【大人のピアノ】ピアノ教育における「脅し(インティミデイション)」(その③)
この記事シリーズは、いまから約10年前の2017年12月28日に私がアメブロに書いた記事を、2019年1月1日に「ピアノ方丈記@はてなブログ」に移管した内容のアップデート版です。アメブロは既に閉鎖しました。モトの記事はこちら👇
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前回の記事②👇
の続きです👇
おおもとの記事は、2017年12月28日にアメブロ(現在は閉鎖)にかいた内容です。
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記事②までの内容と重なるかもしれませんが、
ピアノにおける、もうひとつのインティミデイション(脅し)は、
「競技ピアノ」の側面です。
ピアノの楽譜には「上級」「中級」「初級」といった「難易度」がつけられていますが、機械的な演奏技術だけに基づくのであれば、スポーツの技の難易度と一緒です。
楽譜という決められたトラックを指示通りにミスなく奏破することが評価の基準なら、ピアノはスポーツ競技です。
即興やアレンジのセンスが入るジャズとはちがって、
楽譜どおり正確に弾くことが求められるクラシックピアノは、スポーツ競技です。
ですから、クラシックピアノでは、弾く人の体格(手の大きさ)や運動能力や年齢によって、演奏パフォーマンスに差が出て、優劣になって表れます。
優劣がつくものですから、勝ち負けや順番がつきます。優位・劣位をつけやすいので、インティミデイション(脅し)が入りこむスキがあります。
機械的な技術の難易度が「上手/下手」の基準とされるなかで弾くクラシックピアノの超絶技巧演奏に送られる拍手は、軽業師の曲芸への拍手と同質のものです。
玉乗りや宙返りなどの曲芸は、軽業師の人並み外れた身体能力を披露するもので、うまく行った時は、ハラハラして見ていた観客から「上手い上手い!」と大きな拍手が起こります。たいへん過酷な見世物です。
難易度の高い曲芸は、当然、身体能力が高い軽業師しか成功しませんし、身体能力が低い人は大けがをしてしまうので、まず挑戦しません。
一方、
ミスタッチで骨折をしないピアノは「文化系」の活動にカテゴライズされているから、体格が貧弱で身体能力が低い文化部系の人たちがピアノをやる場合が多い。
つまり、
もともと手が小さかったり、身体能力的に無理なのに、エクストリームスポーツのような曲に挑戦して、ちっぽけで動かない身体でやるもんだから当然弾けなくて、十分なフィジカルも運動センスも無いうえに間違ったやり方で必死に練習して手を壊す、というケースがたくさんあるんじゃないかと思います。
私は、ピアノが機械的に上手な人は、ダンスもそれなりにできるような筋力と柔軟性と運動センスを持っているんじゃないかと勘ぐっています(が、さきほどの先生に、ピアノの演奏と身体の柔軟性の関係について意見を求めたら、唖然とされてしまったので、それ以上尋ねるのをやめました)。
競技ピアノの優劣づけに一役買っているのが、検定やコンクールです。
検定システムは世の中にいろいろありますが、なかにはお金集めだけのものもあるような気がします。
いわゆる、検定ビジネスです。
検定やコンクールは、その業界に就職するなら、日商簿記や英検といっしょで、級が高ければ履歴書に書く価値を持つと思いますが、そうじゃなければ、「検定ビジネス」という「レジャー産業」です。
なんとかコンクールとか、かんとかコンクールとか、お菓子のイチゴ風味、バナナ風味とおなじように、ひとつの製造ラインを使って香料を変えるだけで手軽に種類を増やせます。
そして受験者が支払った審査料は、主催団体の会員たちの懐に入っていきます。
職業ピアニストを夢見る子どもとその親は真剣でしょうし、いつかそっち側に行って、払ったお金を回収できる望みもありますが、そうじゃなければ、遊園地に行ってアトラクションに乗って一日ハラハラドキドキして帰ってきたと思えば、それはそうです。
素人にとってはレジャー的な意味合いの検定やコンクールであっても、等級が付きますから、それによって競技的な優劣がつけられることになり、ピアノ会でそういった話題が出たとたんに、何らかの優劣比較の尺度が持ち込まれ、優劣づけによるカースト制度と、それに伴うインティミデイション的な環境が生まれるかもしれません(もっとも、人間が枯れてくると、人生のゴールが見えてきますし、芸術の本分のあり処がわかってきますし、自分を高めることしか考えなくなるというか、ぶっちゃけ自分が日々生きながらえることで精いっぱいですから、他人との比較なんぞ考えなくなって、心安らかに自分と向き合う日々になっていくような気がします)。
芸事は、よほど一流でないかぎりは基本的にお金にならない職業だと思うので、芸事の大学を幾つも作ってその道の専門家をたくさん世に送り出せば、もともと経済的に小さいパイの奪い合いになってしまいます。
というか、
そういった芸事の大学そのものが、一部の人たちが、音楽家になりたい子どもとその親の夢で食べていくための集金メカニズムなのでは?と思うときがあります。
もっとも、外部の夢みるトーシロは夢から覚めれば「イチ抜けた」できますが、内部に入ってしまった人が「イチ抜けた」すれば、親に払ってもらった高額な投資の損失が確定して、それを認識せざるを得なくなるので、非常に勇気がいることでしょう。
比較的名の売れた先生や演奏家が、「スキルアップ」や「箔づけ」を目指す市井(しせい)の先生向けにセミナーを開催するなど、業界内で「カニバライゼーション(共食い)」も起こっていると想像します。
もちろん、同業者同士でカニバればシステム自体が経済的に疲弊しますから、外部からお金を何とか吸い取るヴィークル(手段)として検定やコンクールを量産することもあるかもしれません。
内部の人たちを肥やすためにお金を払う素人が、彼らを潤す検定システムの結果で一喜一憂したりインティミデイト(脅)したりされたりするのであれば、なんだか思うツボというか情けないことだなぁと思ったりします。
「コンクールを受けた熟年の方の演奏が、曲の解釈が素晴らしく、またその方の思いが音に反映されていて、とても味わいのある素晴らしい演奏なのだが、小指が動かなかった。一方、若い子が、技術的に完璧な演奏をしたが、無機質な演奏で感動的ではなかった」と、審査を担当したピアノの先生から聞いたことがあります。
システム化された検定では、聴く人の音楽性や主観に左右される「芸術の"芸"」より、どんな人でも計測可能な「技術」が評価の基準になるのは、それはそうだろうなと思います。
(④に続く)
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前回までの記事👇
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