【神回!!】 八方ヶ岳 (聖地 高天原) 〜 景行天皇が見た景色 〜
今回のタイトルは、私が尊敬するYouTuberのチャンネル【kazu languages】風につけてみた。彼は25歳で既に20ヶ国以上の言語を操る。
何と言っても “女好きで自然体” という点に共感を持てる。実に羨ましい。
さて、これまで何度も「八方ヶ岳は高天原である」と発信し続けてきたが、視覚的に感じてもらうために新たに写真を撮ってきた。
あらためて八方ヶ岳について
◆【八方ヶ岳(やほうがたけ)】
熊本県山鹿市と菊池市にまたがる標高1,052mの火山で、「九州百名山」の1つ。別名「矢筈岳(やはずだけ)」とも呼ばれ、どこから見ても同じ山容に見える特徴的なドーム状の姿で親しまれる。
◾️特徴: 標高1,052m(または1,051m)、別名「矢筈岳」。
◾️山頂: 360度のパノラマで阿蘇五岳や雲仙方面を望める。
◾️時期: 初夏のシャクナゲ、秋の紅葉、冬の霧氷など四季折々の自然が楽しめる。
◾️アクセス: 熊本市内から約90分。主な登山口は矢谷渓谷(山鹿市)、上虎口(菊池市)。
◾️名所: カニのハサミ岩、チョーナ岩などの奇岩がある。
◆「どこから見ても同じ山容に見える特徴的なドーム状の姿」
これが重要なポイント
まずは他の記事で載せた写真・図から




次に新たに撮った写真を載せるが、少し霞がかっていて見えにくい写真が多く申し訳ない。いつかキレイに撮ることが出来たら差し替えたいと思うのでご勘弁。

① 佐賀県杵島郡大町町(喰道楽 大町店)
② 佐賀県佐賀市嘉瀬町(嘉瀬川沿い)
③ 佐賀県神埼郡吉野ケ里
④ 熊本県菊池市今
⑤ 熊本県菊池市森北
⑥ 熊本県菊池市泗水町
⑦ 熊本県合志市上庄(中林1号墳)
⑧ 熊本県上益城郡嘉島町井寺(浮島神社)
⑨ 熊本県熊本市南区城南町隈庄(隈庄城跡)

初めて観たときは感動した

なんとも神秘的な形










これだけ八方ヶ岳がキレイに見える場所にあるという事は、相当の力を持っていた首長の御墓に違いない。





う〜ん、PCで見るとまぁ何とか見えるが携帯で見るとやっぱり薄い!
写りが悪いとインパクトも半減してしまうので、またハッキリ見える時に同じ場所から撮って差替えたい。
◆ 女王国と狗奴国の境界
最後の「隈庄城跡」近辺は古代史を語る上でとても重要な場所である。その昔、肥後国が九州で唯一の大国であった時代にこの近辺が国府だったと言われている。また近くには約3万5000年前の旧石器時代中期~後期の遺跡である有名な「沈目遺跡」や、白鳳時代~奈良時代(約1200~1300年前)に建てられた熊本県最古の寺院跡「陣内廃寺跡」、500基を超える古墳があったと言われる「塚原古墳群」などがある。
サラッと書いたがとても重要な地域であり、弥生時代に女王国(邪馬台国)と狗奴国が戦っていた頃、狗奴国がこの地を前線基地としていたと私は考えている。

白点線辺りが境界だったか
この境界近辺の熊本県上益城郡益城町小池に「飯田山」という見晴らしの良い山がある。「狼煙」を連絡手段としていた時代においてはとても重要な山だったはずであり、女王国と狗奴国の間で取り合いになっていた可能性が高いとみる。
実は今でもこの白点線の北側と南側では少し壁を感じる事がある。加藤清正と小西行長の時代よりもっと昔からそういうDNAが受け継がれているのかもしれない。


立田山は阿蘇山(阿)と雲仙(吽)のほぼ中間地点
立田は竜田、龍田とも書く。龍を静めている場所なのかもしれない
◆ 肥国
話は変わるが、なぜ飛び地なのに肥前国と肥後国を合わせて「肥国」と言うのか。律令制云々というのは別問題として、有明海に接する国、とすれば筑後国の柳川市や大牟田市もガッツリ有明海に接している。阿蘇山や雲仙をもって「火国」が肥国に変わったというのも佐賀県と福岡県の県境を見たときシックリこない。今回、八方ヶ岳の写真を撮るため佐賀県を訪れた際、佐賀市や神埼郡からは八方ヶ岳が見えたが、筑後川を渡ると八方ヶ岳が見えなくなるのを見て、これも肥国の境となる一要素なのではないかと思った。火国よりも神秘の「秘国」の方がシックリくる。
因みに、鳥栖近辺の肥前と筑後の境は、移築前の筑紫神社から南に線を引いた東側が筑後、西側が肥前、だから高速道路を走ると佐賀県と福岡県が入り乱れているというのを故河村哲夫氏のYouTubeで見たことがある。
◆ 吉野ケ里遺跡
初めて吉野ケ里遺跡を訪れた。
古代史に興味がなかった頃にはこんな場所誰が来るんだろうと思っていたが、いやいやどうして素晴らしい場所だった。
私は、吉野ケ里は邪馬台国ではないと鼻から決めつけていたが、思っていたよりデカい、広い。でもやはり・・・。
さて、吉野ケ里遺跡と言えば
「北墳丘墓」⇒「北内郭」⇒「祭壇」 このラインが「雲仙」に繋がっており、雲仙を聖なる山として拝んでいたと言われている。これについては、北墳丘墓内の展示室でも説明されていた。
(当然ながら吉野ケ里遺跡から阿蘇山は見えない・・・が、)


