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“卑弥呼〜雄略天皇” まで ちょうどいい数だけ古墳があった【感動】


❖ はじめに


前回までの記事に書いたように、雄略天皇が熊本県北部において国譲りを行なった天皇であることを私は確信している。
ただそれを立証するためには、まず “邪馬台国〜九州王朝” に実在したそれぞれの王の古墳が何処にあるのかを比定出来なければならない。
当然それに見合う規模の古墳の数が多すぎても少なすぎてもダメである。
ということで私の第六感をフルに働かせ調べ始めたところ、意外とすんなり納まるところに納まってしまった。

今回、下記の止事無き方々の古墳を比定した。
※( )内、一般的に認識されている“没年”
 ◾️【卑弥呼】(247〜248年)
 ◾️【台与】(260年頃)
 ◾️【応神天皇】第15代(310年)
 ◾️【仁徳天皇】第16代(399年)
 ◾️【履中天皇】第17代(405年)
 ◾️【反正天皇】第18代(410年)
 ◾️【允恭天皇】第19代(453年)
 ◾️【安康天皇】第20代(456年)
 ◾️【雄略天皇】第21代(479年)

比定するにあたり私が重視したのは、これまで別記事で幾度となく取り上げ、この地のランドマークとなっている「八方ヶ岳」「不動岩」がその古墳の場所から見えるか? ということだ。

 ① 八方ヶ岳(高天原)が見える【必要条件】
 ② 不動岩(高千穂)が見える【十分条件】
 ③ その他
 
以下に比定する古墳それぞれにおいて、①〜③も同時に検証していく。
それでは長くなるが、一気にいきたいと思う。



❖【邪馬台国~九州王朝】

【全域】

今回比定した古墳の位置と八方ヶ岳、不動岩にマークを落とした。全体の流れとして 右上→左下  に向かって天皇陵が移っているのが分かる。

次に、別記事「標高でみる邪馬台国(卑弥呼の墓を探る)」で取り上げたポイント地点の再確認。

【熊本県山鹿市のポイント地点】

ポイント地点
⓪ 八方ヶ岳      :標高1050m  ⇒ 高天原
① カニのハサミ岩:標高  800m
② X 地点       :標高  180m   ⇒【卑弥呼墓】
③ 木野神社      :標高    59m   ⇒近【台与墓】
④ 吾平山稜      :標高  270m   ⇒ 鸕鶿草葺不合尊陵
⑤ 不動岩(中) :標高  270m   ⇒ 高千穂、玄武
⑥ 熊野坐神社  :標高    53m   ⇒近【応神天皇陵】
⑦ 志々岐神社  :標高    57m   ⇒大国主大神、一宮
⑧ 岩倉立石巨石群:標高  180m

※  この時はまだ “応神天皇陵” の存在自体に気付いていなかった。


🔶【卑弥呼墓】

(築造年代不詳)

【卑弥呼墓(X地点)】
円墳を造るため周りの土が削られている
【卑弥呼墓(X地点)】

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯(見える: 以下同)
② 不動岩  ⇒ ✕(見えない:  〃 )
③ すぐ近くに山口救先生なる人物の御墓があるのだが、この古墳を見守っている気がする。

🔶【台与墓】

(築造年代不詳)

【台与墓(木野神社横)】

前方後円墳の可能性もあるが、円墳かもしれない。

【台与墓からの八方ヶ岳】
【台与墓からの不動岩】

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯
② 不動岩  ⇒ ◯
③ 木野神社の “一の鳥居”、“二の鳥居” はそれぞれ向いている方角が違うが、両方とも古墳の中心を向いている。

🔶【応神天皇陵】

(築造年代不詳)

【方保田東原遺跡と応神天皇陵】
(オレンジ色のマーク)

弥生時代の遺跡である「方保田東原遺跡」のすぐ近く。阿蘇中岳も見える場所であり、私は最初この近辺に卑弥呼陵があると予測していたが、思いもよらぬ発見となった。

【応神天皇陵】

東側は駐車場、西側には “将軍菩薩” がある。山鹿市民でもこの古墳を知らない人が多いのではないだろうか。

【応神天皇陵 西側の将軍菩薩】

“ありがとうございます” という言葉が自然と出てくる。

【応神天皇陵付近からの八方ヶ岳】
【応神天皇陵付近からの不動岩】

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯ (要 木伐採)
② 不動岩  ⇒ ◯    (要 木伐採)
③ 古墳横に立派な「将軍菩薩」。やはり知ってる人は知っているんだなと感動。一般人が近寄りづらい場所にあり、しっかり守られている感じを受ける。



❖【一本松公園】

【不動岩と一本松公園】
【直線に並ぶ3古墳】

「茶臼塚古墳」「小町塚古墳」「津袋大塚古墳」は横一直線上に並ぶが、「頂塚古墳」は少し離れており諸々考慮しても天皇陵に比定するには物足りない。

【津袋古墳群 案内板】

(茶臼塚古墳):標高 112m ⇒【仁徳天皇陵】
(小町塚古墳):標高 103m ⇒【履中天皇陵】
津袋大塚古墳):標高 90m  ⇒【反正天皇陵】
(頂塚古墳)  :標高 108m   ⇒【武内宿禰墓】


