列の途中 第1話 最初の患者 ――「父は、また歩けますか」
あらすじ
「父は、また歩けるようになりますか」
その問いに、答えられなかった。
――それが、この仕事の始まりだった。
とある病院の急性期病棟で働き始めた新人理学療法士・朝倉恒一は、
初めて担当する患者の家族から、そう問われた。
正しいことを言えば伝わると思っていた。
患者が歩けるようになれば、それで十分だと思っていた。
違った。
歩けるようにするのが、この仕事。
でもその先は、同じにはならない。
その先――「生活」を見続ける。
続ける中で、自分が背負うものも増えていく。
共に背負う仲間も、同じ決断をするとは限らない。
仕事と人生が静かに交差していく。
現場では、派手な事件やわかりやすい正解もない。
回復と喪失が同じ速さで進む病棟で、
『治す』ことより難しい何かを、
一人の理学療法士が何年もかけて覚えていく。
あなたがいつか病院のベッドで見上げるかもしれない、その人の話。
全39話・完結済。 │ ▶目次・登場人物はこちら
「父は、また歩けるようになりますか」
その言葉を、朝倉恒一は今でも覚えている。
声に怒りはなかった。ただ、切実だった。
――理学療法士になって最初に覚えたのは、歩かせ方ではなかった。
約束の仕方だった、と今なら言える。
五月の病院は、桜がすっかり散り切っているくせに、空気だけはまだ少しだけ春の名残を引きずっていた。
朝倉恒一は、リハビリ室の端で電子カルテを見つめていた。
新品の白衣はまだ硬く、首元の名札の「理学療法士」という文字は、どうにも自分に馴染んでいなかった。
四月は、先輩の後ろについて見て回るだけで終わった。
そして五月、ついに「担当」がついた。
佐原義男、72歳。脳梗塞。右不全麻痺。発症二日目。
指導担当の先輩によれば、典型的な小さな脳梗塞で、麻痺もごく軽度。
おそらく主任の野口が、新人の最初の一人として、リスクの低いケースを選んでくれたのだろう。
それでも、担当表の自分の名前の横にその患者名を見つけてから、朝倉の心臓はずっと浅く速く打っていた。
「朝倉」
振り向くと、主任の野口が紙コップのコーヒーを片手に立っていた。
「佐原さん、今日から入ってみようか。麻痺は軽いから、状態把握から入るにはちょうどいい。無理はしなくていいから」
「はい」
「ご家族も来てるらしい。話せそうなら少し話しといて」
それだけ言うと、野口は別のスタッフに呼ばれ、すぐに離れていった。
ご家族も来ている。
その一言の意味を、朝倉はまだ十分に理解していなかった。
患者本人に会うのは緊張する。
初めての担当、どう関わるか。
自分は責任を果たせるのか。
そんなことを考えながら、朝倉は深く息を吸い、担当メモを手に病棟へ向かった。
「大げさなんだよ。手足だって動くし、ちょっと頭がふらふらするだけだろ」
「そんなこと言って……さっき主治医の先生、血圧の数値も悪いし、ちゃんと管理しないと危ないって言ってたじゃない。しっかりリハビリしてよ」
女性の声だ。
朝倉は少し躊躇しながらもノックをして、カーテンを開けた。
「失礼します。本日からリハビリを担当します、理学療法士の朝倉です」
ベッド上の男性が、ゆっくりとこちらを見た。
右側の手足は自力で少し動かせるようだったが、どこか力が入らない様子だ。
顔色は悪くないが、発症直後らしい疲れがまだはっきり残っていた。
「……おお、リハビリの先生か」
佐原は少し呂律が回りにくい口調ながらも、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「俺もこんな病気になっちまったよ。あんた、若いな。新人か?」
「あ、はい。今年からで……」
「そうか。一緒に頑張ろうな、新人先生」
その言葉と笑顔に、朝倉の肩から少しだけ力みが抜けた。
だが、ベッド脇の椅子に座っている五十代くらいの女性は違った。
目元に寝不足が浮いている。
年齢からして、娘さんだろうか。
和やかな父とは対照的に、朝倉が入ってきた瞬間から背筋を伸ばし、硬い表情を崩さなかった。
「リハビリ……ですか」
「はい。主治医の先生から、まず状態を見てくるように言われています。今日は無理のない範囲で、起きられるかどうかや、お身体の動きを少し確認できればと思っています」
娘は小さくうなずいた。
朝倉はベッドサイドへ回り、意識の状態を確認した。
問いかけへの反応はある。理解も保たれている。麻痺は軽度だ。
ゆっくりと寝返りを誘導し、起き上がりへ持っていく。
介助量は多くない。ご本人も協力的だ。これならすぐに座れる。
そう思った。
