【短編小説】ナデシコとあるヒロイン【一話完結】
コード『リサイクル・コンビネーション』に関する検証記録。
行政のサーバーには、表舞台には決して出ない特殊なマッチング記録が存在する。
対象A:吉川美緒(31)
有責不倫による永久BAN。自己愛が強く、男をコントロールする能力のみが一級。社会の底が抜ける寸前。「漆黒」。
対象B:間宮 真(26)
人間関係の構築能力は皆無、容姿への無頓着により「漆黒」。
ただし、数学において歴史上稀に見る異才。
行政のアルゴリズムが弾き出した解は、極めて悪魔的だった。
当時、行政の担当者は間宮真を静かに呼び出し、極めて丁寧な口調で、しかし逃げ場のない条件を提示していた。
「間宮様、突然お呼び立てして恐縮でございます。本日は、貴方の今後の研究環境、ならびに一人の女性の命運に関するご提案がございます」
「……え?」
「貴方の心を折らないために、あらかじめ率直に申し上げます。今からお連れするのは、とびきりの美女ですが、浅はかな不倫によって人生に行き詰まってしまいました。……彼女を配偶者とし、それにふさわしい待遇で迎えて欲しいのです。そうしていただければ、行政が保有するスーパーコンピュータのサーバーへの、無限アクセス権限を付与いたします。ただし、条件があります。彼女を迎えてから三年以内にフィールズ賞を勝ちとるなど、しかるべき成果を上げていただきたいのです。できなければ、彼女との生活は三年間で終わりとなります」
間宮が息を呑むのを、担当者は感情の死んだ、澄み切った目で見つめながら言葉を続けた。
「……彼女は過去の不倫により何もかも失いました。生活に困窮するあまり、今まさに、反社の管理売春や無修正ポルノ動画の世界へ送られる瀬戸際にあります。社会の底辺で震えている彼女を救えるのは、世界で貴方の頭脳だけです。……あなたのもたらす成果こそが、彼女の尊厳を守ることができます。……気が進まないなら、お断りしていただいても差し支えありません。……どうなさいますか?」
恐怖で縛られた31歳の女と、ミューズの命を人質に取られた26歳の天才。
「この場でお話をお断りするなら、彼女はこのまま泥沼に沈みます。……三年以内に成果が出なければ、その時点で彼女は社会の底辺に逆戻りです」
行政は「してやったり」とほくそ笑んだ。生存本能と救済欲求という人間の強烈なエゴをシステムで噛み合わせれば、国家にとって最大の利益が生まれる。
失敗しても、性悪女が一人破滅するだけだ。
――結果は、仕様通り、いや、仕様を遥かに超えていた。
吉川美緒が間宮真の妻に宛がわれたとき、彼女は怯えていた。
(コイツの機嫌を取り損ねたら、無修正ポルノの世界に落とされる)
一方、間宮真は一切、怯えていなかった。
そのことを美緒は、
「労せずして美女を妻に迎えた、学者の傲慢さ」
だと受け止めた。
その時点では、そうとしか思えなかった。
しかし、彼との日々を過ごしていくうち、愛着のようなものが少しずつ湧いてくる実感があった。
「美」こそ神なり
彼は傲慢どころか、極めて謙虚だった。特に「美しさ」を神格化していた。
美緒は彼から粗略な扱いを受けることなく、乱暴なことを言われることも、まったくなかった。
とりあえず、彼女は安堵の吐息を漏らした。
(彼には微塵も、私への劣等感も敵意もない。優しくて謙虚な人だ)
同時に不安になった。
「私が妻になってから三年以内に、彼に数学上の立派な業績を上げさせること。さもなくば、今度こそアングラに送られる」
という行政の条件。
あれほど執拗だった反社の構成員が、「彼の妻になるか」と打診されたときから、完全に消え去った。
役所が本気を出したとき、魔法のように静かになった彼女の環境。
だからこそ、成果を出せなかったら、役立たずの妻として、私を闇に葬ることも、役所なら容易くできるはずだ……。
少しずつ間宮真という男性に惹かれていく一方、美緒は弱音を自分の内部に閉じ込められなくなった。
ある日の夕暮れ、彼女は手料理をふるまいながら、夫とされている男性にこぼしてしまった。
「ときどきとても怖いの。目覚ましい成果をあなたに出させるって、どうすればいいの?運に左右され過ぎじゃない……」
夫の視線の先には、季節の花のナデシコを挿した青磁の花瓶があった。
彼はナデシコを凝視していた。
曇りなき眼で。
(お姉様、どういう顔で、どういう気持ちで、花を飾ったのだろうか……『純愛』『貞節』そして『大胆』__花言葉を知った上で、なのだろうか)

間宮真は少し考える素振りをして、こう告げた。
確信に満ちた口調だった。
「お姉様、心配いらないよ。官僚は既に目的を果たしたから」
「お姉様は一度、子を産んだことがある」
「僕も診断を受けたけど、不妊症ではなかった」
(どういうこと?)
