紀州街道その9 泉佐野~岬公園
大阪の中心部から和歌山へと向かう紀州街道を歩いたレポートの「その9」です。
貝塚市の二色の浜を過ぎると泉佐野市に入ります。旧街道らしくウネウネと微妙に曲がる道を進んで広い道路に出たところに鎮座する下瓦屋の住吉神社には「水なす顕彰社」という祠があります。水分が多くて皮の柔らかい水なすの浅漬けを食べると夏の訪れを感じます。昭和45年(1970)に泉佐野市の北中農協が「泉州水なす」と命名して計画的な出荷を始めたんだそうで、すっかり有名なブランド野菜になった水なすの発祥地を顕彰する祠が建てられたんだとか。
かつて泉佐野はタオル工場とタマネギ畑の町でした。タオル工場が減り、少なくなった畑で作られる作物もタマネギからキャベツに変わり、やがて水ナスへとシフトして行きました。いまは関西空港とふるさと納税裁判の町ですが(笑)

やがて街道は「つばさ通り商店街」に入ります。もちろん関西空港の飛行機のツバサなんだと思います。この商店街の途中を浜側にクネクネと入って行ったところに第一小学校があります。その敷地は江戸時代中期から幕末にかけての豪商食野家(めしの)の屋敷跡です。食野氏は楠木氏の子孫で、元は大饗氏(おおあえ)と名乗っていたのを饗の郷を取って食という姓になったんだとか。で、紀ノ貫之とか高ノ師直のように後ろに付けられたノが姓に同化したんでしょうね。たぶん。
実は私はこの小学校の卒業生。正門を入ってすぐにあった2本の松は食野家の屋敷の名残で、私が小学生の頃にはほぼ全ての子供たちがその松の木に登ったものでした。たしか1本は枯れてしまって相方だけが残っていると聞いたように思います。
正門の前にあるのは緑泥片岩に彫られた屋敷跡の碑とかつての井戸の枠。泉佐野には「佐野くどき」という独自の盆踊りがあります。それはこの井戸の周りで唄って踊ったのが始まりなんだとか。ゆったりとした佐野くどき。私の子供の頃には夜通し延々と唄い踊られていました。そして私のおばあちゃんもその唄い手の1人でした。
ソ~イッチャエ~エ~エ ソ~イッチャエ ソ~リャア ットコドッコイショ~♪

17世紀後半から富を築いた食野家は、18世紀半ばには鴻池・三井・加賀屋などと並ぶ大富豪となって、一時期には全国の豪商の番付で「西の大関」に挙げられる程の繁盛ぶりでした。(当時の番付には横綱は無くて大関が最高位でした)
泉州や北前船の歴史に詳しい人以外でメシノという苗字を知っているのはサッカーファンの人だけでしょう。ガンバ大阪や東京ヴェルディの食野亮太郎選手・壮磨選手の兄弟は泉佐野市出身で豪商食野のご子孫なのです。
屋敷があった近くには食野家の蔵が立ち並んでいました。「いろは四十八蔵」と称された蔵の一部は今でも残っています。

いろは蔵跡の近くにある旧新川家住宅は江戸時代の古民家を移築したもので、いろんな古い物の展示があります。食野家が大関になっている豪商番付も、以前ここの展示で見たものです。今回は入館していませんが。

元銭湯が「朝日湯」の看板を付けたまま、市の文化財保護課事務所になっていました。なかなか良い形のリノベーションだと思います。

泉佐野の先は泉南郡田尻町です。ここは関西空港が出来て面積が3倍になるまでは2平方キロしか無い日本一小さな町でした。(現在は大阪府泉北郡忠岡町が日本一です)
街道沿いに建つ田尻歴史館は紡績で財をなした谷口房蔵の別邸跡です。大正12年(1923)に建てられた洋館の裏には茶室があって、正にお金持ちの別邸という感じがします。


