上記の2者は何が違うかというと、ただ「金銭を生産しているか,いないか」というだけだ。そんなもので人間の価値は決まらない。
もっというと、家でゲームをしているだけの人は排出する二酸化炭素量が少ないので、無駄に外出して無価値な仕事をいたずらに増やす人よりも地球に優しいと言える。

「働かざるもの食うべからず」という表現があるが、これは一刻も早く葬り去るべき言葉ではないか。そもそも”働か”ないと食べることができないというのは現在の社会システムに欠陥があるだけであって、何故たかがそんなものに生命を否定されなければならないのか意味がわからない。

同時に、ただ金銭を多く持っているからとふんぞりかえる人間の愚かさを批判しておきたい。

「高学歴」からの「大企業」

お決まりのパターンだと思う。そしてこれらの人を批判するつもりはない。しかし、これが絶対であるかのように振る舞う人は間違っていると思う。

これで上手くいった人はたまたま”日本の受験勉強”という仕組みに適正があっただけで、しかも日本において勉学に励む者は高評価の対象となりやすい。
古文や漢文など、生きていく上でほとんど役に立たないことを覚えるのに時間を費やしている浪人生のほうが、ほぼ試験なしで入学できる大学に余裕で合格し、コネで優良企業に入社し才能を活かして仕事をする人より何故かほぼ無条件に肯定的な意見をもらう。

上のような人物を見たことがあるわけではないが、しかし実際このような面はあるだろう。

これはただ現代において”勉強”という行為の社会的地位がたまたま高いというだけのことであり、つまり”認められやすい努力”なわけだ。そこに明確な理由などないのに。

競争が嫌いだ

格闘ゲームやレースゲームをやらなくなった。バトロワのようなオンライン対戦は全くやらない。Switchの小さい画面でフォートナイトを数十分やったのが最初で最後。
なぜかというとそこに意味を見出せないから。人に勝って負けてどうするんだろう、という思考がまず発生する。

芸術が好きだ。なぜならそこに競争はないから。
いや、一応ある。音楽でいえば再生回数やフォロワーなど。しかし、そこに絶対的な基準は存在しない。それぞれの解釈がある。だからアートが好きだ。
スポーツを観るにおいても、100m走のタイムといった絶対的な基準があるものよりも、フィギュアスケートのような主観判断のものが好きだ。そこには無限の解釈の余地があるから。

自分では微妙と思ってもそれを好きな人はいる。自分ですごいと思っても他者はそれに全然興味がないこともある(その方が多い)。だから面白い。
他にも、芸術(音楽)の何が面白いか、それは理論はあるがそれを使わなくても問題ないところだ。

結局、私たちは資本主義という世の中において、経営関係者がいかに利益をあげるかということを追求しているゲームに強制的に巻き込まれたに過ぎない。しかし始まりこそ強制だったが、いつでも降りることはできる。

ところがそれを疑うことなく、「思考する」という各人に持たされた最強にして最後の力を一切使っていない人があまりにも多い。
それをただ「頑張ったらなんとかなる」とか「いつか報われるだろう」とか、具体的な思考と行動を何もせず、ただ誤魔化しているだけなのは本当にもったいない。

もっというと、ブラック企業で働き続ける人にも問題があると思う。従順な駒がいるなら、わざわざ問題がある組織体系そのものを良くしようとしたり、あるいは畳もうという考えにならない悪どい経営陣が存在するためだ。

資本主義を否定しているわけではない。むしろ資本主義が現状最もマシな社会システムだと考えているが、しかしそれに盲目的に従っているだけの人が多すぎるだろ、という話。

何事も「頑張ります!」タイプの人というのは一般にウケが良いらしい(僕はこういうことを言う人は信用しないが)。わかりやすくて”使いやすいから”だと思う。こういう文章を書いているくらいだから強く自覚しているが、きっと僕と一緒に働きたいと思う人はそんなにいないだろう。事実、組織では毎回あぶれもの扱いをされてきた。小中には馴染めなかったし(高校は楽しかった)、大学は授業で会った人(同期や、この言い方は好きではないが”後輩””先輩”)とも話が合わないし、サークルや部活でも最終的には馴染めなくなってやめた。飲食店のアルバイトの面接を受けたが、翌日猛烈に嫌気が差して辞退の電話をした。