美緒はいろいろと業の深い性格だが、頭脳自体は明晰である。
真の言葉をトレースし、本当の意味に遡ろうと試みた。
(私と彼は、子をなし得る)
(三年間もあれば十分に可能)
(リサーチしたら、彼は優秀な数学者として有名で、既に何度も表彰を受けている)
(彼の子を産んだら、彼のモチベーションが高まる)
(彼はますます数学に打ち込み、その分、成果を上げられる)
(だとしても、『しかるべき成果』と評価されるかどうかなんて、分かりはしないじゃない)
最初の楔(くさび)
「お姉様、補足するよ。まず、子ども以前の問題で、僕のモチベーションは上がってる。お姉様が隣に居てくれること、ただそれだけのことでね」
「……えっ?……じゃあ、あの『三年以内に成果を出せ』っていうのは?」
「……僕に『成果を出すためのインセンティブ(劇薬)』を与えるための、役所のただのブラフ(脅し)だよ。最初からお姉様をアングラに送るメリットなんて、国にはまったくないんだ」
「……あなた、それを……いつから知っていたの?」
「美緒姉さんを妻にするよう、打診されたときから」
「……ッ!……だったら、どうして今まで黙ってたの!?……意地悪……本当に意地悪!……怖くて仕方なかったんだから」
「お姉様、睡眠薬を処方してもらってるね。……黙っていて、本当にごめんなさい。ズカズカと美緒さんに踏み込んでいけなかったんだ。……でも、自分の浅はかな考えで、美緒姉さんを壊してはいけないって、やっと分かった。……あなたを独り占めしていたい気持ちもあって……卑怯だった」
彼はそこで言葉を切って、こう続けた。
「お姉様を取り上げられれば、僕はメンタル廃人。……美緒姉さん、僕たちはもう引き返せない。もはや、僕はお姉様と一蓮托生なんだ」
しばしの沈黙の後、我が夫はこう言った。
初夜以来、久しぶりの饒舌な夫だった。
……美緒姉さん、そもそもあなたがやったことって、地獄に送られるようなことなの?……せいぜい、不倫じゃないか。それも罠に嵌められるように、そう仕向けられたもの。
前の旦那さんに言い分があるなら、美緒さんにだってあるさ。一方的に断罪されていいものじゃない。
……ヴァーチャル世界でレッテルを一方的に貼られただけじゃないか。
……大学の顧問弁護士に尋ねたよ。彼女はこう言った。
「結婚と離婚は、両性が同意して成り立つことが基本。既に夫婦の実体があり、破綻していないのなら、役所の都合で引き裂くことなんて、法律的にできないどころか、基本的人権を無視していて、違憲だわ」と。
言い方が悪いけど、たかが美緒姉さん一人のために、官僚がそんな危ない橋を渡るわけないよ。
美緒さん!思い出して!役所が本気で掃除したのは、あなたに群がっていた「反社」だけ。
美緒さん!あなたは「堅気」なんだよ!今は僕の「法律上の配偶者」にして、名実ともに夫婦なんだよ!
……俯いちゃダメだ。姉さん!
……当面のタスクはただ一つ。僕と仲良くすること。
……どうか、僕の願いを聞き届けて欲しい。お願いだよ。
今すぐ出ていくなんて言わないで。
我が夫は本当に狡い。
狡い!狡い!狡い!狡い!狡い!
「……うん」
そう答えるしかないじゃない!
根拠なんてまったくないけど、夫は私と別れることになっても、私を安全圏に連れて行ってから、私を放すような気がした。
……いいえ。妻としてダメというなら、住み込みのメイドとして雇用してでも、私を守る。夫ならきっとそうする。そうしてくれる。
私はそう信じる。そう決めた。
一方、真は顧問弁護士の次の一言を、妻に伏せた。
「……間宮先生、いままでの人間関係のトラブルのときの、ご相談とはまるで違っています。……数学への狂気が感じられません。奥様が中和してくださったのではないですか?」
(そうかも知れない)
即座に彼は否定した。
(そうではない。数学の重力と彼女の引力が釣り合った。狂気と妄執の狭間、不安定な均衡状態とでもいうのだろうか)
(数年で切れる脳内物質のせいかも知れない。……それがどうした。だからなんだ?)
(ドーパミンが切れようが切れまいが。……今、美緒さんの磁力には抗えない。彼女なしでは生きられない)
(現在が無ければ、未来は訪れない)
(僕は未来を捨てない。……だから、美緒さんを守るために、今、できることはすべてやる)
__僕は彼女に殉じることにする。そう決めた。
この作品は、登場人物も組織も団体も、書かれていることはすべてフィクションです。現実世界とは一切関係ありません。
◆この話の顛末はこちら。
