第4話『ハデスの眼、ガイアの部屋』恋愛小説部門
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ふたりの住まいは、貧民の集まる区域をさらに抜けた、その奥地にあった。岩をくり抜いたような、自然の洞穴を利用した粗末な住居だった。入り口には薄布が一枚垂らされているだけ。だが中は、きちんと片付いており、慎ましくも整った空気が漂っていた。
「盗みに入られることはないのか?」
俺が尋ねると、ジンは屈託なく笑った。
「盗まれるような物、何もないから」
俺はメジェンを見る。
「それにしても……メジェンは若い女だ。しかも、たいそう……綺麗だ。男たちが放っておくとも思えないが」
ジンがすぐに笑いながら口を挟んだ。
「お姉ちゃん、美しいって!」
メジェンの頬が、みるみる赤く染まっていく。
「や、やめなさい……!」
ジンは面白そうに笑っている。やがて、メジェンが小さな声で言った。
「……ワタシ、呪われているんです」
「呪われている?」
「はい」
彼女は自分の手を見る。
「ワタシに触れようとした人。無理やり連れていこうとした人。そういう男たちには、必ず災いが起きるんです。怪我をしたり、病になったり……突然死んだ人もいます。だから皆、ワタシを"呪われた女"って……」
俺は、メジェンを見た。彼女は手を胸に当てながらうなだれていた。
「なるほどな」
「……怖く、ありませんか?」
俺は少し考え、それから肩をすくめた。
「いや。それは呪いじゃない。守りの力だろ」
メジェンが目を見開く。
「そのおかげで、君は今まで無事だったんだ」
「でも……」
「それに、俺には効いていない。さっき、手を引いただろ?」
彼女は自分の手を見つめた。
「……本当だ……」
その声は、どこか震えていた。
「なぜ……?」
「さあな。俺にもわからん」
メジェンは足元に視線を落とした。
「もしかしたら……」
「ん?」
「……いえ。なんでもありません」
彼女は慌てたように首を振る。俺は入り口の外へ目を向けた。もう、オーファンとの約束の時間が近い。
「さて、そろそろ行かないとな」
俺は持っていた食材袋を差し出した。
「これ、置いていく」
だがメジェンは、慌てて首を振った。
「そんな、いただけません!」
「堅いな。じゃあ、誰か別の奴に渡そうとしていた"ついで"だと思ってくれ」
ジンが嬉しそうに手を伸ばした。
「ありがとう、ウチェリファン様!」
「ジン!」
メジェンは困ったように弟を見る。俺は笑った。
「そんな顔するなよ。じゃあ次は、君の手料理をご馳走してくれ。それで帳消しだ」
ジンが飛び跳ねた。
「それいい! お姉ちゃんお願い!」
メジェンは少し黙り込み、やがて静かに頷いた。
「……わかりました。いつ来ますか?」
「明日だ」
メジェンが驚いたように顔を上げる。
「……明日?」
「早い方がいいだろ?」
彼女は少しだけ困ったように笑った。
「……口に合うかわかりませんよ?」
「楽しみにしてる。ジン、また明日な」
「うん!」
メジェンも、小さく手を振る。
明日が、妙に待ち遠しかった。
* * *
俺が自分の館へ戻ると、すでにオーファンが部屋の中にいた。
「遅いぞウチェリファン! どこで油を売ってたんだ!」
「すまんすまん。ちょっと市場でな」
「なんだ? 今から準備するのか?」
「いや、今日はもうできてる」
そう言うと、オーファンの顔がぱっと明るくなる。
「おお! じゃあ早く持ってこい! もう腹減って死にそうだ!」
「はいはい」
俺は奥の部屋へ向かい、準備してあった料理を大皿に盛りつけた。炙った羊肉、香草を散らしたチーズ、熟れた果実、干し肉の盛り合わせ。冷やしておいた葡萄酒の壺も抱えて戻る。
それを見た瞬間、オーファンが歓声を上げた。