今回の訪問で吉野ケ里遺跡から八方ヶ岳が見えることは分かった。しかしこれだけでは終わらなかった。上の図を見て欲しい。よく見ると八方ヶ岳の先に ”阿蘇山” がある。これも新たな発見であったが、実はもっと大きな発見があった。

吉野ケ里遺跡と八方ヶ岳を結んだレイライン上に「玉垂宮」と「岩戸山古墳」が並んだのである。
古代史において筑後地方で最も語られる場所と言えば、「高良大社(筑後一の宮)」と「岩戸山古墳」だろう。「玉垂宮」の祭神は高良大社とほぼ同じであり、九州王朝が隠される過程でその存在を小さくされていった可能性がある。
「玉垂宮」とは・・・(大善寺玉垂宮HPより)
大善寺玉垂宮の創建については謎が多く明らかではないが、景行天皇の皇子国乳別(くにちわけ)皇子を始祖とする水沼君が当地を治められたとき、その祖神を祀ったのが玉垂宮の前身と考えられ、平成一五年(二〇〇三年)に一九〇〇年御神期大祭を終えた古社です。(社伝)
御祭神は、玉垂命(藤大臣(とうのおとど)・高良大明神とも称す)、八幡大神、住吉大神が祀られています。藤大臣は神功皇后の三韓出兵に大功があり、玉垂宮と神功皇后との関係が深い。『吉山旧記』によれば、藤大臣は仁徳天皇五五年に賊徒退治の勅命を受け、この地に下り筑紫を平定し、同五七年(三六九年)高村(大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫の政事を行ったが、仁徳天皇七八年(三九〇年)にこ の地に没し祀られ、高良玉垂宮と諡(おくりな)されたと伝えられます。

「岩戸山古墳」とは・・・(Wikipediaより)
岩戸山古墳(いわとやまこふん)は、福岡県八女市吉田にある古墳。形状は前方後円墳。八女古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。九州地方北部では最大規模の古墳で、6世紀前半(古墳時代後期)の築造と推定される。
被葬者は、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つである。筑紫君磐井は『古事記』・『日本書紀』に反乱伝承が記されている(磐井の乱参照)。また『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所収)には岩戸山古墳の状況や位置が記されており、別区では裁判を思わせる記述もある。同文によると、磐井は生前から墓を作っていたが、戦に敗れ放棄したという。なお、古くは石人山古墳を磐井の墓とする説が主流であった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在まで定説となっている。

下の図を見て欲しい。かつて仮に海抜5m以下が海、若しくは干潟だったとすれば、吉野ケ里遺跡(海抜約20m)と玉垂宮(海抜約8m)の間に特に何もないのも頷ける。海抜は今も当時もあまり変わらないとの話もあるが、弥生時代の遺跡が見当たらない。

しかしこうして見るとやはり熊本平野、菊鹿盆地は広い。

もし、吉野ケ里遺跡と八方ヶ岳を結ぶレイラインが本物であるとすれば、時間軸で存在した順番を考えると、
「八方ヶ岳」⇒「吉野ケ里遺跡」⇒「玉垂宮」⇒「岩戸山古墳」
の順になる。
ここで、なぜ吉野ケ里遺跡では八方ヶ岳ではなく雲仙を拝んだのか、という問いがでてくる。その答えは景行天皇の九州巡幸にあると考える。
つまり、吉野ケ里遺跡では当初よりハッキリ視認できる雲仙を拝んでいたが、景行天皇が九州巡幸の道中において知った神々しい八方ヶ岳と阿蘇山の存在を吉野ケ里に着いた時に伝えたのではないだろうかと。当然ながら吉野ケ里に住む人間からすれば今更感がある。
ここで先ほどの順番に「景行天皇の九州巡幸」が入るとこうなる。
「八方ヶ岳」⇒「吉野ケ里遺跡」⇒「景行天皇の九州巡幸」⇒「玉垂宮」⇒「岩戸山古墳」
◆ 景行天皇の九州巡幸
今回は河村哲夫氏と 志村裕子氏の著者「景行天皇と日本武尊―列島を制覇した大王」(原書房・2015)から下記図を抜粋させていただいた。

河村哲夫氏の語りは実に面白く、亡くなられてもなおyoutubeの動画で観続けられるとは便利な時代になったものである。
◆ 景行天皇と阿蘇神社
ちょっと長くなり過ぎたのでこの辺りで一旦中締めさせて下さい。
