【分析】ミスチル『GIFT』の「僕」と「君」両方とも多分あなたです🫵
6月の20時、季節外れの少し冷える夜風を感じながら、ご飯を食べに散歩へ出発しました。
スマホを持ちながら時々路端に立ち止まっては、ポチポチと思考を巡らせる。15分で行ける距離に1時間掛ける。ゆっくりと時間を過ごして、また考え事をしながら帰宅した24時。その後、ベッドで過ごした長い時間。その間に、私の頭の中で謎が解け、「歌詞の段落ごとにテーマがバラバラすぎないか」と思っていた一つのパズルが、組み上がっていく感覚がありました。
今回の話題はMr.Childrenの『GIFT』です。
(6分ほどの楽曲です。初めての方ももしよければ……)
この曲について、少し突飛に聞こえるかもしれませんが、「この曲の『僕』と『君』は両方ともあなた自身のことである」という話をさせてください。
専門的な言葉もゆっくりと交えながらになりますが、歌詞の謎解きにお付き合いいただけると嬉しいです。私たちの生きる社会の息苦しさや、人生の「選ばれなかったもう一つの可能性」をどう引き受けて生きていくのかという、切実なテーマについて、こんなことを考えてみました。
新しい『GIFT』の解釈は、「生きるための頑張り」や「生きづらさ」に光を照らし、リボンを結ぶものになり得ると期待しています🎀
参考文献があるところはカッコ書きで記していきますので、リンクを辿ったり、当該部分を読み飛ばしたり、適宜調整したペースでご活用いただけるとありがたいです。
【分析】ミスチル『GIFT』の「僕」と「君」両方とも多分あなたです🫵
クィア・リーディングが王道解釈になるまさかのケース?
最近、文学や映画、音楽などの批評において「クィア・リーディング」という言葉を耳にすることが増えました。これは簡単に言えば、マジョリティ(多数派)向けに作られた既存の作品を、あえてマイノリティ(少数派)や多様性の視点から読み直してみるという手法です。「異性愛の物語に見えるけれど、同性間の連帯として読むこともできるよね」といった具合に、隠された別の意味を見出したりするアプローチです。
マジョリティの作品と思われている中に、マイノリティの旗を立てること。マジョリティを暗黙の了解でイメージ(想起)する癖 = 固定観念を、揺さぶること。
現実で周縁化されてきた人たちが、カルチャーの中でも同じように不可視化されるのを防ぐために、とても重要な試みです。
無論仕方がないことですが、マジョリティ向けに作られた作品をクィア・リーディングする以上、「マジョリティの場所を間借りしている感」が滲み出るときもあります(それは悪いことではなく、既存の当たり前や規範における不平等さを露わにし、脱構築している価値があります)。
(「クィア理論と『日本』『近代』『文学』―欲望としてのクィア・リーディング―」、『言語文化研究』28巻2号、2015年, pdf)
ところが、今回の『GIFT』に至っては、様相が異なります。
結論から言えば、「むしろ、新解釈を導入しないと、この歌詞の構造は不可解だ」「導入すれば、全歌詞の意味が通る」と思ったのです。そして、「一番歌詞がひかり輝くのは、クィアな読み方をした時だ」と、密かに思い至りました。
それは奇をてらった深読みではなく、テクストの深層に沿った18年来の王道の解釈とすら思えるのではないか、というご提案です。
詰まるところ、これこそが、各所で匂わされている作者の真意ではないかとすら思わされるほどでした。
ホモソーシャル(ホモソ)という言葉の普及者としても知られる文学研究者 イヴ・セジウィックは、批評的な読解を「パラノイア的読解(Paranoid Reading)」と「修復的読解(Reparative Reading)」の二つに分類することを打ち出しました。ざっくり言うならば、前者(パラノイア的)はテクストに対して疑い深く、先回りして防御するか問題点を暴露しようとする態度であり、後者(修復的)は悲観的な認識を認めた上で、なおも創造的に喜びや希望を探そうとする態度と考えると、イメージが掴みやすいかと思います。
(「ホモソーシャル概念の多義性を使い尽くす」、2022年, pdf)
(「女同士の絆の認識論――『女性のホモソーシャリティ』」、2006年, pdf)
(「男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望」、2004年, pdf)
(「Paranoid Reading and Reparative Reading」、1997年, pdf)
今回は、まず前半で、精読や参照を通した前者の読みから謎を掘り出して、新解釈の組み立てを行います。次に後半で、「僕」と「君」に具体的なケースを想像しながら修復を図って、温かな解釈(傷つきやすさに対するエンパワーメント)を創造し、最後にはそのケースから私たちが持ち帰っていけることを考えていく予定です。
これまでの解釈と実はカウンター性があるという話
まず、『GIFT』といえば、2008年北京オリンピック・パラリンピックのNHK放送テーマソングとして日本中で流れた楽曲です。「大切な人への感謝の歌」や、「金・銀・銅(勝ち負け)だけじゃない、誰もがオンリーワンの輝きを持っている」という、ヒューマニズムに溢れた温かい応援歌として広く親しまれてきました。
けれど、少し立ち止まって考えてみます。
オリパラという舞台は、理念はどうあれ国家が威信をかけ、0.01秒の差で「勝者と敗者」をはっきりと分かつ、二元論(白黒をつける)とナショナリズムの祭典です。
そのど真ん中に向かって、「白か黒で答えろという難題を突きつけられ」 「白と黒のその間に 無限の色が広がってる」 「一番きれいな色ってなんだろう」 と問いかけ、勝ち負けの二元論的価値観そのものを無効化しようとしています。その時点で、この曲は極めて強烈なカウンター(抵抗)の性質を帯びています。国民的ソングというデコレーションされたパッケージの裏側で、世間のテンプレではないことを堂々と歌っているのです。このカウンターの精神が、新解釈にあたって、ゆくゆく活きてくると思います。
よくある恋人との話と読んでもクィアネス
本題のリーディングに入る前に、J-POPのお決まりに倣い、「君」を実在のパートナーとして一度読んだとしましょう(「普通の」恋人を考えてみます。ロマンティック・ラブ・イデオロギーで想定される異性の恋人というのが適切かもしれません)。それでもなお、この歌詞には、世間の規範にはどうしても収まりきらない描写が多々あります。
哲学者 エリザベス・ブレイク氏の造語で、「アマトノーマティビティ(恋愛伴侶規範性)」という言葉があります。
これは「恋愛と友情には一貫した線引きと上下があり、誰もが恋愛をし、結婚して家庭を持つことこそが普遍的な幸せである」というように、一対一(モノガミー)の長期的な恋愛と性愛の組合せが標準であり、他の関係性のあり方や一人でいることよりも優れているとする、社会に根付いた恋愛至上主義や結婚規範のことです。
(Amatonormativity - Elizabeth Brake)
(「現代日本における恋愛伴侶規範性 : アロマンティック/アセクシュアル当事者へのインタビューを通じて」、2023年, pdf)
(「Thinking Relationship Anarchy from a Queer Feminist Approach」、2018-2019年, pdf)
(「Do Subversive Weddings Challenge Amatonormativity? Polyamorous Weddings and Romantic Love Ideals」、2018年, pdf)
ところが、『GIFT』に登場する二人は、この規範などから明らかに逸脱しています。
たとえば、「君に似合う色探して やさしい名前をつけたなら」 というフレーズ。
家父長制や資本主義の枠組みの中にある「普通の男女の恋愛」であれば、「彼氏・彼女」「夫・妻」という、社会がすでに用意した既製服(ラベル)が存在します。しかし、この二人はその既存のラベルを拒否します。わざわざ自分たちで「無限の色」の中から「やさしい名前」を探して名付ける必要・動機がある時点で、この二人は既存の社会制度や「恋愛・性愛・結婚」の "三位一体" には収まらない、独自の「クィアな(規範外の)関係性」を結んでいることが示唆されています。
(「ロマンティック・ラブ・イデオロギー再考」『理論と方法』31巻1号、2016年, pdf)
さらに、「果てしない旅路の果てに『選ばれる者』とは誰? たとえ僕じゃなくたって それでもまた走っていく」 という部分。
一般的な恋愛であれば、相手から「選ばれなかった」時点で関係は大抵終わりですし、また走っていくのは場合によってはストーカー行為になりかねません。
「相手から選ばれなくても、自分の人生をまた別で走っていく」という解釈ならそれを回避できますが、その後の歌詞にある「君」と「僕」のやりとりからは、文脈上浮いてしまいます。「それでもまた走っていく 走っていくよ」と、「走っていく」を2回繰り返してまで、相手に聞こえるかもしれない(終助詞「よ」は聞き手の存在を前提とします)のに、別れた後の話をするのは胸に刺さります。
しかしここでは、選ばれなくても関係性が継続し、共に走っていく決意が、後半で暗示されています。
つまり、ここで言うわざわざ鍵括弧の付いた「選ばれる者」とは、パートナーから選ばれることではなく、「国家や社会制度(結婚市場)から『正当なカップル』として選ばれ、承認される者」のことだと解釈できます。
文化人類学者 ゲイル・ルービン氏が捉えた「チャームド・サークル」でいうところの、社会から祝福される円(サークル)の内側にいない、すなわち周縁化された外側の関係性だと考えることも可能です。
社会制度からは選ばれなくても、君と共に走る。これはまさに、規範の枠外で生きる人々の連帯の歌として読むことができます。
それに、仮に「結婚相手に選ばれなくても、別枠の関係で走っていく」という解釈を取るにしても、結婚後もその相手(配偶者)以外と、親密だった関係を継続させる時点で、(シリアル)モノガミー規範((同時には)一対一の排他的な関係を築くべき)からは、そこそこ逸脱しているように思えます。
では、「恋人以外の解釈では?」と、この部分に特化して読むなら、アスリートの自己研鑽というオリパラ的な文脈が当てはまります。
しかし、そもそも作詞した桜井和寿さん自身、2008年のBARKSのインタビューで以下のように語っています。
アスリートの人が、この曲を聴くと元気が湧くとかっていうような曲にはしたくないな、と。それこそ、予選で負けた人とか、または、勝ち負けのない日常のなかで一生懸命暮らしている、要は、オリンピックを見る側の普通の人たちに、どうやって届くかっていうことを一番考えてました
また、華やかな祭典を前にして「負けたシーンばっかり、浮かんできちゃう」「(晴れの舞台を煽るみたいな目線は)ないですね(笑)」とインタビューで吐露しているそのスタンスは、勝者だけを称える二元論への明らかなカウンターです。そうなると、「『選ばれる者』とは誰? たとえ僕じゃなくたって」という一節は、勝利からこぼれ落ちた敗者や、その土俵に上がっていない日常を生きる人々の目線に重ね合わされます。
ただ、勝負の敗者へのエールとして曲を受け取るにしては、後述する通り「知らぬ間に増えていった荷物もまだなんとか背負っていけるから君の分まで持つよ だからそばにいてよ」という歌詞との相性が、今一つになってしまいます。自分自身のことで手一杯なはずの「選ばれなかった者」が、他人の分の荷物まで背負う余裕は本来乏しいからです。
(Mr.Children、NHK 北京オリンピック放送テーマソング「GIFT」特集 INTERVIEW - BARKS)
そもそも「君」が他人だと歌詞が"変"?
このように「恋人への歌」として読んでも、「アスリートの歌」として読んでも、十分にカウンターソングなのですが、歌詞をさらに解像度を上げて読み込んでいくと、どうしても「君を他者」とするには不自然な箇所がいくつか浮かび上がってきます。ロマンチックな歌のお約束だからと流さずに、少しバカ真面目に考えてみます。具体的な歌詞を並べてみましょう。
① 他人のアイデンティティを手渡しできるという"傲慢"さ
「本当の自分」を見つけたいって言うけど
「生まれた意味」を知りたいって言うけど
僕の両手がそれを渡す時
ふと謎が解けるといいな 受け取ってくれるかな
恋人説なら、メサイアコンプレックス(救世主願望、メサコン)傾向が疑われてしまいそうです。相手が「本当の自分とは何か」「自分が生まれた意味は何か」という、人生の根幹に関わる実存的な悩みを抱えている時。いくら愛する恋人だからといって、「僕が両手でそれを渡してあげるよ。そうすれば謎が解けるよ」と考えるのは、さすがに傲慢というか、相手の主体性を奪いかねません。他者のアイデンティティはそんな手渡しで解決できるものではないはずです。
恋人からこう言われたら、「折角のお気持ちだし受け取ろう」とはなっても、それで「本当の自分」や「生まれた意味」まで解けてほしいと期待されたら、重ための大風呂敷だなぁと感じちゃいますし、ここは喜んだ方がいいのかな??とか悩んでしまいそうです。
まれに見られる親子説でも考えてみましょう。子どもが十分に小さければ、「僕」と「君」の非対称性はこれで解決されます。「受け取ってくれるかな」という子に対する親のやさしい願いはごもっともです。しかし、親の庇護を必要とする子どもが実存の悩みを抱いているというのはあまりに早熟ですし、子どもが思春期を迎えてそうした悩みにぶち当たっているのであれば、もう親がおんぶに抱っこで渡してあげるのは時に反発を生むものでしょう。
② 意思決定の不自然さ
もうやめにしようか? 自分の胸に聞くと
まだ歩き続けたいと返事が聞こえたよ
前後の歌詞からするに、隣にパートナーがいて、共に果てしない旅路を歩んでいるはずです。それなのに、旅を続けるかどうかの重大な意思決定を、相手に相談するのではなく「自分の胸(だけ)」に聞いています。恋人の疲労を顧みていないというか、共同歩調としては些か傍若無人(傍らに人無きが若し)な不自然さが感じられてしまいます。
二人の体力や服装は異なっていたりするのに、一緒に歩いていて大事なことを聞いてくれないのは、普通に寂しいですし、「独断専行で旅のゴールに突き進むだけじゃなくて、横にいる人のことも考えてよ」という思いが沸々としてしまいます。
③ 他人の人生の課題を背負うこと
知らぬ間に増えていった荷物も
まだなんとか背負っていけるから
君の分まで持つよ だからそばにいてよ
それだけで心は軽くなる
「荷物」とは、生きていく上で背負わざるを得ない心理的・社会的な課題の比喩です。恋人をサポートすることはあっても、相手の人生の課題(荷物)を「君の分まで持つ」と完全に肩代わりしてしまうのは、どこか共依存的で、自他の境界線が曖昧で越権的な響きがあります。
相手の課題まで背負うから、その見返りにそばにいてもらう。そんな共依存をしても、「心が軽くなる」のは一時的に過ぎないことが多いですよね。
そもそも「知らぬ間に増えていった荷物」があって、それを「まだなんとか背負っていける」かどうかという具合の人が、「荷物を持つよ」と申し出てくれていても、さすがに恋人としても心配になります。一人で抱え込まれて後で暴発……というのは、何としてでも避けたいところです。
こうして「マジョリティの恋愛ソング」という前提で、バカ真面目に読むと、ここの「僕」はややもすれば独善的とも言えるような不思議なキャラクターになる解釈に至ってしまうのです。
もとを正せば、この曲、パラリンピック・オリンピックの応援歌とも読めたり、恋人へのラブソングとして読めたり、あるいは身近な人への感謝だったり、複数の解釈がある多義的な曲です。それは、それぞれの解釈だと感じさせる要素が各所に散らばっているから、起きている現象だとも言えます。
純粋に「テクスト」として最初から最後まで歌詞を読むとすると、なんだか、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、未回収のままテーマが散らかっているように思えます。
今回はバカ真面目な読みをしているので、こうした違和感を覚えるだけかもしれませんが、さらに読み進めてみます。
ユング派のいうところの「君」
ここで、この歌詞の何だか釈然としない感じを解消するための、補助線を引いてみました。少しアクロバティックかもしれませんが、「君」とは、外部の他人ではなく、「僕」の心の中にいる「もう一人の自分(抑圧された自分、選ばなかった ifの自分)」である、というユング派の分析心理学的な視点です。
ユング心理学では、人間の心は社会に適応するための表向きの顔である「ペルソナ」と、その裏側で無意識に抑圧された感情や、生きられなかった可能性である「シャドウ(影)」から成り立っていると考えます。この抑圧された自分(シャドウや、カール・ユングの古典的な概念でいうところの "アニマ" / "アニムス")の存在を認め、いつか殺めたかもしれない自分と対話し、自分の中に統合していくプロセスを「個性化(自己統合)」と呼びます。
※ "アニマ" / "アニムス" には、生得的・本質的な男性性や女性性を想定しており、女性性の描き方も家父長制的であるという批判が長らくあります。しかしながら、心理学者 河合隼雄の「たましいの元型」を取り入れ、ジェンダー・ニュートラルな無意識や「個性化」に基づいたユング理解を採る研究もあり、今回はこの「個性化」のプロセスについて考えていきます。
(「ユングのアニマとアニムス――フェミニストの批判を受けて―― 」『2012年度 静岡大学人文学部社会学科 卒論要旨集』第9号 , pdf)
そして、この「君 = 内なるもう一人の自分」という視点を導入した瞬間、先ほどの不自然な歌詞のパズルが、噛み合い始めます。
「本当の自分」や「生まれた意味」に苦しんでいるのは、この解釈では恋人ではありません。社会の「白黒(二元論)」に適応するために抑圧し、心の奥底に閉じ込めてきた「内なる自分(君)」の悲痛な叫びです。
その君に対して、現実の「僕」が、社会との摩擦で 「グジャグジャになって 色は変わり果てた gift(痛みや違和感そのもの)」 を、「これが君の探していた答えだよ」と両手で差し出す。
その「自己受容」の儀式が行われた瞬間、「なぜ自分はこんなにも世界としっくりこないのか」という人生最大の謎が、ふと解けるのです。
だからこそ、意思決定は「自分の胸」に聞くのが当然ですし、君の分の荷物(生きられなかったもう一つの人生の苦悩)を背負うことができるのは、自分自身だけなのです。
地平線の先に辿り着いても
新しい地平線が広がるだけ
印象的なこの部分。足を進めて新しい景色に辿り着くことは出来たとしても、目指したモノそのものには届かないという限定性が歌われていることがわかります。思い通りにいかないことが多くとも、時に下ったりまた昇ったりしながら、今ここにない先に近づこうとする意志で進む。この執念にも似た未完の道程が、個性化と響き合います。
降り注ぐ日差しがあって
だからこそ日陰もあって
そのすべてが意味を持って
互いを讃えているのなら
もうどんな場所にいても
光を感じれるよ
物理的には、どんな場所にいても光を感じられるとは言い難いですよね。では何のための比喩でしょうか。
勝者と敗者が讃え合っているという説明も心を打つのですが、「白か黒で答えろ」という難題の過酷さを描いているにもかかわらず、ここでは「そのすべてが意味を持って」と美化してしまうのは、少し敗者に残酷な気もしてしまいます。
歌詞全体を通して考えるなら、いわばまさに、ペルソナ(日差し)とシャドウ(日陰)の陰陽互根を説明しているといえます。社会に適応した自分だけが自分なのではなく、抑圧されてきた日陰の自分もまた、自分を構成する不可欠な要素であると抱きしめられた時、人は初めて心の全体性を取り戻し、どんな場所にいても内なる光を感じることができるようになるというのは、とてもユング派的な表現です。
「白か黒で答えろという」 どちらか一方だけを選ばせる「難題」を止揚(アウフヘーベン)、要すれば日差しと日陰の対立を超えて高次で統合することに成功したのです。
比喩の話を続けると、歌詞の中で「僕」が「君」に送るものは、花など形があるものではなく「色」です。比喩としての「荷物」や「壁」「gift」など以外、有形物が出てきません。
また、歌詞は「僕」が吐露している構造になっていて、「君」についてわかることは「『本当の自分』を見つけたい」「『生まれた意味』を知りたい」と言ったことと、「僕」とともに迷っており、ラストには胸の奥でひかる gift をくれたことくらいです。
『GIFT』の歌詞において、あれだけ近い距離にいる「君」は実体を感じさせる行動をしていないのです。
そうであるなら、歌詞中の「君」は精神的な産物であり、実存的な願いを「僕」に突きつける存在だとする解釈が湧いてきます。「君」が内なる存在であると仮定することで、「君」の情報量の欠落がなくなり、歌詞末尾の gift のやり取りも理解しやすくなるのです。
これとは対照的に、ミスチルのラブソング(と受容されがちな曲)では「君」が具体的な行動を取ることはしばしば見受けられます。
(「花びらを撫でてたろう」と思われる『youthful days』や、「時には同じ歌を口ずさんでたり」する『Your Song』など)
一方で『GIFT』(2008) と同じく、例外の一つである『365日』(2010) であっても、「君」は稲光を放つという比喩的な行動だけは取っています。また、「君の心のキャンドル」という表現があるため実在の二者の歌として読み解くことが可能です。
実際、『365日』は、エイズ予防の啓発に端を発して、「命の尊さや、相手を思いやる気持ちの大切さといった、ラブチェックの根底にある思いを込めた」と、エコレゾ ウェブでの小林武史さんとの対談で、ap bankの活動に触れながら桜井さんが明言していますし、親子や夫婦にとっての「365日」の愛の歌でもあるようにもっと自由に受け取ってほしいと述べています。なお、二人によると、ラブチェックは性病検査を含めた愛の確認のことを指します。
また、性別問わず感染するHIVですが、エイズ予防というテーマを歌っていることからも、この時期の桜井さんの念頭に典型的な異性愛カップル以外の姿もあったことが示唆されます。
(小林武史 × 桜井和寿 - エコレゾ ウェブ)
今回の記事では、クィアという言葉を使っていますし、『365日』の話題とともに、その歴史を学んでいこうと思います。
円内の関係性(典型的な異性愛カップルなど)が取り分けて社会から祝福されるという「チャームド・サークル」の紹介で名前が出たゲイル・ルービン氏ですが、その概念が世に知られることとなった論文(1984, pdf) で、エイズのパニックが同性愛嫌悪・恐怖と共振し、反ゲイ政策の正当化に使われたことを指摘しています。
新自由主義的なレーガン政権下のアメリカで起きた1981年頃からのエイズ流行では、ゲイ男性の患者が医療制度から半ば見捨てられたなか、感染リスクが低いとされたレズビアン女性たちが、献血や看病などの第一線に立ちました。
数年間ほぼ無策だった政府への反発が、当時 分離・緊張の関係にあったレズビアンコミュニティ (L) とゲイコミュニティ (G) の一部に融和をもたらし、ACT UP(AIDS Coalition to Unleash Power)などの共同活動やフェミニズムへの連帯に繋がっていきました。
主に男性同性愛者への侮蔑語であった「Queer(クィア)」を、当事者らが前向きな意味で奪い返した(再領有)のは1990年代のことです。このACT UPのメンバーらが立ち上げた「Queer Nation」が大きなきっかけとなったとされています。
(ACT UP Oral History Project)
(Queer Nation NY History)
(知られざる結末、アクティヴィストの蜂起 - Normal Screen、2018年)
再領有された Queer という言葉には、既存の枠組みに同化しない人たちを排除しないという想いが込められています。
クィア理論家 デイヴィッド・M・ハルプリン(David M. Halperin)氏は、「クィアとは、定義上、正常とされるもの、正当とされるもの、支配的なものと相容れないものすべてである」としたうえで、「それは、本質をもたないアイデンティティである」と特定の中心を否定します。
(「Challenging Dominant Fictions: An Introduction to Queering Historical Archaeology」、2025年)
こうした考えは、他の理論家からもそれぞれの表現で説明されています。
セジウィックは「クィアとは、持続する瞬間であり、運動であり、動因である――反復し、渦巻き、安定を乱しつづける」と述べているほか、政治学者 キャシー・J・コーエン(Cathy J. Cohen)氏は、「支配的権力との関係こそが、連帯の基礎となる」と権力論からクィアネスを見つけ出しています。
(「Tendencies」Duke University Press、1993年, pdf)
(「Punks, Bulldaggers, and Welfare Queens: The Radical Potential of Queer Politics?」、1997年, pdf)
ブラック・フェミニズム(アフリカ系 / 黒人フェミニズム)の立場から、弁護士 キンバリー・クレンショー氏が打ち出した「インターセクショナリティ(交差性)」という考え(黒人差別と女性差別を別々に考えていては、黒人女性の置かれる状況への理解が不十分になる)が定着し、LとGの連帯から始まった歩みは、さまざまな運動が連帯することで、現在では LGBT, LGBTQIA+ などとより包摂的なタームに進化してきました。
(「Mapping the Margins: Intersectionality, Identity Politics, and Violence against Women of Color」、1991年, pdf)
(Kimberlé Crenshaw on Intersectionality, More than Two Decades Later - Columbia Law School、2017年)
ちょうど同時期に、日本で初めて本格的に男性同性愛やバイセクシュアルを描いたテレビドラマとされる『同窓会』(1993) で、OPの『CROSS ROAD』を担当した Mr.Children です。当時は今よりももっとセンセーショナルな扱いだったことでしょう。ちなみに、ミスチルはこの曲で、初のミリオンヒットを獲得しました。
(禁断のドラマ:『同窓会』(前篇) - ドラマのあらすじ、2013年)
アマトノーマティビティやヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範),アンドロセントリズム(男性中心主義),メイルゲイズなどの総本山と思われているような王道ソングの中にも、マイノリティ性が潜んでいるかもしれないのが、ミスチルの醍醐味なのかもしれません。
2008年の日本の大規模調査では、「同性間の性的関係について、あなたの考えは以下のどれですか」という設問に対して、「例外なく悪い」が32.8%,「たいていの場合悪い」が23.6%で、「悪くない」は7.7%に過ぎませんでした。この分布は、同様の質問項目がある2000年, 2001年の調査からあまり変化していませんでした。
(「同性愛に対する意識――JGSSを用いた規定要因分析と要因分解――」『日本版総合的社会調査共同研究拠点 研究論文集』、2021年, pdf)
そうした空気感の只中であっても、アライシップの動きはありました。桜井さんは、ラジオDJの山本シュウさんが企画したエイズ啓発イベント「RED RIBBON LIVE 2006」に登場し、「(エイズは)人を愛することの裏側で起こっている問題。皆も(問題に)向き合おう!」と呼びかけています。
(ミスチル桜井、サプライズ出演で“エイズ撲滅”訴える! - オリコンニュース)
(厚生労働省「第5回重点都道府県等エイズ対策担当課長連絡協議会、資料2」、2010年, pdf)
1996年の『マシンガンをぶっ放せ』でも「愛せよ 目の前の疫病を / 憎めよ 無能なる組織を / そして僕にコンドームをくれ」と、薬害エイズ事件などを念頭に置いていると思わせる一節が登場します。
この曲は、救いの唄が聞こえない世紀末において、「愛せよ単調な生活を / 鏡に映っている人物を / 憎めよ生まれてきた悲劇を / 飼い慣らされちまった本能を / そして事の真相をえぐれ」と、行き場のない怒りを抱えながらも共存していくしかない現実を叫んでいるかのようです。
これらを引っくるめると、『GIFT』のクィア・リーディングを進めていくのは、バンドのディスコグラフィーやボーカルの活動にも適った試みなような気もしてきました。このように、解釈の筋がよく通る「自己統合説」を基にお話ししていきたいと思います。
ライブアレンジや過去曲,本人の発言が示唆すること
「いくらなんでも深読みしすぎだ」と思われる方もいるかもしれません。メインカルチャーやサブカルに、分析心理学や精神分析を当てはめるのは大学生あるあるですよね。イタいかなぁ……😭
でも、そうはいっても、ソングライターは、過去にも『es 〜Theme of es〜』(1997年)や『フェイク』(2007年)などで、深層心理学の世界、意識の階層性をJ-POPやJ-ROCKに持ち込んできた人です。『es』は文字通りフロイトのエスですし、『フェイク』の「二階建ての明日」「地下二階の過去」という歌詞はユング的な無意識の多層性を表したものだと解説されることがあります。フロイトやユングの専門用語をほぼ使わずに、人間の心の構造的な力学を、日常の言葉に翻訳して血肉化してきたといえます。
分析心理学の説明の箇所で、「シャドウ」の紹介によく沿うため使わせてもらった「いつか殺めたかもしれない自分」という表現も、『GIFT』から2年後の曲『擬態』の「ムキになって洗った手にこびりついてる真っ赤な血 / いつか殺めた自分にうなされ目覚める」という、物騒ながらも緊迫感のある一節から取っています。
そして、過去作だけでなく、この解釈を裏付けるかもしれない要素が、『GIFT』のライブアレンジに見つかりました。
ライブでの演奏中、桜井さんは 「君が喜んだ姿をイメージしながら」 という箇所に 「いつもイメージ、今日もこれからもイメージしながら」 という句を挿入しています。普通の恋愛なら、それが日頃の感謝であれ何であれ、早くきれいなプレゼント(ギフト)を渡してしまえばいいのに、ずっと渡すことをイメージし続けている。これは、完全に統合しきれないプロセスそのものに意味があるという、自己統合の性質と一致します。
もしここで、恋人説における「飾らない本当の自分」をついに恋人に渡すという解釈を採用したら、「君が喜んだ姿」を何度も「これからもイメージ」するのは、少しナルシスティックに聞こえてしまいます。
本当の自分を手渡して相手に喜んでもらえる可能性を考えられるのは、「僕」のありのままの自分への自信を窺わせるからです。しかし、歌詞での「僕」は 「気に入るかなあ? 受け取ってよ」 と悩む、終始手探りなトーンであり、ここに大きな温度差があります。
感謝を恋人(や大切な人)に渡すのだとしても、「きれい」なラブソングであれば、長い間伝えたかった最高の感謝は自然と美しい想いになるはずですし、何なら勿体ぶらず日頃から伝えてもいいわけで、 「お世辞にもきれいとはいえないけど」 とまで卑下する必要はないように思えます。
このように、渡すものが感謝であっても本当の自分であっても、恋人説だと、歌詞のほかの部分との折り合いが悪くなってしまうのです。
さらにライブアレンジでは、アウトロのラララの大合唱の中で、こんなフレーズを歌い重ねています。
君から僕へ、僕から君へ
最高の gift をありがとう
ありがとう
君から君へ、あなたからあなたへ
曲の作り手自身が、ファンのど真ん中で、この曲の矢印が「他者への贈与」だけではなく「自己への還流(あなたからあなたへ最高の gift )」であることに触れていると言えます。
これまでは、1つ目の「君・あなた」と2つ目の「君・あなた」はそれぞれ別のオーディエンスを指しているライブパフォーマンスだという解釈が主流でした。しかし、2022年の『30th Anniversary Tour 半世紀へのエントランス』では、観客のあちこちを指さす行為ははっきりとは確認できないままに、歌い上げています。
