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Charles Goodyear(チャールズ・グッドイヤー)と加硫ゴムの歴史。スニーカーの祖は、借金まみれの発明家が「ストーブで焦がした失敗作」から生まれた#PR


我々はこれまで、コンバース・オールスター、VANS、Tretorn、Havaianas、ハンター、ハッシュパピーといったブランド史を辿りながら、足元から世界を読み解いてきた。素材の異なる、産地も用途も異なる名作たち。それでも、これらすべてに共通する一つの祖先がある。

加硫ゴム(バルカナイズドラバー)。

それを生み出した男の名を、Charles Goodyear(チャールズ・グッドイヤー)という。

我々40代にとって、ゴム底のスニーカーは生まれた時から当たり前にそこにあるものだ。柔らかく、滑らず、雨にも負けず、何百回踏みつけても元の形に戻る素材。だが、その当たり前は19世紀の一人の発明家が、借金と病と侮蔑の中で、ほぼ独力で発見した執念の産物である。

そして残酷なことに、彼の死後に彼の名を冠して創業されたタイヤ会社(Goodyear Tire & Rubber Company)は、彼の家族には一銭の金も支払わなかった。

今回主役は、すべてのスニーカーの「素材の祖」、Charles Goodyearである。

Kedsから続く歴史は、ついに「すべてのゴム靴の祖」へ

我々のブランド史連載は、これまで完成された名作を扱ってきた。Tretorn のテニスシューズ、Hush Puppies のスエード、Havaianas の草履式サンダル、Vibram の黄色い八角形ソール。素材も用途も国も違うが、これらすべてのソールには「加硫ゴム」が使われている。

加硫ゴム以前のゴムは、夏は溶けて泥のようになり、冬は割れて砕けるという致命的欠陥を抱えていた。雨ガッパは熱で布にくっつき、ゴム長靴はストーブの前で形を失った。1830年代のアメリカで「ゴム製品」は短命の代名詞であり、相次ぐ訴訟と返品で多くのゴム会社が倒産していた。

その絶望的な業界に、コネチカットから一人の男が現れる。彼は化学者ではなかった。経営者ですらなかった。彼の本職は、父の破産した金物店の元経営者だった。

Charles Goodyear(チャールズ・グッドイヤー、1800-1860)。彼の人生は、20年にわたるゴムへの執着と、その執着が家族をどれほど追い詰めたかの記録でもある。

1834年ニューヨーク。借金まみれの男が、ゴム製品店の店頭で立ち止まった

1834年、ニューヨーク市。33歳のチャールズ・グッドイヤーは、商売の失敗で債務者監獄(当時の米国にあった、借金を返せない者を収監する施設)を出たり入ったりする身だった。家族を養うあてもなく、何か新しい商品を探して街を歩いていた彼は、偶然 Roxbury India Rubber Company というゴム製品店の前で立ち止まる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Goodyear

店頭に並ぶゴム製の救命浮環(ライフプリザーバー)。グッドイヤーはその栓の構造に欠陥を見抜き、改良案を持って店主に話しかけた。店主はため息混じりに答える。「君、栓どころの話ではない。このゴム製品自体が夏には溶けるのだ。我々はもうすぐ倒産する」

この瞬間が、グッドイヤーの人生を決定づけた。「ゴムの欠陥そのものを、自分が解決する」── そう決めた彼は、化学の素人であるにもかかわらず、自宅の台所と裏庭の小屋を実験室に変えた。

彼の方法は、極めて泥臭かった。生ゴムに思いつく限りの物質を混ぜ、こね、温め、冷やし、評価する。マグネシウム、石灰、硝酸、テレピン油、墨汁、塩、砂糖。失敗するたびに金が消え、家族は飢え、家具は売られ、子供たちは栄養失調で次々と亡くなった。グッドイヤーは何度も債務者監獄に逆戻りし、独房の中でも実験を続けたとされる。