ただ、それらの構造を良くしたいと思って言っているだけなのに。馴れ合いの何が楽しいのか全くわからないし、なぜ物事を改善しようとしないのかがわからない。彼らはただ「みんなで一緒に頑張ろう!」と何にもならないエナジードリンクみたいなことをひたすら言い続ける。
その度に僕は悲しい気持ちになり、そこを離れる。

セールスが嫌いだ

セールスが嫌いだ。欲しいものは自分で調べて積極的に取りに行くから売り込みは必要ない。むしろ過剰な売り込みがあるサービスには嫌悪感を抱き、それを使用することはなくなる。「どんだけ儲かってないんだ」とか、「ゴリ押ししないとやってられないほどのサービスなのか」と。

この間ガソリンスタンドでクレジットカードの勧誘を受けたが、面倒だった。なるべく関わりたくないから燃費が良い車にして給油を最小限にしたい。
そういえば以前、街頭インタビューを速攻で断ったら「すごい番組なのに〜云々」と言われたのを思い出した。そんなん知らんし無料で顔を晒したくない。

セールスではないが、過剰なサービスもいらないと常々感じる。僕は日本から出たことがないので情報でしか比較できないが、日本の接客業というのはあまりにも親切で丁寧すぎるのではないか。

最低時給でチップももらえず働く人が、ただ”金を使うから”という理由で客という謎な立場になっただけの同じ人間に、「かしこまりました」や「申し訳ありません」と過剰に丁寧な言葉遣いで対応する。その度に僕はいたたまれない気持ちになる。俺はそんな丁寧な態度を取られることをあなたにはしていない、と。
正直、「ういっす」や「おけ」とかだけで会話をしてほしい。その方がのびのびと過ごすことができる。
実際、行きつけの美容室のスタイリストの人は、良い具合に雑な対応をしてくれるので結構好きだ。

コンビニなどのレジでは必ず「ありがとうございます」と言うようにしている。それは実際に感謝の気持ちであることは確かなのだが、それと同時に「そんなご丁寧に対応していただかなくていいですよ」と、申し訳ない気持ちを伝えている面がある。

なので、たまに雑な対応をする店員の人に出会うと、なんだか嬉しくなって安心する。この人は腐っていないのだな、と。

僕は努力していない

この文章を書くにあたって、僕は努力したつもりは一切ありません。ただ言いたいことが衝動のように次から次へと湧き上がってきただけで、何も頑張っていません。自分でもなぜこんなにも言いたいことがあるのか驚いています。それは面白すぎるゲームに出会って、何時間もひたすら遊び続けるのと同じ感覚です。
あえて嫌味を言うと、上がってくる思考に文字入力速度が追いつかないのが本当にもどかしいです。

こういった文章を書けない人からはすごいと思われるかもしれないし、余裕で書ける人からは駄文だと一蹴されるかもしれない。それならそれでいいし、別になんでもいい。文筆家を目指しているわけではないし、誰かと競っているわけでもないので。

何より大切だと思うのは、自分を良く見せようとか、何かちょっとでも偽りを始めた時点でそれはもう自然体でもなんでもなくなり、届くはずの気持ちも届かなくなるということ、「努力」とか「頑張る」とかそんな後付けのこじつけ理論はクソどうでもいいから、ただ生きることと向き合おう、ということです。

命はただ生まれて死にゆく存在。そこに何も見出さなくていい。
ただ「生きてて楽しい」でいいじゃないか。
それをいつから目標がどうとか努力がどうとか考えるようになってしまったのだろうか。

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philosofy (´・ω・)つ旦