いったい、好きなバンドが同じだからといって、見知らぬファン同士が、生まれた意味に関わるような「最高の gift」 をいきなり送り合えるものなのか、という疑問も従来解釈では残ってしまいます。
翻って、今回の立場に依るなら、聞く人各々に対して「自分から自分へ」の矢印があると、歌っていることになります。ここまでの文脈を踏まえれば、自分が自分に「ありがとう」と言う構図はもはや風変わりなどではなく、内なる二者間の欠かせないやり取りなのです。
もっと決定的なのは、ほかの方が書き起こしてくださったものに基づかせていただきますが、桜井さんのテレビ番組(『Music Lovers』 日テレ系 2012年11月18日放送回)での発言です。
羽鳥慎一さんが「GIFTが大好きで、白と黒の間に無限の色が広がってるという歌詞が大好きというか奥が深いと思って」と前置きしつつ、応援歌としての「みんながオンリーワン説」にほど近い「オリンピックの勝負の白と黒の間に色んな色のメダルがあるけど、メダルが取れなくても君に似合う色があるってことでいいんですかね?」と尋ねたところ、桜井さんは「そ、そう思います」と一旦応じた上で、最終的に「いや、でも、今話してもらった通り・・・と言いたいとこだけど、僕がこういうイメージで書きましたよということを聞き手にはあまり教えたくないというか、誤解して受け取ってもらった方がよいこともあるし」(表記は引用者が調整)と答えたとされています。
(GIFT~「歌詞の解釈は言いたくない」って話)
(11月18日「Music Lovers」はミスチルのSPライヴ! 桜井渾身のものまねも!? - TOWER RECORDS ONLINE)
ここまで言うと、主流な受け取り方は誤解であり、作り手のイメージとは異なっていることを仄めかしているようなものです。お茶を濁したのは、作者の意図を打ち明けると、スタジオやお茶の間の穏和な雰囲気を壊してしまうと察したからではないでしょうか。
オンリーワン説はオリパラのタイアップとしてお誂え向きなものですが、羽鳥さんのそのパスをやんわり否定してまで、守りたい作詞家としての解釈があるはずなのです。
先ほど取り上げたように『365日』については、ラブチェックというテーマを発信している桜井さんですが、『GIFT』の「こういうイメージで書きましたよ」に関しては明らかにされないままです。
「ではその言わなかった "イメージ" とは何なのか」に迫るため、ここまでしてきたように、原典(歌詞)を精読したりライブアレンジや作家性などに当たったりしてきました。そう思うと、なんだか謎を解こうとする上で悪くなかった手と見立てだったように思えてきます。
映画『天使のくれた時間』のラストを思い出してみる
さて、ここまで『GIFT』が「自己統合の歌」である可能性を考察してきましたが、この「心の中の ifの自分(君)を引き受けて生きる」という感覚は、非常に抽象的で難解です。この感覚が、思い描きやすいイメージとして少しでも腑に落ちるように、一つの映画のラストシーンを思い出してみたいと思います。
ニコラス・ケイジさんとティア・レオーニさん共演の映画『天使のくれた時間(原題: The Family Man)』(2000年公開)です。
ひょっとすると、サブスクのおすすめ欄でサムネイルを見かけた程度だったり聞いたこともなかったりという方のほうが多いかもしれません。
簡単に言ってしまえば、キャリア一筋の主人公が家族愛に目覚めるハートフル・コメディです。ただ、そういった王道のクリスマス映画にしては結末が少しビターな味わいで、今回はその「ほろ苦さ」に注目していきます。
※以下、あらすじとラストシーンに触れます。ネタバレを避けたい方は、次の章(「もし『君』に具体性を託すなら?~」)まで飛ばしてください。
もう少し詳しくあらすじを振り返ると、こんな感じです。ウォール街で大成功を収め、孤独だがリッチな生活を送る主人公ジャック(これを現実の「世界線A」とします)。ある日、天使のような存在によって、「もし過去の恋人(ケイト)と別れずに結婚して郊外で暮らしていたら」という別の世界線(ifの「世界線B」での人生)に飛ばされます。
そこでの生活は、お金の心配があり、慣れないオムツを替え、タイヤの営業に苦戦し、キャリアへの未練に苦しむという「もがき」に満ちていました。しかし次第に、そこには何にも代えがたい家族の愛と温もりがあることに気づいていきます。奮闘の末に、元の暮らしへの糸口(元の世界で務めていた投資会社の会長に引き抜かれる)を見つけるも、ケイトの子どもたちへの想いを聞き、家族について、独断でなく2人で考えられるようになりました。
「パパとしての人生」を選んだのも束の間、映画のラスト、ジャックは元の世界線Aに戻されます。夢から醒めたように世界線Bの愛おしい子供たちは、現実(世界線A)には存在しません。
絶望の中、ジャックは雪の降る空港へと走り、現実を生きる元恋人を見つけます。不格好に引き止め、コーヒーを一杯飲みながら話さないかと持ちかけます。
この引き止めは、決してスマートではありません。ジャックが夢を見たという体で世界線Bで経験した幸せを熱弁しても、相手にはその記憶がないのですから。ましてや、ケイトには自身のキャリアがあるわけで、いきなり昔を持ち出されても気まずく困惑するばかりでしょう。
このアプローチはまさに 「グジャグジャになっ」 たギフトを手渡すような、 「お世辞にもきれいとはいえない」 行為です。話せたところで世界線Bのような仲になる保証は全くありませんが、それでも世界線Aに統合しようともがきます。
この映画の面白いところは、天使がトリックスターを務めるファンタジーかと思いきや、「選ばなかった人生」に思いを馳せて現実に統合しようとする試み自体は、人間が人生のどこかで行っているリアルな営みであるところです。もし、すべてがファンタジーなら、ジャックはケイトと結ばれたり既に結ばれていたりするハッピーエンドで、見終わったときの切なさは微塵もなかったかもしれません。しかし、そうは描かれないところに主題があるのです。
天使がくれた(そして取り上げなかった)本当のギフトとは、幸せな家庭そのものではなく、自分の心の声を聞き他者に心を開いたジャック自身の変化だといえます。
天使は、あくまでジャックに、選ばなかった人生の愛おしさと葛藤を追体験させたまででした。その体験によって、ジャックは、人生の意味の尺度というのは、他者から与えられるべきものではなく、自分で葛藤するものなのだと理解します。ここに来て、原題『The Family Man』という結果論をそのままなぞって訳さずに、「天使がくれた、その時間にこそ映画のテーマが込められている」と解釈した邦題の感性が光ってきました。
どのみち人生はもがくものです。「選ばなかったもう一つの自分」は理想化したくなるときもありますが、きっとそこでも苦悩があったはずです。その愛おしさと痛みを忘れず、自分の胸の奥に抱え込んだまま、現実を不格好にでも走っていく。これこそが、私たちが人生で行う「自己統合」のリアルな姿と言えるのではないでしょうか。あの映画は、そんなことを説教臭くない形で(あるいはアメリカあるあるの家族礼賛映画だなと気を取られていたら)教えてくれているのかもしれません。
『GIFT』で歌われる、「知らぬ間に増えていった荷物も まだなんとか背負っていけるから 君の分まで持つよ だからそばにいてよ」 という決意。
それは、ジャックが「もはや存在しない世界線Bの家族との記憶や葛藤」まで背負って、現実の空港を走った姿と重なります。世界線Bの家族が実在していなくたって、それを経験した自分自身は今も心の中にいて、離れたくない「君」となっているのです。
もし「君」に具体性を託すなら?「ニューロクィアのGI当事者」が降りてきた
(※本章の議論では、前述の映画『天使のくれた時間』を、メタファーとして一部使用しています。)
1️⃣前提です
最後に。この曲の「君」という言葉は、フランスの精神分析家 ジャック・ラカンの言葉を借りれば「空虚なシニフィアン(空の器)」です。誰もが好きな物語を投影できる記号(空虚な中心)とも言えます。
(「他者としての「日本」――『記号の帝国』をめぐって」、2000年, pdf)
(「ロラン・バルト『明るい部屋』における『写真論』の意味」、2008年, pdf)
(「政治と普遍的なるものの行方――エルネスト・ラクラウ、普遍と個別をめぐる政治思想」『政治思想研究』第12号、2012年, pdf)
ここまでは、分析として書き連ねてきましたが、この空の器に、ある具体的な情景がイメージとして降りてきたので、今回、私はそれを注ぎ込んでみたいと思います。曲の持つ「僕」と「君」の写し鏡の関係(鏡像関係)とさらにそこからはみ出る関係が、自分事でなくても想像できるであろう例です。
これまで、調和や統合を目指したユング的な視点を引用してきましたが、以下のイメージでは、割り切れなさや欠如を抱えたまま生きる、ラカン的な視点を主に下敷きにしていきます。
次の中見出しまで、説明にお付き合いいただくことになりますが、私の場合は下敷きのおかげで、何となく聴いていた歌詞が、(批評やカルチュラル・スタディーズ的に)、途端に鋭く温かい意味を持つようになりました。
ユングもラカンも、後世のフェミニズムやクィア理論から批判されてきた一方で、作られた道具自体は、発展的に利用されてきた歴史があります。
特にラカン派は「性別化の式」などを巡って、解釈が分かれていますが、今回のクィア・リーディングは、それらのうちクィアな発展型にお世話になっています。
(Psychoanalytic Feminism - Stanford Encyclopedia of Philosophy)
主要な事例を挙げると、フィラデルフィア・ラカン・グループの共同創設者 パトリシア・ゲロヴィッチ(Patricia Gherovici)氏のラカン解釈と、文学研究者 ジャック・ハルバースタム(Jack Halberstam)氏らが発展させてきたクィア・テンポラリティ論を、社会文化人類学者 アタリア・イスラエリ=ネヴォ(Atalia Israeli-Nevo)氏などが性別移行等について応用している「queer / trans temporality」(クィア / トランス・テンポラリティ論)です。
ゲロヴィッチ氏について、日本語圏でこれまで言及されたのは、2026年3月の解説記事であり、学術的な文脈は記事から辿ってご覧になれます。ただし今回の解釈では、それらから分岐する点もあるので、補足7に付す予定です。
(「Depathologizing Trans: From Symptom to Sinthome」『TSQ: Transgender Studies Quarterly 4(3–4)』, pp. 534–555. - Trans Reads、2017年, pdf)
(「Taking (My) Time: Temporality in Transition, Queer Delays and Being (in the) Present」、2017年)
(精神分析とクィア理論の結節点(臨床心理士、公認心理師:日野映 - 株式会社 金剛出版、2026年)
その上で、それらに私なりに思った血も通わせられるといいなと思って、思考実験に入っていきます。
暫しの間、この解釈における「僕」と「君」の紹介と必要な但し書きを挟むことになりますが、私はこの解釈で想像することで、曲全体を通じて歌詞の1行1行と対応するような情景が浮かぶようになりました。ご紹介したいと思います。
それは、「いわゆる発達障害などの神経多様性(ニューロダイバーシティ, ND)を持つ、性別不合・性別不協和(GI)の当事者」、「ニューロクィア」としての景色です。
学者 ニック・ウォーカー(Nick Walker)氏が『Neuroqueer Heresies』で説明した、ニューロとクィアの交差性(複数の属性の不可分な重なり)を持つ人のことを指し、著書では「to queer(規範を覆す,脱構築する)」と動詞の側面が強調されています。
( 「ニューロクィア理論とそれに基づく実践の可能性について」『障害学会第22回大会 自由報告』自由報告2-6、2025年)
これまでの読み解きで歌詞のクィアネスを検討しましたが、そこに「ニューロダイバーシティ(非定型発達も含む神経多様性)」が加わったら、どうなるでしょうか。社会との「しっくりこなさ」に揉まれ、「もうグジャグジャになって 色は変わり果て」た gift、個性化の過程は、その影響を受けることになるでしょう。どういった語りや自己統合になっていくのでしょうか。
そんなことをつらつらと考えながら、『GIFT』のジャケットに目を移します。
ジャケット背景で、白黒でなく唯一カラーなのが横断歩道にかかる虹です。MVは、虹を描いているシーンで始まり、中盤以降に人々が空に向かって水を放ち、虹ができたのをメンバーが眺めるシーンで終わります。こうしたこともあり、これまでも多様性やSOGIマイノリティのアイコンであるレインボーフラッグ(🏳️🌈)と重ねて受け取る向きがありました。
2006年のライブ登場を鑑みると、『GIFT』の2008年時点で桜井さんがレインボーフラッグを知っていた可能性をそれなりに見積もることができます。
🏳️🌈という絵文字が Unicode に追加されたのは2016年のことですが、当然それ以前からも当事者を中心に旗やモチーフとして掲げられていて、『GIFT』前年の2007年に開かれた「東京プライドパレード 2007」では約2,800人が練り歩いたと言われています。
(プライドパレードとは - 東京レインボープライド)
この年は、従来の「レズビアン&ゲイパレード」からよりインクルーシブな名称である「プライドパレード」に改称された年でもあります。
『GIFT』と🏳️🌈の結びつきでいえば、本記事と同様に「白と黒のその間」「『本当の自分』を見つけたい」という歌詞から多様性を見出だし、それが遠い将来には当たり前になるようにという想いが綴られた2021年のブログが見つかります。
(『GIFT』と『多様性』と『感謝』と。)
2025年12月には、トランスジェンダーカップルによる『GIFT』をテーマにした公開挙式が行われたという紹介があり、開催した協会によると「楽曲が持つ人生や愛へのメッセージと、多様な愛を祝福するセレモニーの理念が重なり合」ったということです。
(「日本伝統の仲人文化をもとにするLGBTQ+カップル成婚支援により、トランスジェンダーカップルが誕生。公開挙式「GIFT〜愛が繋ぐ未来〜」2025年12月開催報告」 - 一般社団法人日本LGBTサポート協会)
今回の着想はそうした流れに影響を受け、1999年に活動家 モニカ・ヘルムズ氏がデザインを考案したトランスジェンダー・プライド・フラッグ(🏳️⚧️)の、「白と黒のその間に無限」に広がっている「水色とピンクと白」などとも重ねた、歌詞の読み解きとなります。
(※ これはトランスジェンダー・アンブレラや神経多様性当事者の一般論として語るものではなく、「こういう視点も考えられるかもね」という一つの感情移入や思考実験としてお読みいただけるとありがたいです。
文中では、トランスジェンダーという言葉を、二元論や男女軸のモデルにおける越境として、また、トランスジェンダー・アンブレラに含まれる、より多義的な性の在り方としてと、文脈に応じて使い分けることがあります。
あくまで一例ですので、代表的な例として描くものではありません。ニューロクィアを自認・該当する方であっても、それぞれ固有性があり、以下の描写が共通するわけではありません。本来、ニューロクィアという語におけるクィアは、性的指向・恋愛的指向なども含めたより包括的な概念であり、GI当事者と一義的に結びつくわけではありません。
神経多様性も包括的な定義ですが、今回の例では、ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠陥多動症)が併存している、いわゆるAuDHD(Autism + ADHD)の一例を想定しています。従来から併存が多いことは指摘されていましたが、たとえば日本などでは2014年頃まで片方の診断名しか付けることができず、AuDHD的な状態の記述はここ10年程度で広まったものとされています。
(When Autism and ADHD Occur Together、2025年)
なお文中では、主観的な表現として描くことによる手触りを保つために、表現が簡略化されているところがありますが、実際にはグラデーションがあるほか、二元論的・定型発達的な社会への当事者の適応・埋没を否定するものでは全くありません。今回は、適応を痛切に考えつつも、なお違和を持つ事例についての一つのイメージとなります。
また、当事者の苦しみは、本人のマインドセットによって解消されるものではなく、自己責任論に回収されることはあってはならないこと、並びに、内面的な話は本人に属するものであって、告白を求める風潮に賛同するものではないことを申し添えさせていただきます。
(「Positionality statements should not force us to ‘out’ ourselves」、2024年))
センシティブになり得る話ですので、まずは留保を付けさせてください。トランスジェンダーを巡る言論対立は激化しています。その中で、当事者が「性別を移行しても、なお違和感やしっくりこなさがある」と認める語りは、非常に慎重にならざるを得ない背景があります。
なぜなら、それを口にすれば、一部の反対派から「移行は失敗だ」とか、それは本人が決めることなのに「デトランス(移行を中止または巻き戻すこと)すべきだ」と攻撃の材料に使われる恐れがあるからです。
こうした現状をトランスジェンダーへの否定的な態度等を指すトランスフォビアをもじって、「デトランスフォビア (detransphobia)」と呼ぶこともあります。
((De)Transphobia: Examining the Socio-Politically Driven Gender Minority Stressors Experienced by People Who Detransitioned、2022年)
ここには、容赦ないダブルスタンダードが存在します。シスジェンダーの男性女性だって、社会の「男らしさ・女らしさ」の規範に苦しみ、生きづらさを覚え、時には性自認の揺らぎを経験したりもしています。
しかし、シスジェンダーが迷いを抱えていたり、「年齢不相応」であったり、非規範的であったりしても「自分が自分であること」を外部から疑われることはあまりありません。なのに、トランスジェンダーに対しては、「移行したなら完璧に一致して、曇りがない状態であれ」という状態を強要されがちです。
この状態は、「トランスノーマティヴィティ」として知られています。
(Transnormativity: A New Concept and Its Validation through Documentary Film About Transgender Men、2016年, pdf)
これには、歴史的にトランスジェンダー(トランスセクシュアル)が医療などへのアクセスを勝ち取る目的で、世間に対して分かりやすい言説(ナラティブ)の提示が必要であったために、分かりやすさの反面として「固定的なトランスジェンダー像」が社会に規定されてきた背景が考えられています。
喫緊のアクセスと立場の保証を得るには、門番(ゲートキーパー)の前で、当事者がそうした型や「典型的な異性像」に自身を当てはめる必要があった歴史も否めません(従属化と主体化)。
(「The Subject and Power」、1982年, pdf)
(「Subjection and Subjectivation」、1994年, pdf)
哲学者 ルイ・アルチュセールが述べた「国家のイデオロギー諸装置(ISA)」とは、人々に対して「こうあるべきだ」という「呼びかけ」を日常的に行い、人々にそれを自発的に内面化させる組織や制度です。人間は特定の家族制度や社会秩序というイデオロギーに「呼びかけられ」ており、その枠組みの中でしか「主体」になることができないという見立てです。
(「在日コリアンに対するヘイトスピーチとイデオロギーへの呼びかけ――ジュディス・バトラーによる『主体化』論を手引きに(1)」『現代社会学理論研究』8、2014年, pdf)
(「Ideology and Ideological State Apparatuses: Notes towards an Investigation」、1971年)
この歴史を深掘りした考察では、1996年の日本における性別適合手術の承認と2003年の性同一性障害特例法が契機となり、メディアに性同一性障害という言葉が登場するようになったことを踏まえ、「ニューハーフ」「オカマ」「オナベ」という従来の認識から、「体の性と心の性が一致しない」人たちとしての新たな認識と権利を獲得した変遷を記しています。しかし、その影で制度化が、二元論に当てはまらない人や多様なニーズを包摂できていないと指摘します。その上で、診断の有無や、「性同一性障害」の真正性を証明しなければならないというところから語られた違和や苦痛の訴えがトランスジェンダー内の序列化に繋がるおそれがあるという懸念が滲んでいます。
(「「性同一性障害」概念の普及に伴うトランスジェンダー解釈の変化」『ジェンダー研究:お茶の水女子大学ジェンダー研究所年報』第19号、2016年)
1996年に承認されたとお話しした性別適合手術(性転換手術)ですが、1960年代に産婦人科医が「十分な診察をせず」手術をしたとして当時の優生保護法で有罪となったブルーボーイ事件の余波から、長くタブーとなっていました。
(「ブルーボーイ裁判」判例 - Wayback Machine)
売春防止法は、2024年(!)に「支援」の方針が施行されるまで、戸籍女性のみを処罰の対象としていました。戸籍上は男性であるブルーボーイに手術を施した医師への別件逮捕は、当時の法律の非対称性とルービンが見たような「風紀」の名の下にマイノリティが国家から弾圧されたことも思い起こさせます。
(「女性支援法」が成立しました 【弁護士 雪田樹理】 - 女性共同法律事務所、2022年)
半世紀以上前の事例と現代のことを同列に語ることはできませんが、現在でも依然として考えなければならないイシューです。
広義のトランスジェンダーSW(セックスワーカー)へSWASH(Sex Work And Sexual Health;「仕事をやっている限りは健康かつ安全に、また、辞めたい時にも健康かつ安全に辞められる」状況を目指して活動するセックスワーカーらによる日本の市民団体)などが行った調査では、当事者の自己認識や身体違和・身体変容の在りようは単一に語ることはできず、様々であることが示されています。当事者が直面する「生きづらさ」についても、就学・就労問題、住宅問題、ソーシャル・サービスへのアクセスのしづらさなど多岐にわたる事由が挙がっています。
こうしたSWへの調査では、接客における性暴力やハラスメント被害、エイズを含む性感染症へのリスクが高いなかで、それらにまつわる実態についても調査の対象となっています。
(「トランスジェンダーSWの性行動・意識に関する調査」、2011年, pdf)
こうした意味でも、有名アーティストが「RED RIBBON LIVE」などに出ることは、マイノリティを「臭いものに蓋をする」扱いな社会に対して意識変容を促す効果を持つのではないでしょうか。
性産業に従事する外因として、非性産業の仕事を得にくかったり、合理的配慮がなく不利益を被ったりと、就労の難しさが挙げられています。
特に、手術を含め身体変容を伴う当事者は、その出費を補うために稼ぎが必要であることも特有の課題となっています。
(「女性以外のSW(セックスワーカー)に対する効果的な介入方法〜トランスジェンダー・セックスワーカーの性の健康に関する啓発の実践と研究〜」、2020年, pdf)
(「トランスジェンダーSW(セックスワーカー)に対する効果的な介入方法〜トランスジェンダー・セックスワーカーの性の健康に関する啓発の実践と研究〜」、2021年, pdf)
(厚生労働省委託 三菱UFJリサーチ&コンサルティング(MURC)「令和6年度 職場におけるダイバーシティ調査・推進事業 就労する性的マイノリティ調査結果 報告書」、2025年, pdf)
このように、社会のレールから排除に近しい扱いを受けてきたGI当事者らは、性産業やショーの世界で身を立てるなど主流からは周縁化・客体化された生き方を迫られてきた側面もあります。
そうしたことが、先の論文でも指摘されていたように、「ニューハーフ」「オカマ」「オナベ」など、当事者の自認やプライドによらず、トランスジェンダーや「異性装」へのスティグマ的な認識を長きに渡って固定化させ、それがまた当事者の生き方の選択肢を狭めてきた「周縁化のループ」が、現代史を遡ればあって、現在でも一部に残存しているのではないでしょうか。
以下の論文でもそれぞれの領域で、マジョリティとの扱いの差が、メンタルヘルスの悪化に繋がっていたり必要なサポートを得られていなかったりすることが記されています。
(「性的マイノリティの自殺・うつによる社会的損失の試算と非当事者との収入格差に関するサーベイ」、2019年, pdf)
(「社会学的視座から見たトランスジェンダー,セックスワーカー,MSM の HIV 予防啓発とその評価」、2024年, pdf)
(「トランスジェンダーとクロスドレッサーの性の商業化と現状について」、2017年)
(「LGBTQも安心して働ける職場と,安全に利用できる医療・福祉を考える」、2024年)
日本の当事者はGID(性同一性障害)という「病気」を自身のアイデンティティにしがちであったという世界的にも稀な状況があることを指摘した研究では、その代替に普遍的なカテゴリーとしてのTG(トランスジェンダー)を想定することは、当事者のアンビヴァレンス(両価感情)を損ない、多様性を無視した一面的な理解になると警戒しています。
(「トランスジェンダーの普遍化によるGIDをめぐるアンビヴァレンスの抹消」、2020年, pdf)
一方で、GIDとTGという異なるアイデンティティを持つ当事者2人をインタビューした調査では、性別という既存の枠組みのなかで生活するか、またはそれを緩めようと活動するかという方向性の違いが見られたものの、2人とも性別を越境しにくい社会のありように立ち向かっていると結論づけられています。
(「水と油を乳化する――性同一性障害とトランスジェンダーの対立を無効化する実践――」『社会学年報』46、2017年, pdf)
このように種々の議論があるなかで、マイノリティの典型からも、はみ出ている当事者からすると、自分を救ってくれるかもしれないトランス・ナラティブのエンパワーメントからも疎外されかねず、「反対陣営に塩を送る行為だから」と弱音を吐いていると思われそうな語りに自己検閲が働きかねない力学があります。
よく、性別違和の簡易なテストとして「魔法のボタン」の思考実験が語られます。「押せば一瞬で、誰にも知られず元からそうであったように、望む性別になれるボタンがあれば押しますか?」というものです。
特に「間違った身体に生まれた (born in the wrong body)」と感じる当事者にとって、押したいのに実在しないというもどかしさや苦しさとともに語られることがあります。
(「“Ever since I knew I was trans I knew I wanted hormone therapy”: a qualitative exploration into the journey of Australian trans individuals accessing feminizing gender-affirming hormone therapy」、2023年)
(「Trans Healthcare: Trans people’s experiences of accessing health and care in Liverpool」『Healthwatch Liverpool』、2023年, pdf)
しかし、今回の文脈を通すと、このボタンにはある種の暗黙の前提があるのではないか、その考察を通じて新たな主観的経験とトランス・ナラティブが見えてくるのではないかと考えました。
もし、その人が定型発達的な社会規範にどうしても馴染めない「ニューロクィア」であったなら。
仮に魔法のボタンを押して「望む性(≒ 出生時の性別とは異なる性)」に完璧に生まれていたとしても、どのみちその神経特性ゆえに、向こう側の社会の規範と摩擦を起こし、もがき苦しんだはずなのだと、この人は感じるのです。
ボタンを押すイメージをしたこの人に……
世間・社会から日々受ける、「その性別らしく振る舞え」という有形無形の圧力。社会の多数派は獲得している「その性別らしさ」と「まともさ」が、脳の配線などの理由でインストールできない/しない。できたとしても、互換性からはみ出ていて合わせるのに燃え尽きそうになる。精一杯でも、周りからはぎこちないときもあるらしい。そんな自分らしさだって好きで楽しいし、個性だと思えるときもある。でも、「個性はわがまま」だと言われる「大人な」世の中で、それが出たら? 意志で出したり引っ込めたりできる「個性」ではない。「個性を認めよう」ってお題目が鳴っていても、社会の仕組みとの間でどうやっても折り合いが悪い。だいたい「周りと同じだから安心できる」っていうヒトの本能が働く状況がまずないから、自分は自分であるしかない。同性集団の「有害な(あるいは排他的な)ステレオタイプ」にノリ良く同調することが、インナーサークル(職場などの身内集団)の参加資格なの? 一人の友達として仲良くしたいだけなのに
……、こんな景色が一気に押し寄せてきます。
2️⃣不可解だった歌詞が必然に
つまり、このボタンのたとえを借りるなら、現実の自分も社会との不調和や、ままならなさに苦しんでいますが、「望む性として生まれていたはずの自分(ifとしての「君」)」を想像したら、その世界線の自分(「君」)もまた、向こう側の世界で同じように違和感を覚え、苦しみをも生きている。
「もし私がその状況に置かれたなら、何をするだろうか」と自問する「マジック・イフ」を突き詰めて、この事実に気づいた時、あるパラダイムシフト(魔法のボタンの脱構築)が起きます。
(「THE STANISLAVSKI SYSTEM」、2010年, pdf)
「望んだ性別に生まれた自分」は、偶像のような手の届かない完璧な理想郷の住人ではありません。
同じように社会と戦い、傷ついている「戦友」「同志」として連帯できる感覚が持てるのです。「君」は、垂直の憧れでなく、すでに心の中に、水平に存在しているのです。(これを共苦 = Com-passionと呼ぶことができるでしょう。)
だから、心の中の「君」に向かってこう語りかけます。
知らぬ間に増えていった荷物も
まだなんとか背負っていけるから
君の分まで持つよ だからそばにいてよ
「向こうの世界で君が背負うはずだった苦しみ(荷物)も、私がこっちの世界で全部一緒に背負って生きるから。私の中で水平に手をつないで、ずっとそばにいてよ。どうか心の中から消えないでよ」と。
ニーチェの「運命愛(自分の運命を必然として愛すること)」などと大仰な哲学を持ち出すまでもなく、これは人間にとって当たり前の営みです。
(※ なお、ニーチェやその脱構築的読解が「女性」を真理,生,母,誘惑,受胎などの比喩として頻繁に用いながら、現実の女性を主体としては消去していることは批判されています。
(「Nietzsche’s Woman: The Poststructuralist Attempt to Do Away with Women」、1988年, pdf))
魔法のボタンで生まれていても、どのみち違和感や摩擦を抱えることは分かっている。それならば、内なる「ifの自分 (君)」と手を取り合い、その荷物を背負って、現実の地平線へ走っていく。
僕は探していた 最高の gift を
君が喜んだ姿をイメージしながら
今 君に贈るよ 気に入るかなあ? 受け取ってよ
君とだから探せたよ 僕の方こそありがとう
このケースにおいて、トランジション(性別移行)とは、魔法のボタンを押すことではなく、ifを抱きしめるために迎えに行く決断のようなものではないでしょうか。
つまり、 「君」が喜んだ姿をイメージして、 「受け取ってくれるかな」 「気に入るかなあ?」 と悩みながらも、内なる「君」に 「受け取ってよ」 と、現実を生きる「僕」からの贈り物(君に似合うトランス性: transness)を準備するということです。
果てしない旅路の果てに
「選ばれる者」とは誰?