歴史館の先に鎮座する春日神社の場所は吉見藩の陣屋跡です。 明治3年(1870)4月に近江国三上藩から遠藤胤城が移ってきて吉見藩の立藩となりました。遠藤氏は以前から近江三上と和泉吉見に領地を持っていたのですが、海沿いで便利なこちらに領地をまとめる事を願い出て許可され、1万2千石の小藩が成立したのですが翌年7月の廃藩置県によってアッという間に廃藩となってしまったのでした。春日神社には数基の江戸期の石灯籠があります。吉見陣屋が出来た時にもそこに立っていたのでしょうか?それとも移動させられて陣屋が無くなってから戻されたのでしょうか?疑問が残るところです。

春日神社の境内には泉州球葱栽培之祖碑というものがあります。明治4年(1871)にアメリカから輸入されて翌年から北海道で栽培されるようになったタマネギ。明治12年に岸和田で栽培実験が行われて明治17年に田尻村で本格的な栽培が始められ、大正9年(1920)には大阪府が北海道を抜いて全国一の産地となったんだとか。今でもタマに泉州産のタマネギが売られているのを見かけます。が、やっぱり価格差に負けて北海道産を手に取ってしまいます。すまんの。

1万2千石の小さな田尻町とその先の泉南市の間には樫井川が流れています。この川を街道から2kmほど上流に行った所は樫井古戦場跡です。
大坂冬の陣を和睦に持ち込んだ徳川家康は「惣堀(一番外側の堀)を埋める」という和睦の条件を無視して内堀まで埋めてしまいました。豊臣方が抗議をすると「総堀(全ての堀)を埋めるんだと勘違いしちゃいました」っという言い訳。豊臣方が激怒して再戦となりますが、堀を埋められた城方は冬の陣の時のように籠城戦を選択することは出来ず、討って出るしかない状況となります。
慶長20年(1615)4月27日に豊臣方は(片桐且元が城から追い出された後に家老的な立場となった大野治長の弟の)大野治房らを出撃させて大和郡山城を落とします。が、徳川方が集結してきたので大坂に撤収。28日には治房の弟道犬(どうけん)こと大野治胤が、徳川方の兵站拠点となっていた堺の町を焼き払いました。同日、徳川方の浅野長晟(ながあきら)が大坂攻めに加わる為に和歌山城を出発し、29日に豊臣方は浅野勢を叩くべく大野治房を主将として塙団右衛門(ばんだんえもん)・岡部大学・淡輪重政らを出撃させ、この樫井川で両軍が激突したのでした。

両軍激突とは言っても合戦はすぐにカタが付きました。 兵が後退するように見せかける浅野勢の戦術に引っ掛かってしまい、塙団右衛門と岡部大学が一番槍を争う形で後続の味方を待たずに突撃してしまって、塙と淡輪は討死、岡部は敗走したのでした。まぁ亀田大隅や上田宗箇ら歴戦のツワモノ揃いの浅野勢5千に対して、功名を争って統率のとれていない浪人衆3千なので、豊臣方は負けるべくして負けたようにも思えます。古戦場跡には塙団右衛門直之と淡輪六郎兵衛重政のお墓があります。


古戦場跡近くには奥家住宅という重文に指定されているお屋敷があります。建てられたのは江戸時代初期、慶長か元和の頃だそうです。慶長は20年までで大坂の陣が終わって7月には元和に改元されます。奥さんの屋敷が建てられたのは合戦の前(慶長)だったのでしょうか?後(元和)だったのでしょうか?慶長に出来た屋敷だとして、新築の家の目の前で合戦が繰り広げられたんだとしたら、たまったもんじゃないですよね。

