【医学知識】脂肪細胞のふしぎ──リサ先生の医学部講義
とある医学部の階段教室。
午後の光が斜めに差し込む中、白衣姿のリサは教壇に立ち、教室をゆっくりと見渡していた。
「それでは……始めましょうか」
プロジェクターの光が教室の前方に広がり、スライドが映し出される。
座席には、100人ほどの医学生たちが前後に散らばって座っている。
午後の眠気がじわじわと漂いそうな時間帯だったが、リサは笑みを浮かべながら、プロジェクターのリモコンに手を伸ばした。
「今日のテーマは、“脂肪細胞”です。脂肪というと、“太る”“落としたい”“見た目の問題”といった印象が先行しがちですが、実は私たちの身体にとって脂肪細胞は、とても高度な臓器なのです」
スライドには、丸い細胞の顕微鏡写真が映っている。
中央には大きな脂肪滴。押しやられた核が片隅に寄っている。
(スライド1:脂肪とは何か)
「まず、脂肪とは何か。基本的な話からいきましょう。
三大栄養素の一つ、脂質。食事から摂った脂質は、トリグリセリドという形で体に蓄えられます。
1グラムあたり9キロカロリーという高いエネルギー密度。長期保存に向いた非常食みたいなものです」
「私たちの身体には、いつ飢えるかわからない未来に備えて、エネルギーを貯めておく知恵が身についています。それが脂肪細胞です」
(スライド2:脂肪細胞とは何か)
「脂肪細胞は、内部に大きな脂肪滴を持ち、細胞質・核が片隅に押しやられている独特の構造をしています。しかし、ただ脂肪を溜めるだけではありません。
実は、ホルモンを分泌し、全身に情報を送ったりもしていることがわかっています。
脂肪が多いか少ないか、エネルギーを使うか貯めるか──そういった情報を、脳や筋肉に送ってくれるんです」
(スライド3:脂肪細胞の種類)
「脂肪細胞には3つのタイプがあります。
1つ目、最も一般的な白色脂肪細胞。お腹まわりや太もも、二の腕などにある、体内で最も多い脂肪細胞です。
これが脂肪を蓄えて、ホルモンを出すメインプレイヤーです。
特に、内臓脂肪はアディポカインの分泌が活発で、代謝に強く影響するので、健康リスクとして重要です」
「2つ目、褐色脂肪細胞。これは首の後ろや肩甲骨のあたりに多くて、UCP-1というタンパク質を用いて脂肪を燃やして熱に変換する、非ふるえ熱産生を行う特別な細胞です。赤ちゃんには多いですが、大人にも残っています」
「3つ目、最近注目されているのがベージュ脂肪細胞。白色脂肪細胞が寒冷刺激や運動などの条件で“褐色化”して、熱を作る機能を一時的に獲得する細胞です。寒さや運動によって活性化することが知られています」
(スライド4:脂肪細胞はどこまで膨らむ?)
「さて、脂肪細胞って、どこまで膨らむと思いますか?」
リサは学生たちに軽く目を向けた。
「正解は、直径でおよそ100μm以上。体積で言うと、元の数倍から10倍程度にまでなります」
「でも、いくらでも膨らめるわけではありません。限界があります。その限界を超えると……身体は、どうすると思いますか?」
(スライド5:細胞の増殖)
「はい、数を増やすんです。
脂肪前駆細胞(preadipocytes)が新しい脂肪細胞に分化して、倉庫を増やしていきます。
これは、身体が肥満状態に適応しようとした結果です」
(スライド6:脂肪細胞は減るのか?)
「では、一度増えた脂肪細胞は減るのか?