たとえ僕じゃなくたって
それでもまた走っていく 走っていくよ
この解釈では、「僕」が gift を渡す側であるのに、やや卑屈で自信なさげなことの辻褄がよく合います。「僕」にとって理想の性別移行は、「君」にこの世界を生きてもらうことです。それが叶うなら「僕」が、恥や世間からの冷ややかな視線といった 「知らぬ間に増えていった荷物」 を背負い 「選ばれる者」 でなくたっても(あるいは「僕」として築いてきた、これまでの公的な歩みが取っ払われても)、「君」のためにならまた走っていけると、どこかで覚悟しています。
(※ 今回の事例は就学や就労状況等を定めない思考実験です。ただし、年収は社会的に「選ばれ」ているかの指標として参照できるため、いくつか掲載します。
オランダの解析では、MtFは賃金の大幅な減少(約2割)、FtMは賃金が横ばいにかかわらず労働時間が増える傾向にあるとされています。
(「Is There a Penalty for Becoming a Woman? Is There a Premium for Becoming a Man?」、2015年, pdf)
また、移行によって、あり得たキャリアから断絶されることが指摘されています。トランスフォビアのある職場・部署でカミングアウトや移行を行う危険性から、新たな環境に移っての心機一転を行うと、キャリアの可能性は引き継がれないという問題があると、事例とともに提示されています。
(「Declining Career Prospects as “Transition Loss”? On the Career Development of Transgender Employees」、2018年)
1960年代に遡ると、計算機科学者 リン・コンウェイは性別移行の予定を勤務先 (IBM) に伝えたところ解雇され、移行後は過去を明らかにしない形で、同じ専門分野に戻らざるを得なかったと記しています。解雇から52年経って、IBMは公式に謝罪しました。コンウェイの業績は、今日における回路集積・設計や投機的実行の根幹の一つになっています。
(Lynn Conway's Retrospective、1999-2003年)
(IBM fired U-M professor Lynn Conway for coming out as trans in 1968. 52 years later, the company apologized - Michigan Technology Community、2020年))
でも現実は、望んだ性別で生まれなかった、もう大人になってしまった「僕」の身体で移行するほかありません。しかし、それでは「君」が気に入ってくれる程の基準に達していないかもしれない。
最悪のケースとして、 「長い間 君に渡したくて強く握り締めていた」 トランス性が、「君」によって受け取り拒否に遭い、「僕」と「君」の決裂になるのではという不安が頭をもたげます。
だからこそ、自分が手渡せる限りの「一番」や「最高」にこだわり、 「いつもイメージ、今日も、これからも」 「君が喜んだ姿をイメージし」 続けることになるし、すぐ後の 「『本当の自分』を見つけたいって言うけど 『生まれた意味』を知りたいって言うけど」 に繋がるわけです。
もし、社会にすんなり適応できる人間だったら。この「しっくりこなさ」を持っていなかったら。
心の中の「君」のヒリヒリするような存在に気づくことも、手をつなぐこともなく、ただ社会のゲームに参加できていたことでしょう。
けれども、この「神経多様性と性別不協和の交差点」に生まれ、生きづらさを経験したからこそ、「ifの自分」の痛みにすら共鳴し、社会の "おかしさ" を敏感に説明できるまでとなった。世間から見れば単なる「不適応な生きづらい人」かもしれないけれど、本人から見たら譲れない、世界の見方であり認知のOSであり高感度なセンサーなわけです。
歌詞にある通り、英単語の gift は贈り物という意味ですが、それに加えて(天賦の)才能という意味合いもあることは、ギフテッドという言葉が知られるとともに有名になりました。されど、スイス出身のカール・グスタフ・ユングが話していた第一言語のドイツ語で「das Gift」といえば、毒のことです。
この才能と毒が、メビウスの輪やファルマコンのように、表裏一体となった「贈り物」が、この人の置かれた状況を言い表しているのかもしれません。
これまで付してきたほかにも、神経特性と結びついた「脳内多動」(まとまりよりも、次々にアイデアや考えが浮かぶ)や「過集中」(特定のことに、寝食を疎かにしてまで没頭してしまう)は、この人たらしめる原動力や創造力の源である一方で、易疲労性と相まって諸刃の剣です。社会で求められる安定した出力や体調とは相性が極めて悪いのです。「才能は毒であり、毒は才能である」というギフトが、望むと望まざるとにかかわらず、この人には与えられています。
(追伸末尾にある補足3で、これらの特性について付記させていただきます。)
ですから、望む性に生まれていた別の世界線の自分が、社会に馴染んでいなかったとしても、それは残念な失敗などではありません。むしろ、自分が自分である証拠として感じられるでしょう。
最初の留保に戻ると、性別移行をしてもジェンダーロールなどへの違和が霧散しないことは、従来型の(あるいは、依然として一部にある)医療的観点からは、治療対象と見なされがちです。しかし、この人の場合は、移行後の不一致は治すべきものだという、病理化するようなモデルもしっくり来ないでしょう。
(※ 国際的な診断基準 ICD-11 (2018年発表、2022年発効)では「性同一性障害(GID)」は「性別不合(GI)」に改められ、脱病理化されることになりました。脱病理化の流れは、すでに現実のものとなりつつあります。日本でも、2027年1月から施行予定です。
(性同一性障害は「性別不合」に 新疾病分類の和訳、厚労省部会が了承 - 朝日新聞、2024年))
なぜなら、その違和を体験していることこそが、「望んだ性別で生まれていた ifの自分(君)」が感じたはずの荷物や体験まで、この世界線を生きる「僕」が引き受けていることの証左(= ifの自分と繋がっている確かな証拠)であるという実感があるからです。「君の分まで持つよ だからそばにいてよ」のそばにいてくれる感覚が宿っています。
『コウモリであるとはどのようなことか(What Is It Like to Be a Bat?)』という思考実験(論文、1974年, pdf)と『Missing Out: In Praise of the Unlived Life』という本がありますが、この人の場合はもっと近い距離で「ifの自分であるとはどのようなことか。生きられなかった人生を抱えて(互いを讃えて)生きるとはどのようなことか。(What Is It Like to Be the Counterfactual Self? What Is It Like to Live the Unlived Life in Praise of It?)」を味わおうとしているというわけです。
(Missing Out - Macmillan Publishers、2013年)
「本当の自分」を見つけたいって言うけど
「生まれた意味」を知りたいって言うけど
僕の両手がそれを渡す時
ふと謎が解けるといいな 受け取ってくれるかな
「移行してもしっくりこない」。でもそれが、魔法のボタンで元からそう生まれた ifの自分が、向こう側(≒ 移行先)の規範で、格闘しているであろう「しっくりこなさ」と同じ質感かもしれない。
そう思えたとき、「望んだ性で生まれていたらの世界線とはどのようなことか」、「『本当の自分』であるとはどういうことかを知りたい」という疑問に、いくらか答えが手渡されたと思えてきます。
この論理は、少し逆説的に聞こえるかもしれません。けれども、当人にとってはきっと順接のように感じられるでしょう。神経多様性を持つこの人にとって、定型的な社会に馴染めないことは、所与に近いことであり、「君」が「その望んでいる性別において、完全にはしっくりこない」ことは自分のifとして大いに納得が行くわけです。
したがって、「移行すると性別違和がきれいになくなる」というモデルは、この人にはあまりそぐわないし、葛藤や摩擦がなく暮らせるなんていうのは、本人にとっては「作り物のツルツルのif」だとすら感じられたかもしれません。
この人が、映画のジャックのように行いたい世界線の統合、つまり、仮に望んだ性別で生まれていたという「もしも」を、実際はそう生まれなかった今の世界線でお迎えをしようというとき、ifの自分(「君」、穂木)が体験しているはずのしっくりこなさまで含めて、「僕」が引き受け味わうことが、「接ぎ木」に成功している感覚なのだといえます。
(※ すでに性別移行を表す語として transition よりも grafting が選ばれた例がある一方で、一般化には、別の経験を排除しかねないという指摘も存在します。
本noteは、あくまで一つの思考実験となります。
(「Sons of the Movement」、2006年, pdf)
(『Debates in Transgender, Queer, and Feminist Theory 』、2016年, pdf))
君に似合う色探して やさしい名前をつけたなら
ほら 一番きれいな色
今 君に贈るよ
「二元論に適応できないなら、あなたはノンバイナリーやトランスマスキュリン / トランスフェミニン (出生時に割り当てられた性別と反対とされる特徴へ移行する人)ですね」というルールブックのような決め方は、分かりやすいですし、当事者研究のなかで編み込まれてきた大切な言葉です。これらのタームがあることで、解像度が上がりますし、どなたかにとって自分に「やさしい名前」を付けてあげるきっかけになります。
しかし、この人の場合は、定義には当てはまったとしても、自分がモノにできる代物ではないかもしれないという気がしてきます。
この人は、外部から見れば回りくどい過程の「グジャグジャ」なアイデンティティに映るかもしれないけれど、「私は〇〇だ」と属性を自認する代わりに、自分で自分の現象やアイデンティティ(色)に、若しくはリスタートする自分自身や「君」に 「やさしい名前をつけ」 るんだという申し立てをしています。
肯定形で自分を語るのがピンと来ないから、肯定とも否定とも付かない(白でも黒でもない)形で自分をメタ的に肯定しているのです。
「白か黒で 答えろ」という
難題を突きつけられ
ぶち当たった壁の前で
僕らは また迷っている 迷ってるけど
降り注ぐ日差しがあって
だからこそ日陰もあって
そのすべてが意味を持って
互いを讃えているのなら
もうどんな場所にいても
光を感じれるよ
いずれにせよ、この人は「白なら白、黒なら黒らしくしろ」という世の中に馴染めないのはわかっていますし、自分を押し殺してまで馴染みたくもありません。
この一律の区別によって全て(tout)を管理する権力性は、精神分析(特にバトラーのラカン再解釈)の文脈でファルスとも呼ばれ、「象徴的な権力の原理」だと解釈されています。ところが、写し鏡のように対応した「君」と「僕」は、精神分析でいう「去勢」(ここでは、社会の一員と認められる代わりに、白黒付かないありのままの自分が無力化される)を免れます。
(※ 例えば、形態学的イマジナリーの再構築 (Rewriting the Morphological Imaginary) は、ファルスによる「象徴的去勢」が介入する前段階、あるいはそれとは異なる回路として存在するとされ、この段階における「自己と他者の一体性と鏡映関係」が、(シスヘテロ的な)去勢の法(持つか・あるか)をすり抜けるオルタナティヴな身体イメージを形成する基盤になり得ると論じられています。
(『Bodies That Matter』、1993年, pdf))
なぜなら、「君」と「僕」が相互に承認しているため、ファルスによる去勢と引き換えの承認(社会の枠組みに「選ばれる者」(大人))が不要になっているからです。その代わりに、はみ出た現実界の痛みを共に引き受ける。相変わらず迷っているけれど、もう一人じゃない。「僕」と「君」で「僕ら」なのです。
1958年の中期ラカンは、「ここに、人間が自己の性を引き受けることに内在する二律背反がある。なぜ自己の性の属性を、脅し――すなわち、それらの剥奪の脅威――を通じてのみ引き受けなければならないのか?」(試訳)と、二律背反の引き換えについて論じています。
また、「主体は、自らが意味作用を施すあらゆるものを棒引きにすること(拒むこと)によってのみ、自らの存在を指し示す。それは、彼が『自分自身として愛されること』を望んでいるという事実に現れている。これは単なる文法的なものとして退けられない蜃気楼である(なぜなら、それは言説を無効化するからである)。」(試訳)とも述べ、自分自身として存在したいという「蜃気楼」は人間にとって不可避であり、かつ(言語の構造上)実現不可能だが、決して無視できない構造的な幻想だとしています。これに対して補足7で、後期的な再解釈を施そうとしてみます。
(「The signification of the phallus」、1958年, pdf)
先ほど出てきたラカン(特にクィア・ラカン)的な言い方をすれば、この「二人」の特異な関係、言葉では分節しきれない現実界の余り(残余)が、「白黒つけろ」とファルス的権力が強いる区分から離れ、他者と同化するような「他者の享楽」となり得るのです。他者の享楽の教科書的な意味合いには「象徴秩序に回収されない身体的・実存的な快」が含まれますが、この快は意識的には苦しみと不可分な側面があるとされます(苦痛を伴うほどの生の実感)。
「君」の痛みをも引き受けた先にある存在論的な肯定はまさに、この享楽と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、この箇所をパートナー説として捉えると、壁の前で迷っているのは「僕ら」であり、二人に対して「白か黒で答えろ」と難題が突きつけられていることになります。もし「二人の関係性をはっきりしろ」というような世間体的な外圧だとすると、歌詞後半の「いつまでも胸の奥で」「ひかり続け」る 君からの gift を大切にするといった内省的な価値は、直接的な解決にはそこまで繋がらず、とても「ラララ」と言えるほどの状況にはなりそうにありません。
一方で、内なる「僕」と「君」の説に立ってみます。「白か黒で答えろ」と問うてくる世の中には、既製品の言葉では反論し難い。言葉という象徴界で戦うのを一度保留し、享楽を声高々に歌う。
こう考えると、40文字に渡るラの連呼は、単に合唱パートを作りたかっただけでなく、「僕」と「君」が「僕ら」になった瞬間の、言葉にならない過剰な喜び(一種のユーフォリア)が溢れ出しているのだと感じることができます。(※ この解釈の理論的妥当性は、補足7にて考えます。)
今 君に贈るよ 気に入るかなぁ? 受け取ってよ
君とだから探せたよ 僕の方こそありがとう
僕は抱きしめる 君がくれたgiftをいつまでも胸の奥でほら ひかってるんだよ
交差的なマイノリティであるが故に、奇跡のように「君(ifの自分)」が、心の中に水平に存在してくれていること。
その君と出会わせてくれた、この「違和感」や「摩擦」そのもの。それらがタネとなって、他者や世界と関われたこと。誰かの痛みに共鳴できたこと。マジョリティがまだ言語化できていない社会の苦しみにも美しさにも輪郭を与えられたこと。
これらすべてが、この世に生まれて手にした、何にも代えがたい「最高の gift(ひかり輝く賜物)」だったのだと。「一番きれいな色ってなんだろう?」と探し求めた結果、自分が最初から握りしめていたこのグジャグジャのズレこそが、一番きれいな色だったのではないかと気づくのです。
一番きれいな色は胸の中にだけあって、客観的に何色だと言えるものではないかもしれない。
しかして、なんだかポエムっぽくなってきました。
「探していた一番きれいな色は、結局は胸の中にある」という歌詞の答えは、ふわふわした煙に巻いてるというか、スカしているようにも思えます。しかしながら、またラカンの話をさせてもらうなら、この「一番きれいな色」とは、精神分析における「対象a(決して手に入らない、欲望の原因)」に相当すると言えます。
ラカン派の説明では、私たちは常に、自分に欠けている「何か」を埋めたくて、完璧な理想を探し求めます。しかし、もし仮に「一番きれいな色は、青ではなく赤色だよ」「これに従って生きることだよ」という風に、この世のどこかに完璧なレシピと正解があり、それを完全に手に入れてしまったとしたらどうなるでしょう。その瞬間、私たちの欲望の矢印は行き止まりになり、明日を生きるエネルギー(旅)は終わってしまいかねません。
(「An Investigation of Color Preferences of Students with Special Needs」、2022年, pdf)
(「A Comparative Examination of Social Perception, Network Structure, Important Nodes, and Discourses Regarding ASD Awareness over Online Networks」、2021年, pdf)
だからこそ、「何色か分からない」「決して手に入らない」という欠如を抱え続けること自体が、「僕ら」を 「それでもまた走っていく」 へと駆り立てる、終わらない夢とその旅の強力なエンジンになっているのです。
ライブアレンジで 「今日もこれからもイメージしながら」 と歌い足された理由は、まさにこの「手に入らないものを探し続けるプロセス(欲望)こそが、生きるということだ」という真理に触れているからではないでしょうか。
地平線の先に辿り着いても
新しい地平線が広がるだけ
対象aは、手に入れること自体はできませんが、その周りを周回したり、現実の事物に対して幻想として投影したりすることはできます。
卑近な例えをすれば、「もし恋人がいたら、私の欠けたところは満ち足りる。恋人の承認(まなざし)で、私の承認欲求は満たされきる」とか「この会社に入れたら、親族や社会から一人前の大人として認められ、アイデンティティが完成する」といった幻想は、世間で "あるある" ではないでしょうか。
もちろん、恋仲や内定は勝ち取ることができます。しかし、欲望の原因である「欠如 = 満たされなさ」だけは埋まりません。いつかは、恋人も生身の人間であり不完全なこと(完全な合一は存在しない)に気付くし、投影でなく相手そのものを愛せているかという課題にぶち当たります。会社に入っただけでは、一生分の実存的な承認は得られませんし、そこまで大文字の他者は面倒を見てくれません。「付き合ったら、完全な状態になれる」「就職できたら、虚しさや不安とはおさらばだ」というのは、認めたくないことですが、幻想に過ぎないというのです。
(「『存在しない女』の審級――エウリピデスの『メデア』に寄せて」『京都大学大学院教育学研究科紀要』第56号、2010年, pdf)
ラカン自身も「“We are but one.” Everyone knows, of course, that two have never become but one.」「Love is to give what one does not have.」と、2人が1つにはなれない、愛とは持っていないものを与えることだという趣旨を語っています。
(『Book VIII: Transference』、1960-1961年, pdf)
(『Book XX: Encore: On Feminine Sexuality, the Limits of Love and Knowledge』- Internet Archive、1972-1973年, pdf)
(なお、私たちが他者や事物に魅了されるとき、言語化しきれない何らかのイメージ 𝒊(𝒂) の背後に、私たちを引きつける根源的な魅力(対象a)が隠されているとか、想像界のイメージがその欠如を覆い隠す役割を果たしているといった言い方もなされます。
乳児期の発達(鏡像段階)から「欲望のグラフ」へと至る、初期ラカンにおける対象aの構造的な形成プロセスについては、以下が参考になります。
(「ジャック・ラカンの「欲望のグラフ」について(1)」、2011年))
手に入れたと思っても、(極端に言えば)次の瞬間には手をすり抜けるのが、対象aの厄介なところでもあり、人間が次なる投影の対象(『ファスナー』でいう「欲望が苦し紛れに次の標的を探している」、ドゥルーズ=ガタリ的な表現でいう「欲望機械」)を見つけ、また次の日を生きる理由でもあります。
「もう やめにしようか?」自分の胸に聞くと
「まだ 歩き続けたい」と返事が聞こえたよ
そう考えると、この箇所にも具体的なイメージが浮かび上がってきます。
「僕」が「君」の生きるはずだった分まで共に走ること。理想の「君」のイメージに近づいても、ゴールすることまではできません。ゴールポストは走った分だけ、向こうに行ってしまいます。
その限界を感じて、「『もう やめにしようか?』自分の胸に聞」きます。しかし、歌詞にある通り、「『まだ 歩き続けたい』と返事が聞こえ」てくるのです。
これを「僕」と「君」の対話として読んでみます。「僕」は「僕」の身体で出せる最大限のギフト(トランス性)を「君」に手渡した。それでも「君」の理想に届きはしなかったが、でも一緒に歩いてはくれている。昔夢見た地平線のその先を、今「僕ら」は歩くことができているのです。
理想との完全な一致はなかったとしたって、地平線までの距離の分、前よりも近づく(漸近する)ことに意味があります。
僕は抱きしめる 君がくれた gift を
いつまでも胸の奥で
ほら ひかってるんだよ
ひかり続けんだよ
それだけに、完全な gift は渡せないかもしれないけれど、これからもその時その時で、最高の gift を「君」に贈るし、「君」からも実存の肯定という胸のなかでひかり続けるお返しをもらっているのだということになります。
ライブで追加される「君から僕へ、僕から君へ / 最高の gift をありがとう」のフレーズも今なら、「君」から「僕」への "ありがとう" として、純真な気持ちで受け取ることができます。
移行前から「僕」が代わりに現実を生き抜いて盾になってくれたから、荒波に消えてしまうことなく「君」が今日まで匿われ続けることができた。その「僕」が「君」に気付いてくれて gift を贈ってくれた。言うまでもなく「僕」のおかげです。
「君」と「僕」が互いを讃えている姿が、目に浮かびます。「僕」が "白か黒" の社会と折り合いをつけるために被ってきた並々ならぬ苦労や、生きてきたこと自体が、知ろうと知るまいと、「君」をそのときまで守り育んでいて、そのことを「君」はずっと知っていたのです。その「君」が、「僕」の手引きで、ようやくこの世界線にも顔を出せるという光を感じられます。
ずっと心の中の「日陰」にいたから、外の光は眩しすぎて、すぐには慣れないかもしれません。ですが、「僕」が「君」を守ってきた「シェルターモデル」でイメージしたように、「君」にとってはその光も、世界線を乗り越えて待った甲斐がある gift だと言えると思います。
このようにして読むと、歌詞の主人公が結局 gift を贈ったのか、はたまた受け取った相手の喜んでいる姿をイメージし続けているだけなのか、どちらかはっきりしなかったこれまでの謎が解けました。
そして、ラカン精神分析(後期)のプロセスが最終的に目指すゴールは、完璧な「対象a(理想)」を追い求めるのをやめ、自分の手の中にある「どうしようもない欠如や傷」そのものを引き受け、愛する状態(幻想の横断、欲動への反転、あるいは享楽)へと至ることだとも言われます。
(ラカン『精神分析の四基本概念』 - 5分で名著、2026年)
「僕」が、どこかにあるはずの既製品のきれいな色を探すのをやめて、色が変わり果てた不格好な gift を 「僕は抱きしめる」 と決めた瞬間。
それはまさに、その人にとってのファンタジー(ifの人生に完璧さを投影する)の幻影を抜け出し、自分自身のリアル(現実の生きづらさ、グジャグジャな不協和)を、この世界を生き延びるための唯一無二の相棒として引き受けた瞬間なのです。
「君に贈る」一番きれいな色は、外側の世界のどこかにあるカラーコードが付いたような色ではなく、この「グジャグジャな現実を抱きしめる」という行為そのものの中に、ずっと光っていたわけです。
さて、心理学の有名な言葉にインナーチャイルドがあります。自分自身の内面にある、子ども時代の記憶や感情やトラウマを持つ部分であり、癒されるのを待っているとよく解説されます。
今回の、いわば《架空のケーススタディ》としての思考実験に登場した「君」は、望んだ性別での子ども時代(や青春期など)をこの世界では経験できないまま、もっと言えば時間をかけて試行錯誤するという当たり前のことが許されないまま、大人になった、ある意味「インナーミズ」や「インナーミスター」と言えるような存在かもしれません。ifの世界線でもやはり二元論的な社会で、ミズやミスターの仮面を被り、時に人生を謳歌していても、完全には溶け込めなかった「君」。そんな ifの人生が「僕」の中に確たるイメージとしてあるのでしょう。
「君」が現実を生きられなかった時間の分(=時間の欠如を抱えた分)だけ、「インナーミスター」や「インナーミズ」に、「僕」から贈りたい gift も増えていったのだと思います。移行の過程で起こる試行錯誤は、しばしば「男性性」や「女性性」の記号的利用や「退行」だとラベリングされますが、他方でシスジェンダーの人が子供時代や青春時代に出来た模索を、大人の「僕」がようやく「君」に手渡せるようになったという、贈与論的なモデルでの見方もできるのではないでしょうか。
(※ これは、元型的な「女性性」「男性性」の存在を仮定した説明ではありません。「もし異なる性別で生まれ、社会化されていたら」という別の世界線における自分であり、「ミズ」や「ミスター」はその社会における割当役割を指すものです。)
もちろん、その時味わえなかったという喪失は途方もないものです。その代わりにというには小さいですが、けれど、ニューロダイバーシティを持つ当事者にとっては、大人になった「僕」だからこそ、やってみ易い部分も往々にしてあり得ると思います。
たとえば、定型発達の子が感覚的・体得的に理解していた「お約束」を、後の発達段階でメタ認知的に理解・エミュレートできるようになるといったことです。体得的な「何となく」ではなくて知識や認知で理解した「お約束」になら、自覚的に倣うこともできたり、キャンプ(Camp, 不自然さや過剰さを愛でることなど)も状況が許せば楽しむことができたりと裁量が広がります。あとは、致命的な失敗などを避けたり、自分へのご褒美を弾んだりできる、大人の視点や決定権も同時にあるといったことでしょうか。
(The Politics and Poetics of Camp、1994年, pdf)
(Camp 2.0: A Queer Performance of the Personal、2010年)
環境との摩擦も考えれば、お釣りには見合わないけれど、「強くてニューゲーム」のような模索ができることに関しては、「君」が長い間渡したくて握りしめていた gift の一つとも言えるかもしれません。
「遅れてきた思春期」「2度目の思春期」という表現が有名ですが、これらは、過去に体験できなかった青春の修復や瑞々しさを謳歌でき始めた喜びという語りから、思春期特有の不安定さや身体変化への意識などが含意されるケースまで様々な使われ方があります。
(アンドロゲンによる二度目の思春期 入門 - これが性別違和です、FYI)
(エストロゲンによる二度目の思春期 入門 - これが性別違和です、FYI)
(Gender-Affirming Hormone Therapy (GAHT) - Johns Hopkins Medicine)
今回は、新しい状態での内的な感覚や、その状態で世のカルチャーや新たな規範との距離感などに触れることへ焦点を当てると、「別の学部での学び直し」という表現も「やさしい名前」になるかと思います。
「学部モデル」を考えると、いろんなイメージができます。たとえば「以前いた学部」に籍は残しながらも、単位を多めに聴講すること。「あの時取れなかった科目」を取ること。その時の背筋が伸びる感覚だったり、元からそこにいる人へのリスペクトだったり、義務感でないからこそ「旧学部で単位を取ろうとしていたとき」より学べたり……。前の学部での生活で得た知識や経験がある分、時には新旧の学びが干渉やコンフリクトを起こして、自分なりの努力をしてみたり……。
「元いた学部では "逸脱", "らしくない" とされたことも、新しい学部では "割と普通" だったりするんだ」など、学部ごとの雰囲気や文化の傾向の発見、そうしたこと自体も学びかもしれません。
それでも、「普通な」社会の場に一歩出たら、敬称(Mr. / Ms. や Mx. など)を持ち社会に生きる一人としての部分と、社会のファルス的な権力から去勢されないChild、あるいは「僕」と「君」のChildrenの部分が、空白なしで繋がり、軋みが生まれています。
その摩擦のなかで生きることについて考えてきました。
「インナーミズ」や「インナーミスター」は単なるアイデンティティではなく、社会との摩擦を持つ主体であり客体です。内なる「君」が、「僕」が社会化されたときとは別のジェンダーステレオタイプや身体性で被っているであろう痛みも、「僕」の自分ごととして真剣に捉える。そしてそれが、シスジェンダーの人なども含めたその痛みを現実で負っている人への共苦的な想像力、架け橋となり得るのだと思います。
3️⃣マスキングとカモフラージュとサントーム
社会学では、仕事などで求められる役割を演じきらず、敢えて距離を置くことを役割距離と呼ぶことがあります。一般的には「自分は与えられた役以上の存在である」と誇示するためになされるという理解が知られています。
しかし、メンタルヘルスの観点から考えると、役割の要請から逸脱して、あえて斜に構えてみせたり、おどけてみせたりすることで、役割と自己の間に余白を作り、精神の安定と自己の独立を保つ技術というような再解釈も可能です。