「おお……! 今日は豪華だな!」
「少し奮発した」
「この香草うまいな。なんて名前だ?」
「知らん。異国の商人が言ってたが、発音できなかった」
「お前、言葉通じない相手とも平気で買い物するよな。ほんと変な奴だ」
「はは、俺はそういう生き物らしい」
「でも、俺はお前のそういうところ好きだぜ」
俺たちは葡萄酒を注ぎ合い、何度も杯を重ねた。
やがて、昔話が始まる。
「なあオーファン、覚えてるか? 子どもの頃、丘へ忍び込んで干しパン齧ったこと」
「覚えてるとも。野犬に追われて、お前が真っ先に逃げたやつだろ」
「違う! あれはお前が"囮になれ"って顔してたんだ!」
「いや、ウチェリファン、それは違う。あれは"逃げろ"の合図だった」
「どっちにしろ、お前泣きそうだったぞ」
「ウチェリファン、お前もパンくわえたまま走ってただろ。しかも途中で落とした」
「え、あれ俺のだったのか!? ずっと誰かの落とし物だと思ってた」
オーファンが吹き出す。
「……それでよく生き延びたな、俺たち」
二人で腹を抱えて笑う。
宴も後半へ差しかかる頃、俺は葡萄酒を口へ運びながらふと尋ねた。
「なあ、オーファン。呪いって信じるか?」
オーファンは肉をかじりながら答える。
「そりゃあるだろ。俺の人生なんか、最初から呪われてるようなもんだ」
オーファンは昔からこうだ。思ったことをそのまま口にする。だから俺も、こいつといる時間が一番楽なんだろう。
「いや、もっと具体的な呪いだ。誰かに危害を加えようとすると、勝手に災いが起きるようなやつだ」
オーファンは少し考え、葡萄酒を飲み干した。
「便利じゃねえか。もし守りたい奴ができたら、そんな呪いあった方が安心だろ」
「守りたい奴……。オーファン、お前、女とかに興味あるのか?」
「今のところはないな。でも……」
オーファンは少しだけ視線を落とした。
「家族とか、そういうの、憧れはある。仲の悪い家族も、仲のいい家族も、俺にはどっちも楽しそうに見えるんだ。たぶん俺は、一生手に入らねえ。でも、だから余計に憧れるのかもな。お前が幸せになるなら、それでいいよ。お前の嫁と酒飲んで、お前の子どもを抱っこできたら……俺はたぶん、それで満足だ」
ああ、そろそろ宴の終わりが近いな。オーファンは酔いが深くなると、決まって幸せの話をする。
「オーファン……俺、好きな女ができたかもしれん。変な女なんだ。守りみたいな呪いを持ってる。でも……うれしかった。いつかお前にも紹介したい。いつか生まれるかもしれん、俺たちの子を抱っこしてくれ。……まあ、まだ俺の片想いかもしれないがな」
返ってきたのは、盛大ないびきだった。どうやら今日の宴は終わりらしい。
俺はオーファンに布をかけ、灯りを消すと、自分も隣に横になった。
◇
その夜、夢を見た。
真っ暗な空間に、小柄な女がひとり立っていた。どこか懐かしい顔だった。
「久しぶりだな、ウンチェイン。いや、今はウチェリファンか」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
「……誰だ?」
「ワシだ。ガイアだ。ちょっとお前に会いたくなってな」
その声には、どこかあたたかさがあった。
「メディアと会ったんだな。そして、恋に落ちた。いいことだ。けれど、ちゃんと不幸に別れる。それが、お前たちの宿業だ」
宿業———
「その前に、束の間の幸福をくれてやる。……まあ、だからこそ別れが地獄になるんだがな」
ガイアは考え事をするように、あごに手を当てた。
「ジンとオーファン……巻き込んでしまったな。だが、それも仕方ない。こちらでも対処は考えておく。お前たちは、お前たちのことだけ考えていればいい」
声が遠ざかり、姿が、ゆっくり闇へ溶けていく。
「忘れてしまえ、これは夢だ。……また会おう、ウチェリファン」
◇
