42歳、自分の好きがわからない女がエルメスに行った結果
普通の会社員で1児の母の私は、今42歳。
私は人生で、ほとんどのものを「人がいいと言ったから」選んできた。
そう気づいたのはつい先日のことだ。
服やアクセサリーは、カラーコンサルタントに似合うと言われた色や素材のものを。時計はみんなが憧れるハイブランドのものを。コスメは口コミ評価の高いものを。ランチやカフェなら「地名 美味しい店」で検索。
それだけじゃない。進学や就職は、今思えば親や先生の意向を無意識のうちに汲んでいたし、転職するときは、メンターにアドバイスを求めた。
私はいつだって、他でもない自分自身がどうしたいか、自分の心の奥を真剣に見つめたことなどなかったのかもしれない。
愕然とした私は、一つの実験をすることにした。
自分が心からときめく上質なものを一つ、買いに行こう。
使うか使わないか、似合うか似合わないか、そんなことはどうでもいい。ただただ心の底からときめいて、そこにあるだけで頬が緩み、見ているだけでニヤニヤしてしまう、そんな品を私は自力で見つけられるかという実験だ。
この際、値段は見ないことにする(冬のボーナスあるもんね)。
狙うは、スカーフ。断捨離好きな私が数年後にうっかり手放さないよう、かさばらず流行り廃りのないアイテムを。スカーフなら、エルメスだ。
私は、エルメスでスカーフを買うことに決めた。
***
お探しのイメージはありますか?と尋ねてくださったのは、少し年下であろう柔らかい雰囲気の店員さん。私は正直に答える。
「イメージは何も持たずに来ました。実物を見てどうしてもこれが欲しいと思ったものを買いたくて…」
「それ、いいですね!」と店員さんの声が弾む。「気になるもの、どれでもおっしゃってください」マスクの上の目が、いたずらっ子のように光った気がした。
ショーケースの中にちんまりと並ぶスカーフが広げられると、一瞬で華やかな場面が展開する。それをぱたぱたと折りたたんで首元に合わせると、また雰囲気がガラリと変わる。内側から発光するような上品な艶がそっと格を上げてくれる。さすがはエルメス。
すっかりはしゃぎ始めた私は、3枚目に広げた柄に目が留まった。

動物と植物をモチーフにしたランタン。
聞いたこともないそのアイディア自体がとてつもなく魅力的。愛くるしいシマウマの表情にも目が奪われる。縁を彩るスカイブルーは、着ていたキャメルのアウターにとてもよく馴染んだ。
ちょっと、いい。
だけど。
……
……
「他も、ご覧になりますか?」
私の逡巡は、店員さんにはお見通しのようだった。
彼女は私が指さしたスカーフを次々とショーケースから取り出した。クラシカルな馬具、ポップな海辺の街、アメコミ風のジョッキー、トロピカルな植物、等々。
10枚目を過ぎた頃。
広げられたのは、3枚目のランタン柄の色違いだった。縁取りは鮮やかなエルメスオレンジ。それが目の前に出てきたときに、わかった。
心の奥底からじわりと湧き上がってくる、胸を軽く締め付けるような愛おしい気持ち。
この感情は、他の柄には感じない。そうか、これは私には特別な1枚だ。
逸る気持ちを抑え、折りたたまれたスカーフを顔の近くに持っていく。と…あれ?鮮やかなはずのオレンジが、なんだか少し寂し気に見える、ような。
店員さんの顔を見ると、にっこり笑ってあの3枚目を手渡してくださった。優雅な手さばきで1枚1枚スカーフをショーケースに戻していた彼女は、気づけばスカイブルーのランタン柄だけは脇によけていたのだった。
改めて、鏡を見る。

スカイブルーをまとった自分の顔は、オレンジとは違ってくっきりして見えた。首元を見下ろしたときに見える、ネイビーとオレンジのコントラストも美しい。これは…花?
もう一度広げて、ゆっくりと柄を眺める。

緻密に描き込まれた柄の繊細さと、どこか非現実的なランタンの形の妙。個性的なランタン達は、これ以外はありえないという絶妙なバランス感覚で配置されている。
パッと見てそれとわかる柄だけではないのも心憎い。ただのストライプかと思いきや貝だったり、よくよく目を凝らすと蛇が浮かび上がってきたり。
あ、このペンギン、可愛い。

私は多分最初から、この3枚目がいいなと思っていた。でも「好き」を単独で認識することはできなかった。その気持ちは他と比較することで徐々に浮かび上がってきて、最後に「色違い」という似て非なるものを目にしたことでハッキリと認識できた。
なんだかこれって、人生に似ているかもしれない、と思った。
店員さんがゆっくりと口を開いた。
「エルメスでは、同じスカーフを二度お作りすることはないんです。そのシーズンで売れてしまったらそれっきりです。今ご覧いただいているお品物も、同じものが出てくることはもうありません。だからあと何年か経ってこちらをご覧になった時、あの瞬間のご自分はこれが好きだったんだ、と思っていただけますよ」
それはまさに、私がエルメスに来た理由だった。
自分の好きをわかりたい。
人がいいと言ったものばかり選び続けてきた私が、もしも心からときめくものを自分の力で見つけられたなら、ここから先の人生も一つ一つ自分の力で選んでいける気がする。
探しに来たのは、自分で自分の好きがわかったという、証拠のようなもの。何年か経っても、あの時私は自分の声を聴こうと思ったんだ、と思い出せるように。
「これにします」
生まれて初めて、値札を見ずに買い物をした。しかも、エルメスで。


楽しかった!
自分の好きを見つけること、その思いに素直に従うことはこんなに楽しいものなのか!心が満たされる買い物ができて、本当に嬉しかった。高ぶった気持ちのまま「楽しかったです!」と言うと、
「私も楽しかったです」
心から嬉しそうに笑う店員さん。
「お客様の髪色にも、お肌にも、お召し物にも、こちらが一番よくお似合いでしたよ」
アフターフォローも完璧だ。私はすっかりエルメスの、そして彼女のファンになった。
***
最後まで会話が弾み、後ろ髪を引かれながらのお会計。いつになるかはわからないけど、またこの店員さんにお会いしたいなと思って胸元に目をやると、ネームプレートの上にこうあった。
「研 修 生」
うっそぉぉぉぉぉ?????!!!!
エルメスの研修って、強化合宿かなんかなの?
…恐るべし、エルメス。
この話の後日談はこちら。