名付け親の社会学者 アーヴィング・ゴフマンは、「手術室で軽口を叩いたり道化的に振る舞ったりして、緊張をほぐす医療チーム」や、「メリーゴーランドに乗るとき、子どもっぽいと思われたくなくて、照れ隠しのおどけや、わざと危ない行動をする思春期の人」などを例に挙げています。
(「Encounters: Two Studies in the Sociology of Interaction」、1961年, pdf)
なのですが、こうした逸脱と言っても、社会の「選ばれる者」から本気の逸脱をしてしまわないために、高度な定型発達的調整が裏で行われています。自身を守るという同じ目的であっても、多数派的な馴染みのあるなしで、見られ方という結果は大きく変わってきます。
例えば、馴染みがあればユーモアや愛嬌または大人の余裕として受け止められるものでも、神経多様性的な逸脱であれば奇妙や不審だとスティグマ的なラベリングをされることが往々にしてあり得ます。
殊に、2020年代に入ってから、「ニューロダイバース・ゴフマン」とも呼べそうな、マイノリティが生き抜くための役割演技(マスキング、カモフラージュ = 擬態)研究が盛んになっており、スポットライトが当たってきています。
近年の研究では、周囲に同化する「カモフラージュ」と特性を自分自身で覆い隠す「マスキング」の二つを区別したり、マスキングはカモフラージュの必要条件だと包含関係を定めたりする見解もありますが、いずれにせよ、多数派のルールに合わせるための絶え間ない脳内シミュレーションが、当事者の認知資源を摩耗させ、燃え尽きを引き起こすメカニズムが認知科学的にも明らかになりつつあります。
2023年以降の知見を整理した文献レビューでは、社会的カモフラージュは主に、
・補償(社会的困難の回避)
・マスキング(特性の隠蔽)
・同化(不快感を隠して場に溶け込む)
の3要素に分類されています。興味深いことに、これら3つのうち、精神的健康(ウェルビーイング)に最も強い悪影響を与えるのは「同化」であると指摘されています。つまり、単にマナーとして対話技術を補う(補償)ことよりも、「自分が不快感や違和感を抱いている状況に、無理やり自分を押し殺してまで馴染もうとする(同化)」プロセスこそが、自尊心を削り、最も窒息感や疲弊を生み出す主犯であるということです。
(「自閉スペクトラム症者のカモフラージュを引き起こす要因とその影響における心理社会的側面からの文献的検討」、2025年, pdf)
ゴフマンのいう原義の「印象操作」(他者からどう見られるかを意識し、自分に対する好ましい印象を作ろうとする)は、定型発達にとっては社会的地位を高める自発的なものであっても、マイノリティにとっては排除や偏見を恐れて行わざるを得ない外発的なものであるとされます。マイナスをゼロに近づける作業のようなものでしょうか。
当事者が「表舞台」で社会に合わせるため行なっている自助的な努力に頼るだけでは、そうした人々の精神衛生に重大な影響を及ぼしかねないと指摘されています。
こうした問題は、個人の特性に起因するというよりも、多数派の在り方のみを「標準」「正常」とする社会構造に背景があるという「障害の社会モデル」が一般的です。
「Conceptualising〜」の著者である社会学者 ベス・ラダルスキー(Beth Radulski)氏 は、男女に序列を設ける社会構造の家父長制(Patriarchy)に準えて、定型発達以外を劣ったものとする構造をニューロアーキー(Neuroarchy)と名付けています。
(Reconsidering autistic ‘camouflaging’ as transactional impression management、2022年, pdf)
(Conceptualising Autistic Masking, Camouflaging, and Neurotypical Privilege: Towards a Minority Group Model of Neurodiversity、2022年)
(What We Know and Do Not Know About Camouflaging, Impression Management, and Mental Health and Wellbeing in Autistic People、2024-2025年, pdf)
(Videos - Advocate Neurodiversity)
途中の方で少し歌詞を引いた『擬態』という曲の話になりますが、「ビハインドから始まった」という歌い出しや「あたかもすぐ打ち解けそうに親しげな笑顔を見せて」「アスファルトを飛び跳ねるトビウオに擬態して / 血を流し それでも遠く伸びて」と歌われている通り、擬態することの痛みや "もがき" が登場します。
定型発達の人にとっては、硬い地面(アスファルト)は舗装されていて歩きやすい方だし、特に意識することはないけれど、「トビウオ」にとっては硬かったり(硬直的な規範)、暑かったり(情動的共感の仕方の差)、痛かったり……何とかしてマスキングを防具にしている……と、同じものでも身体に迫る感じが異なってきます。
「トビウオ」からすれば「海」から出て「アスファルト」へしか選択肢がないのに、定型発達の人はそこがホームだから、海にはレジャーでやってくるくらい。そして、そのトビウオ同士が本来いられる「海」は、定型発達の人の一部からは「ぐにゃぐにゃしていたり、波(浮き沈み)や独自の海流(法則)があったりして、陸より移動しづらい」というような、言われようです。
これは社会学者 ダミアン・ミルトン氏が提唱した「二重共感問題」の文学的な表現のようです。神経多様性(特に自閉スペクトラム傾向)を持つ人は、マジョリティから共感性や心の理論が未整備とされがちですが、それは必ずしも共感性の欠如ではなく、共感の仕方・示し方の違いであることもあり、同じ神経特性を持つ人同士では共感がスムーズな傾向にあるという議論です(定型発達同士または似た傾向を持つ非定型発達同士ならうまく行きやすい)。
(「On the Ontological Status of Autism: the ‘Double Empathy Problem」、2012年, pdf)
(「The ‘double empathy problem’: Ten years on」、2022年, pdf)
(【連載】共感の心理学―異なる他者とわかりあうために(青山学院大学教授:米田英嗣) 第6回:二重共感問題 - 「こころ」のための専門メディア 金子書房、2025年)
(「女性の自閉症が増えた? 最新報告にみる男性との差、覆る固定観念 ナショナル ジオグラフィック」
- 日本経済新聞、2026年)
そして、この曲は「すべて自分のもんにできたなら / もっと強くなれるのに / 現在を越えて行けるのに」というような反実仮想(ifの想像)への想いであったり、「障害を持つ者はそうでない者より不自由だって誰が決めんの!?」という外からの決めつけへの抵抗であったり、果ては「目じゃないとこ 耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ 見落としてしまう」という自身の独自の認知特性とも取れる文だったりと、関連しそうな箇所が多数あります。
意図されているかは別として、今回の "ケーススタディ" における内面やマスキングの困難が代弁されていると思って、聴いてみるのもいいかもしれないと思いました。
この「トビウオが陸上で擬態(カモフラージュ)せざるを得ない過酷さ」は、日本の文化的なダブルバインドとも共鳴しています。
カモフラージュをめぐる日英の比較研究では、イギリスではカモフラージュが多いほど直線的に精神健康が悪化するのに対し、日本では、カモフラージュが「過剰」な場合だけでなく、逆に「過少(全くしない)」な場合でも精神健康が悪化するという「U字型」の関連が示されています。
(「The association between social camouflage and mental health among autistic people in Japan and the UK: a cross-cultural study」、2024年)
日本の「トビウオ」は、擬態しすぎると自分を見失って血を流し、かといって擬態を全くしないとアスファルトの社会から排除されて傷つくという、進むも退くも痛みを伴う「適度な擬態のバランス調整」を常に強いられているのです。この綱渡りのような調整コストこそが、日本で生きるマイノリティが抱える、「生きづらさ」の言語化なのかもしれません。
あまつさえ、定型的なジェンダー規範は、少しの逸脱(神経多様性を伴ってありのままでいることすら)がすぐに「クィア(奇妙な)」と見做されてしまうほど、仕事でもプライベートでも四六時中付きまとう概念である。そんな世の中です。敬称とChildrenの間には緩衝地帯となるスペースなんてない。
GNC(Gender non-conforming / Gender nonconformity, "ジェンダー不適合")という言葉がありますが、conform は従う・適合するといった意味です。ジェンダー規範というフォーム(form = 型)に一部でも従っていないことに、あえて名前が必要となるくらいということは、いかばかりかはお分かりいただけると思います。
(「Guidelines for Psychological Practice with Transgender and Gender Nonconforming People」、2015年, pdf)
自閉スペクトラム者(AS)へのライフヒストリー調査では、性別違和の一部が社会規範との摩擦のなかで生起されているという仮説が形成され、ジェンダー規範は社会規範の中で大きな割合を占める部分集合として捉えられています。
(自閉スペクトラム者が示す広範な社会違和とその部分集合としての性別違和の発達的検討、2025年, pdf)
さらに、ASを持つトランスジェンダーの現象学研究では、以下のような当事者の語りから、カモフラージュの複雑な多層性を考察しています。
自閉症特性のマスキングに加えてシスジェンダー規範への適応が必要になるという、何層ものマスキングの負担が窒息感だという訴えが紹介されています。定型発達者に適応すること(マスキング)と、望んだ性別に見られること(パッシング、パス)の二つは、切り離せない一つの動きという感覚があるという声も掲載されており、インターセクショナリティ(交差性)の絡み合いを感じさせます。
また、仮面を外すこと(アンマスキング, unmasking)が本来のジェンダーの自覚を促すこともあれば、身の安全のためにカムフラージュを優先することが「自己の喪失」につながることもあるという舵取りの葛藤も語られています。
こうしたことから、論文では、哲学者 シモーヌ・ド・ボーヴォワールや美術評論家 ジョン・バージャーが提唱した、家父長制社会における女性の「二重化(doubling)」(主体としての自分と、眼差される客体・イメージとしての自己の双方を同時に経験すること)の概念を基に拡張し、ASを持つトランスジェンダーは「自閉症としての仮面」、「定型発達としての仮面」、「割り当てられた身体」、「移行後の新しい身体」、「目指すべき理想のジェンダー像」などが重なり合う、「四重化」や場合によっては「五重化」された経験があると分析しています。
(Autistic trans camouflaging: an early phenomenological exploration、2024年)
バージャーはかつて著書『イメージ: 視覚とメディア』の中で、「男は行動し、女は現れる。女は、見られている自分を見ている」と指摘し、社会の支配的な視線(メイル・ゲイズ)が社会的マイノリティの女性の内面に組み込まれ、自分自身を監視するようになりやすい構造を暴きました。
(Ways of Seeing by John Berger)
(Ways of Seeing : with John Berger、BBC - Internet Archive)
(「Visual Pleasure and Narrative Cinema」、1975年, pdf)
この「他者の視線を内面化し、自らを監視する」という過酷なメカニズムは、トランスジェンダーやノンバイナリー当事者の性別違和(ジェンダー・ディスフォリア)が、社会的文脈の中でどのように経験されるかを調査した質的研究でも裏付けられています。
同研究では、当事者の性別違和が「他者が自分のジェンダーをどう認識しているか」についての侵入的思考や、過剰な自己監視(self-scrutiny)といった「内的処理(Internal Processing)」として現れることが報告されています。
たとえば、「自分の歩き方や髪の触り方が、割り当てられた性別を透けて見せてしまっていないか」(リード (read) の恐怖)と、世間の視線を頭の中に住まわせ、自分自身を検閲し続ける状態です。
(「"Every time I get gendered male, I feel a pain in my chest": Understanding the social context for gender dysphoria」『Stigma and Health』、2020年)
トランスジェンダーの質的研究をシステマティック・レビューした論文では、性別違和(ジェンダーディスフォリア)は、拒絶やトランスフォビアの経験が、拒絶への恐れ、過剰な警戒、内面化された羞恥として処理されうると整理しています。
この点で、性別違和の苦痛は、本人の身体感覚だけでなく、社会的拒絶の経験とも結びつくことが明らかになっています。
(「The phenomenology of gender dysphoria in adults: A systematic review and meta-synthesis」、2020年, pdf)
さらに別の研究では、当事者が他者からのフェティッシュ化や性的対象化の眼差しに晒され続けることで、自分自身を「他者のための対象」として内面化してしまう「自己対象化(self-objectification)」の危険性も指摘されており、これもまたマイノリティ・ストレスとして当事者の認知資源を深く削り取ります。
(「“Being Talked to Like I Was a Sex Toy, Like Being Transgender Was Simply for the Enjoyment of Someone Else”: Fetishization and Sexualization of Transgender and Nonbinary Individuals」『Archives of Sexual Behavior』、2021年, pdf)
定型発達の枠組みからも、ジェンダーの二元論からも奇異な目で見られないように、幾重にも仮面を被った結果、自分の心のなかに複雑なレイヤーができること。
この多重化された経験という考え方は、「僕」と「君」との関係をイメージするヒントになりました。
ジェンダー多様な人々は、メンタルヘルスのリスクが比較的高い傾向にありますが、それがどの程度ジェンダー・マイノリティ・ストレスによるものなのか、もしくは神経特性によるものなのかなどの医療的な解きほぐしには、本人の内的体験の聴取や発達のタイムラインの作成など、丁寧な診察が求められると、臨床専門家のグループは述べています。
また、従来の標準化された自閉スペクトラム症の評価基準や、社会的に期待される(支援対象となる)ジェンダー行動の枠組みには、ジェンダー・ステレオタイプが内包されており、臨床医の自覚や「フェノタイプ(表現型)の再概念化(見直し)」の必要性が示されています。
(Autism Diagnostic Assessments for Gender-Diverse Individuals: A Modified Delphi Study of Clinician Experts in the Fields of Autism and Gender Diversity、2026年)
つまり、「知っていると想定される主体」の臨床専門家にとっても、交差性を持つニューロクィアのGI当事者への個別理解は今後の急務だと考えているようなのです。
全てを知っているというファンタジーが解けた以上、従来的な転移(「私より私に詳しい」とクライアントが治療者に仮託するなど)のやりようは、かなり消え去ります。
それよりも、寧ろ「例の知っているとされるお約束ですよね。なのでそのお約束と役割分担でやってみます」とメタ的に枠組みを使うことで、いかに併走してもらうかを考えるようになれるのではないでしょうか。
(「学生は《知っていると想定された主体》の夢を見るか?:『学び合い』、観光理論、そして/あるいはラカンの教育論」、2020年, pdf)
(「The Lacanian subject: between language and jouissance」、1995年, pdf)
(この登場人物は診察室で、「知っているテイの主体」として治療者の(非全な)プロの知を尊重し、その一方で、治療者だって個人としては悩みを抱えキャパシティも有限な人間(斜線を引かれた主体)であろうことも同時に認識しているのでしょう。
この役柄を超えたメタ認知とリスペクトが持続可能な関係(メタ治療同盟)を生み出しうるのかもしれません。
(ラカンの欲望グラフ:Lacanian term glossary - Whole Asshole Catalogue)
(「カウンセリングにおける作業同盟と効果研究を再考する」、2023年, pdf))
二次創作BL(ボーイズラブ)において、異性愛規範・ミソジニー(女性嫌悪)・ホモフォビア(同性愛嫌悪)を克服しようとする姿勢が多く見られることを考察した研究では、読者は単に作品を読むだけでなく、「作者が原作の人間関係にどのような欲望(解釈)を向けているか」を見たいと欲しているという「読者 - 二次創作の作者」の関係に着目しています。
(「BL消費に起きる享楽―作者と読者の間に起こること―」『卒業論文審査会 比較文明学研究室』、2021年, pdf)
すなわち、現代的なメディア消費では、転移対象が伝統的な権威性を持っていないとしても、治療的・修復的な関係性を築けるということです。
「設定は事実でないかもしれないけれど、そのガワ(シミュラークル)があることで、却って気負わず本当のことが話せる」し、相手も「ガワがクッションになることで、それを受け止められる」というのは、虚構(ベタ)とメタが入り交じる(虚実皮膜な)エンタメに慣れっこのイマドキな発想なのかもしれません。
複数の次元や設定を行き来することで、伝統的な「統一された人間の自己(主体)」という概念が問い直されているというか、すでにそうした受容が一般的になってきているように思えます。
(近松門左衛門の「虚実皮膜の論」とはどのようなものか。- レファレンス協同データベース、2022年)
(「バーチャルYouTuberの人格権・著作者人格権・実演家人格権」、2021年, pdf)
(「VTuberのメディア実践における『故障』としてのアイデンティティ――ねこますと鳩羽つぐを事例として」、2026年, pdf)
今回のイメージで描かれた人は、医療者からお墨付きを得られそうな物語を自己呈示することよりも、性別不合を自身の内的体験の深掘りやこれまでの人生の振り返りにおける一つの出発点として位置付けたのだと思います。
その過程で、社会との摩擦に自身のマイノリティ性が大きく関わってきたこと、それから逃げられないことを悟ったのでしょう。
そうであっても、その摩擦こそが、自己の空中分解をつなぎとめる自分のリボンの結び目、そして人生の実感なんだという、そんな想いが伝わってきます(まさに『GIFT』のジャケット写真ですね)。
社会規範が用意した既製品の結び目(精神分析で言う、象徴界と想像界と現実界の三つを結び付ける「ボロメオの結び目」)が機能しないからこそ、この人は自分で、第四の環(サントーム)、すなわち「GIFT」のリボンラッピングを作り、ここに結びました。
(※ サントーム (Sinthome) は、symptom(症状)の古いフランス語表記ですが、ここでは病理を意味しません。主体の崩壊を防ぐために結ばれた、その人独自の主体的で創造的なノットを指しています。ゲロヴィッチらの解釈と本記事との比較については、補足7で確認します。)
だからといって、当然、「当事者の気持ちの持ちようが変わればそれでいい」なんてことは全くありません。マイノリティを追い詰める社会自体が変化することや、医療・福祉のバックアップなどは、これからもひとときも欠かすことはできません。
それらを追い風として、自分らしく生きられることを求めたとき。それでも、どうしても残るであろう摩擦。
この人なら、それにどう向き合っていくだろうかを、イメージしながら、ここまで走ってくることができました。
4️⃣まとめ - "ケーススタディ"から、なぜ今「あなた」になるのか
振り返れば、桜井さんはこの曲について、当時のオリコンニュースの紹介記事の中で、次のように語っていました。
勝利を収められなかった人の中にも、また勝ち負けのない日常の中で一生懸命暮らしている人の中にも、どんなメダルにも負けない輝きが一人一人にあると思っています。この歌が、皆さんの中にある輝きを見つける手助けになったとしたら、そんな幸せなことはありません
(桜井和寿が北京五輪テーマ曲で“人の輝き”を歌う - オリコンニュース)
僕は金、銀、銅という勝者にのみ与えられる輝きより、もっと大切で、価値ある輝きが存在していると思っています
(ミスチル、北京五輪テーマソング「GIFT」をお披露目 - オリコンニュース)
ここで呼びかけられている先は、称号が与えられた勝者でも、分かりやすい幸福を手に入れたロマンチックなカップルでもありません。他ならぬ、日常を懸命にサバイブしている人自身です。
そして、桜井さんが『GIFT』に込めた願いとは、聴く人の「中にある輝きを見つける手助け」になることです。この「中にある」とは、一人一人の心の中のことを指していると捉えて差し支えないでしょう。外から「与えられる輝き」よりも、「もっと大切で、価値ある輝き」と合致します。
ここまで、ニューロクィアGI当事者が自己肯定に至る一例について、そのイメージを考えてきました。この二重のマイノリティの物語が、なぜ「あなた」の物語になり得るのでしょうか。
『GIFT』と同年に発表された研究では、宝塚歌劇団の「男役が演じる女役」などの複雑なジェンダー表現(トランス)を考察する中で、これが単なるマイノリティや演劇界の特殊な事象にとどまらないと指摘されています。
女性である男役スターが、男役としてのスタンスを保ちながら「女性」の役を演じるという重層的な(入れ子構造の)演技が、ファンに違和感と「不思議」な魅力を覚えさせたと調べられていて、これは娘役と男役の二分という従来の枠組みに異化効果をもたらしたと考えられます。(ジェンダーの入れ子構造という点では、能や歌舞伎の白拍子も近いかもしれません。
(京鹿子娘道成寺│歌舞伎の演目 - ユネスコ無形文化遺産 歌舞伎への誘い)
(「How Handsome, How Infuriating: Onnagata Gender Performance on the Kabuki Stage」、2017年))
(本当に因みにですが、前の方で少し触れたドラマ『同窓会』に、ニューハーフだと打ち明ける際の男声をアテレコされた一方で、それ以外は女性俳優が演じた "ニューハーフ" が登場します。
(新堂有望さんのポスト(ツイート)、2016年)
ドラマは1993年放送ということもあり、登場人物の発言などからSOGIマイノリティやGNC、性的同意に関する当時の認識の時代背景を窺い知る参考になります。)
論文(『トランス・ポリティクスの可能性』)の執筆者で、音楽学者の 中村美亜氏は「ジェンダー・クリエイティブ」という考えを用いて、自己のジェンダー化に自覚的になることで、自身にとってより快適で満足のいくそれをクリエイティブに行っていこうとすることを提唱しています。
今回の登場人物は、まさに自身の生きづらさに向き合い、その背景に自覚的になる過程で、ジェンダー・クリエイティブな姿勢になっていったと言えるのではないでしょうか。
そして、そうした既存の規範をトランス(変容)させていく実践や研究は、ジェンダーだけに限った話ではなく、私たちが自分や他者の「必ずしも(社会通念上)『正常』『完全』『望み通り』ではない身体についての新たな肯定的な認識の可能性」を開くものだと展望されています。(「自己の他者性」に出会い直すと表現できるかもしれません。)
(「トランス・ポリティクスの可能性――オペラと宝塚の異性装をめぐるジェンダー・身体・認識論的考察」『立命館言語文化研究』20巻1号、2008年, pdf)
(「はじめに」『立命館言語文化研究』20巻1号、2008年, pdf)
考えてみれば、社会が用意した「男らしく/女らしく」「大人らしく」「定型発達の健常者らしく」「この組織の一員らしく」といった既製服に、全くの違和感なく元から完全に適合できる人という方が、実は限られているのかもしれません。
マイノリティと呼ばれる人々は、その「しっくりこなさ」や圧迫度が大きく、摩擦の最前線に立たされたりしています。
しかし、マジョリティとされている人々もまた、社会の求める型に自分を押し込む(ジェンダーなどを「身体化」する)ために、無意識のうちに過剰な適応を強いられ、心の中の「ifの自分(日陰)」を切り捨てて生きているといえます。
晩年のラカンは、病理化に使われてきたそれまでの自説をひっくり返すように、メンタルの問題は「病気の人」に限った話でないことを見出しました。
ラカンから『セミネール』全巻の本文確定と刊行を委ねられた精神分析家 ジャック=アラン・ミレール氏の解説では、「大文字の他者」による究極の保証は存在せず、「父の名」(社会に加わるための普遍的な言語体系の法)ももはや唯一絶対でなく、精神病と隣り合わせながら日常を営むのは万人に共通する構造(普遍的パラフレニア:Universal Paraphrenia)であるとまで言われます。(「でも no no no no 皆 病んでる」「そしてyes yes yes yes必死で生きてる」『everybody goes 〜秩序のない現代にドロップキック〜』)
(「Le droit moral et l'enseignement de Lacan」, SGDL)
現実界(R)・象徴界(S)・想像界(I) という全く異質な3つの次元を結びつけるためには、各主体が自ら第4の輪(サントームや何らかの代補)を発明しなければならず、それは誰しもが抱える課題だということです。
(「Ordinary Psychosis Revisited」『Psychoanalytical Notebooks』No.19、2008-2009年, pdf)
今回の登場人物が、自らの手で「グジャグジャの gift 」に「やさしい名前」をつけようとする姿。それは対岸の火事ではありません。
社会の「お約束」に適応するために疲弊している人にとって、切り捨ててきた「もう一人の自分(君)」を迎えに行き、自分だけの結び目をつくること、また「ごつごつした現実界」にいる他者と出会うことの、最前線でのサバイブの一形態であり、そこから学ぶことのできる先鋭的なモデルケースだとも思えます。
「インナーミズ」「インナーミスター」の説明で、敬称(Ms. / Mr. など)を割り当てられて生きる大人の自分と、内なる「僕ら」(Children)が接続されたときの摩擦について考えました。
『映画Mr.Children「GIFT for you」予告編』では、リスナーを「全ての「Mr.Children」」と称していました。このメッセージを、「外側と内面の無茶な接続」という私たちが置かれた、この共通の現象にかけて呼んでいると受け取るのも悪くありません。
少なくとも、ファンベース手法を用いたマーケティングと切り捨てるよりは、いくぶん修復的な気がします。
この曲が歌う「僕」と「君」の等身大の物語は、単なる誰かの物語ではなく、そうした日々葛藤しながら生きる一人一人の、内なる自己統合に向けられた眼差しであり、自己肯定に向かうための語り・アファーメーション(肯定)なのだと感じます。
途中で紹介した桜井さんの発言、「誤解して受け取ってもらった方がよいこともある」とは、「僕」と「君」という器に、リスナー各々の人生経験が注がれてほしいという想いであり、それが「一生懸命暮らしている人の中にも、どんなメダルにも負けない輝きが一人一人にあると思っています」と語っていたことの表れではないでしょうか。
……夜の散歩や帰ってからのお布団クネクネで、そんなことを考えていました。
マイノリティ性の濃淡にかかわらず、私たちが日々抱える違和感や生きづらさは、決めつけて安易に消し去るべき "不具合" や "欠陥" などではありません。それは、自分自身と深く出会い、また他者と深く繋がるために、大切なものなのだと思います。
ユング派の個性化を、特に「傷とともに舞うこと」から捉えて日本的な解釈を施していくのは、秋田巌 氏の『人はなぜ傷つくのか 異形の自己と黒い聖痕』に詳しいです。この本が範とする「傷ついた癒し手」は、何も傷を完治した存在ではなく、傷があるからこそなんだという発見が、文芸批評とともに解説されています。
「自己統合 = ゴール」という通俗的なユング理解に対して、臨床的な知見も含めて割り切れなさに向き合った書と言えます。このnote を書いていて、また読み返そうと思いました。
最後の最後にですが、タイトルで「あなた(指差し)」なんて失礼なことをしてしまいました。書き手が第四の壁を越えてくる感じが苦手なこともあるのは私もそうなので、申し訳ないな……と思いながらも、それでも『GIFT』があなたの内なる「僕」と「君」への讃歌としても聞こえたら?という思いがありました。
今回書いたことはもちろん仮説に過ぎませんし、他の読み方を妨げるものではありませんが、誰かの "変わった" 視点を頭の片隅に置いてまた聴いてみることが、まさにクィア・リーディングの実践だと思います!またお会いしましょう!
