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堅実のパラドクス(2)乙女を不安にさせた罪

第1章 乙女を不安にさせた罪

ある会社のある事務所で。ある宴会の数日後、一枚の写真が密かに回覧されていた。

「ちょっと高尾さん! これ、やばいよ!」
 榊が声をひそめながらも、興奮気味に高尾のデスクに身を乗り出した。
「何すか」
「ほら、才木さん。高尾さんに寄りかかって、完全に顔がとろけちゃってるじゃない。すっごくいい雰囲気! ねえねえ、どうなのよ?」
「すごい表情ですね……。でもこれ、撮影のタイミングでたまたま目を閉じただけじゃないですか?」
「ええー? この体の傾き方は絶対おかしいって!」
「まあ、お酒も入ってましたからね。しかし……こうして改めて見ると、才木さんって結構可愛いっすね」
「結構!? 可愛い!? そう思うよね、思うよね! で、どうなの!? ドストライク!?」
「どうなのって言われても……。可愛いことは認めますけど、これだけじゃあねえ」
好みだから困ってんだよ!このラウドスピーカーめ!才木さんの旦那さんがうらやましい・・・・・・)と、高尾は心の中で悪態をついた。
「勘違いしなさいよ! 男なら敢えての勘違い!」
「そんなの、痛い勘違いナンパ野郎じゃないですか。俺、そういう奴一番嫌いなんですよ」
「誰も高尾さんをそんな風に見てないって。ねえねえ、いっちゃいなよ。奪いにいきな!問題は高尾さんが行くか行かないかだけだよ!」
「……(不倫を煽るのかよ。ちょっとついていけないな)」

 そこへ、外出していた才木が戻ってきた。タイミング良く電話が鳴り、高尾が受話器を取る。
 その隙に、榊は才木のPC宛てにだけ、例の写真付きのチャットを送信した。
 自席で写真を見た才木は、あからさまに激しく動揺している。
「はい、あ、担当が戻りましたので代わりますね。才木さん、〇〇さんからお電話です」
 高尾から受話器を受け取った才木は、案の定、電話口で盛大に噛んでしまい、顔を真っ赤にして苦笑いしている。
 榊は、電話対応でテンパっている才木に向かって、さらに追い打ちのチャットを送った。しばらくして、今度は高尾のPCにチャットが飛んでくる。

榊:『ねえねえ! さっきカワイイって言ったよね? 間違いなく言ったよね!?』
高尾:『www なんでそんなに必死なんすかwww。可愛いもんは可愛いですよ』
榊:『wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww』

 再び電話が鳴る。才木が取り、高尾宛てだったため彼に回した。高尾が電話応対をしている最中、榊の指が高速でキーボードを叩く。

榊(才木宛て):『ほらほら、これ見て! 「可愛いもんは可愛いですよ」だって!』
榊(才木宛て):『ちょっと、外に出て♡』

 榊と才木は連れ立ってオフィスの外へ出て行った。
 高尾はすべてを察したが、電話中で手出しができない。
(まあ、本音だしな。それに才木さん既婚者だし(※高尾の勘違い)、いくら褒めても罰は当たらないだろ)

 やがて戻ってきた榊と才木は、二人ともニッコニコだった。
 才木は無言で、そっとお菓子を高尾の机に置く。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえいえ……」
 才木は顔を綻ばせながら自席へ戻った。

榊(才木宛て):『おい!もっと気張れや!』
榊(高尾宛て):『ちょっと! お礼それだけ?』
高尾(榊宛て):『じゃあ、「チョー感激♡」とでも言えばいいんすか?』

日を改めて、別の飲み会。事務所の人間はこの事情を知らない(一部の事情通を除く)。

 高尾は籤を引き、指定された席に座った。榊は、才木には籤を引かせず、高尾の隣を引いた同僚を呼び出すと、因果を含めて強引に籤を交換させた。才木が高尾の隣に座る。
 宴会が始まり、乾杯が済むと、高尾は声をひそめて才木に耳打ちした。
 以降、二人はずっと囁き声で会話を続ける。

「先日のお菓子、美味しかったですよ。ごちそうさまでした」
 才木は黙ってこくりと頷き、高尾のグラスにお酌をする。
「あ、どうも」
 さらに酌をしようとする才木を手で制した。
「そんな気遣いは要りませんよ。俺、お酒はそれほど飲まないんで。……才木さん、榊さんから色々吹き込まれてるでしょ? あの人の話は嘘と真が混ざってますから、眉唾ですよ」
「高尾さん、私のこと『可愛い』って言いましたよね?
「ええ。言いましたよ」
「具体的に、どこが可愛いですか?」
 高尾は少し考えた。(顔について褒めるのは野暮だな)
「顔がどうこうというより、明晰な頭脳と温和な性格、それと落ち着きですね。『この人なら、話せば分かってくれる』っていう信頼感というか、安心感です」
「……本気にしますよ?」
「でも、不倫は勘弁してくださいね」
「え? 高尾さん、奥さんいらっしゃるんですか?」
「いえ、独身ですけど」
「じゃあ、不倫って何ですか?」
「……才木さん、旦那さん居るでしょ?」
「……はい?」
「え?」
「……はい?」
「…………はっ! ちょ、ごめんなさい! 大声出さないでね」
 高尾は慌てて手を合わせた。
「あまりにも落ち着いてて包容力があるから、てっきり既婚者だと思い込んでました。ごめん、許して! 全く悪気はないんです。……でも、さっき言ったことは嘘じゃないですよ」
 才木はジト目で高尾を睨んだ。
「どこをどう見たら、私が既婚者に見えるんですか?」
「俺の目が節穴でした! 認めます! でも、それくらい才木さんが大人に見えたんですよ。何でもしますから許してください」
「何でもするかどうかは、後から考えます。まったく……勝手に旦那持ちの設定にしないでくださいよ」
「偏見だとは認めますけど、今時、職場で『独身ですか?』なんて不躾に聞けないじゃないですか」
「・・・・・・私、頭脳明晰だなんて、言われたことありません。どういう意味なのか、具体的に説明してください」
「いや、賢しらぶってるわけじゃなくて、地頭が良いって意味
ですよ。仕事でもミスしないし」
「私だってミスくらいしますよ」
「あんなの、ちょっとしたノイズみたいなもんですよ」

