堅実のパラドクス(4)刑の執行は闇のなかで
第3章 刑の執行は闇のなかで
夜十時半。
喫茶店を出て、二人はタクシーに乗り込んだ。
後部座席に収まるやいなや、才木が不意に、高尾の左半身へ思い切り体重を預けてきた。柔らかな感触と熱量に高尾は息を呑み、彼女の耳元でかろうじて囁く。
「……運転手さんに、行き先を案内してくれないと」
「〇〇スーパーに向かってください」
才木は事務的に告げた後、そのまま唇を高尾の耳元に寄せた。
「……この、女殺し」
「殺してないですよ」
指定されたスーパーの前で車を降りる。タクシーが走り去ると、不意に才木の姿が視界から消えた。見回せば、街灯の届かない児童公園のベンチに、彼女はちょこんと座り込んでいた。
「家まで送ります。道順を教えてください」
「私、もう大人ですから。……高尾さん、隣に座って」
高尾が促されるまま腰を下ろすと、才木は防備を解いた高尾の懐へ飛び込み、その胸元に深く顔を埋めた。
高尾の脳内で、けたたましく警戒アラートが鳴り響く。
慣れない土地、深夜の公園、死角だらけの闇。
才木を危険に晒したくないという防衛本能が、急速に彼の理性を冷却していく。いわば「疑似的な賢者モード」の発動である。
(明るいスーパーに逃げ込むのは不自然だ。まずは彼女を落ち着かせ、一刻も早く安全圏へ送り届けなければ……)
高尾の思考はフル回転を始める。
対照的に、才木は地元という安心感から完全に弛緩していた。彼女は重度の匂いフェチだった。高尾の胸元で、その清潔な香りを深く、何度も肺に吸い込んでいる。
高尾も木石ではない。抱き寄せる手に思わず力がこもるが、それは「愛おしさ」よりも「無傷で帰宅させねば」という保護欲に近いものだった。
「才木さん! みちるさん! 怖いって。俺、あなたを置いて逃げられないし、危険な目にも遭わせたくない。だから立って、家を教えて。実家ですよね? 親御さんの番号は? ……くそ、俺のスマホにはあなたの番号しか入ってない! 絶望的だ。つーか、ここ街灯少なすぎませんか。闇だらけじゃないか。もし何かあっても逃げ切れない……とにかく、あなただけは無事に送り届けないと……」
支離滅裂な独り言をこぼす高尾の胸元で、才木は肩を震わせて声を殺して笑っていた。
周囲の暗闇が彼女を大胆にさせる。
顔を上げた彼女は、至近距離からキスを迫った。
高尾も抗えず、それに応じる。
しかし、暗闇は彼の疑心暗鬼をさらに煽るばかりだ。そんな高尾をよそに、才木は再び懐に潜り込み、フェチズムを炸裂させていた。
高尾の白いシャツには、すでに彼女の口紅が鮮やかに滲んでいる。
「……もう手遅れだよ、晴仁さん。顔もシャツも証拠だらけ。親なんて呼べるわけないじゃない」
「みちる、こういうのは別の日にしよう!」
「晴仁さん、私といるのが嫌なの? 別の日は別の日。今夜は、今夜」
才木の甘えは加速していく。その声は湿度を帯び、艶っぽく響いた。
「お姫様抱っこ希望。ゆっくり歩いてね、道は案内するから。……私のこと、嫌い?」
「誘導尋問かよ。好きですよ。でも、外でイチャつく趣味はないんです。状況が今じゃなければ、最高に嬉しいですけど」
頑なに動こうとしない彼女を、高尾は仕方なく抱え上げた。
腕の中で、才木はまたクンクンと匂いを嗅ぎ、その首筋に唇を這わせる。
高尾は眩暈を覚えた。
「♪迷子の迷子のみちるちゃん、あなたのお家はどこですか……ねえ、マジでどこに行けばいいの?」
(社宅に連れ込んだ方がマシだったか? いや、明日も仕事だ。彼女を今日と同じ服で出勤させて、職場の晒し者にするわけにはいかない……!)
「ねえ……二人で明日、朝から有給取っちゃう?」
「……正気か? バグったんですか?」
「っ! ……あんたのせいよ! 告白が強火すぎるから!」
「俺、強火でしたっけ?」
「キャラ崩壊レベルだよ、晴仁」
「俺が、あなたを壊したのか」
「……そうよ!」
街灯の下を横切った瞬間、赤く上気し、口紅の滲んだみちるの顔が露わになった。
「ジャケットもシャツもタイも、全部クリーニング行きだな。……でも、好きだから許します」
「ジャケットの生地、すべすべ。良いスーツ着てるね」
「スーツには多少、奮発してますから」
高尾はゆっくりと跪き、右腿で彼女の背を支えると、今夜で最も深いキスを落とした。みちるの全身からふっと力が抜けるのが伝わってきた。
週末の約束を交わし、ようやく彼女の実家近くまで送り届けた。玄関へ消える後ろ姿を見届け、高尾は帰路につく。
バスもタクシーもない。結局、先ほどのスーパーまで徒歩で戻り、ようやく空車を捕まえた。自宅に辿り着いたのは、23時を回っていた。
一人になると、キスの感触や彼女の熱い吐息、柔らかな肉体の記憶が津波のように押し寄せてくる。脳が、じりじりと痺れていた。
この夜は水曜日。この夜の話は、これでおしまい。
翌、木曜日。高尾はオフィスで榊に「レシート」を提示し、「乙女を不安にさせた罪」の罰を執行されたと報告した。もちろん、夜の公園での詳細は墓場まで持っていく。
「喫茶店ですごい幸せオーラ出てたじゃない。で、告白は? あの辺、いい宿あるでしょ。行ったの?」
「あ、行けばよかったですね。失念していました」
「あー、これはまだ刑期は明けないわね。才木さん、どうする?」
「え? まだ服役すらしてないですよ?」
才木が、涼しい顔ですっとぼける。
「え? 執行済みでしょう?」と高尾が抗議する。
「脱獄したの?」と榊が茶化す。
「そうです、脱獄です。信じられますか? あり得ないですよ」
「ぐぬぬぬ……」
「じゃあ、いつ執行するのよ」
「私の気が向いた時に、です」
「……だってさ、高尾君」
「……罰金刑に減刑してください。切実に」
「残念ながら、私に決定権はないのよ」
【チャット】
(才木みちる様:土曜日は〇〇市の△△寺へ。奥の庭園で紅葉を観ましょう。遊歩道はありますが、一部未舗装の場所もあります。動きやすく、多少汚れても気にならない服装で。待ち合わせは……)
(高尾晴仁様:ありがとう。了解です。紅葉、すごく楽しみにしてます!)
……などという、至ってどうでもいい、平和なやり取りである。