実は、中身は減らせても、細胞そのものはほとんど減りません。
痩せても、倉庫がたくさん残っている状態です」
「この倉庫は、すぐにまた蓄え始めます。最近では、過去の肥満が記憶されているらしいことがわかってきており、リバウンドしやすい原因だとも言われています。
この記憶された構造が、脂肪細胞のやっかいなところでもあります」
(スライド7:脂肪細胞の能力)
「それだけではありません。実は、脂肪細胞は、いろんな物質を分泌しています。
レプチン、アディポネクチン、TNF-α、IL-6……これらを総称してアディポカインと呼びます」
「レプチンは“もう食べなくていいよ”と脳に伝えます。アディポネクチンは炎症を抑えたり、脂肪酸の利用を促進し、インスリン感受性を高めてくれます」
「でも、太りすぎると、脂肪細胞は物理的に大きくなりすぎて酸素が届きにくくなります。この低酸素状態は細胞にとってストレスで、アディポネクチンは減少し、ストレスからTNF-αやIL-6などの炎症性サイトカインを出しはじめます。
脂肪が『もう限界だよ!』と言ってるような感じです」
(スライド8:炎症と病気)
「さらに、こうした炎症性サイトカインが出続けていると、一部の脂肪細胞が壊死やアポトーシス(細胞死)を起こし、その死骸を掃除するためにマクロファージがやってきます」
「マクロファージは本来、傷ついた細胞や異物を食べて処理する免疫細胞です。
でも、これが死んだ脂肪細胞の周囲に集まって“クラウン様構造”という炎症のリングをつくり、さらに炎症を促進してしまうという悪循環を起こします」
「この慢性的な低レベルの炎症が、生活習慣病の土台になります。
糖尿病、動脈硬化、認知症、がん……。
それらは、肥満によって始まった小さな炎症の火種から広がっていく可能性があるのです」
(スライド9:他臓器とのやりとり)
「脂肪は、脳・筋肉・腸ともやりとりしています。
脳へはレプチンで、筋肉とはマイオカインを通じて互いに影響し合います。
そして腸内細菌とも、脂肪細胞の機能や炎症レベルに深く関わっています」
(スライド10:脳とのやりとり)
「脂肪細胞から出されるレプチンは、脳の視床下部に働きかけて食欲を抑制します。
でも、肥満が長く続くとどうなるか?
レプチンの量は増えますが、脳がその信号を感じにくくなる、“レプチン抵抗性”が生じて、食欲は止まりません。
これは、インスリン抵抗性と似た現象で、過剰なメッセージが雑音化して、受容体が麻痺してしまうような状態です」
(スライド11:筋肉とのやりとり)
「次は筋肉です。脂肪と筋肉は、見た目は対照的ですが、実は相互作用があります。
運動によって筋肉からマイオカインというホルモン様物質が分泌されることがわかっていますが、その中には、白色脂肪細胞を褐色化して脂肪燃焼を促進するものもあります。
筋肉が活動すると、脂肪細胞の性格まで変わるんです」
(スライド12:腸とのやりとり)
「最後に、腸とのやりとりです。
実は、腸内細菌のバランスが脂肪細胞の働きや炎症状態に影響する可能性があることがわかってきました」
「また、腸内で作られる酪酸、酢酸、プロピオン酸などの短鎖脂肪酸がGPR43という受容体を介して脂肪蓄積を抑制するとも言われています」
「つまり、腸内環境を整えるというのは、便通の話だけでなく、脂肪細胞の働きを健全に保つという観点でも重要なんですね」
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リサは最後のスライドを映し出しながら、学生たちを見渡した。
「今日の講義でお話ししたように、脂肪細胞はただのエネルギー貯蔵庫ではありません。
ホルモンを出したり、炎症を調整したりする多機能な臓器です」
「一見ただの脂肪に見えるものにも、実は複雑で精密な仕組みが隠れています。
これがヒトの身体の面白いところでもありますね」
「以上で、脂肪細胞についての講義は終わりです。
ありがとうございました」
学生たちの拍手が、教室の中に広がっていった。
リサは一礼し、講義用のリモコンをそっと置いた。
資料をまとめて、白衣のポケットにペンを戻すと、彼女は静かに教壇を降りた。
数人の学生が軽く会釈をし、リサも小さく頷き返す。
光の加減で、そこに自分の影がうっすらと重なるのを見て、彼女は小さく笑った。
そして、何も言わずにドアを開け、廊下の光の中へと歩き出した。
(つづく)
※ここでお話しした内容は現時点での医学的見解に基づいており、今後見直される可能性もあります。
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