【哲学短編小説】『わたしは、誰か』──第1話 パヴァーヌ
※本作は、連作『人はなぜ生きられるのか?』のスピンオフです。
前作を未読の方でもお読みいただける独立した物語となっています。
サキは、脳科学を専門とする若き研究者。
冷静な判断力と再現性を重んじる生き方は、彼女の“出発点”にどこか由来しているのかもしれない。
完璧に組み上げられた構造の中に、ふと差し込む言葉にならない違和感。
理性で選び、再現性に生きてきたサキは、毎晩同じように繰り返されるピアノの配信に、いつの間にか心を預けていく。
同じだが違う。
その違いに、彼女は知らず知らずのうちに惹かれていた。そしてある日、ひとつの欠落とともに、その違和感がかたちを持ちはじめる──。
「⸻以上が、意思決定における前頭前野の階層的モデルです。ご清聴ありがとうございました」
スライドの最後のページがスクリーンに映し出される。
会場は、短い静寂ののち、拍手に包まれた。
壇上のライトがわずかに熱を帯びているのを感じながら、サキは一礼し、マイクを戻した。スライドの切り替えを担当していた部下が、無言で指を立てて合図を送っていた。
拍手とスライドの光が幕を下ろす。
サキは壇を降り、司会者の丁寧なフォローを背に、
会場横の出口へと姿を消した。
「素晴らしかったよ。完璧な構成だった。質疑応答も冷静だったね」
教授のやわらかい声が発表の成功を物語っていた。
サキは軽く頭を下げる。
「ありがとうございます。仮説については、さらに精査するつもりです」
「うん。君のように、ロジックを崩さずに応答できる若手は珍しいよ。自信を持っていい」
会場の外に出ると、廊下に柔らかい夕陽が差し込んでいた。
その光に包まれながら、サキは確かな達成感の中に、言葉にできない感触が混じっているのを感じていた。
感情のない旋律
22時57分。
学会後、懇親会のようなものに顔を出して少し帰宅が遅くなってしまった。
サキは、玄関の鍵を閉めるのもそこそこに、ノートパソコンをバッグから出して開いた。
スリープを解除してブックマークから再生ページに飛ぶ。
22時59分──間に合った。
画面には、少し暗い照明の中で、ピアノの鍵盤と手元だけが映っている。
映像は何も語らない。そして、ラヴェル作曲の《亡き王女のためのパヴァーヌ》が流れ出した。
毎晩、同じ時刻に、同じようにライブで流れる。
秒数までまったく同じ、5分55秒。
録音なのかとも思ったが、環境音やカメラの位置がわずかに違う。
ペダルの踏み方や音の深さも同じだし、ミスタッチも一切ないのに、違うと感じる瞬間があった。
サキは、誰の投稿かも、投稿の理由も知らなかった。
いつから見始めたのかも覚えていない。
ただ、気がつけば毎晩その配信を流していた。
ノイズの少ない、ゆっくりとしたピアノ。
短くも長くもない、感情の抑えられた旋律。
不思議と聴かせる力があった。
彼女はこの配信のことを誰にも言っていなかった。
特別な音楽体験というわけでもないが、ただ、毎日そこに帰ってくるような感覚だった。
大してフォロワー数もいない。
でも、それがよかった。
誰にも知られたくない、自分だけのノイズのない場所だった。
言葉にできない差
翌日の昼休み。
サキは、研究所の休憩室で、論文の図表に視線を落としたまま、持参したサラダを淡々と口に運んでいた。
「……先輩って、配信とか見たりしますか?」
向かいの席にいた後輩のカナが、ふいに尋ねてきた。
彼女はよく、ネット上のトレンドについて話題にするのだが、サキはたいてい流している。
「何の配信?」
「ゲーム実況なんですけど、最近ちょっと変な人見つけて。変っていうか、地味で、でもずっと見ちゃうっていうか……朝6時に、決まって毎日、全然有名じゃないマイナーなゲームを黙々とやってる人なんです。話し方も感情ないし、表情も出さないし、なのにフォロワーめちゃ多くて」