何とか端坐位になる——ベッドの端に足を下ろして座らせる——と、佐原は少し荒く息を吐いた。
朝倉は血圧計を巻き、数値を確認する。
カフが空気を抜く音のあと、モニターに表示された数値を見て、朝倉は動きを止めた。
収縮期血圧が180を超えている。脈も速い。
「しんどいですか」
「……少し、頭がふらふらするなぁ」
人の良さそうな笑みが消え、佐原は顔をしかめた。
「今日はここまでにしましょう」
すぐに無理をさせない。急性期の血圧管理の重要性は頭に入っていた。
朝倉は再びベッドへ戻す介助をし、体位を整えた。
その時だった。
張り詰めた顔をした娘が、朝倉の方をまっすぐ見て言った。
「先生」
理学療法士は先生ではない。そう訂正すべきか一瞬迷ったが、それより早く次の言葉が来た。
「父は、また歩けるようになりますか」
その瞬間、朝倉の喉が詰まった。
廊下のワゴンの音も、ナースステーションのコール音も、全部一枚向こうへ引っ込んだ気がした。
患者本人も、娘も、朝倉を見ている。
麻痺は軽い。本人も前向きだ。
教科書通りに考えれば、十分に歩行獲得が見込めるレベルだ。
知識としては分かっている。
けれど、先ほど目の前で見た180という数値が頭に張り付いている。
頭で理解している「一般的なリスク」と、目の前でふらつく患者。
この血圧はいつ落ち着くのか。明日もまた同じようにふらつくのか。
経験のない朝倉には、明日起こることすら分からなかった。
「頑張りましょう」
喉元までその言葉が浮かんだ。
先ほどの佐原の言葉に返すなら、それが一番自然だった。
けれど朝倉は飲み込んだ。
それは、今この人たちを一瞬だけ楽にするかもしれない。
でも後で支えきれない約束になるかもしれなかった。
「……麻痺自体は軽いのですが、まだ発症して間もなく、血圧も不安定な状態です。現時点で、この先どうなるか断定はできません」
自分でも、硬い言い方だと思った。娘の表情がほんの少し曇る。
朝倉は慌てて続けた。
「ただ、少しでも回復の可能性を引き出せるように、これから血圧などの状態を見ながら進めていきます。起きる練習や座る練習も含めて、今できることを地道に積み上げていきます」
娘は小さくうなずいた。
「そう……ですよね」
その言葉に込められた失望とも納得ともつかない響きが、朝倉の胸に残った。
病室を出たあと、記録室に戻るまでの廊下がやけに長く感じられた。
何を言えばよかったのか、わからなかった。
希望を持たせすぎてもいけない。冷たくなってもいけない。
現実も、可能性も、まだ見えない。
「朝倉くん」
穏やかな声がして、朝倉は顔を上げた。
指導担当の相馬誠が立っていた。
二十八、九くらいの、背筋のよく伸びた男性スタッフ。四月のあいだ、朝倉がずっと後ろについて回っていた先輩だ。
説明はいつも端的で、この人の言葉を聞いていると、自分にもすんなりできるような気がした。
その相馬が、ファイルを片手に、いつも通りの落ち着いた表情で立っている。
特に慰めるでもなく、詰めるでもなく、ただ状況を見ている顔。
「少し大変そうな表情をしていますね」
朝倉は視線を落とした。
「……歩けるようになりますか、って聞かれました」
「そうか」
相馬は静かにうなずいた。
「何てお答えしたんですか」
朝倉は、できるだけ正確に答えた。
麻痺は軽いが血圧が不安定で、断定はできないこと。
その上で今できることを積み上げていくこと。
相馬は少し考えてから言った。
「私は、悪くない対応だったと思います。予後をはっきり断言しなかったのは、むしろ正解です」
その返答が意外で、朝倉は顔を上げた。
「正解、ですか? ……でも、私のあの答えでは、ご家族は不安のままだと思います」
相馬は椅子に腰を下ろし、少しだけ身体を朝倉の方へ向けた。
「不安は、すぐには消えないものだからね」
言い方は柔らかかった。突き放しているわけではない。ただ、事実を静かに置くような声だった。
「ご家族が知りたいのは未来のことです。でも、私たちが今持っているのは、まだ途中の情報だけですから」
朝倉は黙って聞いていた。
「朝倉くんはいま、目標を一つだけ持っているのかもしれないね」
「一つ……ですか」
「歩けるようにする、という目標」
朝倉は小さくうなずいた。
その通りだった。
佐原さんの担当がついた時から、頭の中には"歩行再建"しかなかった。
良くする。立たせる。歩かせる。元に戻す。
「それ自体は、とても大切なことだと思います。最初は、みんなそこから始まるからね」
相馬は机の上のペンを静かに指先で転がしながら、続けた。