🔶【仁徳天皇陵】(茶臼塚古墳)

(4世紀後半〜5世紀初頭)

【仁徳天皇陵(茶臼塚古墳)】

改めて訪れたが、「八方ヶ岳」「不動岩」「菊池平野」すべてを望める最高の場所にある。
スーパーパワースポットとして今後人気の場所になる予感がした。応神天皇陵と同様に、仁徳天皇陵はこの古墳で間違いないと強く感じた。

【仁徳天皇陵の左奥に不動岩】
【案内板】
【仁徳天皇陵からの八方ヶ岳】
【仁徳天皇陵からの不動岩】
【仁徳天皇陵からの菊池平野(葦原中国)】

仁徳天皇の説話の中に「どの家にも竈の煙が昇っておらず、これにより民衆が炊事もできないほど貧しいことを知り、三年間、課税と労役を全て止める事にした。」という話があるが、まさしくこの場所から葦原中国全域を見渡していたのだろう。古墳をこの場所に造った理由はそこにあると確信した。

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯
② 不動岩  ⇒ ◯
③ 菊池平野 ⇒ ◯
一本松公園内では一番標高が高い場所に位置しており、菊池平野(葦原中国)が一望出来る。


🔶【履中天皇陵】(小町塚古墳)

(5世紀代)

【履中天皇陵(小町塚古墳)】

仁徳天皇陵より標高は10mほど低い。仁徳天皇の息子で次の天皇であった履中天皇陵とみて間違いない。

【外周歩道までが元の古墳の大きさ】

今の外観とは違い元はもっと大きな古墳だった。履中天皇は在位期間が短かったが、古墳からは威厳を感じる。

【履中天皇陵からの八方ヶ岳】

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯
② 不動岩  ⇒ ◯
③ 菊池平野 ⇒ ◯
眺望は隣の仁徳天皇陵と同様、素晴らしい。

🔶【反正天皇陵】(津袋大塚古墳)

(4世紀末〜5世紀前半)

【反正天皇陵(津袋大塚古墳)】

立派な古墳である。標高では履中天皇陵より13mほど低い。仁徳天皇陵から直線上にあることを踏まえても反正天皇陵で間違いない。
天皇在位期間が短かかったので履中天皇同様、父親の仁徳天皇の傍に埋葬されたのだろう。

【津袋大塚古墳】
【反正天皇陵からの菊池平野】


① 八方ヶ岳 ⇒ ◯ (要 木伐採)
② 不動岩  ⇒ ▲ 可能性有(要 木伐採)
③ 菊池平野 ⇒ ◯


🔶【武内宿禰墓】(頂塚古墳)

(5世紀前半)

【武内宿禰墓】

頂塚古墳は津袋大塚古墳群の中では北側の少し離れた場所に位置する。大きさは他の天皇陵と然程変わらない。周囲の竹藪を伐採すれば八方ヶ岳は見えるが、不動岩や菊池平野を見ることは出来ない。天皇陵としては物足りなさを感じる。

そこで、埋葬されていると考えられる人物が天皇以外で他にいないか調べてみたところ、私の中では3人の名が浮かび挙がった。
 ◾️住吉仲皇子・・・仁徳天皇の子
 ◾️高部皇子・・・・反正天皇の子
 ◾️武内宿禰・・・・景行天皇〜仁徳天皇に
           仕えた重臣

この中の “住吉仲皇子” と “高部皇子” は殺害されている。”武内宿禰” については私がどうこう言うまでも無い人物だが、御墓についてのエピソードとして、『日本書紀』允恭天皇5年7月己丑(14日)条の中で下記のようにその存在について言及されている。

『謀反を疑われた葛城玉田宿禰(武内宿禰の孫または曾孫)が地震のあった日の夜に武内宿禰の墓に逃げ込んだものの誅殺された』

頂塚古墳の埋葬者が天皇級の人物だとしたら、時代的にも武内宿禰の可能性が一番高い。

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯ (要 木伐採)
② 不動岩  ⇒ ✕
③ 菊池平野 ⇒ ✕



❖ 【岩原古墳群】

【岩原古墳群 案内板】

敷地内には熊本県装飾古墳館があり、熊本県内では最も有名な古墳群と言える。

【岩原古墳群】

北斗七星やカシオペア座を思わせるような配列。

【允恭天皇陵(岩原双子塚古墳)と
安康天皇陵(下原古墳)】


🔶【允恭天皇陵】(岩原双子塚古墳)

(5世紀後半)

