全部、自分で抱えてしまうあなたへ──「私がやった方が早い」の、静かな代償
正直に言う。
私は、人に頼むのが下手だ。
「これ、お願いできますか」
その一言が、なかなか言えない。
頼むくらいなら、自分でやる。
頼んで、相手に迷惑をかけるくらいなら、自分でやる。
頼んで、思ったものと違うものが返ってくるくらいなら、自分でやる。
そうやって、気づけば全部、自分で抱えている。
机の上に、自分の仕事と、人の仕事と、誰のものでもない仕事が積み上がっている。
五十を過ぎても、私はそうだ。
そして、夜になって、ふと思う。
「なんで、私ばっかり。」
もし、あなたにも心当たりがあるなら。
この話は、たぶん、あなたの話だ。
それは、優しさが暴走しているだけだ
最初に、ひとつだけ言っておきたい。
全部抱えてしまうあなたは、能力が低いのではない。
むしろ逆だ。
抱えられるだけの能力が、あるから抱えてしまう。
そして、人に厳しくできないほど、優しいから抱えてしまう。
「断ったら悪い」
「頼んだら申し訳ない」
「私がやれば、誰も嫌な思いをしない」
その判断は、いつも他人を守っている。
問題は、その判断の中に、あなた自身がいないことだ。
全員のことを考えているのに、ひとりだけ計算から抜け落ちている人がいる。
あなただ。
あなたが抱え込むのは、性格が悪いからではない。優しさの設計に、自分を守る回路が入っていないからである。
なぜ「私がやった方が早い」は、正しくて、危ないのか
ここで、切り分けが必要だ。
結論ではなく、切り分けを。
「私がやった方が早い。」
この言葉は、嘘ではない。
実際、その瞬間だけを見れば、正しい。
人に説明する時間、待つ時間、修正する時間。
それを足したら、自分でやった方が早い。
そう見える。
二十年、組織の中にいた。
その経験から言えるのは、これは「短期最適」としては完全に正しい、ということだ。
ただし。
短期最適と、長期最適は、しばしば逆を向く。
今日「自分でやった方が早い」を選び続けると、何が起きるか。
人が育たない。
頼める相手が、増えない。
だから、来月も、来年も、あなたが抱える。
短期で節約したはずの時間が、長期では、雪だるまになって戻ってくる。
これは、システムの世界でもよく見る景色だ。
目の前の処理を、すべて一台のサーバーで引き受ける。
速い。確実だ。
だが、その一台が、すべての要求が集まる一点になる。
専門的には、これを単一障害点という。
そのサーバーが落ちた瞬間、システム全体が止まる。
あなたが風邪をひいて休んだ日、職場で何が起きるかを思い出してほしい。
それが、答えだ。
「私がやった方が早い」は、今日の正解である。だが、明日のあなたを、単一障害点にする呪文でもある。
あなたは、仕事を抱えているのではない
もう少し、深いところへ降りていきたい。
あなたが本当に抱えているのは、仕事ではない。
不安だ。
「頼んで、雑にやられたらどうしよう。」
「頼んで、相手に嫌われたらどうしよう。」
「頼んで、それでも結局、自分が直すことになったらどうしよう。」
仕事を渡すというのは、結果のコントロールを、いったん手放すことだ。
そして、手放すのが怖い。
だから、抱える。
つまり、抱え込みとは、仕事の問題ではなく、信頼の問題だ。
人を信じて任せた結果、裏切られるのが怖い。
あるいは、過去に一度、裏切られたことがある。
そのとき心の中で、小さな設定ファイルが書き換わる。
「人には、任せない方がいい。」
その設定は、あなたを守るために書かれた。
当時は、正しかったのかもしれない。
でも、その設定が、今もずっと残っている。
そして、目の前の人とは、何の関係もない。
あなたは、目の前の人を信じていないのではない。
昔の記憶に、まだ運用されているだけだ。
抱え込みは、能力の証明ではない。手放すことへの恐怖が、能力という顔をして現れたものである。
手放すことは、雑になることではない
ここで、よくある誤解をほどいておきたい。
「人に任せる」と聞くと、多くの人はこう身構える。
「丸投げして、無責任になれ、ということか。」
違う。
手放すことと、放り出すことは、まったく別だ。
放り出すのは、関心ごと相手に押し付けることだ。
手放すのは、関心は持ち続けたまま、コントロールだけを譲ることだ。
この区別がつかないから、人は両極端になる。
全部自分で抱えるか。
全部投げて知らんぷりするか。
そのどちらでもない、真ん中がある。
仕事は渡す。
でも、見ている。
困っていたら、手を貸せる場所にいる。
ただし、先回りして奪わない。
これは、見守るという技術だ。
何もしないことではない。
何もしないでいられる強さを、保つことだ。
黙って見ている、というのは、放置とは違う。
それは、相手が自分の力で立ち上がる時間を、奪わずにいる、という積極的な行為だ。
手放すとは、相手を見捨てることではない。相手を信じる時間に、こちらが耐えることである。
任せられない人は、信じられない人ではない
最後に、あなた自身のことを話したい。
私は思う。
全部抱えてしまう人ほど、本当は、人を信じたい人だ。
信じたいのに、怖い。
任せたいのに、裏切られた記憶がじゃまをする。
だから、自分で抱えて、安全を確保する。
その姿は、頑固でも、傲慢でもない。
ただ、優しくて、臆病なだけだ。
そして、それは、悪いことではない。
ここで、いつもの二重否定をひとつ。
人を、信じなさい、とは言わない。
過去にあなたが学んだ警戒を、簡単に捨てる必要はない。
ただし。
その警戒を、目の前の全員に、自動で適用するのはやめてみてもいい。
昔の一人と、今日の一人は、別の人だ。
全部任せる必要はない。
半径三メートルの、信じられそうな一人に、ひとつだけ渡してみる。
それで、いい。
頼むのは、弱さではない。
頼めるというのは、相手を一人前として扱う、という敬意の表明だ。
「これ、あなたに任せたい。」
この一言は、相手にとって、評価の言葉でもある。
あなたが抱え込みをほどくとき、救われるのは、あなただけではない。
あなたに任されて、はじめて自分の力を試せる、隣の誰かもまた、救われる。
友達百人より、戦友三人。
その三人は、あなたが何かを手放した瞬間に、はじめて生まれる。
人を責めるより、構造を見る。
自分を責めるより、構造を見る。
あなたが全部抱えてしまうのは、あなたが弱いからではない。
そういう設定で、これまで生き延びてきた、というだけだ。
その設定は、もう、書き換えていい。
優しいまま、壊れないために。
抱え込みとは、強さではない。誰も信じずに済むように、自分を犠牲にする、いちばん静かな自傷である。
この記事は、いつか一冊にまとめたいと思っている「人生の構造学」の一編です。出世する方法でも、成功する方法でもありません。普通に働く人が、優しいまま、壊れずに生きていくための知恵を、ひとつずつ書き残しています。
次回は、「任せたのに、思った通りにならなかったとき」の話を書こうと思います。手放した後にやってくる、あの、口を出したくてたまらない感覚。あれを、どう構造で扱うか。
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もし今、抱え込みすぎて、心も体も限界に近いと感じているなら。ひとりで全部背負う必要はありません。降りる勇気と、登る勇気は、同じ勇気です。つらいときは、信頼できる人や相談窓口に、まず声を出すことを選んでください。
©shiraco|PMPおじさんの実践ノート @NoteCcm42090
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