【人物】このままでは日本は危ない――最初に動いた男・島津斉彬
島津斉彬という人は、名前だけなら知っている人も多いかもしれません。
けれど、実際には「薩摩の名君」「近代化を進めた殿様」というところで話が終わってしまいがちです。
それでは少し足りません。
この人の本当の大きさは、時代の少し先を見ていたことだけではなく、見えたものから逃げず、それを土地の仕事に変えたことにあります。斉彬は1809年生まれで、1851年に薩摩藩主となり、日本が欧米列強の圧力にさらされつつある中で、国を豊かにし、同時に守る力を持たなければならないと考えていました。
危機が見える人はいます。
このままでは危ない、と言う人もいる。
けれど、その危機を前にして、では何を作るのか、どこから手をつけるのか、そこまで行く人は多くありません。
斉彬は、そこで止まらなかった。
薩摩の磯の地に集成館事業を起こし、反射炉、溶鉱炉、ガラス工場、蒸気機関の研究、造船、活版印刷など、当時としてはきわめて先進的な事業を次々に動かしていきました。鹿児島市も、磯地区が日本の近代工業化の発祥の地の一つになったことを位置づけています。
こういう話をすると、どうしても「西洋の技術を早く取り入れた人」という説明になりがちです。
けれど、それだけでは斉彬の芯は見えません。
この人がやろうとしたのは、珍しい機械を集めることではなかった。
日本が、自分の足で立てるようにすることでした。
反射炉や溶鉱炉という言葉だけを見ると、何か冷たい設備の話に見えます。
しかし、実際にはそうではありません。
鉄を自分で作れなければ、武器も船も他に頼るしかない。
技術がなければ、守る力も育たない。
つまり集成館の仕事は、軍事だけでなく、産業と教育と国の自立に関わる話だったのです。斉彬のもとでは、薩摩切子や写真、ガス灯、印刷など、文化や産業の面でも新しい試みが進められました。
ここが、この人の大きさでしょう。
危機感が狭くならなかった。
ただ外敵に備えるだけでなく、国が自分の手で作り、自分の目で学び、自分の技術で立つことまで考えていた。
近代化というと、古いものを捨てて新しいものへ乗り換えるような響きがあります。
けれど斉彬がしていたことは、そんな単純な話ではなかったはずです。
薩摩という土地にある力を使いながら、新しい時代に必要なものを、自分たちの手で育てようとした。
未来を外から買ってくるのではなく、自分の土地で起こそうとしたのです。
しかも斉彬は、技術だけを見ていた人ではありません。
政治の場でも、これからの国の形をにらんで動いていました。
老中阿部正弘と連携し、一橋慶喜を将軍後継に推し、篤姫を養女として将軍家に送り込んだことでも知られています。
これらは薩摩藩だけの利益を考えていたのでは説明しきれません。
この国が、この先どうまとまるべきかを考えていたからこその動きだったのでしょう。
私は、斉彬という人を見ていると、「先見の明」という言葉が少し軽く感じられることがあります。
先が見えるだけなら、まだ半分です。
本当にすごいのは、見えた先を、工場にし、人材にし、技術にし、土地の仕事にしていくことです。
斉彬は、そこまでやった。
だからこの人は、ただ未来を語った人ではなく、未来の土台を作った人なのです。
それにしても、幕末の一藩の藩主が、ここまで広く考えていたことには驚かされます。
軍事、産業、文化、教育、政治。
どれか一つだけでは足りないと知っていたのでしょう。
国が立つというのは、刀や大砲だけではない。
人が育ち、技術が育ち、物が作れ、考える力が育つことでもある。
この全体感覚があったから、斉彬の仕事は単なる「西洋かぶれ」で終わらなかった。
ただ、この人は明治維新そのものを見ていません。
1858年、50歳で亡くなりました。
ですから、完成された近代国家の設計者という言い方は少し違う。
けれど、のちに薩摩が明治国家づくりで大きな役割を果たせた背景に、斉彬のもとで整えられた技術基盤と人材の蓄積があったことは重い事実です。
ここに、この人の「種まき役」としての大きさがあります。
自分の代で全部を完成させることはできない。
それでも始める。
自分が花を見るとは限らなくても、土を先に耕しておく。
こういう仕事は、派手ではありません。
けれど、後になって効いてくる。
歴史をほんとうに動かすのは、案外こういう人なのかもしれません。
いまの時代にも、斉彬のような人は必要なのでしょう。
危ないと騒ぐだけではなく、では何を作るのかを考える人。
新しいものを入れるだけではなく、自分の足で立てる形にまで落とし込む人。
島津斉彬は、その意味で、今読んでも新しいのです。
このままでは日本は危ない。
そう感じた人は、当時ほかにもいたでしょう。
けれど、その危機を前にして、実際に炉を築き、工場を立て、技術を育て、人材を動かした人はそう多くない。
島津斉彬は、最初に動いた男でした。
そしてそのことが、この人を、ただの「幕末の名君」では終わらせないのだと思います。
第1回 上杉鷹山:民の苦しみから逃げなかった改革の人
第2回 中江藤樹:人を大切にすることを学問の中心に置いた人