【允恭天皇陵(岩原双子塚古墳)】

約40年と長く在位した允恭天皇だからこそ築造出来た立派な前方後円墳。

【允恭天皇陵からの八方ヶ岳と不動岩】

八方ヶ岳も不動岩も見事に拝む事が出来る。

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯
② 不動岩  ⇒ ◯
③ 菊池平野 ⇒ ✕


🔶【安康天皇陵】(下原古墳)

(5世紀後半)

【安康天皇陵(下原古墳)】

数ある岩原古墳群の中で、何故この岩原双子塚古墳横の下原古墳を安康天皇陵に比定したのかを説明する。
その前に安康天皇について少し。
根使主に騙された結果、色々あって最終的に殺害されている。在位は僅か3年ほどでその後は弟の雄略天皇が即位。

まず、この下原古墳の場所について、允恭天皇陵(岩原双子塚古墳)から見て八方ヶ岳方向に造られている。普通に考えれば天皇と天神の間に造るなど有り得ない場所である。
この場所は同じ允恭天皇の息子で安康天皇の弟、雄略天皇が選定したに違いない。情に深い雄略天皇だからこそ出来た事なのだろう。

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯
② 不動岩  ⇒ ◯
③ 菊池平野 ⇒ ✕



❖【清原古墳群】

【清原古墳群とトンカラリン】

江田船山古墳以外は雄略天皇の子、星川皇子や磐城皇子の古墳か(正直あまり興味ない)。

【雄略天皇陵(江田船山古墳)と京塚古墳】


🔶【雄略天皇陵】(江田船山古墳)

(5世紀末〜6世紀初頭)

【雄略天皇陵(江田船山古墳)】
【雄略天皇陵からの八方ヶ岳】

① 八方ヶ岳 ⇒ ◯
② 不動岩  ⇒ ✕
③ 江田船山古墳からは銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直刀か出土。
(現存の長さ91cm・幅4cm・厚さ0.8cm)
大刀の峯に75文字が刻まれ、また背の部分両面に「ペガサス」「鳥・魚」の文様が描かれている。

〇銘文
「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利)弖、八月中、用大鐵釜、并四尺廷刀、八十練、□(九)十振、三寸上好□(刊)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也」

※説明
「天下を治めていた獲加多支鹵大王(雄略天皇456~479年)の世に、典曹(役所の仕事)に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。八月中、大鉄釜を使って、四尺(1m強)の刀を作った。刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産は失わない。刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安」(出典:菊水町史 江田船山古墳編)



❖ 最後に

当たり前だが私は歴史学者でも考古学者でも何でもない。だから書いている内容も確証はなく、薄っぺらいと感じる方もいるでしょう。
また、九州王朝について散々うんちくを語っているものの、その全体像にはあまり興味ない。
興味があるのは、「熊本県山鹿市」なのである。私がnoteに残したいと思い最初に書いたのは「四神相応の地(熊本県山鹿市)」だった。
それからあれよあれよといつの間にかここまで自然と繋がってきてしまった。

因みに、九州王朝についてはその支持者においても一般的に太宰府を首都として云々、と言われるが、もしかしたら雄略天皇の国譲りの後、7世紀頃まで太宰府を中心とした九州王朝が続いていたのかもしれない。だが残念ながら今の私にはまだそこを深堀りしたいという欲求が湧いてこない。
山鹿市の深堀りがもう少し続くかもしれないが、それにケリがついたら次に調べて深堀りしたいと思っているのは、「熊本県球磨郡」
ただ、最近「熊本県阿蘇市」にも興味が出てきたのでそっちが先になるかもしれない。
例えば「農村公園あぴか」横の “二辺塚” は火山という事だが、近くを通るたびに違和感を感じて仕方がない。

話を戻すが、山鹿市の凄さを証明するにはやはり「卑弥呼の墓」「金印」「銀印」「銅鏡」「徇葬者の奴婢百余人」など、考古学で証明される現物を掘り当てるしか無いのだろう。
私の第六感になるが、そう遠くない未来に何かとんでもない物が山鹿市から見つかるような気がしてならない。



❖ 別添資料

🔶【八方ヶ岳の位置】

【八方ヶ岳と火山群の位置関係】

私が今まで示してきた図の中で一番のお気に入り。


🔶【涅槃岩付近】

【涅槃岩付近を対岸から撮影】

対岸からはどこが涅槃岩か分からなかった。
山鹿市の役人はこの地の歴史をどこまで把握しているのだろうか。

【涅槃岩付近を対岸から撮影】
【同じ場所から不動岩を撮影】
【涅槃岩対岸の撮影場所】


🔶【志々岐神社】

【志々岐神社 消された点線箇所】
【見事な灯籠と石垣】
【随神門前から見える本殿】
【狛蛇(阿)】
【狛蛇(吽)】
【神楽殿から中央の八坂神社】
【八坂神社の奥に大国主大神】
【大国主大神前に猿田彦大神】
【大国主大神 正面】
【大国主大神 右側「一宮」の扁額】
【大国主大神 後面】
【大国主大神 左側】



今回はここまで。

しかし、応神天皇陵を見つけた時には本当に感動してしまった。



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