☆お読みくださりありがとうございます☆
P.S. 社会の「お約束」と生身の摩擦が、調査記事に熱を
「僕」から「君」へ。「君」から「あなた」へ。
本編で流れの都合から省いてしまったことを書いていきます!
最近の 新びんえい通信 の調査記事に、こんな件があることを思い出しました。今度は歌の外で、社会制度に潜む二元論やジェンダー規範の押し付けが見過ごされてきた、実際の「ぶち当たった壁」のケースになります。
(【独自】ご当地キャラの中の人は「生物学的な女性限定」「家族にも口外厳禁」?自治体ルールの実態と浮き彫りになる行政の格差 - 新びんえい通信、2026年)
記事への雑感です。
人権や法令を重んじていそうな地方行政。ですが、行政の「中の人」も仕事に追われる人間と言いますか、人権保障や均衡という生真面目で硬い物より、世にある既製品の「お約束」(行政の回答では「世界観」)を、あたかもリアルな合意形成の仕組みであるとして使った方がラクになる。
もっと言えば、現実の大半がナラティブ(物語や〇〇劇場)で実際に動いているから、他の在りようが実在感を持って想像できない、理論家 マーク・フィッシャーの資本主義リアリズムならぬ「ナラティブリアリズム」が侵食しているような気すらしてきます。
(資本主義リアリズム - マーク・フィッシャー 著 - ele-king、2018年)
ビジネスでよく聞く、「システム2」を働かせ続けるよりも、「システム1」に頼った方が認知資源を節約できるため、「速い思考」での判断が行われやすいという行動経済学者 ダニエル・カーネマンが有名にした説も思い出されます(補足4)。
「システム1」: 直感的でヒューリスティックな「速い思考」
「システム2」:意識的で分析的な「遅い思考」。ただし過負荷になると注意を向ける対象以外を見落としやすくなる。
ルールを作る側(エンコーダー)にとっても、「システム2」は面倒だし、読み解く側(デコーダー)にとっても、論理で書かれたルールは負担になって、「共感できない」「響かない」言葉になりかねません。
つまり、「システム1」に咀嚼されやすい「共感される」「世界観に沿う」ストーリーやルールが、双方の暗黙の要請によって出来上がってきやすいのかもしれません。
(「Narrative Policy Framework: Narratives as heuristics in the policy process」、2017年, pdf)
「1️⃣前提です」で触れたような、トランスジェンダーを含むクィアの在り方が、マジョリティが共感しやすい分かりやすいストーリーや像に規定されていたこと、本来は一説明に過ぎなかったナラティブが、現実と生身を管理する、重みある枠として振る舞うこと、これらとも「ナラティブリアリズム」という項で繋がっているとも言えないでしょうか。
さりとて、ラクだからといって「お約束」を流用するままでは、それが持つジェンダーバイアスや問題が見過ごされてしまいます。
(2つの思考モード(システム1・システム2) - UX TIMES、2019年)
(アンコンシャス・バイアスとは?|女子STEM離れとの関係 - SheSTEM Japan)
仮に「これはおかしい」と実感や論理で指摘する声を上げられたとしても、「そういうものだ」「水を差すな、夢を壊すな、重箱の隅をつつくな」という封殺ばかりになるような、空気による圧力が生まれてしまわないでしょうか。その結果、声を上げた側自身が「自分がおかしかったのかな」と、ガスライティング的に思わされかねません。
(※ 人びとが不満や問題を社会に向けて訴える活動は、社会学者 マルコム・B・スペクター(Malcolm B. Spector)氏と社会学者 ジョン・イツロウ・キツセ氏の提唱により、「クレイム申し立て (claim-making)」と呼ばれます。
(What use is social problems theory? Forty years of uninterrupted reflection - SocietàMutamentoPolitica、2018年, pdf)
(「構築主義と概念分析の社会学」、2017年)
それらが機能しない事由について、「わかりやすさの要求」「複雑なものへの無関心・倦怠」といった日常的な態度が、暗黙の検閲(予めの排除)として機能し、問題化の芽を摘んでいることが指摘されています。
その指摘を行った論文では、選択的夫婦別姓の論争を引き合いに出しながら、申し立て(問題化)そのものを無効化するような反論(カウンタークレイム)に、以下の4つの手法が見られると分節化しています。いずれもそれまで自明とされてきた現状認識を守ろうとする機序があるとされています。
・破壊的結果の警告(「家族や国家が崩壊する」)
・人格への還元(「わがまま」「特殊なキャリアウーマンの戯言」「茶髪と同じ軽薄さ」などの価値剥奪・特殊化・戯画化)
・弱者配慮の要求(「子どもや親がかわいそう」)
・グランドルールの宣示(「世間・道徳・自然の摂理に反する」)
(「第一章 社会問題研究における「クレイム申し立て」アプローチの再考」、2008年, pdf)
今回の例で想定されるカウンタークレイム、例えば「これまで世間で守られてきた子どもたちの純粋な夢や世界が、黒衣・裏方に徹さずに騒いだ個人の我儘で壊される」というのは、1つの文にして、この4つの手法を網羅しています。
(文学研究者 リー・エーデルマン氏は、現実の成人の在り方が、想像上の〈子供〉の未来に配慮するという名目で制限されていると考え、「子どものため」を旗印(ダシ)にした「生殖的未来主義」の下で、成人や実際の子どものクィアネスが排除されていると述べています。
(「The Future Is Kid Stuff」『No Future: Queer Theory and the Death Drive』、2004年, pdf)
これは、良いか悪いかは別として、日本国憲法前文の「われらの子孫のために」という表現にも見られるように、近代国家の存続や社会秩序を正当化する際の根幹的なレトリックとしても機能しているといえます(「将来の国民のために」と言い換えてもよいのに)。
エーデルマンはラカンを度々引用します(書名にDeath Driveとある通り)が、ラカン本人も、支配者や権力機構(国家や社会)が求める<道徳>というのは、一言で言えば「仕事を続けよ。欲望については後回しにせよ」というメッセージだとしています。社会的・家庭的・個人的な快適さや調和(財のサービス)を優先させることで、人間本来の「欲望」の問いを抑圧・先送りさせているというのです。ラカンは最終的に、「財」の概念を逆転させ、「自らの欲望へと至る対価(享楽の代償)を支払うために役立ち得るもの」 以外に価値ある「善」は存在しないとし、支配的な<道徳>へのアンチテーゼを語っています。
(「Book VII: The Ethics of Psychoanalysis」、1960-1961年, pdf)
(「ラカンにおける倫理の問題」『哲学の探求』第44号、2017年))
実は、皮肉にもこの反論(や家族・友人に対しても「中」の話をしてはいけない貸出ルール)は、大きな励ましをくれています。それは、クレイム申し立てがかように恐れられ、封じようとされるほどに、その有効性やポテンシャルが異なる立場からも理解されているということです。「ナラティブ型支配」が情報や語りの囲い込み,認識に対する影響力の寡占で立するのであれば、そこに回収されないオルタナティヴな情報や語り,選択肢の提示は、その支配の楼閣を揺るがし得る力を持つと思います。)
第一、こうした声が秘密保持の名の下、抑圧・分断・遮蔽されている現状があります。プロ意識というナラティブ(物語)やコンプラの名の下に、主観的な経験や感じたこと(内的な現象)すら(自分のものであるはずだったのに)語れないかもしれない「語りからの疎外」に遭っていると言えます。
(※ ここでいう「感じたこと」は、ひょっとすると、ポスト構造主義的には懐疑的な見方を持たれやすかったかもしれません。歴史学者 ジョーン・W・スコット氏は、<経験>とは生の事実ではなく、「言説」によって構成されたものだと考え、<経験>を金科玉条とすることに反対しました。
(「The Evidence of Experience」、1991年, pdf)
(私の理解ですが、「経験によって主体が形成される」とするこの考えでは、その主体が経験を自明な根拠として語ることは、循環論法に陥るのではないかと警戒されたのだと思います。)しかし、本P.S.では「感じたこと」に、構成される以前の生の実感があるという立場を取ります。
たしかに「経験」の意味づけや語りは、スコットの言うように、社会のディスコースの影響を受けます。しかし、シニフィアンが社会構築的だからといって、それが指そうとするシニフィエ自体(ここでは "クオリア" 的なものやその周辺概念、「感じたこと」)がなかったことにまではならないと、ポスト・ポストモダン的に考えています。人間が持つ「傷つきやすさ・生のあやうさ」までは解体しきれないというものです。
「感じたこと(eg. 怖い つらい 可哀想)の訴え」を、社会構造や歴史を解き明かすための情報源として消費するだけでなく、それ自体が権利均衡はありながらも保護・尊重されなければならない拠り所(借用して呼ぶなら「クオリアの主権」)だと考えます。
この主権が、外部の抑圧的なナラティブから介入・干渉を受けていたり、あるいは、諸々の事情でその行使(個人の語り)が封じられたり(疎外)丸められたり(自己検閲)しているのではないかという問題意識で書いています。
哲学者 メルロ=ポンティの言った、「世界は私が思惟するものではなくて、生きるものである」「科学の宇宙の全体は、生きられた世界の上に打ち建てられており……科学はこの経験の二次的な表現なのだ」という現象学的な理解に通ずるかもしれません。
(「Maurice MERLEAU-PONTY, PHÉNOMÉNOLOGIE DE LA PERCEPTION - UQAM」)
(「自己と他者の系における身体知の概念に関する研究 ―モーリス・メルロ=ポンティの現象学的身体論を基盤として―」、2025年, pdf)
ネオプラグマティズムやヒルベルトの第10問題の否定的解決でも知られる哲学者 ヒラリー・パトナムは、「どうしても比喩的な言葉を用いなければならないのなら、その比喩はこういうものにしよう。心と世界は共同して、心と世界を作り上げている」と自身の捉え方について説明を行っています。これは、形而上学的実在論(神の視点)への挫折と相対主義・観念論の拒絶から、文字通りのプラグマティズム(超訳するならば、残酷さを減らすため、役立つあらゆる思想を道具として用いる)を達成することを目的として、非二元的な「不可分な『心』と『世界』が共に作り上げている」という中庸的な落としどころ(内在的実在論)に至ったのだと考えられます。
(『Reason, Truth and History』Cambridge University Press、1981年)
また、ポスト構造主義後の潮流の一つであるアフェクト論でも、言語的な感情にラベリングされる以前に、身体的な生々しい強度のあることが認められています。
(「Affect and Discourse—What’s the Problem? From Affect as Excess to Affective/Discursive Practice」、2013年)
ここでの「クオリア」の用法は、哲学者 ディヴィッド・チャーマーズ氏が提示した「意識のハード・プロブレム」のような厳格なそれではありませんが、抑圧的な「ナラティブ」に対置され、それへの身体的な抵抗感を含めた包括的な感覚です。また、ここでの「ナラティブ」は広く流布した言説と、個人の語りの両方を指すことがありますが、ニヒリスティックな相対主義は取らずに両者を区別することもあります。
(「Personal, Master, and Alternative Narratives: An Integrative Framework for Understanding Identity Development in Context」、2016年)
(「Facing Up to the Problem of Consciousness」、1995年)
本来は定義上、言語化しきることのできないクオリアですが、それは「エモーショナルさ」と異なり、ナラティブやマーケティングに回収・商品化されきらないとも言えます。外からの言説を通じた支配やガスライティング的な操作に対して覚えた違和感に基づき、申し立てなどをすることを、ここでは「主権の行使」と呼んでいます。
(※ クオリアの「不可侵性」を主権として準えています。個人が主権を持つとする論者として、法哲学者 アーサー・リプスタイン(Arthur Ripstein)氏は、哲学者 ジョン・スチュアート・ミルが「自分自身に対して、自己の肉体と精神に対して、個人は主権者(Sovereign)である」と記したことを発展させて、「自由主義が真に守るべきなのは危害の防止ではなく、危害原則を越えて『主権原則 (Sovereignty Principle)』を採用すべきだ」と主張しています。その上で自由とは、他者との存在において、自分の身体や手段(財産)をどう使うかを、自分自身で決定できる状態と定めています。
(「Beyond the Harm Principle」、2004年, pdf))
こうした主権を宣言したあとの身体性や残余については補足で考えていきます。)
元々は、オーナーシップのある職人的な語りだったはずの「プロ意識」という世界観は、語り手が自負を主体的に語るためのものから、いつの間にか鞭としての勤労標語(ヘゲモニー(覇権)的なナラティブの地位)に変容しています。労働者に「痛みを感じたり声を上げたりするのはプロ失格だ」と植え付けるために機能している側面が、あるのではないでしょうか。これも「ナラティブリアリズム」の変奏だと思います。
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そのようにして、抑圧される個人が持つ疑問や痛みに対して我慢を強いる構造になることが、容易に想像できてしまいます。
リンク先の記事にある通り、ご当地キャラ規則の調査では待遇や衛生環境の問題、立場や権利の不均衡などが浮かび上がりました。そうしたこともあり、自治体等には主に法的な土俵からの質問を送付し回答を考察しています(地方自治法第244条の拡張解釈、男女雇用機会均等法、性同一性障害特例法、比例原則など。第244条は「公の施設」についての規定ですが、着ぐるみも物品とはいえ施設のように "中に入り" ますし、「不当な差別的取扱いの禁止」は同様に適応されるとの認識が自治体から示されました)。
しかし、この件はそれだけに留まらず、「ガワ」と「魂」すなわち「着ぐるみ(ペルソナ、ジェンダー・パフォーマティヴィティ)」と「生身の身体性(傷つきやすさや生のあやうさ)を持った演者」との摩擦や、「語りからの疎外」という観点でも、本稿と繋がる話題です。まさに仮面を被った社会適応で疲弊する「僕」と、外からいないことにされ抑圧される「君」のように、中にいる実存が軽視されているという問題が浮き彫りになったと感じます。
哲学者 ジュディス・バトラー氏が提唱した「ジェンダー・パフォーマティヴィティ」は、ジェンダーを脱構築した言葉として、今もそのインパクトを保っています。ジェンダーとは、元からある本質的なものではなく、人々が規範を反復して演じることで、後天的に作られるものだと看破しました。
・着ぐるみ(キャラクター)の性別とは何か。
・着ぐるみの性別を「演じる」とは何か。
・中の人や性別に対するステレオタイプや、ケアの搾取とは。
・なぜ地方自治体等で「世界観ルール」が採用されたのか。
これらを考え始めると、感情労働に名を与えた、社会学者 アーリー・ラッセル・ホックシールド氏の視点がまず飛び込んできて、次にバトラーの視点が否応なしに入ってきました。
感情労働というと、「心にもない笑顔を作ること」(表層演技)、もっといけば、「心を作り変えること」(深層演技)がイメージされることが多いかと思います。客室乗務員 (CA) に笑顔での接客を指示することで、サービス満足度を高めるといった例がよく持ち出されます。
もっとも「笑顔(スマイル)の商品化」は分かりやすい感情労働であるために注目されますが、笑顔を作る以前のことも多々あります。
2021年の論文で、コールオペレーターが物語るのは、顧客からの暴言や侮辱による落ち込みや謝罪しないといけないやり切れなさを、表に出さぬよう「自己管理」させられる理不尽さです。
……つらいのは、私が間違っていないのに、顧客が不満を示す場合、私が我慢しなければならないことである。顧客が理不尽なことを言い、それに対し原則的な対応をした場合においても、顧客が私の態度にクレームをつけると、私はお詫びをしなければならない
会社から、そのような場合は少しブレイクタイムを持ちなさいといった話はない。会社は、本人が感情をコントロールしなければならない、自分の気持ちが落ち込んだときにも声にそのようなことを表出してはいけない、とはっきりと話す
笑顔を作り出すのを「プラスの感情労働」とするなら、自身の具体的な感情や管理に染まりきらない箇所(マイノリティ性や人間味)を押し殺して(3️⃣で取り上げたカモフラージュ、特に同化のプロセスと重なります)、抽象的な労働力に自分を押し込めること。
「マイナスの感情労働」「負の感情労働」と呼んで、光を当てることも重要ではないでしょうか。
先行研究では、「陰性表示規則(Negative display rules)」と呼ばれ、職務において、不満、怒り、恐怖、失望、悲しみといった「負の感情」を隠したり抑制したりすることを求める組織的・職業的なルールを指し、精神的健康への悪影響が論じられています。
(「The Complexity of Deep Acting: A Study of Emotional Labor in Frontline Human Service Work」、2025年)
もっと言うならばここまで見てきた通り、隠したり抑制したりすることが求められるのは、接客業に限ったことではありません。カモフラージュの研究で言及されたように、「同化」することは社会集団一般で前提視されます。「負の感情」を抑制したり接客態度を向上させたりという定義だけでは拾いきれない、非規範性やマイノリティ性を「普通」に近づけるための傾注が行われているのです。
これを労働社会学の分野で、「同化労働 (Assimilation Labor)」と呼ぶ論文では、自閉スペクトラム当事者が職場で同化労働を行う際の、4条件と4つの実践が整理されています。
構造的スティグマと社会的評価の低下
自身の特性が「不十分なもの」とみなされる不安から、能力不足という誤解を防ぐために自然な行動を抑制せざるを得ない状況。
定型発達を前提とした社会的期待
雑談や非言語コミュニケーション、暗黙の了解など、定型発達的な対人関係のあり方が「標準」とされること。
予測不可能で、意味づけを支援するリソースが欠如した環境
職場のルールや期待が曖昧であり、解釈を助ける明確な手がかりやサポートが不足している状況。
組織設計における感覚的規範
オフィスの騒音や照明など、感覚過敏を持つ人のニーズが考慮されていない物理的・空間的設計。
環境のスキャニング (Environmental scanning)
周囲の人々の行動を注意深く観察・分析し、質問によるリスクを避けながら暗黙の規範を学び取ろうとする行為。
計画と準備
会話のシナリオ(スクリプト)を事前に用意してシミュレーションしたり、感覚過敏に対処するための道具(イヤホンなど)を自主的に準備する行為。
マスキングと模倣
自閉スペクトラム症特有の身体表現や行動を抑え、定型発達的な表情、視線、服装、話し方を模倣する行為。
合理的配慮の調整と回避
開示によるリスク(偏見や評価の低下)を恐れ、正式な合理的配慮の申請を避けて、自助努力のみで対応しようとする行為。
ニューロアーキーと競争社会(メリトクラシー)が結びついた結果、自閉スペクトラムの労働者が、組織における支配的な規範や期待に自身を適合させるために行う、意図的で持続的、かつ周囲からは見えにくい(不可視な)努力や労力が払われていることが分かります。
(「The invisible labor of assimilation by individuals with stigmatized identities: a qualitative study of autistic workers’ organizational socialization」、2026年)
この同化労働の研究では、自閉スペクトラムを対象にしていました。しかし、プライベートではマジョリティとして通用できる人であっても、「普通」の範疇が狭まる(抽象的な労働力・ブランドナラティブを体現する労働力・万全な体調が求められる)労働の場では、同種の痛みに多かれ少なかれ当てられがちです。
近年の研究では、「健常者/障がい者」の二分による能力主義的差別にとどめ置かれていた「エイブリズム」を「健常、マジョリティの民族、異性愛、高収入」といった要素がインターセクショナル(交差的)に統合された「理想的な人間像(規範)」を社会や資本が構築し、そこから外れる多様なマイノリティを排除・周縁化するシステム(「ネオリベラル・エイブリズム」)として捉え直されています。
イギリスの福祉政策の推移を考察し、ネオリベラリズム的な福祉改革は、一見「自立を支援し、社会に包摂する」という善意の論理を装うが、その「包摂」とは、既存の抑圧的な競争社会に無理やり適応させる(=健常主義的な規範に順応させる)ことを意味し、適応できない者は「自己責任」として切り捨てられると論難しています。
ニューレイバーやその後の緊縮政権において、福祉受給者を「福祉に依存する怠け者(shirker)」や「たかり屋(scrounger)」とみなす政治的言説やメディア報道が活発化しました。これにより、市民の間に「救済に値する勤勉な納税者」と「救済に値しない依存者」という分断が作られ、給付削減やペナルティが正当化されたと分析されています。
(「エイブリズム論とネオリベラリズム批判 −−イギリスの経験から」、2025年, pdf)
(本noteの用語で定式化擬きをするなら、エイブリズムのナラティブが「投資商品化」された結果、その言説が動かしがたい自明のこととして作用する「ナラティブリアリズム」が定着したということかもしれません。エイブリズム的な枠組みでの思考のみが「現実的で思想が強くない」とされる空気においては、次に出てくる発想は「理想的な人間像」をより「生産性の高い」ものに設定し、基準に達しない人に自助努力を強請するものになります。論文では、社会的な規範そのものの「狭さ」や「不自然さ」を前景化させることで、多様なマイノリティが手を取り合うことが、連帯の基盤となり得ることを示唆されていますが、これは補足4の、「ナラティブ型支配」に対抗する「情報のコモンズ」論とも重なるかと思います。)
それらについて、たとえ「同化・適応するのも仕事のうち」と前向きに思えたのだとしても、本来しなくてよい労働や粉骨砕身をしているのではないかという見積もりだって成り立ちます。さらに、適応できたらできたで、また要求水準は高まっていく(「理想的な人間像」が狭まっていく)ことは明々白々です。
まさに「地平線の先に辿り着いても新しい地平線が広がるだけ」の如くですが、自己統合のことではなく、「自己の再現なき馴化」にまで、「『まだ 歩き続けたい』と返事」をしなくてはならない謂れはありません。
それらを包括して「マイナスの感情労働」という語で考えてみます。
コールセンターの例のように、「マイナスの感情労働」が強いられてると声を上げようものなら「そのくらいで顔に出る方がわがままだ」という反論が植え付けられている場。それがあたかも疑いようのない現実として機能しているなら、一種の「ナラティブリアリズム」と言ってしまえます。
(The Managed Heart: Commercialization of Human Feeling - Internet Archive、1983年)
(「感情労働の統制と自律性、そして抵抗」、2021年)
権力論の視点からは、合法的支配からさらに "効率化" された「空気による支配」と言うことができそうですが、その職場に評価されて生活費を得るために、労働者はその規範を内面化する競争に暗黙のうちに晒されます。
個人が分断され、労働者同士のピラミッド(「界」)で競わされるとき、この競争自体は現に起きていることなので、ばら撒かれたナラティブに過ぎなかった空気を「現実」だと思いやすくなります。
その認識自体が、さらにまた、その言説の覇権性や現実への影響力(リアリズム)を強める循環が起こります。
着ぐるみの例に戻りますが、行政側にある従ってほしいルールがあるとして、「合法的支配」では法的根拠に基づいた規則を作成するのが筋です。
しかし、記事で見たように、多くのルールは条例化することが難しそうな内容の「お願いベース」です。それらは、「子供たちの夢」(いまどき……と思いますが)や「世界観」と言った検証可能性の乏しい根拠に正当性を求めています。
「合法的支配」の世界において、支配への異議申立は合理性や法令に則って行うことが可能でしたし、それがそうと名乗るための資格です。
けれど、この「ナラティブ型支配」と言うべき状況はどうでしょうか。これまで分析したような空気の浸透力や圧力については言及せず、「法的な話ではないから、今は法律論じゃない」「皆のためなのに、ノイジーマイノリティがクレームしてくる」「余裕がないね」といった、ふわっとした返しと「システム1」的な根拠の持ち出しが可能になっています。
(「ヴェーバーの『合法的支配』概念についての一考察」、1976年, pdf)
また、職場の例から考えられるように、支配されている側がピラミッドの上に行こうと、支配的なナラティブを内面化し、異なる意見を叩くことにインセンティブが発生します。
これは社会学者 ピエール・ブルデューの言葉で言うところの「ディスタンクシオン(あいつらとは違う)」を作ろうとすることで、そのピラミッド構造(界)を保つような "自浄作用" が勝手に起きてくれているとも言えそうです。
ポストコロニアル理論で批判される、分割統治のやり口と似ているようにすら思えます。
(Labor Process and Production of Hegemony: Burawoy’s Contribution - International Sociological Association)
(「The Study of Boundaries in Social Sciences」、2002年)
(「The Making and Unmaking of Ethnic Boundaries」、2008年, pdf)
「選ばれる者」になる、つまりその界で自分を高める効率的な方法は、そこからはみ出そうな人を批判することです。これは意地悪というより、「次は自分が切り捨てられる落伍者にならないように」と、その人たちとの距離の開きをアピールする、生存のための行動という節もあるのではないでしょうか。
(「P.ブルデューにおける『社会空間』と『界』の構築」、1995年, pdf)
ポピュリズムでも何でも、上に立つ側にとっては、この上なく便利な「ナラティブ型支配」ですが、それが機能するためには、その構造が一見して魅力的である方が有利です。
つまり、無機質なシステムである「鉄の檻」(社会学者 マックス・ウェーバーが提唱した人間が効率化のために作り出した巨大な組織や制度(官僚制など)に逆に縛られ、抜け出せなくなる閉塞状況)そのままでは、文字通り閉塞感があって、進んで従おうという空気にはなりません。
(「The Iron Cage Revisited」、1983年, pdf)
そこで、「ナラティブ型支配」では、「デコられた鉄の檻」とも言うべき、進んで入りたくなるような装飾がされた鉄の檻に進化したのではないでしょうか。
(同じ資料でも、文字がびっしりよりは、何らか可愛いキャラクター (IP) がいたりする方が、目に優しいのを感じます。ところが、「実際に内実が優しいかは別問題だ」と気付くには「システム2」を呼び起こす必要があるのです。)
「やりがい搾取」という言葉はすっかり定着しましたが、もはや肝心なのは本当にやりがいがあることでなく、やりがいがあるように見せられるかです。
異なるが近い概念に、2020年に紹介された「The Aestheticized Iron Cage(美学化された鉄の檻)」という視点があります。オフィス環境の変化を論じ、仕切りのないオープンな空間、カフェスペース、卓球台、おしゃれな家具などは、労働者の自発的なコミュニケーションや創造性を促す一方で、自己規律性と公私の曖昧化を招きやすいことを指摘しています。
自己規律性は、監視カメラや上司の厳しい視線(ハードなコントロール)の代わりに、同僚からの相互の視線や、「自発的に楽しく働くべきだ」という空気感によって、労働者自身が自らを律するようになるという指摘です。
公私の境界については、職場が家庭やカフェのように快適で美しくなることで、労働者は進んでオフィスに長時間滞在し、プライベートな時間やアイデンティティを仕事に捧げやすくなると分析しています。
(「The Aestheticized Iron Cage: How People Interpret Institutionalized Workplace Aesthetics」『Communication at the Crossroads: 2020 NCA Conference』、2020年, pdf)
しかし、「ナラティブ型支配」の実態を考えると、こんな先進的なオフィスを用意する必要はもはやなく、ただ物語のデコレーションを使って、その非人間的なシステム(官僚制)を覆い隠せば済むのです。だからこそ、従業員を一定の空間に入れて物理的な空気を浴びさせる手配は不要になります。
企業に限らずあらゆる組織や仕組みが(その構成員以外に対しても)取りうる選択として「デコられた鉄の檻」に仕上がっていきます。
自衛隊の広告が、アニメキャラクターを使って「「誰かを守れる」自分はじめよう!」など、コピーを添えているのを旅先で見かけることもあります。ここで期待されている反応は、「誰かを守れる自分とは法的にどういう状態か」といった「野暮臭い」質問ではなく、見た人が心を動かされて入隊することです。
( “チホン”のポスター - 自衛官募集ホームページ)
つまり、ここでは、文民統制や待遇、あと安全面の紹介といった合理的側面よりも、アテンションを引くエモさの方が重要視されているわけです。
「広告にマジレスなんて……」とは思いますが、そう私も思うこと自体、行政における合法的支配の徹底よりも、ナラティブや世界観を使った「鉄の檻」の装飾に効果を見出している状態にあると言えます。
先に紹介したコールセンターの感情労働に限らず、ビジネスの仕組み全般も含め、聳え立つ「鉄の檻」が、人間の感情表現や意見表出までをもシステム化し、その内実を口を塞ぐことで「語りからの疎外」にさせ、外向きのナラティブだけを発信して「鉄の檻」の無機質さを、エモさやキラキラで覆い隠している構造が見えてくるように思います(「アットホームな職場です」はまさにこれです)。
「社会人なら社会人らしく」という言説が跋扈した際の「ナラティブリアリズム」について考えてきました。他方で、これは必ずしも一つの言説が覇権を握ったわけでなく、複数の言説が対立している場合についても言うことができます。
現代のアイデンティティ・ポリティクスにも言えることかもしれませんが、ナラティブがこれだけ現実の力を持つと、自分を守ってくれそうな言説がプラットフォーム上で強い支持を得ているかは死活問題です。
言論対立は、もはや価値観の違いを超えて、ゼロサムゲームとされる中で生き残るため・自分の感じ方を言説に否定されないための必死な戦いと化しています。
(「Mapping the Margins: Intersectionality, Identity Politics, and Violence Against Women of Color」、1991年, pdf)
市民的な議論の場・公共圏とされていた民主主義も、「ナラティブリアリズム」の下では、より自分に馴染みの良いナラティブが勝ち馬になってくれるか、あるいは利回りの良さそうなナラティブに自分が bet できるかという「投資商品化」が進んでいるのではという懸念もあります。
