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エルメスのカレが教えてくれた、40代おしゃれ迷子の出口【前編】

昨年末に生まれて初めて、エルメスのスカーフ・カレを買い求めた。個性的で愛嬌のある柄、心踊る色づかい、麗しき艶。

そのたった一枚のエルメスで目が覚めた。

私のクローゼットは、自分の好きがわからないこれまでの私そのものだ。


***

ここ数年の間私が服を選んできた基準は、「リーズナブルであること」。

安ければいいという意味ではない。着心地の悪い生地や、雑な仕立ての服は着たくない。トレンドど真ん中はやりすぎだけど、デザインにひとひねりは欲しい。それを手の届く価格帯で、という意味だ。

8年ほど前、その全てを叶えてくれるあるECブランドに出会った。

実店舗を構えず抑えた固定費の分、価格が控え目。「いいものを知る大人のために」と謳うだけあって、品質は通販にしては驚くレベルだし、シンプルながら少しだけ凝ったデザインもいい。大量の商品画像はリアルで美しく、熱量高めの説明文には人を惹きつける力があった。

いつしか私は、暇さえあればそのサイトを覗くようになった。実店舗とは異なり、毎日新商品に出会えるのが通販の魔力。ついあれもこれも欲しくなり、家には毎週のように段ボールが届いた。

そんな状況に変化が訪れたのは、40歳の時。初めての出産を経験したのだ。

折しも緊急事態宣言が発令された直後のこと。コロナ禍と同時に始まった子育ては泣くほどつらく、自分のことを気にかける余裕は一切なくなった。

状況が多少落ち着いて外に出られるようになっても、180度変わってしまった自分の生活圏や価値観はそのままだった。

出かける先は、子育て支援センターに公園、それに近所のショッピングモール。どうせ汚れるんだから、服なんて動きやすくて洗えれば何でもいい。ユニクロにベビー服を見に行ったついでに適当な服を何枚か買い、着倒しては捨てた。自分がどんな外見をしているかなんて、気にも留めなかった。

私のクローゼットは、そこで時を止めた。


***

産後3年近くが経って、心から「好き」と言えるカレを手に入れたことは、私にとっては事件だった。

平日は週4リモートワーク、週末は2歳の娘とひたすら遊ぶ。そんな毎日で、カレをしゃなりと巻いて出かける機会などほとんどない。それでも上質なものを手に入れた幸福感に背中を押され、私はあえて、カレを普段使いすることにした。

職場やモールに出かける時、妊娠前に買った服を引っ張り出してはカレを合わせる。上質なシルクはなめらかでほんのり暖かく、肌触りに心の奥が満たされた。最初はドキドキしながら巻いていたが、次第にシルクの心地よさに安心感と快適さを覚えるようになった。

エルメスのカレを巻いている、という事実は私に自信を与えてくれた。

すっかり失っていた自分への興味が少しだけ蘇り、久しぶりに服を見てみようかという気持ちになった。娘が2歳を過ぎ、子育てに少しだけ余裕が出てきたことも大きかった。

夫が娘を連れ出してくれた、ある日曜日のこと。

私は思い切って、少し前から気になっていた近所のブティックに足を踏み入れた。落ち着いた住宅街にある、小さな路面店。聞いたことのない店名だが、ウィンドウにディスプレイされた明らかに上質そうなコートは、そこがただの「オバサマ向け洋品店」ではないことを物語っている。

開いたドアの向こうには、南青山の一流ブティックのような洗練された空間が広がっていた。先客はいない。店の奥から、颯爽とした5, 60代くらいの女性が近づいてきた。

そこは、いわゆる高級セレクトショップだった。この女性はオーナーで、長年都内の一等地で店舗を経営していたが、1年ほど前に海の近くのこの街へ移転してきたのだという。なるほど、と合点がいく。

人好きのする女性で、私はいつの間にか自分のことをぺらぺら話していた。自分も数か月前にこの土地に引っ越してきたこと、働いていること、小さな子どもがいること、最近エルメスのスカーフを買ったこと、等々。

「どんな服がお好きなんですか?」

オーナーにそう問われて、答えに詰まった。

「……今までよく買っていたECブランドで最近服を買わなくなって。今、何を着たらいいかよくわからないんです」

しょんぼり答えた私を前に、彼女の目がキラリと光った。

「40代を迎えると、ブランド迷子になる方はすごく多いんです。私はこうしてお客様とお話ししながら、お一人お一人のライフスタイルに合わせたトータルコーディネートをご提案しています」

足取り軽く、彼女が店内を物色し始める。

「たとえば、これとか」

彼女が手に取ったのは、鮮やかな春っぽいピンクと白のストライプシャツ。チラリと見えた値段は、その日私が着ていたコートより高かった。

「お子さんが小さいから汚れちゃっても、シャツなら家で洗えるでしょう?こういうのを、軸にするのよ。ちょっと鏡で合わせてみて。…ホラ、これ今日持ってるカバンとセットになるでしょ」

確かに、そのシャツは赤いショルダーバッグによく映えた。鏡に映る自分の顔色が、なんとなく明るく見える。だんだん彼女が饒舌になる。

「このシャツに、今履いてるそのスカートは合わない。合わせるなら、たとえば形がものすごくキレイなジーンズ。うちのジーンズは値は張るけど、そこがユニクロじゃダメなの。軸になる服をまず決めるのよ。このシャツとジーンズを軸にすれば、中に着るTシャツはユニクロだっていいの。どこにお金を使うかって話よ」


……え?


相槌を打つ暇もない。一気にたたみかける熱量と情報量に圧倒されかけたその時、次のお客様が来店された。時計を見ると小一時間ほど経っていたので、それを潮に退店することにした。

「今度は予算を決めていらっしゃい。また会いましょう」

差し出された手を反射的に握って、オーナーと別れた。なんだか、ものすごい突風が通り抜けていったようだった。


***

その夜帰宅して一息ついてから、クローゼットに立った。軸になる服を決める、というオーナーの言葉が蘇る。


…あれ?


私のクローゼット、もしかして軸がないんじゃないの?


エルメスでカレに向き合ったように、真剣に選び抜いた服など一着もなかった。ウェブの画面に次から次へと現れる中から、ただなんとなくいいなと思った服を、これなら買える値段だからとなんとなく買ってきただけだ。

自分のスタイルありきではないから、アイテム選びに根拠がないのだ。

このクローゼットには、どんな自分になりたいかという軸がない。ここにある服を着た自分が人からどういう風に見られるか、もしくはどう見てほしいかなんて、考えたこともなかった。

もう認めるしかなかった。


カレは素敵なのに、私は素敵じゃない。

私には、スタイルがない。



後編につづく>


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