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中国史上最高の名君はパパ失格(笑)/宮崎市定先生を慕って―「雍正帝 中国の独裁君主」(2)

第2話 「懊悩する老帝」


 
老帝とは、すなわち康煕帝――中国史上最高の名君と謳われる皇帝である。
 
筆がまったく乗らない。
 
ならば、乗れるように書けばよいのである。
 
――っつうわけで、口語体でやるわ(笑)。
 
まずは康煕帝のプロフから。
 
氏名:愛新覚羅(あいしんかくら) 玄燁(げんよう)
戒名みたいなもん:聖祖 合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝
要は、意味分かんないくらい立派な、思いやり深い寛大な皇帝ってことだろ。たぶんwww。
通称は元号(「令和」みたいなもん)で、「康煕帝」って呼ばれてる。世界史の教科書でもそう習う。

在位期間は、1661年から1722年まで。62年在位した。
8歳で皇帝デビューし、14歳でパパになった。
その後も励んで、男の子だけでも35人こさえた。
女の子のは何人居ても、男の子が生まれなければ「子なし」とされた昔の中国。どうやら、女子の数は20人だったらしい。
いやホントなんだって。筆者の偏見とか性差別じゃないから!
宮崎先生曰く、「父になるのはこれほどらくなものはないが、父であることは至ってむつかしいという西洋の諺のとおりであった。」
……おいおい、不穏だよwww。
しかし、統治者としての彼は、ガチでヤバい。
 
けど、それを語る前に。


彼はナンパな坊ちゃんではないのよ。


マッチョなレスラーかボクサーみたいなガタイで、文武両道の超有能。
五人力の剛弓を使いこなし、普通の2倍の長さの矢を、馬上から獲物に射れば百発百中の腕前だった。
まさに、「豪傑天子」だぜ!

勉強させればこちらも優れもの!
インテリの極みだとさ。マジかよ!
漢文の教養はもちろん、西欧の科学技術にも興味津々。宣教師から数学や天文学を学び、自ら計算尺を操ったそうです。
……こちらは後から血を見る騒動が起こります。
先にネタバレすると、「康煕帝の教養www」とおちょくって起きた筆禍事件だよ。
 

書物から書き写すの超だるいから、AIに任せて書いたら、次のようになった。

【お題】 康熙帝の功績を年表で示せ。西暦と元号の併記で。

1661年 康煕元年 8歳 順治帝の崩御により即位。当初は4人の補政大臣が実権を握る。
1669年 康煕8年 16歳 専横を極めた大臣オーバイ(鰲拝)を自ら捕縛し、親政を開始。
1673年 康煕12年 20歳 三藩の乱が勃発。呉三桂ら有力藩王との全面戦争へ。
1681年 康煕20年 28歳 三藩の乱を完全に鎮圧。中国全土の直接支配を確立。
1683年 康煕22年 30歳 台湾を平定。明の遺臣、鄭氏政権を降伏させ、海禁を解く。
1689年 康煕28年 36歳 ロシアとネルチンスク条約を調印。清朝初の対等な国境画定。
1691年 康煕30年 38歳 外モンゴルのハルハ諸部を臣従させ、多倫ノールにて会盟。
1696年 康煕35年 43歳 ガルダン・ハーン(ジュンガル部)を自ら親征して撃破。
1711年 康煕50年 58歳 盛世滋生人丁(人頭税の固定化)を宣言。人口爆発の引き金に。
 
1712年 康煕51年 59歳 皇太子・胤礽を二度目の廃位。後継者争いが激化。
年表の1712年「二度目の廃位」以降、パパ康煕帝を最も悩ませた息子たちの対立図を整理しておくよ。
皇太子党 二男・胤礽 エリート教育を受けたが、プレッシャーで闇落ち。
八男党 八男・胤禩 人望が厚く、官僚の支持も絶大。康煕帝に最も警戒された。
十四男派 十四男・胤禵 軍事的才能があり、康煕帝の晩年にお気に入りだった。
孤高の仕事人 四男・胤禛 目立たず、裏で「冷徹な実務」をこなす。
 
1716年 康煕55年 63歳 「康煕字典」が完成。文化・学問への貢献も凄まじい。
1720年 康煕59年 67歳 チベットを平定。現在の中国の版図の基礎がほぼ完成。
1722年 康煕61年 69歳 暢春園にて崩御。遺詔により第四皇子が即位。

【お題】 で、結局、康煕帝のやったことの重要度をランキングしてくれ。

康熙帝の功績・重要度ランキング
 
第1位:多民族大帝国「清」の版図確定
(三藩の乱鎮圧、台湾平定、対ロシア・モンゴル外交)
重要度:★★★★★
理由: 漢民族だけの国(明)から、満洲・漢・モンゴル・チベット・イスラムを含む「今の中国の広大な領土」の基礎を作ったこと。これに失敗していたら、今の地図はもっとスカスカだったはずです。
 
第2位:盛世滋生人丁(人頭税の固定)
(1711年:税制改革の先駆け)
重要度:★★★★☆
理由: 「これ以上、人口が増えても税金上げないよ!」という大盤舞踏な宣言。これにより農民が安心して(?)子供を作れるようになり、中国の人口爆発を招きました。のちの雍正帝による「地丁銀制」へのパスとしても超重要です。
 
第3位:文化・教養のスタンダード構築
(『康熙字典』の編纂など)
重要度:★★★☆☆
理由: 漢字の書き方から辞書の引き方まで、現代に続く「教養の基準」を国家プロジェクトとして完成させました。これにより「満洲人の皇帝でも、漢文を完璧に理解する知的リーダーである」という正統性を見せつけました。
 