「でも、その一本だけで持ってしまうと、うまくいかなかった時に苦しくなる。だから、AとB、二つの道を同時に考えておくんです。Aは、最大限回復する道。歩けるようになって、元の生活に近づく線」
朝倉はうなずく。
「Bは、そこまで行かなかった場合でも、生活が崩れない道。」
「生活が崩れない道……」
その言葉は、正直イメージがつかなかった。
「介護保険の利用、住環境の調整や、車椅子の導入。そうしたものも視野には入れておく」
「それは……諦めるということですか」
「いいえ。むしろ逆だと思っています」
短いが、はっきりした否定だった。
「回復を本気で目指すからこそ、もしもの時に備える。ご家族に"歩けます"と断言することは、簡単かもしれない。でも、それが外れた時に苦しむのは、患者さんとご家族です」
朝倉は何も言えなかった。
「だから最初から二本持つ」
相馬は指を二本、静かに立てた。
「Aは回復の道。Bは崩れない道。目標は、一つではないのだと思います」
その言葉は、指導というより、経験の共有のように聞こえた。
朝倉はしばらく黙っていた。
病室での娘の顔が頭に浮かぶ。
歩けますか、と聞いた時の、あの切実な目。
「……では、ご家族には何とお伝えすればよいのでしょうか」
相馬は少し考えてから答えた。
「今はAを全力で目指します、とお伝えするので十分ではないでしょうか。そのうえで、必要があればBも一緒に準備していきます、と添える」
朝倉はメモを取ろうとして、やめた。
これはたぶん、書き写すより先に自分の中で理解するべき言葉だった。
相馬は立ち上がった。
「午後、もう一度佐原さんのところへ行きましょう。ご家族にも、少し補足を」
記録室を出る時、相馬が振り返らないまま言った。
「新人が最初に身につけるのは、歩かせ方ではないのかもしれませんよ」
朝倉は足を止めた。
「約束の仕方、かもしれません」
午後、朝倉は相馬とともに、もう一度病室を訪れた。
全力で回復を目指すこと。
そのうえで、どんな経過になっても生活が崩れないように、一緒に準備していくこと。
娘は何度もうなずいた。
表情の硬さは、まだ残ったままだった。
不安は、すぐには消えない。
それでも、朝の時とは少しだけ、何かが違って見えた。
翌日から、朝倉は毎日、佐原の病室に通った。
血圧は、数日で落ち着いた。
端坐位から立位へ。立位から、平行棒での歩行練習へ。
「新人先生、今日はどこまでやるんだ」
ある朝、佐原がそう聞いた。
朝倉は、一瞬答えに詰まった。
どこまでやれるか。それは朝倉自身が毎朝、血圧計の数字とにらめっこしながら探していることだった。
その間を見て、佐原は例の人の良さそうな顔で笑った。
「そんな難しい顔するなって。あんた、血圧測るたびにその顔してるぞ」
「……すみません」
「いいんだよ、それで。無理そうな時は、俺の方からもちゃんと言うからさ」
「……はい。お願いします」
励まされているのは、どちらなのか分からなかった。
娘は面会のたび、少し離れた場所から、その様子を黙って見ていた。
それから二週間あまりが経った朝。
カンファレンスを終えて廊下を歩いていると、エレベーター前に見覚えのある後ろ姿があった。
佐原だった。
杖も使わず、娘と並んでゆっくり歩いている。
「あ」
思わず声が出た。
佐原が振り返り、朝倉を見つけると、人の良さそうな顔でゆっくり笑った。
「おお、新人先生」
「今日、退院なんですか。おめでとうございます」
「そうよ。もう歩けるしな」
右足をわずかに引きずりながらも、確かに自分の足で立っている。
「よかったです」
佐原はちょっと笑ってから、朝倉の肩を軽く叩いた。
「ありがとな、新人先生。頑張れよ」
娘が、少し前に出た。
最初に会った時より、顔がずっと柔らかかった。
「あの時は、変なこと聞いちゃってごめんなさいね」
「そんな、全然です」
「新人さんだって分かってたのに、あんな顔で聞いちゃって。心配で、どうにかなりそうで」
朝倉は首を振った。
娘は続けた。
「ちゃんと答えてくれてありがとう。見放された感じが、しなかったから」
「……よかったです」
エレベーターの扉が開いた。
「お父さん、行くよ」
「おう。じゃあな、新人先生。元気でな」
扉が閉まる。
朝倉は、閉まった扉の前で、ひとつ息を吐いた。
あの日、先輩は励ましもしなかったし、熱い話もしなかった。
ただ、目標は一つじゃないと言った。
そして、あの娘さんが本当に欲しかったのは、希望の一言ではなかった。
この先どう転んでも、見放されないという感触。
それを「約束」として、迷わずに渡せるようになるまで――
私は、何年もかかった。
丁寧に話した。
失礼のないように、間違えないように。
それでも、「帰れ」と言われた。
