堅実のパラドクス(3)被告人の弁明
第2章 被告人の弁明
一次会が終了した。夜風に吹かれ、高尾はようやく自分を取り戻す。
夜九時を回った頃の喫茶店。落ち着いた照明の下、高尾は顔を上げ、いつもの彼に戻っていた。
「さっきはみっともない真似をして申し訳ないです。……もし面白がっていただけたのなら、半分くらいは許してください」
「面白かったので、六割くらいは許します」
「ウーロン茶を」
「じゃあ、私は紅茶で」
「…………うわっ!」
「えっ!?」
喫茶店のクリアガラス越しに、榊がこちらを指さして爆笑していた。
同僚と別れて帰宅する途中らしかった。
他の連中はカラオケに向かったはずだ。
榊は楽しそうに手を振り、嵐のように去っていった。
「……なんなんですか、あの人は。絶妙に嫌なタイミングで現れる」
「ふふっ、びっくりしましたね。でもね、榊さん、すごく旦那さんLOVEなんですよ。お子さんのことも大好きで。高尾さんの背中を押したのは、あなたの性質をよく分かっているからだと思いますよ」
「なんなんですか、あの人は……。才木さんの背中も、あの方が?」
「ええ、力強く押してくださいました」
「もう全部吹っ飛んだ。……何の話をしていましたっけ?」
「さあ?」
「まあ、いいか。本心ですし」
そこから、他愛もなく脈絡もない話が続いた。
「才木さん、NISAってやってます?」
「話には聞きますけど、なんだか怖くて。高尾さんはやってるんですか?」
「大金を使う予定もありませんし、健全な範囲で運用しようかと」
「貯金、そんなにあるんですか?」
「…………」
「どうしたんですか?」
「具体的な額は伏せますが、多少はありますよ」
「そういえば、車をお持ちでしたよね」
「軽バンですけどね」
「ローンなんですか?」
「いえ、借金は嫌いなので。一括です」
「へえ……そうなんだ。ふふふ、意外と堅実」
「NISAはなぜ? 避けている理由はありますか?」
「宣伝はすごいですけど、結局よく分からないし、銀行に行けば手数料が高そう。投資って、なんだかギャンブルみたいで……」
「それは分かります。人は往々にして自分の立場でしか発言しませんからね」
「そうそう! セールストークだと思うと、素直に頭に入ってこないんです」
「だから俺、とりあえず複数のAIに相談してみたんですよ。スマホのAIにも。具体的には……」
「……どうしたんですか?」
「いや、AIとのチャットログには、自分の資産状況がすべて記録されています。それを人に見せるのは下品ですね」
「下品ですか?」
「下品です。かつ、無用心でもある」
「……えっ、でもさっきの言葉が気になります。AIにはなんて聞いたんですか?」
「自分の経済状況をすべて正直に入力して、『NISAを利用すべきか?』と。AIが『YES』と答えたので、最適な投資額と銘柄を聞き出しました」
「全部正直に!? そこまでやるんですか。……で、結果は?」
「月額からやり方まで、すべて導き出してくれました。今はその通りに実行しています」
「軽バンもAIが勧めたんですか?」
「あれは完全に俺の趣味です。機能性に振り切って選びました」
「高尾さん、車を買った話、誰かにしました?」
「地元の友達数人と、親兄弟くらいですね」
「周りはなんて?」
「『少しはカッコつけろよ』と笑われました」
「どうしてその車を選んだんですか?」
「維持費と燃費ですよ。高級車なんて買ったら、傷つくのが怖くておちおち運転できないじゃないですか。車なんて所詮、移動手段であり消耗品ですから」
「元カノさんとかには相談しなかったんですか?」
「『軽バンを買う』と譲らなかったら、ひどく怒って口を利かなくなって、そのまま自然消滅しました。俺も追わなかったので、実質フラれた形ですね。……負け惜しみかもしれませんが、あちらが自分の意思で俺を切り捨てたのなら、結果的に俺には何のコストも発生しなかった。損切りとしては、悪くなかったと言えるかもしれません」
「……ふふっ。その軽バンでどこへ? ソロキャンプとか?」
「風呂に入らないと死んじゃう性質なので、キャンプはしません。朝起きた時の気分でハイキングに行ったり、気まぐれにドライブしたり。図書館で読書したり、ふらっと旅に出たり。あ、そうそう、何の用もないのに無意味にビジネスホテルのシングルルームに泊まるんですよ。あれ、最高です」
「えっ!? 嘘、高尾さん、それやるんですか!? ……実は私もやります! いいですよね、あの機能的な非日常感!」
「実家暮らしですよね? 親御さんから何か言われませんか?」
「親は私に対して『さっさと嫁に行け、でも老後資金を溶かすような不倫だけはするな』というスタンスなので、基本は自由です。昔はうるさかったですけど、今は連絡しようがしまいが何も言われません。……高尾さん、今度一緒に行きましょうよ」
「一緒のホテルに? いいですね。……しかし、女性の側からそれを提案するのはどうなのか……いや、俺がそれを愛好している以上、否定はできませんが」
「……ふふっ。高尾さん、服にはこだわりがありそうですけど、実際はどうなんです?」
「デザインが気に入るか、それだけです」
「高尾さんって、アウトドア派なんですか?」
「『アウトドア系引きこもり』です」
話はいつしか、恋愛観へと移っていった。
「どうして人って浮気をするんでしょうね。……その割合に、性差はないって聞きましたけど」
才木が呟く。
「思いつきですが、『一軍』と呼ばれていた人たちがいたでしょう?」
「いましたね。話してみると、拍子抜けするほど中身のない人たち。もちろん例外はいましたけど、その人たちは枠組みなんてどうでもよさそうでした。……それが?」
「こじらせた元『一軍』は、承認欲求を外部委託しているんじゃないかと思って。彼らが不倫の市場を支えているのかな、と」
「……視点としては興味深いですけど、そんなに単純なものかしら」
「マジレスされると困ります。ただ、彼らは『無視されること』に耐えられない人種なんだろうな、と推測しているだけです」
「一理あるかも。『昔はモテた』なんて語る人、痛々しいですものね。だから何、という話で」
「才木さん、思いのほか毒舌ですね。……ですが、それこそが明晰さの証拠ですよ」
「こじらせた人には、他人がどう思うかではなく、自分しか見えていないんでしょうね」
「少し想像力を働かせれば、自分の行いがどんな結末を招くか分かるはずなんですけどね」
「……世の中には、高尾さんから見ると信じられないような、バグった人が実在するんですよ」
「身も蓋もない。……他人事として鑑賞する分には、浮気は格好のドラマです。俺はそういう物語は嫌いですし、当事者には絶対になりたくありませんが」
「そう! それです!」
「……そういえば、男の浮気って世間的な扱いが軽いですよね。女の苦悩や業は深いドラマになるのに、男の場合はただの遊びや贅沢として処理されがちというか」
「うんうん、本当にそう!」
才木は激しく同意する。
「学校で習った『源氏物語』だって、あれは光源氏の華麗な遍歴の物語ではなく、彼を狂言回しにして、振り回される女たちの哀しみを浮き彫りにした物語なんじゃないかと、俺は思うんです」
「…………」
「あれ? 引きました?」
「……面白い! でも、考えすぎると毒ですよ」
「確かに。考えすぎると、裏切られた人間の痛みを勝手に追体験してしまって……。下腹部のあたりに、嫌な不快感を覚えます」
「そこまで深く潜れる人は少ないですよ。私はしません。……高尾さんのお話を聞くだけで、十分お腹いっぱいです」