 高尾はトイレに立つため席を外した。戻ってくると、自分の席は空いたままだったが、気まずさからしれっと別の席へ逃げようとした。
 しかし、すかさず榊が「あ、才木さん!」と大きな声を出し、高尾に鋭いアイコンタクトを送る。高尾は観念して、元の席へと戻った。
 酒が進み、場は喧騒に包まれている。隅でヒソヒソ話す二人を気にする者は誰もいない。高尾と才木は普通のトーンで話し始めた。

「料理、これで最後ですかね」
「美味しいですね。……って、どうしてさっき逃げようとしたんですか?」
「自分の『既婚者フィルター』が呪わしくて。面目ないし、もう早く帰って風呂入って寝たいです。ナンパなんて大嫌いなのに、今だけナンパ男になりたい気分ですよ」
「ナンパって……ふふっ」
「笑って誤魔化せたら、そのまま勢いで『なかったこと』にしたい。でも、できないですよね。嘘は言ってないんだから」
「本音なんですね」
「認めますよ。……しかし、本当に独身なんですよね? 浮ついたところが全くないじゃないですか。絶対バグってますよ」
「バグって……私がバグですか?」
「立派なバグですよ。どうしてそんなに落ち着き払ってるんですか。おかしいでしょ!」
「バグだなんて、不本意です」
「そうですね。バグじゃない。何なんだろうな……」
「私のことですよ? 燃やしますよ?」
「とっくに大炎上案件ですよ」
「そういえば、さっき『不倫は勘弁』って言いましたけど、あれは私が高尾さんを誘惑したってことですか?」
「誘惑はされてないです。100パーセント俺の勘違いです」
「そういうふしだらな女に見えたってことですか?」
「ごめんなさい! すべて俺の勘違いですってば!」
「高尾さん! ちょっとそこ、はっきりさせてくださいよ」
「……もうさ、これ以上俺の中のイメージを壊さないでちょうだい」
「そんなイメージ、私のせいじゃないし!」

 高尾の目には、はっきりと「絶望した」と書いてあった。才木もさすがに「やりすぎたかも」と怯む。高尾はいたたまれなくなり、再びトイレへ逃げ込んだ。
 高尾が自席に戻ると、才木の姿はなく、代わりに榊が待ち構えていた。高尾は深いため息をつく。

「ねえねえ、いい感じじゃない! あんた、やればできる子ね!」
「どこがですか……。ああ、早く帰って風呂入って寝たいぃぃ……」

 才木が戻ってきた。落ち込んで俯く高尾の横で、榊が満面の笑みを浮かべている。才木は高尾を挟んで榊と向き合った。
「こいつ、どうよ?」と榊。
「絶望されてしまって……」
「なんだとぉ? おい高尾! 起きろ!」
「起きてますよ!」
「しっかりしなさいって! まだ壊れるには早いわよ」
「ああぁぁ……もう死にたい……」
 榊は高尾の耳元に口を寄せた。
「才木さんに何したの?」
「俺が才木さんを既婚者だと勘違いしてて、話がこじれました。誤解が解けないというか、もう訳の分からない状態で……」
「高尾! あんたリサーチ不足、いや欠如よ! 才木さん、今はどういう状況?」
「からかったら、面白くてつい……ふふっ」
 才木は口を両手で押さえながらも、目は完全に笑っていた。
「え? 面白い? ……俺、もう帰っていいですか?」
「ダメよ! これは犯罪だわ。うら若き乙女を不安にさせた罪!」
「そんな罪ねえし!」
「私が今作ったの」
「……懲役刑ですか?」
「才木さん、何刑がいい? 今なら要求は何でも通るわよ!」
「……(ここで本音なんて言えるわけないじゃないですか)」
「罰金刑希望でお願いします」と高尾。
「罰金は不可です。貢物でお願いします」と才木。
「それもダメ! おい高尾、しっかりしろって。酔ってないでしょ」
「酔ってないですけど、精神的に修復不可能なダメージが入りました。帰らせてください」
「じゃあ、今日はそれでいいから、後で才木さんと喫茶店にでも行きなさい。才木さん、明日レシート持参ね!」