インドの経済成長と選挙広告を対象にした論文では、国民が、国家の政治的構成員であるよりも、国家の成長に投資し、その成果を個人的利益として受け取る investor-citizen(投資家市民)として表象される過程を扱っています。
2004年にインドで行われた大規模な政府広報活動「インディア・シャイニング(India Shining)」キャンペーンについて、現実の貧困を覆い隠したプロパガンダとしての失敗という通説に加えて、むしろ市民を「投資家」とする新しい政治意識を大衆レベルへと浸透させ、定着させる役割を果たしたと論じています。
当時は選挙にこそ敗北しましたが、キャンペーンが喚起した「成長と繁栄による良い生活」への渇望は消えず、それが10年後の捲土重来に繋がったという分析です。
(「‘I Am India Shining’: The Investor-Citizen and the Indelible Icon of Good Times」、2016年, pdf)
ここに補足4の「ナラティブ・ポリシー・ネットワーク」が結び付けば、より魅力的なナラティブというガワで競い合い、対立する意見は「システム1」的に貶められる生存競争になりかねません。
さらに、「ナラティブリアリズム」のレンズを通すと、これは投票行動に限った話でないことが分かります。
本文中では世間の「トランスジェンダー」理解は多様な当事者を一面化してしまっているけれど、その前の時代の扱いよりはマシになっていると触れました。
たとえ一面的な理解であっても、バックラッシュ(揺り戻し)の言説が伸長して「トランスは倒錯者だ」と存在や尊厳を否定されることを避けるには、相対的に「理解ある」方の言説を応援し、マジョリティに分かりやすいナラティブに乗っかるのが得策です。(本文で検討した)デトランスフォビアに利用されかねない語りは、戦略的ではないノイズと自己規制を迫られかねません。
(Judith Butler Explains the Gender Panic - Current Affairs、2026年)
言い換えれば、「トランスジェンダーは理解されるべき存在である」というナラティブと「トランスジェンダーは社会秩序を脅かす」というナラティブが衝突したとき、当事者は前者の物語に乗っかるしか生き残る道がないと言っても過言ではありません。(補足8で他の事例を考えます。)
しかし、その「理解されるための物語(成功物語や典型的な性同一性障害のナラティブ)」は、往々にして「分かりやすさ」を優先するため、当事者が実際に抱えている「移行してもなお残る違和感(グジャグジャな現実)」や「ニューロダイバーシティ(発達特性)と交差する複雑な痛み」を切り捨ててしまいます。
結果として、当事者は社会の理解を得るために、自分自身の本当の感覚を語ることができなくなる。これも一種の「語りからの疎外」です。
反対側の立場について考えてみても、今度は、シスとトランスにおけるアジェンダの優先度や保護の度合いといったパイの配分や安全面などに対する懸念や不安、そして生まれてからの時間の重みや肌感覚というような自身の感じ方が、「差別主義者の発言」「トランスフォビア」とレッテルを貼られ否定されるのを、避けなければならないとなるのは似た構造だと言えます。
「歓待」にまつわる議論で、「絶対的・無条件のホスピタリティ」が理想だとした哲学者 ジャック・デリダも、それは現実には不可能な概念であると論じました。ホストが自分の家や領分を守ろうとする意識(主導権の維持)が存在する以上、あらゆる歓待には少なくともわずかな警戒心や拒絶(ホスティピタリティ、仏: Hostipitality, 英: Hostipitalité、hostilityからの造語。ラテン語でも客を迎える者 (hospes)、敵・よそ者(hostis)は同じ語源を持っているとされます)が内包されるとされます。
(「THE HOSPITALITY PHENOMENON: PHILOSOPHICAL ENLIGHTENMENT?」、2007年, pdf)
自身が感じることを、正当な感情だとして守り抜きたいという想いは共通していて、それが対抗言説に覇権を握らせない・一歩も有利にさせたくないという切実な戦いに繋がっていると考えられます。
つまり、従属化と主体化を「権力 vs. 当事者」の階級対立に落とし込むことは難しくなってきていて、「ナラティブリアリズム」下では、(純化しやすい・外集団同質性バイアスに陥りやすい)言説同士の生き残りをかけた戦いが主戦場と言えそうです。
(自分をケアし、対話し、つながるーートランスジェンダーへのバックラッシュに揺れるアメリカ - 生活ニュースコモンズ)
さて、これらの視点を持った上で、有無を言わせず入ってきたのがバトラーの視点です。具体例で考えてみます。
たとえば、熊本県のある「クマの男の子」キャラクター(※)について、スカートの着用や「女性言葉」を話すこと、甘いものが好きなことは利用ガイドラインで禁止事項に列挙されています。キャラの性別・プロフィールから想定できない利用はしないでほしいとのことですが、男の子もスカートを履いたり女性的とされる役割語を使ったりしても何もおかしくありませんし、「甘党であることが設定に反する」に至ってはよくわかりません。
(男らしさ規範や、今後の調査が待たれますが、2010年前後・同時期に流行した「スイーツ(笑)」のように、女性が主な担い手だった文化への冷笑と同根かもしれません。「男は、スイーツ(笑)にうつつを抜かさず、男らしくあるべき」規範の裏返しとして、フェムフォビアが反映されているとも言えます。)
(「Femmephobia Is a Uniquely Powerful Predictor of Anti-Gay Behavior」、2024年)
それにもかかわらず、日本では幸いに違法でも公序良俗違反でもないことが、キャラの飲酒喫煙と同様に規制されるのは、性別と性表現は常に一致させるべきだという社会通念の強さをうかがわせます。バトラーが『ジェンダー・トラブル』(1990) で解剖したような、クィアな実践によって性別にまつわるマジョリティ的な通念が、撹乱(トラブル)(subversion) されることに対する不快感(現実界が象徴界にもたらす裂け目による象徴秩序の機能不全)とも重なってくる地平です。
また、公共団体が性別と特定の選好や行動を結びつけて語ることは、固定的なステレオタイプの再生産や幸福追求権への間接的な干渉になりかねません。
このように性別二元論や規範への撹乱に対して、現実の脅威を伴わないはずのご当地キャラクターに関しても、警戒感が示されてきました。
もしこの警戒感を徹底するならば、キャラクターと中の人の性別が一致している状態が望ましい扱いになるはずですし、実際にそのような規則や推奨を設けている自治体への調査を行いました。
しかしながら、先の「クマの男の子」に関しては身長の都合もあり、女性が操演者を務めることも多いと考えられます。キャラクターの「異性装」は撹乱を起こさぬよう禁止されている一方で、中の人とキャラクターとのねじれ(?)に関しては実務的に許容されているとも評価できます。バトラーやハルバースタムなどが考察した「ドラァグ・キング」と同一視まではできませんが、こちらもパフォーマティヴィティの実例だと言えるでしょう。
けれども、この非対称性は内側の層に自由があるというよりも、「中の人」の存在を消去(不可視化)しているために、外から見てジェンダー撹乱の起こりようがないから無風なのではと考え始めました。
(※: くまモンのこと)
(くまモンイラスト・くまもとサプライズロゴ利用の手引)(※施行は平成26(2014)年、改訂は令和2(2020)年とされ、改訂に際してもここは見直されなかったと思われます。)
(『Female Masculinity』、1998年 - Transreads, pdf)
一般論として現にある「ねじれ」ですが、可視化されたときに「撹乱」やパフォーマンスという概念の実証となります。裏を返せば、見えないようにしてしまえば、あたかもなかったこと(事勿れ)になるというわけです(他者からの承認が生まれない)。
GNC("ジェンダー非適合")やGD(性別不合)の人が目につくところから排除された事例について、公表されているものにあたってみます。
すると、化粧をしたタクシー乗務員が「旅客に不快感を与えない身だしなみ規定に反する」として就労拒否に遭い、その後に地裁が処分の正当性を否定したケース。「実習先でお客様がびっくりして迷惑がかかるから」という理由で専門学校から入学できないと言われ、大学でのキャリア相談でも門前払いされたケース。これらなどが多数見つかります。
(「職場における LGBT への配慮と人事労務配慮」 Q&A、『労働事情 (2021)』, pdf)
(『「トランスジェンダーだと告げると10社連続で落とされた」日本に根強く残る雇用差別』 - #EqualityActJapan)
この Q&Aでは、取引先や顧客からクレームを受けないように LGBT 社員を営業職等から配転するといった、まさに「外から見えなくさせる」事例の想定もあります。
このように、従来の規範にとってはある種不都合(想定外)な存在に蓋をしたものの、結局はその正当性が問われる問題が散見されます。
本文でご紹介したルービンの論文では、メディアが、性の多様性(同性愛やBDSMなど含む)を不道徳で危険なものとするプロパガンダを煽り、パニックや排除の動きを加速させたことが告発されています。マイノリティへの不当な逮捕や弾圧を、主流メディアは無視した一方で、ゲイ・プレス(同性愛者向けメディア)は注視して報道したとも記されており、規範から周縁化された人の置かれている、不可視化された状況に光が当たることの重要性に、改めて気付かされます。
(Thinking Sex: Notes for a Radical Theory of the Politics of Sexuality, pdf、1984年, pdf)
エイズの件が、メインストリームから不可視化またはカリカチュアされていたために、公衆衛生の取組が後回しになった歴史は重い教訓を残しています。
熊本のキャラ以外の事例となりますが、今回の調査における考察では、家父長制下で主に女性が「清潔でケア的な黒衣(黒子)役」を期待されること、また不可視化の帰結として環境が改善しないこととの関連を指摘しています。
(例えば、操演者の汗を理由に、借り手を「生物学的女性」限定にする規制は、「女性同士での利用であれば綺麗だし、演者も不快に思わないから我慢できるだろう」というステレオタイプな価値観の押し付けが発生しており、それだけでなく、クリーニングの頻度低下など施策の手落ちを正当化する根拠に転用されています。他の自治体では、暑さを緩和するエアータイプの導入や、スポーツインナーの推奨など、「特定の属性に我慢を強いる」規制とは異なる施策が見られたのが対照的です。
(エアー着ぐるみ - 着ぐるみ製作会社キグルミックス))
ついで、キャラクターに求められがちであるベビースキーマ的な振る舞いから、こんなことが言えるかもしれません。キャラが無害で "賢くない・大人びてない" 存在として振る舞うことで、エイブリズムやセクシズムにおける劣位のものとして見られる機序です。
グリーティングにおいて、キャラに抱きついたり甘えた言葉遣いをしたりするには、相手を同じ立場にある社会の構成員ではなく、「知らないと想定される主体 (Le sujet supposé ne pas savoir)」と思わなければ("コードスイッチング" やゴフマン的なフッティングを行わねば)やってられません。(キャラが年少設定にされがちな理由の一つでしょう)これにより、ケアの返報性(「人間社会のコードでお返ししないと」)が免除されて、安全に楽しむことができます。ある意味、動物カフェ的かもしれません。
もちろんそれは、そういう「世界観」や疑似セラピー的な演出のために、「知らないと想定される主体」(ゲストを分析の俎上に乗せず、ありのまま受け止める存在)を演じているわけですが、「世界観」のせいでそのメタ認知が不十分であると、「知性が低いから、多くを与えなくてよい」「人間並みに見えないのだから、そう扱う必要はない」というエイブリズム的な誤謬に陥りかねません。
(例えば、文化理論家 シアンヌ・ンガイ(Sianne Ngai)氏は「かわいさ (Cuteness)」が主体と対象との誇張された権力差に転訛することを論じています。「可愛さ」の本質には、「小ささ・受動性・傷つきやすさ」と、それに対する「支配・加虐性・暴力」という歪んだパワーバランスが存在するというのです。
(『The Cuteness of the Avant-Garde』、2005年, pdf))
そして、この親しみやすさのために「鋭利な賢さがない人畜無害なフリをする」というのは、『仮装としての女性性』に書かれたように、伝統的に女性に求められてきた役割です。あくまで「見られる客体」に過ぎず「他者を知的に解剖する主体」には回らないと示すことで、ジェンダー秩序を維持する構造はその意味で家父長制的です。
(「ジェンダー秩序と社会の脆弱性――『災害とジェンダー』研究を手掛かりとして」、2011年, pdf)
さて、前者の指摘(不可視化のせいで改善されない)は、何も愚痴ではなく、長年異議が唱えられてきたことです。
法学者 キャサリン・マッキノン氏は、 女性がケアを重んじるのは、男性が女性を「男性に与えるケア」によって評価してきたからだと指摘し、ケアを自発的な本質と見做すことに反対しています。
(「Difference and Dominance: On Sex Discrimination」『Feminism Unmodified』、1987年, pdf)
マルクス主義フェミニスト シルヴィア・フェデリーチ氏は、1975年の著書で、家事,清掃,育児,性的・感情的奉仕が、労働ではなく「女性に生来備わる性質」や愛情として扱われる仕組みを論じています。
家事が無償であることは、それが労働ではないという認識を補強し、各家庭に分断された私事として処理させ、その労働の開始点と終了点さえ判然としない状態に置かれていると指摘しています。
(『Wages Against Housework』、1975年, pdf)
マッキノンとの共同活動も行ったラディカル・フェミニスト アンドレア・ドウォーキンは、女性に「男性を文明化する」「家庭、国家、世界を善良に保つ」という特別な道徳的役割が割り当てられることです。女性自身は権力を持たないまま、男性や共同体の粗暴さを抑え、秩序と道徳を維持する責任だけを負わされる、という構図があると論を張っています。
(『Right-Wing Women: The Politics of Domesticated Females』、1983年)
現代アーティスト ミエレル・レーダーマン・ユケレス氏は、家事や顧客を満足させることなどを "maintenance" として一括し、これらが社会を毎日作動させながら、低賃金または無償で、文化的にも低い地位に置かれていると述べます。
開発や創造が変化を志向するのに対して、維持労働はそれを保存して反復する仕事であり、変更の余地(裁量)が少ないと指摘します。社会は両輪を必要としているにもかかわらず、開発だけに自由,創造性,名声,報酬を結び付け、維持には義務,反復,低賃金,無償性を割り当てていることを問題視します。ユケレスが、清掃など維持を芸術と宣言する行為は、この配分を変更する試みというのです。
(「Manifesto for Maintenance Art 1969! Proposal for an Exhibition ‘CARE’」、1969年)
(【特集】「掃除をするのもアート––––ミエレル・レーダーマン・ユケレスから見た1970年代の政治と芸術の可能性」菅原伸也 - 美術評論+、2024年)
さらに、現代の環境において男性等の労働が不可視化されている現状も深刻ですし、キャラクターに限った話でもありません。
労災・労働死が単なる「事故」として一過性の報道で終わり、使用者が不問に付されたまま風化する現状、鉄道保守について一定の危険を引き受けることが職業上の責任だという説明、どちらも不可視化の結果、命すら軽んじられる暗澹たる状況が垣間見えます。
(「Dead Today, Gone Tomorrow: The Framing of Workplace Injury in Canadian Newspapers, 2009–2014」、2017年, pdf)
(「Framing Risks in a Safety-Critical and Hazardous Job: Risk-Taking as Responsibility in Railway Maintenance」、2008年)
「Framing Risks」の著者は、鉄道保守作業員のインシデントが正式な報告制度には載らず、職場内の語りとして処理される過程を調べています。作業員の語りは注意力、熟練、個人の責任を重視する一方、人員配置や工程などの根本原因を捉えにくいとされています。
(「Incident Reporting or Storytelling? Competing Schemes in a Safety-Critical and Hazardous Work Setting」、2008年, pdf)
「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」や「プロ意識」と地続きの自己責任論が、使用者と労働者の双方で自己強化型ループに嵌っているのかもしれません。
労働者の側でそうした規範の内面化が起きていることは、「男性性の規範」と関連付けて語られがちです。
「強さ」「忍耐」「自立」「家計を支える者」といった男性性の規範が、痛みや危険の受け入れ・負傷の不申告・援助要請の抑制に結びつくという整理があるほか、健康への配慮を過度に示すことが男性としての地位を損なうと感じて「普通の男」という位置を守ろうとする場合があったという報告などが見つかります。
(「Danger Zone: Men, Masculinity and Occupational Health and Safety in High Risk Occupations」、2015年)
(「Understanding the Health of Lorry Drivers in Context: A Critical Discourse Analysis」、2017年)
マスキュリニティは尊重されるべきアイデンティティ・在り方・要素ですが、社会を成り立たせる上で "必要な"負担を都合よく過分に負わせる「ナラティブリアリズム」としてパッケージが流布されていないかという検証は、今後持ち上がってくるように思います。こうした問題を、ただ単に、個人や属性の性向に還元していては、使用者や構造が持つ問題と責任,そしてある種の「同化労働(生存戦略としての「らしさ」)」の負担が、見逃されかねないからです。
現に、環境問題についてですが、環境問題を個人の買物,節約,分別,清掃,生活態度の問題として扱うと、企業、生産制度、公共設備、権力配分、集団的な制度変更が検討対象から外れると論じられています。個人が善良に後始末をするほど、既存の生産・消費構造が正当化され、維持される場合があるという議論が盛んになっています。
(「Individualization: Plant a Tree, Buy a Bike, Save the World?」、2001年)
このような議論から学び、マスキュリニティの研究は「男性の自己責任論」や「社会化の失敗」的なスティグマに陥らないように細心の注意が求められます。
男性性を特定の性格類型に結びつけたり、個人の行為のみに還元したりせず、男性性の複数性を考慮した上で、集団や社会内でどういった力学と規範から逸れた場合の咎難があるかについて考える方が望ましそうです。
(「What is ‘Toxic Masculinity’ and Why Does it Matter?」、2021年)
(「Hegemonic Masculinity: Rethinking the Concept」、2005年, pdf)
(「Dude you're a fag: masculinity and sexuality in high school」、2013年)
(ケア的な)再生産について女性の貢献が透明化されていることを指摘したのは、1970年代前後の「第二波フェミニズム」による積み重ねが多かった一方で、男性労働についての不可視化の箇所で紹介した論文は、2000年代以降と比較的最近の研究の潮流です(しかも、マイクロアグレッションなど非当事者に顕在化しにくいものではなく、直球の事柄で!)。言語研究史の論文でも、男性性と言語の研究は1997年以降の約二十年間に成立したとも整理されています。
(「The Historiography of Social Reproduction and Reproductive Labor」、2024年)
(「Language and Masculinities: History, Development, Future」、2020年, pdf)
ゼロ年代のバトラーは Grievability (哀悼可能性)という言葉を用いて、社会から哀悼される命とそうでない命がある現状(枠付け (Frame))を論じました。性別・年代などによる命の社会的な価値という究極の例に留まらず、noteの本文で考えたように、社会からクィアネスなど「規範からはみでるもの」「表に出てきてほしくないもの」が予め排除されていることへの喪(公的に嘆くこと)が制限されてきたのではないかというスコープに広がっていきます。
(※このことと、本文の「僕」と「君」の物語の関連は、補足6で考えます。)
これまで挙がった例では、社会の規範が「中の人」・当事者の声を弱めて不可視化し、その結果として実存が脅かされ、改善がなおざりになるという、通底する抑圧構造が導かれるように思います。
哲学者 ガヤトリ・C・スピヴァク氏の『サバルタンは語ることができるか』が思い出されるように、制度の端にいる人の声が中央部分に伝わって真摯に聞く耳を持たれるというのは難しいことだと実感します。伝言ゲームの過程で、「お約束」から零れた声はノイズとして丸められがちです。
もっとも、社会の端に追いやられた他者の語りを世に届けようにも、そのために代弁することは不正確さを含み得ますし、すでにこの世を去った人については尚更です。このブリコラージュ(有り合わせの道具でやりくりする)の代償に自覚的になって、問いを開き続けること(終わりのない脱構築)が重要だと指摘されています。
(「Can the Subaltern Speak?」、1988年, pdf)
(「『サバルタンは語ることができるか』を読み直す ――ブヴァネシュワリの読解における遂行的矛盾に着目して――」、2023年, pdf)
人々の健康や幸福が損なわれていることやその偏りを、社会の必要経費として等閑視する姿勢には疑問を持ち続けたいと思っています。ラクをしたがる人間の性質としてどうしても難しいことではありますが、誰にとっても生きやすい世の中、「君」を抱きしめてあげられるような世の中であってほしいという願いは変わりません。
そして、あらゆる「中の人」のクレジットされない献身と、それを可能にしてしまうメカニズムについてが、次なる私のテーマです。
そうした献身については厄介なことに、自発的か他律的かで峻別するのは、一筋縄ではいかないことが知られています。
(「メイドカフェにおける女性の労働経験――第三波フェミニズムの視点から(要約)」、2023年, pdf)
(「Counter-Planning from the Kitchen: Wages for Housework—A Perspective on Capital and the Left」、1975年, pdf)
搾取的な構造(鉄の檻)が複雑で煩瑣に進化しているため、その実態(自発か他律か)を「如実知見」するのには認知的に骨が折れます。
そんな折に、見通しのよい装飾が檻に施されていると、「システム1」が手伝って仕組みを理解した気になりやすいです。手軽に知った気になれるという意味では、好奇心やロイヤリティが擽られるかもしれません。しかしそれは、抑圧された人の貢献を吸い取りながらも、クレジットや還元をしないシステムを、無自覚に追認しかねない危惧があります。
(それは「ブランド裏話・零れ話」が、結局のところ、広告のためのブランドナラティブの域を出ないように。
「中の人の熱い思い」「創業者の苦労話」「舞台裏の奮闘」といった、直感的に理解しやすい「システム1」用の物語が提示されると、飛びついてしまいがちです。企業の全体像が複雑(不透明)になればなるほど、人々は「分かりやすい物語による救い」を渇望するようになり、そこに「零れ話(鉄の檻のデコレーション)」を滑り込ませる余地が生まれるのかもしれません。エクスティミシー(補足7)が、本来持ち手のものであったはずの管理から離れ、宣伝用のコンテンツとして回収される。これは、生産物からの疎外と同型の「語りからの疎外」です。
(「マルクス解釈としての疎外論の発展 ―― 一次元的理解から四次元的理解へ ――」、2023年, pdf)
新たに本人の意向に基づいて、広義のクレジットをされる例も見られるようになってきています。アメリカのライフスタイル誌が行った2026年のインタビューでは、ディズニー・ワールドでキャラクター(「チップとデール」と同じ背丈のファー・キャラクターとティンカーベル)を務めた元キャストが実名で、経験したトレーニングの内情について話しています。
(Former Disney Parks Character Performer Gives Inside Look Into 'Intense Training' to Play Tinkerbell (Exclusive) - People.com)
本人もこの経歴を、ポートフォリオに組み込んでいることが確認できます。現在は、広報・ソーシャルメディア・マーケティングの職歴を積み、人身取引被害者を支援する非営利団体のマーケティング部門責任者になっているなど、キャラのイメージ(「知らないと想定される主体」)に引っ張られることなくキャリアを営んでいることがわかります。
(Morgan Whiting's email & phone number - Marketing Manager at (NAHT) Nashville Anti-Human Trafficking Coalition - SignalHire)
一方で、日本は異なった様相が、限定的ながらも明るみになっています。日本のディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドとの労災と使用者の責任にまつわる裁判では、元キャストは「全てを守秘義務と思い込まされ、(引用者注: 労働組合に対して)自分の名前も職業も明かすことが出来ない状態でした」と述べています。さらに、楽屋では録音・撮影が禁止され、スマートフォンも持ち込めなかったため、裁判で提出できた証拠は「飲み会の録音や病院のカルテ等、職場外でのものが多く」、本人の認識では「証拠としては本当に少なかった」とされています。そして千葉地裁では一部勝訴したものの、東京高裁で逆転敗訴した経験から、「証拠の重要性」を考えるようになった、と本人が明記しています。
(2025年4月28日 No.318号 - なのはなユニオンニュース)
(新びんえい通信の取材でも、自治体の貸出ですら、個人が証拠を残せない側にあることによる不利さが明らかになっています。)
また、本人の発言では、復職トレーニングにおいて複数の社員からのセクシャルハラスメントがあったこと、些細な違い(水分補給関係の設問で、「スポーツドリンク」であるところ、「ポカリスエット」と記載したことなど)を理由として持ち出し合格させなかったことが訴えられています。
(2024年5月30日 No.308 - なのはなユニオンニュース)
(※ ちなみに、同ユニオンの全国交流大会には、例のくまモンも登場し「同業者として親近感を感じ、『千葉の夢の国から来たよ!』と報告」されたことが記されています。
(2024年5月30日 No.308 - なのはなユニオンニュース))
この2事例の差を、米日の「出羽守」的なトークに帰結することは謹しむべきですので、「ナラティブ」の違いで考えてみます。米国のキャストはブロードウェイの劇団員などと同じ「Actors' Equity Association」などの力ある(労使交渉が可能な)産業別労働組合に加入していることが多いとされます。これは、キャストを「キャリアとプライベートを持った職業人」とする認識の枠組み(ナラティブ)と相関するものと考えられます。
(The Equity Difference - Actors' Equity Association)
(『The Project on Disney, Inside the Mouse: Work and Play at Disney World』、1995年)
しかしながら、日本のキャストは所属するユニオンの発言力が弱められているのみならず、異なる「ナラティブ」のもとに置かれていると考えれます。先の原告も、告発後には「夢を壊すな」「キャラクターの中に人はいない」「好きで働いているんだろ」など世間の冷やかしやファンからの反発を受けたと綴っています。
(現場改善に取り組むキャラクター出演者さんのX (Twitter))
これは、申し立てよりも「世界観」こそが現実の重みとなる「ナラティブリアリズム」の発露です。(この場合は、「ガワと「中」のどちらを虚構としどちらを真実とするか」が、物語に規定されています)
安全圏にいるゲストらからのこうした石の投げかけは、先に記した同化労働のディスタンクシオンでは説明しきれません。むしろキャストが、NDA(秘密保持協定)と緊張関係を生んででも「ナラティブ」に回収されない「クオリアの主権」を行使することが、「ナラティブリアリズム」(この場合の中身は「中の人はいないが、中の人は文句を言わず働く」というダブルシンク(二重思考))への裂け目、つまり人々に認知的不協和ないしサバルタンに「顔」が顕現する「嘔吐」を齎し、カウンタークレイムを招いていると考えられます。
(The Experience of Nausea and Artwork as Escape: Levinas and Sartre - SciELO Mexico、2017年)
(「STRENGTH IS IGNORANCE; SLAVERY IS FREEDOM: MANAGING CULTURE IN MODERN ORGANIZATIONS」、1993年)
自閉症や精神病を持つ子どもたちの精神分析とケアに貢献した モード・マノーニ氏の配偶者としても知られるラカン派精神分析家 オクターブ・マノーニ氏は、「私はよく知っている、しかしそれでも… (Je sais bien, mais quand même...)」という言葉で、「否認」の心理を言い表しました。これのエッジケースが今回の事例なのだと思われます。
(「The Experimental School in Bonneuil-sur-Marne…with Commentary from a North American Context」、2017年)
(「I Know Well, but All the Same…」、原著:1964年 英訳: 2003年, pdf)
(※ オクターブの「植民地心理学」は『黒い皮膚・白い仮面』などで、被植民者の劣等感や依存をその人々の既存の心理的素因に帰すれば、植民地制度・人種主義・経済的支配そのものが心理を作り出す作用が後景化すると批判されています。
(「Octave Mannoni (1899–1989) et sa Psychologie de la colonisation. Contextualisation et décontextualisation」、2011年, pdf)
後年のオクターブも、この指摘を相当程度認めて修整(脱植民地化)を行いました。
(「A ‘Living Depersonalization’: Fanon and Mannoni on Colonialism’s Psychic Violence」、2023年, pdf))