康熙帝が作り上げた「清朝」の構造
康熙帝の仕事は、バラバラだったパズルを組み合わせて「清」という巨大なシステムを起動させたことでした。
 
番外編:パパとしての「負の遺産」
重要度という意味では、ある意味でこれらが一番ヤバかったかもしれません。
皇太子問題の放置: 晩年、息子たちの派閥争いに決着をつけられず、宮廷を疑心暗鬼のブラック企業状態にしました。
寛大すぎる政治の「ツケ」: 「名君」でありたかった康熙帝は、晩年、役人の汚職や国庫の赤字を「ま、いいか」で見逃してしまいます。この巨額の赤字(借金まみれの帝国)を押し付けられたのが、次代の皇帝です。
 
――なんだかんだいってたってさ、中国史上・最高名君って名には恥じない、立派な業績だ。そう思うよ。
康熙帝は若き日、正妻の忘れ形見の第二皇子が2歳のとき、早くも皇太子にした。そのとき帝は22歳だった。
立派な教育係をつけて、育成体制は万全だったはずなのに、そこに落とし穴があったみたい。
教育係がみんな年寄りだったから、若者はつまらなかった。だから同年代の友達を求めた。だけど、皇太子という身分でしょ?
純粋な友達なんて得られるはずもなくて、みんな、下心があった。
……そして皇太子は立派な政治ボスとなり、大きな派閥の親分になった。――
 
他にも、大臣がボスになっている派閥はいくつもあった。そういったものが官僚機構にしっかりと根をはっていた。
こういうことは、本来、皇帝独裁体制のもとではあってはならない状態。
皇帝の他に、それに匹敵するようなボスが居ることって、皇帝独裁体制では、地球には太陽が一つしかないはずのものが、二つあるようなこと。
天地の秩序を乱すことに他ならない。

 
更に言えば、派閥が跳梁跋扈することは、すなわち、康熙帝がどれほどの名君だったとしても、その大御心が民衆に届かないということを意味してる。重大な危機が生じつつあった。
例えば、盛世滋生人丁(人頭税の固定化)にしたって、派閥が勝手に手数料を上乗せするから、額面ほどの減税にはなっていなかったらしい。
 
――康熙帝は実績もある、今なおしっかりした皇帝だから、皇太子派閥は何もかも、すべてが思うようにいくとは限らない。
だから、一刻も早く皇帝になりたいとして、父帝に対してクーデターを起こすとか、毒殺するとか、刺客を送るとか、さまざまな憶測が流れ、康熙帝は心を乱され、やがて耐えられなくなった。
皇太子は一度廃された。――

原著引用。

宣告し終って康熙帝は悲しみのあまり、泣きもだえて地に倒れた。親子の情愛もさることながら、全アジアの帝王としての誇りを無残にも踏みにじられたことによって、心中のいきどおりをおさえることが出来なかったのである。


――しかし、康熙帝は一縷の望みを棄ててはいなかった。廃太子に自省と改悛の色が見えたから許し、再度、彼を皇太子とした。だけど、まったく変わってなかった。どれほどの絶望だったろうか。
だって、実の子からさ、「早く死ね」「一刻も早く帝位から引きずり下ろしてやる」とか思われて、それが伝わってくるとしたら、とてもつらいよね。――
 
そして、皇太子は再び廃された。
宮中に拘禁されることになった。
 
原著引用。

再度にわたって帝王の自尊心と誇りとを傷つけられた康熙帝の心中のいきどおりは筆舌にもつくせぬ、やる瀬ないものであった。あらゆる強敵と戦って光栄ある勝利を収めた帝王も、その家庭生活においては惨めな敗残者であった。皇太子一人が不埒であるのみでなく、すべての皇子達もみな父から離れてそむいていく不孝者ばかりであったのだ。


 
深く心を傷つけられた康熙帝は、別人のような残酷な顔を見せたそうだ。
あるとき、皇太子に関する儀式を調べさせたとき、「再度の立太子だぜ」と先物買いだと上書した朱天保という官僚が居た。
 
康熙帝  廃太子は隔離されて謹慎している。本来の美徳を取り戻した等、お前はどうやって知ったのだ。
朱天保  父の朱都納と姉婿が原案を作り、私の名で上書しました。
康熙帝  お前は不忠者である上、許しておけぬ不孝者だ。父親を呼べ。
 
朱都納  すべて私が悪かったのです。私を八つ裂きにされてもかまいませんから、どうか息子の命だけはお助けください。
康熙帝  親の失敗をあっさり白状するようなクズ、生かしておく必要も価値もなし。死にたければお前も殺してやるが、その前に不孝者が死刑になるところをよく見ておけ。
 
朱天保と姉婿は刑場で首をはねられた。朱都納は無理矢理にそこに立ち会わされた。そして、年寄りだからという理由で、死刑だけは免除された。
 
このころ、国境付近は戦雲急を告げており、十四皇子が出征していた。彼は康熙帝から愛されていたので、鎮圧して戻れば、すんなりと皇太子になるのではないかと、皆が思っていた。
 
しかし、康熙帝は十四皇子の凱旋を待たなかった。
 
 

康熙61年11月、康熙帝崩御。


 
 
 
跡を継いで皇帝となる者。
 
それは遠征中の十四皇子。
……ではなく、その同母兄。ちょうど先帝の名代として、天を祭るために精進潔斎をしていた、第四皇子だった。
 
 
 
 
 
すなわち、愛新覚羅 胤禛(いんしん)……雍正帝その人である。
このとき45歳。
 
 
 
 
次回、「犬になれ豚になれ」



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