ちなみに和泉国佐野村には佐野城があって大野治房の領地でした。城の場所はハッキリはしていないようなのですが。 豊臣方の和泉への出兵は佐野の領地を守りたい治房の意向もあったのでは?っと考えることも出来るかもしれません。これは私の個人的な推測で、そんな説を聞いたことは無いのですが。
樫井川を越えて泉南市に入ります。
南海樽井駅の南には茅渟神社が鎮座しています。社名の漢字はチヌと読みます。大阪湾は茅渟の海とも呼ばれます。私の母校の泉佐野市立第一小学校の校歌にも「茅渟の曙染むところ」という歌詞がありました。いま思えば泉州から見た大阪湾に朝日は昇らないので、その歌詞はオカシイような気もするのですが。
神武天皇が長髓彦(ながすねひこ)と戦った際、天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が矢傷を負って配下の兵たちと傷を洗うと海が真っ赤になりました。紀元前650年の話。それが血の沼と呼ばれ血渟となって茅渟に変じたんだとか。
また、大阪湾に多く棲息しているクロダイはチヌとも呼ばれています。そこから釣り人の安全と魚の供養も祈願されているんだそうです。

街道を進むと平安時代のリスト延喜式神名帳にも載る式内社である男神社の浜宮があります。オトコではなくオノと読みます。往古この辺りは山城水門(やまきのみなと)と呼ばれた港で、先ほどの五瀬命が「敵に報いることなく傷を負って死ぬとは無念だ~」と雄々しく叫んだとの伝説から雄水門(おのみなと)と呼ばれるようになったんだそうです。

男里川を越えると阪南市に入ります。この川もオノサトという読み方です。街道沿いには浪花酒造があります。享保元年(1716)創業の大阪府下最古の酒蔵です。

浪花酒造の200mほど西には本願寺尾崎別院があります。

豊臣秀長(秀吉の弟)の家老で泉南エリアの領主であった桑山重晴が慶長3年(1598)に堂宇を建てましたが、元禄13年(1700)に焼失してしまい宝永2年(1705)に再建されたのが今の本堂です。


近くで見付けた石松というお店に入りました。飲み屋のような店名で、のんびりとした食堂のような雰囲気の中華料理屋さんですが、ラーメンの上のシャキシャキ生モヤシも、かなりニンニクの効いたギョウザも、なかなか攻めているお店でした。

南海本線の駅で言うと尾崎の次は鳥取ノ荘です。駅から西に向かい小さな楫取神社を過ぎると大阪湾に出ます。大阪もこの辺りまで来ると砂浜が残っています。ゴミがたくさん漂着していますが(笑)

なんだか賑わっている感じがした西鳥取漁港に寄ってみました。最近この辺りではカキの養殖をして「波有手(ほうで)の牡蠣」というブランド名で売り出しているんだそうで、カキ小屋には人がたくさん集まっていました。


街道を1.5kmほど進んだところには指出森神社が鎮座しています。
妊婦であった神功皇后が朝鮮半島を攻めて、難波に戻る途中で生まれた赤ちゃん(後の応神天皇)を武内宿彌が抱いてこの辺りを散歩しました。その時、この地に湧き出ていた泉で湯浴みをさせて「応神天皇産湯の淵」と呼ばれるようになったという伝承があります。

指出森神社の1kmほど先に鎮座するのは加茂神社。もちろん京都の賀茂神社の加茂で、その社領があった事に由来します。この辺りは箱作というエリアです。箱を作る職人が住んでいた事が地名の由来ではありません。
京都の賀茂神社の社殿を改築する際に、御神体を安置する御霊箱を造り替えて古い箱は鴨川に流しました。その箱が淀川から大阪湾に出てこの地に流れ着いたので「箱が着いた里」からハコツクリと呼ばれるようになったという事なんだそうです。

雷蔵寺という派手なお寺さんが出現!その前には孝子越街道と書かれた大きな碑がありました。この紀州街道は孝子峠を越えて行くので、泉南エリアではそう呼ばれるのですが、ここまで歩いてきて初めてその呼び名を見たような気がします。