安易に分かった気にならず、勝手にアドボケートできているつもりにもならず、地に足つけていたいと私が思うのは、こうした陥穽に注意しなければという自戒でもあります。
近年のバトラーの文脈(『この世界はどんな世界か?――パンデミックの現象学』『Who's Afraid of Gender?』など)にて特に重要視されるのは、単なる個人の「か弱さ」ではなく、誰もが持つ他者やインフラに依存せざるを得ない生身の「身体の脆さ(ヴァルネラビリティ)」と、それが政治的・社会的な保護の偏在によって不当に脅かされる「制度的な生存の不安定さ(プレカリティ)」です。
デコレーションでキラキラした「世界観」という共同幻想のために、生身のこれらが圧迫されていないか考え続けたいという決意が、すべてのスタートでした。
本文には載せきれなかった各補足説明です。お手を煩わせてしまいますが、ページ上部に戻っていただき、目次の下の方、「すべて表示」していただけると、タップで飛べます。
補足1: バトラー批判と変遷
(バトラーは、初期にジェンダー・パフォーマティヴィティを唱えた際、「ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味であって、『セックスは、つねにすでにジェンダーである』」と述べ、性差など、一見すると「自然な事実」のように見えているものは、実は別の政治的・社会的な利害に寄与するために、様々な言説によって作り上げられたものにすぎないと論じました。
(「家族の近現代 - 生と性のポリティクスとジェンダー」『社会科学研究』、2007年, pdf)
本 P.S.の言い方に寄せるなれば、「セックスを含めた性別(やそれに紐付いた「同性・異性」)」は、その言説が唯一の現実そのものとして知覚され、あまりにも多くの人がそのフレームワークで思考し発言するものだから、そうとしか思えない「ナラティブリアリズム」になっていると見たとすることもできそうです。
本当の現実には、その反例となる「クィア」な存在がいたとしても、男女二元論的な「世界観」から溢れ落ちる事実は認識されにくかったり(認知負荷が高い)、スティグマ的に回収されたりするものです。
けれども「ナラティブリアリズム」に対して、いきなり代案を用意して説得に回るのも大変ですし、突きつけること自体が反感を買いかねません。ゆえに、空気のように無色化されているそれを、誇張(パロディ)や撹乱によって、空気が実は特定の色(構築された産物)であると浮き上がらせることが効果的なのだと考えられます。
バトラーに影響を与えたラカンは、精神分析家 ジョアン・リヴィエール(英語圏へのフロイトの紹介者としても知られています)の1929年の論文「仮装としての女性らしさ」を繰り返し参照したといわれます。
(「Womanliness as a masquerade」、1929年, pdf)
知的・職業的に成功した一人の女性が、公の場で男性と対等に知的能力を示したあと、年長の男性に愛嬌を示し、誘惑するような振る舞いを反復していました。
リヴィエールはこれを、単なる社交性とは捉えませんでした。男性の領域とみなされていた知性や権威を自分が取得したため、男性から報復されるのではないかという無意識の不安が生じ、その不安を和らげるために、従順で無害な女性として振る舞っている、と解釈しました。「女性らしさ」は、自分の「男性性」を隠し、男性に「私はあなたの地位を奪う者ではありません」と示すために身につけるものだった、という説明です。
この論文はフェミニズムにも影響を与えていて、フェミニスト映画理論家 メアリ・アン・ドーン(Mary Ann Doane)氏は、眼差される対象として描かれるスクリーンの女性に、女性観客は想定される男性観客よりも近く、対象に過剰同一化してしまい、受動的あるいはマゾヒスティックな鑑賞体験になりがちな傾向にあると指摘しています。
女性観客がこの過剰同一化から逃れ、主体的に映画を読む(デコードする)ために用いるのが「仮装(マスカレード)」とされ、社会的に要求される「女性らしさ」を、本来の自己とは異なる「仮面(マスク)」として意識的に被ったり外したりする行為を指します。その結果、対象との間に距離を設けて、イメージを客観的に操作し、読解することが可能になると説明されています。
2016年の論文では、『阿部定』における原義の「ファルス」の所有(暴力を肯定するものではなく、映画のフィクション表現についての言及です)は、「男性性」の強奪で説明できるものでなく、「妊婦」のように、愛おしそうにお腹をさする行為から、「女性らしさ」のマスカレードだと読み解く考察も見られます。
(「日活ロマンポルノと女性観客 :『実録阿部定』が示す親和性」、2016年, pdf)
このように、リヴィエールやラカンから引き出される考えでは、外側の振る舞いとは別に、内部に「本当の女性らしさ」や「本当の男性らしさ」が保存されている("仮装の下に本物がある")とは捉えません。むしろ、自分がどのような主体であるかは、呼び名,服装,声,身振り,他者からの承認,反復される行為などを通じて成立していくとされます。
(Seminar 5.14: 5 March 1958 — Jacques Lacan - Žižekian Analysis、2025年)
1986年には、ジョーン・スコットが、「ジェンダー」を記述のための用語として安住させるのでなく、歴史や権力構造そのものを読み解くための分析カテゴリーへと昇華させるべきだと世に問いました。
その上で、それは単に「家族」や「セクシュアリティ」の歴史に光を当てるだけでなく、政治,経済,戦争といった歴史学の中心的なテーマ(マクロな歴史)を根底から書き換える力を持っているとしました。
(「Gender: A Useful Category of Historical Analysis」『The American Historical Review』、1986年, pdf)
バトラーはこうした考えを拡張していき、ジェンダーの副次性,構築性を唱えるに至ったとされます。
(Gender Trouble : Feminism and the Subversion of Identity / by Judith Butler - AUTONOMOUS LEARNING、1990年, pdf)
されど、ジェンダー・パフォーマティヴィティの初期説明に対して、トランスジェンダー当事者らから「ジェンダーは着せ替え服(着脱可能なコスチューム)や演技のようなものではない。身体違和やアイデンティティを軽視している」などといった批判が上がりました。
そうした声に対して、バトラーは「パフォーマティヴィティは気軽に選べるものではない」と認め、修正的に弁明しています。
(「ジェンダー・パフォーマティヴィティとは、今日はどのジェンダーになるかを選ぶことではない」と説明し、ジェンダーやセックスの引き受けは「本人が熟考して行う選択 (a highly reflective choice)」ではなく、規制的装置によって当初から制約されていると表現しました。パフォーマティヴィティは単発の演技ではなく、規範の反復であり、その演劇的な外観は、背後にある歴史的・社会的規約が見えなくなることで生じると論説しています。
(「Critically Queer」、1993年, pdf))
バトラーは同書で、クィアとは「決して完全に所有されることなく、つねに新たに用い直されるもの」との認識を示しています。
2014年の当事者メディアからの取材で、バトラーは『ジェンダー・トラブル』執筆当時について、「トランスイシューについて十分に考えていなかった」と述べ、身体について本人が直接感じる経験や、自己の性を承認される切迫した要求に、もっと注意を向ける必要があったと回顧しています。
(Gender Performance: The TransAdvocate interviews Judith Butler - TransAdvocate、2014年)
1980年代から1993年にかけての変化と同じくしてか、バトラーの中心的な関心分野が、フレンチ・セオリー的な脱構築から、実世界での生存(Livability(生存可能性))に重点を置いた生身の安全と尊厳にも広がっていった経緯が知られています。
(「アメリカにおける「フレンチ・セオリー」受容の知識社会学的検討」、2016年, pdf)
(「現象学からフーコーへ:初期ジュディス・バトラーにおける身体論の変遷」、2015年, pdf)
経済学者 アマルティア・セン氏とともに「ケイパビリティ(潜在能力)・アプローチ」でも知られる倫理学者 マーサ・ヌスバウム氏は、1999年にバトラーを批判し、「道徳的基準がなく、有害なパロディでも撹乱と評価されてしまう恐れがある」「現実的変革に寄与しない」として問題視しました。
ただし、ヌスバウムは批判の骨子は維持しながらも、その2年後に、「自らの文体が過度に嘲笑的で、光を当てる(解明する)よりも軽んじる (disparaging) ものだったかもしれない」と省みています。また、「共通の友人を介してバトラーと直接話し合うことに合意したものの、その後進展しなかった」とも明かしています。
(The Professor of Parody: The Hip Defeatism of Judith Butler - The New Public、1999年)
(「How Should Feminists Criticize One Another?」、2001年, pdf)
これらの批判への応答となるのが、『生のあやうさ――哀悼と暴力の政治学』(原著: 2004)、『戦争の枠組―生はいつ嘆きうるものであるのか』(原著: 2009)であるとした分析があります。
それによれば、バトラーの撹乱には「生存可能な生を支える規範を拡張せよ」という明確な方向性(規範的願望)が存在し、プレカリティが差別的に配分されている枠組みを揺るがすという、道徳があることが指摘されています。
(※ 本文の例に引き付けるなら、こういった思考実験もできます。
もし労働環境で、「抽象的な労働力」「プライベートを仕事に持ち込むのは公私混同」といった実存を抑えつける「ナラティブリアリズム」をとことん突き詰めるのならば、例えば男女制服や「お姉さん」「お兄さん」役割はランダムに割り当て(「着せ替え服」)、データに基づいて最も利益の上がる比率,配置に調整することに行き着くかもしれません。ところが実際は、そのようなバイナリーを維持する場でも、そうはほぼなっていないと思われます。
もちろん、現実的な・保守的な要請によると言ってしまえばその通りです。しかし、ジェンダーアイデンティティは私的に涵養されるものという考えに立てば、「GIというプライベートが公に持ち込まれ、そのジェンダー表現が咎められず認められている」と見ることができます。シスジェンダーのディスフォリアが回避される手配になっているわけです。
こうした当たり前を、シスジェンダーだけの特権にしないためには、規範が何をどう排除しているかについて考えることも重要だと思われます。「マイノリティへの配慮」という言葉だけでは、マジョリティがすでにその点では保護されているのに対して、マイノリティはそうでない(ディスフォリアやジェンダー表現への介入がある)という土台の差(プレカリティ)を透明化してしまうからです。
特別な温情としてでなく、インクルーシブが当たり前となるためには、「ノンポリ」がシステム1で準拠できる社会通念を変容していくことが大切であり、それがクィアな実践(「(規範と)バトルしようぜ!」)の意義の一つだと思います。
この私的なものが持ち込まれている事実を認めているというのは、最近の潮流でもあるかと思います。たとえば「従業員のプライバシー保護のために、従業員の撮影はご遠慮ください」というような注意書き。資本側の保身の建前とも考えられますが、一方で、プライバシー(私生活)と従業員(公)は、狭義で(精読的に)考えれば、コロケーションが非伝統的です。そこに矛盾を覚えないのは、「私的な容貌などを仕事用に大幅に作り替えることは難しいし、要求すべきでない」という「私の持ち込まれ」を、資本の論理に優越する自明のこととして納得しているからではないでしょうか。
これは、「撮られたくない。晒されたくない。無理なもんは無理」(ある意味「私情」とされかねなかった「クオリアの主権」の非明示的な行使)というマジョリティにも凡そ共通する申し立てが、労働争議を通さずとも実現しているとみれば、それだけ集まった声・顔には配慮されるべき力があるということになります。人は抽象的な部品ではないことを突きつけるそうした力について、マジョリティのそれが部分的に有効なら更にエンパワーメントされ、マイノリティのそれがまだ「声なき声」であるなら社会的な力が蓄えられていくことが、夢物語でなく地道な現実策と思われます。)
バトラー的な撹乱は単に抽象的な議論に終始するのでなく、エイズ患者の存在を公的に追悼した「ネームズ・プロジェクト」や、「家父長制が期待する女性像」を誇張したパロディ的な服装での行進も見られた「レッド・ストッキング運動」などのように、理論が具体的な効果への寄与になっていると裏付けています。
論文では、集団運動だけでなく、学校現場についても例示されており、「レズビアン」という語を侮蔑的に使われた生徒が、それを「うん、誇りに思ってる!」と返すことで言葉の暴力的な意味を一時的に封じ、再配置した事例も紹介されています。
このように撹乱は、空中戦の道具となるのではなく、地に足のついた実践になることが描かれています。
(「ジェンダー規範の攪乱可能性 ――「生きるに値する生」を広げること」、2026年, pdf)
後に、「トランスミソジニー」の概念化でも知られる著述家 ジュリア・セラーノ氏は、一連の件について『ウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』やブログで、「批判の対象はあくまでバトラーの理論の誤った使われ方に対してであり、本人に対してではない」という旨の整理をしています。
その中で、初期のバトラーの著作にはトランスセクシュアルの経験を不可視化する傾向が見られたが、その後の著作やインタビューでバトラーはトランスのアイデンティティを全面的に認めていると答えています。
セラーノの過去の作品に登場する、バトラーにFワードを吐いた引用は、個人への攻撃ではなく、2000年代初頭に学術的なバトラー理論(の誤用)がトランス当事者を否定・排除するための権威として使われていたことへの反発だとしています。
セラーノが、後に本人と出会った際、バトラーはこれを温かく受け止め、「学術的なシンボルとしての『ジュディス・バトラー』と生身の自分 (flesh and blood person) を切り離して捉えている」と語ったそうです。
まさに「ガワ」が生身を守るシェルターになっているということでしょうか。
「ガワ」は、労働や交流の場などで外から押し付けられれば、(ロカンタン的な)実存の露呈を糊塗してしまう「ご当地キャラ」になります。これに対して、自身にオーナーシップのある「ガワ」であれば、自己表現やコミュニケーションツールとしての「kiger」や「VTuber」などが持つ特色のように、心地良い程度の自己開示・演出を伴いながら「メタ治療同盟」の礎となるのかもしれません。
(日本発の文化「ドール面」 今後、医療的な役割を果たす可能性も? - オリコンニュース、掲載: 2019年、更新: 2022年)
なお、セラーノ自身、自著の出版後に同様の経験(自身の言葉の誤解や批判)を経験し、バトラーの姿勢に深く共感しているとしています。
(Whipping Girl: Julia Serano on Judith Butler、2015年))
補足2: 語りの紹介と「to trans」の創発
(今回の思考実験では、「なおも残る違和感・もがき」について考察しましたが、あくまで仮想的な例です。
実際には、移行後のトランスジェンダー当事者がなおスティグマを経験しうることを示す一方で、参加者が移行後の心理的ウェルビーイングの改善を報告したことも記す報告があります。したがって、移行後の経験は、残存する困難だけでなく、心理的安定や生活上の改善を含むものとして扱う必要があります。
(「Experiences with stigmatization among transgender individuals after transition: A qualitative study in the Netherlands」、2020年, pdf)
ついで、トランス/ジェンダー多様な人の語りから、性別肯定の経験が、違和感の軽減にとどまらず、肯定的感情や生活の質の向上として語られることが示されています。
さらに、オンライン質的調査をもとにした研究では、ジェンダー・ユーフォリアを「自分のジェンダー/性についての正しさの感覚を伴う喜び」と考えて、その経験が外的・内的・社会的な契機から生じること、またディスフォリアとの関係が単純ではないことを示しています。
(「Gender euphoria: a grounded theory exploration of experiencing gender affirmation」、2022年, pdf)
(「Accessible Summary for "A little shiny gender breakthrough”: Community understandings of gender euphoria"」、2022年, pdf)
また、本文の例では移行先の性別枠組みで生きることや、その規範での摩擦について多く触れましたが、非直線的であったり規範との距離感などを自身で調整したりする例も、無論考えられます。そうした事例についても、ご紹介させてください。
〜〜
本文中でも名前が挙がったハルバースタムは「trans*」(トランスアスタリスク)という概念も提唱しています。
トランスを「女性から男性へ / 男性から女性へ」という二項的移行や、医療的・法的承認によって完成する身分へ還元せず、未確定で未分類なジェンダー変化(gender variance)・身体・欲望・生のあり方などへ可能性を開く終わりなき探究(open-ended search)として描いています。
(「Trans*: What's in a Name?」、2018年, pdf)
次に、2008年の研究からです。
幼少期からGNCであったことが示唆され、強い身体違和を抱えていた当事者 Aさんの事例で、時間の経過とともに治療の優先順位が下がり、最終的に身体違和を持ちつつも、治療を「しかるべきタイミング」まで延期したというものがあります。
当初は手術(SRS)を、在るべき身体に戻すための「切羽詰まった問題」と認識していましたが、医療機関から求められる「自分史」の作成に対して抵抗感や不満を抱くようになり、治療への足が遠のくようになりました。身体についても、完全な治療を求めるのではなく「許容できる身体」として捉え直すようになったと語られています。
これをAさんを取り巻く社会的関係の変化でみると、親しい私的な関係にのみカミングアウトしていた初期から、転職や仕事の増加に伴い、公的な関係が拡大していったことで、急激な移行により人間関係が断絶されることを懸念するようになった変化や、パートナーとの交際において、男女が分かれる場面での葛藤やストレスを覚えながらも、パートナーとの間で形成された「お互い様」という思考スタイルや、対話を重ねて妥協や折り合いをつけるようになった変化が、綴られています。
同時に、友人の受容やパートナーとの対等な関係、母親との軋轢が穏やかになったこと、職場のジェンダーフリーな環境など、ストレッサーが軽減された変化もあり、外部要因も見過ごせません。
さらに、ナラティブの側面に着目すると、治療ステップである「自分史」作成への忌避感と並んで、「違和感やこれまでの苦労を医者にアピールすることのできる当事者しかGIDと診断されず、手術もできない」体制に、不満を漏らしていることも記録されています。
認めてもらうためにはこう、なんか『男らしい』みたいなのを書かなきゃいけないわけだ。女の子じゃなくて、こんなところは男っぽかったとか、最近そういうのにいい加減うんざりしてきた。
Aさんの友人 兼 共同研究者として、著者は以下のようなナラティブのせめぎ合いを考察しています。
「悪魔物語(Demonic narrative)」と「成功物語」と「私物語」の三つ巴です。
「対人関係や仕事がうまくいかないことは、GIDが根源である」と水路付ける「悪魔物語」は個人の罪責感から解放し、自己肯定感を高めた過去が記されています。しかし、次第に「悪魔(GID)」がいながらにして、他者から自身が受け入れられた経験が増えると、全てを「悪魔」に帰責することができなくなり、この物語が弱まっていきます。
未来の自己像が、医療からの「お墨付き」も得て確定的なものとして描かれる「成功物語」は、GID医療の枠組みと相性が良く、個人の苦難の文脈を棚上げしてくれる物語である一方で、Aさん自身の環境が安定してくると、今度は、現在からは飛躍した移行後の未来に重心を置くことが困難になってきたとも記されています。
この2つの物語が鳴りを潜めたことと相互に関係するとされるのが、物語の再組織化です。
Aさんは「治療のプロセスやスピードは医療が決定するものであり,それに従えば,身体違和感は解消し,望んでいた身体を得て,成功者となれる」という「成功物語」のプロットよりも、それと相容れない「他者との関係を維持し,かつ GID と共存しながら,楽に生きていこうとする私物語」を心情や環境の変化とともに採用するようになったことが提示されています。
論文の展望では、「成功物語や悪魔物語が他者とつながっていく重要な架け橋となりながらも,結局はそれらの物語とは異なる私物語を生み出す契機となった」「自他の物語が交差する場所では,社会的摩擦は避けられないが,そこには成功物語が提供しない気付きや発見に満ち溢れていた」とまとめられています。
最後に、Aさんの事例は輻輳的な軸(医療における成功物語 – 私物語,身体の支配 – 被支配,自己の安定 – ぶれ,過去への回帰・執着 – 未来への投企)で迷いながら様々な可能性を秘めているとし、当事者に付き添いながら、「従来の医療を補うオルタナティヴな医療を模索していきたい」と締めくくられています。
(「「私は性同一性障害者である」という自己物語の再組織化過程――自らを「性同一性障害者」と語らなくなったAの事例の質的検討」『パーソナリティ研究』第16巻 第3号、2008年, pdf)
3番目は、哲学者 ポール・B.プレシアド(Paul B. Preciado)氏の実践に触れます。著書『テスト・ジャンキー(Testo Junkie)』(2008) は、著者がホルモンを自己投与する過程を記録した「自己理論(autotheory)」のテキストです。この投与は、ジェンダー医療や国家が規定する枠組みの外(アンダーグラウンド)で行われたことが明記されています。
このことは、プレシアドのいう「薬物ポルノ的(pharmacopornographic)時代」(製薬産業とポルノグラフィが人々の身体やセクシュアリティを管理・生産する)における逸脱行動であり、性別二元論の基盤を撹乱し、身体の自己決定権を回復させる(脱領土化)ための「分子革命」の遂行でした。
プレシアドは、ジェンダーを最終的な目的地のある固定的なものではなく、常に変化し続ける流動的なプロセス(ドリフト=漂流)として捉え、既存の「檻」の外へ出続け、生成変化することを主張しています。
(ポール・B.プレシアド 『テスト・ジャンキー』 訳者あとがき(藤本一勇) - 法政大学出版局◉別館、2023年)
(「Performing the techno-self: Paul B. Preciado’s Testo Junkie as a twenty-first century feminist narrative」、2020年, pdf)
(「Testo Junkie, queer performativity and molecular becoming」、2018年, pdf)
4つ目は、その章の1️⃣で紹介した、イスラエリ=ネヴォ氏の自伝的内容も含まれる論文からです。従来的な語りの枠組みは、トランジション(性別移行)をビフォーアフターのような劇的な変容(転向)として捉える未来的な時間軸や、「本来のジェンダーは常にそこにあった」という過去形の時間軸に規定される傾向にあると分析しています。
これら二つの従来的な時間軸は、アプローチこそ違えど、どちらも「移行が完了した状態(未来)」をゴールとする線形的(リニア)で進歩主義的なものであり、結果として、「狭間にある状態」や「今ここにある身体」といった「現在」に向き合うことなく、過去から未来へと跳躍(スキップ)していると著者は指摘します。
ジェンダー研究者のエリザベス・フリーマン(Elizabeth Freeman)氏が造った「時間規範(クロノノーマティヴィティ)」という語を引いて、移行に時間を掛けることは、次のステージへ急ぐよう駆り立てる「時間規範(クロノノーマティヴィティ)」に抗うクィアな実践だと意義付けています。
(「introduction “Queer and Not Now”」「Time Binds: Queer Temporalities, Queer Histories, Introduction」、2010年, pdf)
それは政治的な意図というよりも、むしろ現在を重視することで、未来への逃避をやめ、今ここにある自らの身体や精神とマインドフルに繋がり直し、自分自身を統合して生きる(=今ここに存在する)ための生存戦略であると説明しています。
直線的な時間軸に沿って「一刻も早く移行を完了させる」ことを急ぐと、自己探求の余白が失われがちです。著者は、時間をかけて現在に留まることで、自らのアイデンティティや身体を「現在進行形」で絶えず想像し、再想像する権利が得られると述べ、「今、この身体でどうありたいか」をあらゆる角度から内省し、自ら決定していくプロセスを重視しています。
論文では、ポストコロニアル理論、特に都市理論家 ナセル・アブーラフメ(Nasser Abourahme)氏の議論が、理論的背景として引用されています。
アブーラフメ氏の議論では、パレスチナの抑圧的な状況を分析し、パレスチナの人々がサバルタン(従属的・周辺化された主体)となり、「失われた過去(故郷や失敗した革命)」と「未だ来たらぬ未来(約束された国家や解放)」の双方が閉ざされる一方で、それらが今ここの現在の中に「一時停止 (halt) されつつも、同時に保持 (hold) されている」状態であるとしています。
この不確実性が、行き詰まりの危険とオルタナティヴな機会の両方をもたらす両義性があると指摘しています。
著者は、この議論を引用して、過去と未来をあえて「一時停止」することで生じる「現在における不確定性」の重要性を語っています。
どちらでもあり得て、どちらでもないかもしれないという不確定な「現在」に留まることで、ジェンダーの流動性と自由な可能性を担保する試みです。
(「Spatial Collisions and Discordant Temporalities: Everyday Life between Camp and Checkpoint」、2011年)
(「INTRODUCTION」「The Time beneath the Concrete: Palestine between Camp and Colony」、2025年)
ただし著者は、映画『タンジェリン』(2015) の分析などを通じて、リソースの欠如による「強制された遅延・一時停止」や、パスしきらない「現在」に留まることのトランスフォビックな社会における危険性についても論じ、「自発的に時間をかけて移行するプロセス」は特権性を持っているのではないかという留保も加えています。
論文のはじめに、「現在において『アイデンティティを行う (doing identity) 』こと、そして過去のアイデンティティを消し去るのではなく、それを抱きしめる (embrace) という概念は、トランスの主体性や具現化について語る上で重要である」(試訳)と宣言されています。
この記述は、『GIFT』の新解釈の具体例で「君」が、今日まで外の世界を生き抜いて盾となってくれていた「僕」を抱きしめ返す光景と重なるようにも思えます。
〜〜
これら4つの例を見てきました。それらを我田引水するのは恐縮ですが、いずれも既存の物語や時間軸に自己を回収させずに、自分で自身の語りと体験を築いていることが見られるように思えます。
また、2つ目のAさんの事例は特に具体的ですが、その過程で自己理解や相互作用の見つめ直しや深化が起きているとも言えるかと思います。
「本当の自分」とは固定された実体というよりも、「君」や周囲・社会との相互作用(贈り合い)のなかで、「また走っていく」過程から自ずと立ち上がってくるものなのかもしれません。
本文での「僕」と「君」の物語も、こうしたプロセスで共通しているのではないでしょうか。
その主人公が体験したかもしれない「新しい学部での学び直し」という感覚も非直線的な時間軸を象徴する一つのようにも思えます。
(Trans Temporalities and Non-Linear Ageing - Dr Ruth Pearce、2018年)
当事者の個別の語りを一般化することには慎重になるべきですが、これらのような自己受容の道筋は、「社会的摩擦にもがきながらも折り合いを諦めない在り方」を照らしているように思われます。様々な多様性を持つ人々が「自分の人生に主体的に関われている」と思えるオーナーシップを取り戻すきっかけに関わっていくのかもしれません。
ニューロクィアの説明で、「to queer(規範を撹乱すること)」という動詞化に触れました。ならば、「to trans」として、特定のアイデンティティ(名詞)を指すのではなく、システムや規範との間で「交渉し、決定を保留し、変容し続けること」と再命名できるのかもしれません。
近いものに、先の「trans*」をジェンダーの移動にまつわる動詞としてみる説明や、「transing」を「固定されたものが横断され、曖昧にされ、揺さぶられる運動」として説明する記述があります。
(「Introduction: Trans-, Trans, or Transgender?」、2008年)
(Reading a History of Trans* Literature: Narratives of Transing in Sarah Grand’s “The Tenor and the Boy” Issue 16.1 - Nineteenth-Century Gender Studies、2020年)
(Trans Philosophy - Stanford Encyclopedia of Philosophy、2024年)
「to trans」という言葉は、今回の思考実験や語りなどによって、より精緻で多義的になったようにも思います。もちろん、名詞や接頭辞としての「trans」などに排他的なものではありません。
しかし、トランスノーマティヴィティに対して「型にはめられている」感覚を持つ人にとって、外部との相互作用を通じて変化していくこと。時にコマ送りのような移行のなかで、その一コマ一コマ、内省してみるということ。そうしたことを讃えて、行い(動詞)として認めることがアファーメーションの歩みなように思われます。
もっとも、gender に限らないということで、「Trans-」という接頭辞のままで使う論文もありました。それに倣うなら、この曖昧な時間や変化の過程そのものを愛おしみ、社会規範との距離感や没入度、そして人生や語りのオーナーシップを適宜調整する一人一人の実践・努力は、🏳️⚧️の経験とは違ったとしても「to trans」の一つとして肯定されるものかもしれません。
「あなた」もまた、規範との距離をその時で調整し、内なる自分を抱擁する『to trans』の主体になることができるし、なっているという意味も込めて、本note はこのタイトルになりました。)
補足3: 神経特性研究の知見とAuDHD特有とされる課題
(本文で触れた「脳内多動」や「過集中」といった神経特性と、それがもたらす創造性や疲労などの二面性について、主に近年の研究知見を概観します。