近所の人々は彼を「ゴム狂いの男」と呼び、嘲笑した。彼は痩せ細り、咳が止まらなくなった。それでも、彼はゴムを諦めなかった。

ストーブの上で焦げた、たった一つの偶然

転機は1839年の冬、米国マサチューセッツ州のウォーバンで訪れた。

定説とされているのは、こうだ。生ゴムと硫黄を混ぜた試料を抱えていたグッドイヤーが、それを誤って熱いストーブの上に落とした。慌てて拾い上げた彼が見たのは、燃え尽きていてもおかしくないはずのゴムが、革のように丈夫で、しかも熱でも溶けず、寒さでも割れない状態に変化していたという奇跡だった(※発見の経緯には諸説あり、ストーブ落下が偶然か意図的な実験中だったかは現在も議論がある)。

これが、後にバルカナイズ製法(生ゴムに硫黄を加え加熱することで分子鎖を架橋させ、ゴムを安定化させる工法)として知られる発明である。Vulcan(ローマ神話の鍛冶神)の名を冠したこの製法は、生ゴムが持つ最大の弱点である「温度依存性」を一夜にして解決した。

夏に溶けない。冬に割れない。何度伸ばしても元に戻る。これが、現代のあらゆるゴム製品の出発点となった。

スニーカーの観点で言えば、これがなければバルカナイズ製法でアッパーとソールを一体成形するキャンバススニーカー(Keds、PRO-Keds、コンバース・オールスター、VANS、Tretorn、Spring Court、Superga、Jack Purcellのほぼ全て)は存在しなかった。我々が今日、PRO-Kedsのロイヤルアメリカを履いて街を歩けるのは、1839年の冬にウォーバンのストーブの前で起きた偶然のおかげなのだ。

発明者は破産し、他人が帝国を築いた

しかし、バルカナイズ製法を発見した瞬間から、グッドイヤーの不幸はむしろ加速した。

彼は1844年に米国特許を取得したが、特許の管理能力に乏しく、ヨーロッパで先行する英国人ゴム技師トーマス・ハンコックに製法を真似られた。グッドイヤーは生涯で60件以上の特許侵害訴訟を抱え、勝訴しても賠償金は弁護士費用に消えた。

彼が亡くなった1860年、家族に残されたのは20万ドルの借金だった。発明から21年が経過しても、彼自身はゴム革命の恩恵をほとんど受けることがなかった。

それから38年後の1898年、米国オハイオ州アクロンでフランク・サイバーリングという男がタイヤ会社を創業する。彼はその会社に、当時すでに「ゴムの父」として死後評価されていたグッドイヤーの名を冠した。Goodyear Tire & Rubber Company(グッドイヤー・タイヤ・アンド・ラバー・カンパニー)。今や世界三大タイヤメーカーの一つとして知られるあの会社である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/

だが、この会社とチャールズ・グッドイヤー本人および家族の間には、資本的にも血統的にも一切の関係がない。「名前を借りられただけ」だったのだ。発明者の家族は、彼の名を冠した世界企業の繁栄を、まったくの傍観者として眺めるしかなかった(※当時の商標法・人名使用に関する法整備が未成熟だったため可能であったとされる)。

我々は彼の名を、グッドイヤー・ウェルト製法(靴の縫製方法)でも、タイヤでも目にする。だが、本人はその恩恵にあずからなかった。皮肉という言葉では足りない、純粋な悲劇である。

すべてのゴム靴を履け

40代の男がキャンバススニーカーを履くとき。

我々が PRO-Keds のロイヤルアメリカに足を入れる、その柔らかなゴム底の感触の中に、1839年の冬、コネチカットから来た借金まみれの男が、家族を失い、健康を失い、それでもストーブの前で諦めなかった執念が宿っている。

彼が成功と引き換えに失ったものは、あまりにも大きい。だが、彼が我々に残したものは、それ以上に大きい。

我々は、ただゴム底の靴を履いているのではない。一人の男が20年間、嘲笑と病と借金の中で諦めずに掴み取った、一夜の偶然を足元に纏っているのだ。

PRO-Keds のキャンバスを履け。そこには、20万ドルの借金とともに死んだ発明家の、ほの暗くも消えない執念が、今もなお宿っているのである。

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