街道を進むと宇度墓古墳が現れました。第11代垂仁天皇の皇子の墓とも古代の豪族である紀氏の墓とも言われています。

泉南郡岬町の淡輪地区には南北朝期以降このエリアを領有した淡輪氏という豪族がいました。室町時代も戦国時代も生き抜いて太閤秀吉による天下統一の頃には(秀頼が生まれるまでは秀吉の後継者として天下人になる予定であった甥の)豊臣秀次の側室に娘が迎えられるほど中央政権にも接近しました。「紀州街道その6」の中でも泉大津市にある淡輪徹斎たちのお墓「淡輪三昧」のことを書きました。秀次の側室になったのはその徹斎の娘で、泉佐野市の樫井古戦場跡にお墓がある淡輪重政は徹斎の次男です。その淡輪氏の館の跡が残っているのです。
数年ぶりに現地を訪れてみると以前は住宅か何かが建っていた場所がサラ地になっていました。サラ地になっているので、その背後に現存していた(前の所有者が破壊せずに残してくれていた)土塁(土の城壁)がとってもよく見える状態になっていました。それは嬉しいのですが、その土地が売りに出されていたのです。次に購入される方が、住宅か何かを建てる際に土塁を潰してしまったら取返しがつきません。 城跡・館跡がお寺や神社の境内になっていると土塁や堀が残りやすいのですが、「その8」で岸和田古城の遺構が消滅したことにも触れたように、私有地だとハナハダ不安定な状態です。



岬町の教育委員会にメールを送って「町の史跡に指定して土地を購入してほしい」と訴えてみました。すると担当の方から丁寧な返信が届きました。 この城跡は大阪府の「埋蔵文化財包蔵地」となっていて、開発申請があれば発掘調査を実施し、その結果を基に保存措置か開発許可かが決まるんだとか。代表的な中世城郭跡である重要性は岬町でも認識していて、まず現存している土塁の全てを町の管理として覚書きを交わして、樹木の伐採や測量などを行っていて、将来的には大阪府の文化財指定を目指しているんだとか。
とりあえず安心しました。府文化財に指定されるよう、がんばって下さい。生涯学習課のOさん、ありがとうございました!
街道を進むと西陵古墳があります。この辺りは古墳が多く、淡輪古墳群と呼ばれています。墳丘長が210mもあって全国第28位の規模なんだとか。その碑は横の木に抱きつかれて字が見えなくなっているのですが。

街道の先には真鍋山古墳という古墳もあります。かつてこの辺りには真鍋氏の城がありました。応永年間(1394~1427)に真鍋貞縄が備中の真鍋島からこの地にやって来ました。 水軍を率いる真鍋主馬兵衛貞友は織田信長の命で泉大津に移住したという話もあります。「その6」で泉大津の真鍋城跡を訪れた話も書きました。近所にいる淡輪鉄斎にこの地を追い出されたのでは?っと考えることも出来るのではないでしょうか。

薄暗くなった頃、みさき公園駅から大阪方面に戻って、泉佐野駅で途中下車。かつて私が住んでいた近所にある「酒房たかだ」に向かいました。

そう言えば1人で来たことは無かったお店。テーブル席に1人は断られるかな?っと思いましたが、お店の一番奥に3つだけカウンター席があって、サラリーマン2人が飲んでいる隣りに1人で座らせてもらう事ができたのでした。良かったぁ。
いろいろ食べたいところですが、1人で食べられる量は限定されるので厳選しないといけません。まず、ガッチョの唐揚げ。これは外せません。ガッチョというのは関東で言うメゴチ。図鑑に載っている正式名称はネズミゴチです。コイツの唐揚げは泉州の定番料理です。ビールが進みすぎます。

あと何を食べようかなぁ。おっ!かんぱちカマ焼! 注文するとお店の人が「今日はブリがありますよ」と。では「ぶりカマ」で。

地エビ塩焼き、釜揚げしらす。全部ウマすぎる!

かす汁で〆
いやぁ満足。ご馳走様でしたっ!

今回はガッツリ歩いて街道もずいぶんと進みました。
文章もずいぶんな長文になってしまいましたが(笑)
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