「……それ、面白いの?」
「それが、よく分かんないんですよ。でも、コメント欄がすごくて。なんか、みんな“落ち着く”とか“心が整う”とか書いてるんですけど、私にはちょっと分かんないなって」
そう言いながら、カナはスマホを操作して、画面をサキの前に差し出した。
そこには、古いRPGのような画面が映っていた。
色数の少ないドット絵のキャラクターが、何かを拾って、また歩き出す。
声が入った。
やわらかく落ち着いていたが、感情をそぎ落としたようなトーンだった。
「これは、昨日と同じ場所か……」
そして、また沈黙。操作の音だけが淡々と続く。
サキは、数十秒だけ画面を見て、スマホをカナに返した。
「ごめん。私には、ちょっと分からないかな」
「やっぱりそうですよねー。私も正直どこがいいのか……でも、気になるって人も多いんですよね。中毒性あるって」
サキは首を傾げたまま、飲みかけのミネラルウォーターに手を伸ばした。
ふと、自分が毎晩見ているピアノの配信のことを思い出したが、カナに言うのはやめておこうと思った。
ピアノとゲーム。
内容も、配信のスタイルもまったく違う。
でも、どこかが似ている気もする。
それなのに、ピアノのほうには惹かれ、ゲーム実況はどうにも受け入れがたい。
理由を探そうとして、すぐに思考が止まった。
そこには、説明できる差がないのかもしれない。
それが、かえって気に障った。
配信がなかった夜
22:59。
サキは、いつものようにパソコンを開いていた。
画面には、例のライブ配信ページが映し出されていた。
時間ぴったりに始まる──はずだった。
しかし、画面は真っ暗のままだった。
特別なアナウンスもない。
「……?」
回線の問題かと一度ページを更新する。
しかし、何も変わらない静止したままの画面だった。
サキはソファに背を預けたまま、指を止めていた。
5分ほど待っていたがそのままだった。
いつも、必ず毎日配信されていたが、今日はなかった。
ただそれだけのことなのだが、妙に気になった。
がっかりしたわけではない。
だが、心の中にわずかなノイズが生まれていた。
それは、期待が崩されたときに生まれる類のものだった。
彼女はページを閉じ、そっとノートパソコンの蓋を閉じた。
しばらく天井を見つめたまま、何も考えなかった。
「……別に、いいけど」
そう呟いて、目を閉じた。
重なる違和感
翌日の研究所の昼休み。
いつもの休憩スペースで、サキはラップを外したサラダにフォークを差し入れながら、タブレットに表示された図表に視線を落としていた。
今日提出する予定の解析の検証グラフ。仮説に沿った形に落ち着きそうだが、あと一歩詰めたい。
それを考えていると、向かいの席からふいに声がした。
「先輩」
顔を上げると、カナがサンドイッチの包みをほどきながら、こちらを見ていた。
「どうしたの?」
「この間話したあのゲーム実況の人」
数日前、カナが熱心にスマホを見せてきたあの人のことだ。
「……うん。あれ、まだ見てるの?」
「見てるっていうか、なんか習慣になっちゃってて。でも、今朝変だったんですよね」
カナが、紙パックのコーヒーを揺らしながら言った。
「いつも朝6時に配信されるのに、今日はまったく音沙汰なくて。更新してもずっと真っ暗。こういうの初めてで、ちょっと気持ち悪くて」
サキは黙ったまま、フォークを止めた。
昨夜、自分も似たような体験をしていた。
同じように、時間通りに始まるはずの配信が、何も表示されなかった。
無音のまま待ち続けて、やがて諦めた。
「……珍しいね」
サキはそれだけ答えて、それ以上の言葉は飲み込んだ。
(つづく)
第2話
最終話
本編
特別編