【脳内多動と創造性・得意と苦手のコントラスト】
「脳内多動」に関連する現象として、現在行っている課題から意識が逸れ、自発的な思考が巡るマインドワンダリング (MW) があります。ADHDにおいては、デフォルトモードネットワーク (DMN) の活動調整の不全などにより、過剰で自発的なMWが生じやすいことが指摘されています。
(「Mind wandering perspective on attention-deficit/hyperactivity disorder」、2018年)
最近の研究でも、多動性症状が強いほど、外的制約の少ない状況において思考内容が次々と移り変わる変動性(variability in thought content)が高いことが確認されています。
(「Hyperactive ADHD symptoms are associated with increased variability in thought content in less constrained contexts」、2025年)
こうした注意の拡散やMWは、既存の枠組みにとらわれない拡散的思考(流暢性、柔軟性、独自性)と関連することが示されています。
(「マインドワンダリングおよびアウェアネスと創造性の関連」、2017年, pdf)
実際に、ADHD特性を持つ成人は、拡散的思考の課題で高いパフォーマンスを示し、現実の創造的達成度が高く、アイデア創出 (Ideator) のスタイルを好む傾向があります。
しかしその一方で、複数の情報から一つの正解を導き出す「収束的思考」の課題では非ADHD群より成績が低く、問題を定義・構造化すること (Clarifier) や、アイデアを洗練・発展させること (Developer) への選好が低いという「苦手」な側面も明確に示されています。(「Uninhibited imaginations: Creativity in adults with Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder」、2006年, pdf)
(「Creative style and achievement in adults with attention-deficit/hyperactivity disorder」、2011年, pdf)
また、持続的な注意や高い認知的負荷を要する課題においては、過剰なMWがエラーの増加やパフォーマンスの低下に直結します(前述、2018年)。
【ASDの特性:システム化と知覚的処理】
一方で、ADHDの拡散的な傾向としばしば対比して論じられるのが、ASDにおける「システム化 (Systemizing)」の特性です。システム化とは、対象の規則性や法則を分析し、予測や制御、構築を行おうとする動機づけのことです。また、ASDの知覚モデル(Enhanced Perceptual Functioning:EPFモデルなど)では、全体よりも局所的・細部指向の処理がデフォルトとして働きやすいことが指摘されています。これらの特性は、微細なパターンの発見や、特定のルールに基づいた情報処理、あるいは無秩序に見える情報の中から一貫したシステムを見出すといった現象の基盤として説明されています。
(「The systemizing quotient: an investigation of adults with Asperger syndrome or high-functioning autism, and normal sex differences」、2003年, pdf)(「Enhanced Perceptual Functioning in Autism: An Update, and Eight Principles of Autistic Perception」、2006年, pdf)
なお、自閉スペクトラム研究の中心的存在ともされる 発達心理学者 サイモン・バロン=コーエン氏らのシステム化研究は、ASDにおける体系化傾向を論じる古典的文献として重要である一方、初期のEmpathising–systemising 理論(共感すること (Empathising) と構造化・体系化すること (Systemising) を軸上に対置した理論)およびExtreme Male Brain理論(極度な男性型脳仮説)は、共感を女性性、システム化を男性性へ結びつける枠組みを含んでいました。
その後、同研究グループ自身も、初期SQの項目が伝統的に男性的とされる領域へ偏っていたことを理由にSQ-Rへ改訂しています。また近年は、少女・女性の自閉症が診断道具や臨床場面で見落とされやすいこと、カモフラージュや行動表現の差が診断遅延に関わることも指摘されています。
したがって本稿では、システム化を規則性・分類・変数関係を扱う認知傾向として限定的に参照しています。
(「Predicting Autism Spectrum Quotient (AQ) from the Systemizing Quotient-Revised (SQ-R) and Empathy Quotient (EQ)」、2006年, pdf)
(「The Extreme Male Brain Theory of Autism and the Potential Adverse Effects for Boys and Girls with Autism」、2012年)
(「What About the Girls? Sex-Based Differences in Autistic Traits and Adaptive Skills」、2018年, pdf)
(「Improving Diagnostic Procedures in Autism for Girls and Women: A Narrative Review」、2024年, pdf)
【過集中とその影響】
次に「過集中 (Hyperfocus)」についてです。過集中とは、特定のタスクやトピックに対して、時間や周囲の状況、自身の身体的欲求(食事や睡眠など)を忘れるほど深く没頭する状態を指します。近年、成人における過集中を定量的に評価する尺度の開発が進んでおり、ADHD特性と過集中の強さに正の相関があることが示されています。
(「Validation of the dispositional adult hyperfocus questionnaire (AHQ-D)」、2024年)
また、自閉スペクトラム症(ASD)の当事者を対象とした研究では、過集中が「フロー体験」に似た高い没入感や幸福感、高い成果をもたらすポジティブな側面を持つ一方で、その状態が日常的な解離状態に近く、身体からのサインをキャッチしにくくなることが指摘されています。
(「自閉症スペクトラム者の過集中の特異性の検討と効果的支援に関する研究」、2024年)
【諸刃の剣としての特性】
これらの特性は、突出した創造力や成果を生み出す原動力となる反面、日常生活においては諸刃の剣として作用します。過集中の最中は疲労に気づきにくいため、事後に強い身体的疲労を感じたり、十分な休息がとれず生活リズムが崩れたりすることが当事者の語りから明らかになっています(同上、2024年)。
さらに、神経レベルでのドーパミン系の機能不全によるノイズ抑制の弱さから、パフォーマンスの個人内変動(Intra-individual variability: IIV)が大きくなることも示されています。
(「A novel approach to intra-individual performance variability in ADHD」、2021年)
これは、調子が良い時と悪い時の波が激しいことを意味し、社会で一般的に求められる「常に一定の安定した出力」を維持することの困難さを裏付けています。
ただし、これは一般的な傾向についての調査であり、個々人の多様性に対して一概に当てはめられるものではありません。部分的にこれらと対立する特徴を持つ当事者も多く存在します。
特に拡散的思考の傾向を持つADHDと、システム化の傾向を持つASDが個人の中で併存した場合(AuDHD)、どのような影響をもたらすかについての研究は、今後の課題となっています。
【AuDHD特有とされる課題】
2013年に診断基準が改訂され併存診断が可能になって以降も、この併存状態(AuDHD)に関する研究は非常に少ないのが実情です。2013年から2024年にかけての実行機能と情動調整に関する研究をまとめた系統的レビューでも、ADHD単独やASD単独の研究に比べ、併存群を直接検証した研究はごくわずかであることが指摘されています。それでも、近年少しずつ明らかになってきた知見からは、AuDHDが単純に二つの特性が合わさっただけではなく、独自のメカニズムを持つ状態であることが示唆されています。
(「A systematic review on the association between executive function and emotional regulation in autism, ADHD, and autism/ADHD」、2026年)
遺伝学的な研究では、ASDとADHDには共通する遺伝的リスクがある一方で、認知能力などに対して相反する方向へ作用する遺伝的変異も存在することが報告されています。併存群のケースでは、両方の遺伝的負荷を二重に持っており、それらが互いに相殺されるわけではないことが示されています。
(「Identification of shared and differentiating genetic architecture for autism spectrum disorder, attention-deficit hyperactivity disorder and case subgroups」、2022年)
脳の構造に関する研究においても、皮質の厚さなどの特徴はASD単独やADHD単独の特徴を単に足したものではなく、併存群に特有の変化が見られることが確認されています。さらに、こうした脳構造の変化が、特定の遺伝子発現の分布と関連していることも報告されています。(「The neuroanatomical substrates of autism and ADHD and their link to putative genomic underpinnings」、2023年)
脳全体の活動状態の移り変わり(ダイナミクス)を調べた研究では、併存群における社会コミュニケーションの困難さは、自閉スペクトラム症単独の場合と同様の過度に安定した脳活動に関連していることが観察されています。一方で、注意欠如や多動の特性については、注意欠如・多動症 (ADHD) 単独の場合に見られる脳活動のパターンとは異なり、前頭頭頂制御ネットワークなどの別の神経基盤に由来する活動パターンに関連していることが示されています。
併存群(AuDHD)における複雑さは、単なる足し算ではなく、社会コミュニケーションの特性(ASD側)は、「脳活動が特定の状態にロックされて動きにくい(過度の安定)」というメカニズムに関連している一方で、不注意や認知の不安定さ(ADHD側)は、「特定の脳状態(前頭頭頂制御ネットワークなど)が atypically (異例に)頻繁に移り変わる(不安定な遷移)」というメカニズムに関連しています。
したがって、本人の中では、「ある特定の思考や感覚に強く囚われて抜け出せない(過度の安定)」と、「意識や注意が目まぐるしく移り変わって集中できない(不安定な遷移)」という相反する現象が同時に発生していると考えられます。これが、当事者が主観的に感じる、脳内の多忙さや極めて強い疲弊感の要因となっていると推察されます。
(「Distinct Frontoparietal Brain Dynamics Underlying the Co-Occurrence of Autism and ADHD」、2023年)
脳のネットワークの働きに注目した研究でも、特有のパターンが観察されています。機能的MRIを用いた研究では、内省に関わるネットワーク (DMN) と、目の前の課題を実行するネットワーク(CEN: 中央実行ネットワーク)の間で、本来なら分離されるべき活動が同時に起きていることが調べられています。また、内省のネットワークから実行のそれに向けて信号の過剰な流入が確認されており、注意の切り替えが難しくなる内的体験の背景として考えられています。
(「Altered Functional Connectivity in a Triple-Network Model in Autism With Co-occurring Attention Deficit Hyperactivity Disorder」、2021年)
(「Effective connectivity alterations of the triple network model in the co-occurrence of autism spectrum disorder and attention deficit hyperactivity disorder」、2025年)
また、全脳のネットワーク分析においては、前頭葉と感覚や運動、言語を処理する領域との間で過剰な結びつきが見られることや、海馬を中心としたつながりの変調が報告されています。これらは、外部からの情報に対する反応の処理が複雑になっていることを示唆しています。(「Functional brain network alterations in the co-occurrence of autism spectrum disorder and attention deficit hyperactivity disorder」、2023年)
日常的な感覚処理と実行機能の関連を調べた研究では、併存群の子供たちが示す感情調整の難しさの大きな部分が、不快な感覚刺激を避けようとする「感覚回避」の強さによって説明できることが報告されています。ADHD単独の場合に見られるような、刺激を求める行動が行動の抑制の難しさに関連するメカニズムとは異なり、併存群では感覚の負荷が感情の調整や認知的な切り替えの難しさに影響している可能性が示されています。(「Relationships between Sensory Processing and Executive Functions in Children with Combined ASD and ADHD Compared to Typically Developing and Single Disorder Groups」、2024年)
さらに、認知能力と行動や感情面の問題との関連を調べた研究では、ASD単独やADHD単独であれば、言語理解やワーキングメモリといった認知能力の高さが、感情の不安定さや不適応を和らげるように働く傾向が見られます。しかし、併存群においては、この認知能力による保護的なつながりがみられにくいことが指摘されています。知能や言語能力の高さが、そのまま感情や行動の調整には機能しにくい傾向があることがデータとして示されています。
(「Cognitive and emotional profiles in children with ASD, ADHD, and comorbid presentations: evidence for a distinct clinical phenotype」、2026年)
また、こうした感覚や認知のアンバランスさは、特性を測定するためのテスト(アセスメント)そのものの形式によって、当事者が不利益を被りやすい(実態とは異なる評価を受けてしまう)という課題にもつながっています。
たとえば、研究室や検査室で行われる一般的な実行機能のテストは、言葉によるルール説明や細かな指示に依存する傾向があります。このため、言語処理やコミュニケーションに独特の特性を持つ当事者がテストを受けると、本来の実行機能の有無とは関係なく、「テストの指示をその場で理解し、言葉で応答すること」自体の難しさによって躓いてしまい、実態よりも結果が低く評価されてしまう可能性が指摘されています。
(前出;「A systematic review on the association between executive function and emotional regulation in autism, ADHD, and autism/ADHD」、2026年)
これとは逆に、静かで構造化された一対一のテスト環境では、当事者が一時的に認知的な力を動員して良好なパフォーマンスを発揮できることもあります。その結果、テストの数値上は「問題なし」と評価され、実生活(情報が溢れる学校や職場など)で生じている深刻な疲弊や調整の難しさが見落とされ、必要な合理的配慮や支援を受けられないという不利益(過小評価)も生じ得ることが説明されています。
(前出;「Cognitive and emotional profiles in children with ASD, ADHD, and comorbid presentations: evidence for a distinct clinical phenotype」、2026年)
したがって、認知能力(知能)や言語能力の高さが、感情や行動の安定を保証する保護因子として働きにくい併存群においては、一側面的なテストの数値のみに依存した評価では、本人が抱える本当の困難さを見誤る可能性が示されているほか、進学や学校教育におけるテストで学びが正当に評価されにくい問題があります(制度的ニューロアーキー)。客観的なテストの点数にとどまらず、実生活の多忙な文脈における多層的な困難さに目を向けるアプローチの必要性が示されています。
このように、AuDHDの当事者が経験する感覚や認知の困難さは、異なる特性が同時に存在し、複雑に影響し合っている結果として生じていると考えられます。まだ研究は途上ではありますが、こうした固有のメカニズムが解き明かされていくことは、当事者の内的体験の理解と、より適したアプローチにつながっていくものと期待されています。)
補足4: 「システム 1/2」の歴史と「ナラティブ・ポリシー・フレームワーク」
(「システム1」と「システム2」の発案・命名は、心理学者 キース・スタノヴィッチ(Keith Stanovich)氏と認知心理学者 リチャード・ウェスト(Richard F. West )氏による2000年の論文です。
心理学界ではそれ以前から、「直感」と「熟慮」を分ける二重過程の考え方が複数存在していましたが、2000年の論文でこれらを整理・統合し、速く自動的で無意識的な処理を「システム1」、遅く分析的で意識的な処理を「システム2」という包括的な名称で定義づけました。
その後、ダニエル・カーネマンがこの用語を借用しました。カーネマンは、人間の直感的な判断の偏りや非合理性(ヒューリスティックとバイアス)といった心理学の知見を経済学に統合した功績で2002年にノーベル経済学賞を受賞しますが、その際の受賞講演や以下の論文において、人間が不合理な意思決定をしてしまうメカニズムを「システム1・システム2」の枠組みを用いて説明しました。これにより、この概念は行動経済学の基礎として位置づけられ、学術界の枠を超えて広く知れ渡るようになりました。
(「The Empirical Case for Two Systems of Reasoning」、1996年, pdf)
(「Individual differences in reasoning: Implications for the rationality debate?」、2000年, pdf)
(「Representativeness Revisited: Attribute Substitution in Intuitive Judgment」、2002年, pdf)
(「Maps of Bounded Rationality: Psychology for Behavioral Economics」、2003年, pdf)
2017年の「ナラティブ・ポリシー・フレームワーク」についての論文では、政策形成は「専門知を出せば合理的に更新される」という場ではなく、人々も政策担当者も、既存の信念・感情・集団帰属に沿って情報を受け取りやすい。そのため、政策をめぐる物語は、単なる宣伝ではなく、政策過程そのものを動かす認知上の近道として働く、と考察しています。
抄録でも、「人々や政策担当者は新情報で自動的に信念を更新しない」という前提から出発し、「人間はホモ・エコノミクスではなく、ホモ・ナランス (homo narrans) であり、専門家情報より物語に反応しやすい」と要約されています。
(「Narrative Policy Framework: Narratives as heuristics in the policy process」、2017年, pdf)
なお、「ホモ・ナランス」の提唱は、民俗学者 クルト・ランケ (Kurt Ranke) による「物語る人間」の系図と、コミュニケーション学者 ウォルター・フィッシャー (Walter Fisher) による「ナラティブ・パラダイム」の系図が知られています。
「物語る人間」は、太古から人間は口承文芸を脈々と行なってきたように、人間の語り伝える側面に注目した説明です。一方で、「ナラティブ・パラダイム」は従来の「人間は論理(ロゴス)に基づいて合理的に判断する」という「合理的パラダイム」に対し、「人間は価値観や経験に照らし合わせ、その話が『筋の通った物語(ナラティブ)』であるかどうかで判断する」という転回で持ち出されたものです。
(「Problems of Categories in Folk Prose」、独語原著: 1967年 英訳: 1981年, pdf)
(「Human Communication as Narration: Toward a Philosophy of Reason, Value, and Action」、1987年, pdf)
このような知見を合わせると、全制的な資本主義やアテンション・エコノミーの争奪戦において、資本はステークホルダー(消費者・労働者、ひいては投資家・規制当局等)を「ホモ・エコノミクス」と想定するよりも、「ホモ・ナランス」として接したほうが利潤が生まれやすい傾向が予想されます。
「ナラティブ・リアリズム」は、今日的な資本主義の状況下で加速しやすくなったと言えるでしょう。資本の囲い込みが進み、代替となるコモンズがマイナーなほど、「他の在りようを想像すること」「他のコミュニケーションに力を持たせること」が難しくなります。
私たちは、広い意味での「ナラティブ・ポリシー・フレームワーク」を、労働の場,推し活,メディアなどあらゆる場で浴びていることは、一種の規律訓練と言えますが、その存在を意識しないくらい「空気のように」当たり前に吸ったり吐いたりしているのかもしれません。
認知資源の節約に繋がっていることは確かですが、「ナラティブは受け入れやすい(研究によれば反論生成や心理的抵抗が弱まる)」という人間の性質が利用され、「痛みを我慢しろ」「これで感じるのは弱いだけ」という抑圧する者にとって有利な言説を、現実のファクトとして内面化してしまっている節もあります。
(「Overcoming Resistance Through Narratives: Findings from a Meta-Analytic Review」、2020年)
実際、こうした物語を内面化したほうが、社会適合できるのですから、「選ばれる者」になるためには致し方ない側面があって、その競争から脱するには何らかのエネルギーや変化が必要かもしれません。
そして、そうした経験を持つ人も、コミュニティなどのミクロな場において、今度は自身がその仕組みを悪意なく再生産することも考えられます(まさに行政の「お約束」ルールのように)。
想像できないものは作れないために、「他の在りようが想像できない」状態だと、代替ルートを創造することが茨の道になる「ナラティブリアリズム」の檻の側面を感じさせます。
だからこそ、痛みを我慢させ駆り立てさせるナラティブに対抗し得る「カウンター・ナラティブ」(このnoteももしかしたら……と思いを寄せています)を、「情報のコモンズ」に、OSS(オープンソース・ソフトウェア)のように置いてみたり……。
(「Counter-Narratives Mobilized by Deprived Communities Through Theatre Interventions: Deconstructing and Reframing Master Narratives」、2022年)
キラキラしたナラティブに収まらない剰余を、それとなく出したりあるいは世にぶっちゃけたり、もしくは本文中で出てきた「メタ治療同盟」のように、「色々あるんだけど、結局は配役された演者(誰しもヴァルネラビリティを抱えた生身の人間)がやっていることなんだ」と自覚して、支配的な物語の力を相対化しつつ、立場を超えた想像力が働いたり……、と残された手もきっとあることも本当なように思えます。
それらは、何も特別ではなく、生き抜く(息抜く)ために私たちが自然と行なっていることではないでしょうか。あとは、それらを「例外的で申し訳ないもの」から「誰かのためにもなる、優しくもラディカルな実践」に格上げしてあげることなのかもしれません。
少し話のスケールは大きくなりますが、かつて人類学者 ジェームズ・C・スコットは、日常的抵抗という語を当てて、主な特徴として以下の4つを上げています。
・ブレヒト的/シュヴェイク的抵抗(真っ向から対決せず行う)
・「事実上(de facto)(暗黙の了解)」の獲得を目指す(権利のサラミ戦略的な拡大)
・低リスクと戦術的知恵(言い逃れが可能なくらいの)
・組織なき協調・暗黙の協力(非公式な関係網)
(「Everyday Forms of Resistance」、1989年, pdf)
内情や感じたことを「情報のコモンズ」にぶっちゃっけるとか、「メタフィクションなドラマツルギー」を遂行するとかは、デコレーションの下で役割演技に駆り立てられる私たちの社会では十分に「弱者の武器」と言えそうです。(ジェームズ・スコットは封建的な社会における農民をよく取り上げていますが、今回はその枠組みを拡張しています。)
(とはいえ、現実世界で配役を介して出会う間柄では、二次創作の「俳優パロ」に付随することの多い「表舞台では違う役回りだけど、裏舞台では仲良し♪」な連帯や公共圏は、もはや投資家市民の前に期待できませんし、同意や心理的安全性の面からも期待すべきでないでしょう。その点を踏まえて、「俳優パロ」に相当する英単語でありながら、創作の趣向がやや異なることもあるこの語を借りて、「Actor AU的な連帯」を提唱してみようと思います(AU は Alternative Universe)。業界(人間界)で皆が役割演技や印象操作をさせられている諦念を共通項として、それを半公共的に分かち合う低体温な在り方,水平な労いとも言えます。
(Actor AU - Fanlore)
ご当地キャラやエンタメ,接客などは「Actor」の分かりやすい例ですが、今回調べてきた通り、それ以外の労働や私生活でも同様の構造と摩擦が見られます。
本文に出てきた言論対立でも、投資される言説(ナラティブ)の体現者(特定陣営)であるためには、パフォーマティヴであることが誘発されやすくあります。渦中の対立陣営の「中の人」に対して、「あの人たちも自分の立場を守るために敢えて振る舞わざるを得ない節がある」というシンパシーを内面で向ける例を想像してみると、純粋無垢な「仲良し🎶」ではないが、「Actor AU的な何か」が成り立っている例が考えられるかと思います。ただしこのシンパシーは、「両片想い」の可能性もわずかにあるものの、基本は一方通行です。同意のある相互性を生む取り組みとして、目的を「相手の意見を変えさせること」ではなく、「相手(保守傾向の人,リベラル傾向の人)がなぜそう考えるのかを理解し、人間として尊重し合うこと」に設定したワークショップを開く「Braver Angels」が知られています。近い性質を持つものとして、より少人数で居間で話す感覚の「Living Room Conversations」や、「青」と「赤」の橋となるべく活動する学生運動の「BridgeUSA」なども挙げられます。
(Braver Angel)
(拡張熟議 - Plurality)
(About Us - Living Room Conversations)
(About Us - BridgeUSA)
社会学者 アンソニー・ギデンズ氏のいうアクセス・ポイント(社会の抽象的システムをその場で代表している「端末」の人(々)と一般の「非専門家」などが出会う場)などの、日常でエンカウントする他者との些細な関係において、社会のコードという役をどちらも演じさせられていることに、相互了解と(暗黙的な)労いがある個別の営みは「メタフィクションなドラマツルギー」と呼べるかもしれません。(本文中の「メタ治療同盟」はこの一例であり応用例かと思います)
コードを相対化し(誰かのために構築されたものに過ぎないと認め)、それよりも「今ここの実感」やヴァルネラビリティ,プレカリティの方が先んじていることを、行える余地が残されています。
公私二元論な「ポリス型公共空間」(公的領域と私的領域を峻別し、政治的・理性的に現れることのできる主体を限定)から排除されそうな主体や実践をも包摂し得る(一次的,散発的な)空間なわけです。パブリックな申し立て・セルフプロモーションな発信と、鎧を脱いだ私的なやりとりとの間に横たわる「Semi-Public(半公共)」(全制的な権力に回収されにくい "よどみに浮ぶ"ような"あわい")と呼んでもよいかもしれません。
(第5回 コミュニケーションのメディア(2)|「理論」と「実践」の接続|徳安 彰(法政大学社会学部 教授 - THE MEANING OF WORK、2025年)
(「A Feminist Re-reading of Hannah Arendt’s notion of Space of Appearances」、2026年)
"sonder"(偶然すれ違う一人ひとりが、自分自身と同じほど鮮明で複雑な人生を生きていると気づくこと。他者にも固有の友人,日課,心配,野心があり、他者の人生では自分が一度だけ背景に現れる人物かもしれない)として知られる感覚があります。これは他者を、認知資源の節約や効率化から、「ナラティブ型支配」に配置されたNPCと捉えてしまいがちな暮らしのなかで、それに抗う「to trans」の燃料の一つになるかとしれません。立場の異なる人たちへの想像力は、道徳の心がけというよりも、寧ろふとした時に覚えるこうした感覚にも支えられているように思えます。
(「“sonder.” The Dictionary of Obscure Sorrows」、2012年))
用語として定着したのは近年でも、1971年に「Imagine all the people / Livin' for today」と歌われたり、さらに遡っても「袖すり合うも多生の縁」や「コスモポリタン」という言葉が語り継がれてきたりと、感覚としては永くあるものと考えられます。)
補足5: WEIRDバイアスとセム系一神教での語り
(主に論文から語りを拾っていますが、これらは学術調査や当事者研究が公に可能である国・地域だから行えているという、WEIRDバイアスは否定できません。
(世界の研究データの多くが、Western(西洋の)、Educated(教育水準の高い)、Industrialized(工業化された)、Rich(豊かな)、Democratic(民主的な)社会の人々を対象にしており、それが「人類共通の傾向」として一般化されてしまう偏り)
聞き取ることやそれを公開することの叶わない声があることにも注意が必要だと思います。
(「The weirdest people in the world?」、2010年, pdf)
(「心理学における多様性への挑戦:WEIRD研究の示唆と改善」、2018年, pdf)
また、引用した英語圏の議論には、キリスト教・教会文化の影響とそれへの反動的な脱構築といった、宗教的な文脈が通奏低音になっていることもあるかとは思いますが、私がどこまでそうしたことに自覚的になれているかは、自分でも不明瞭です。今回当たった文献の中には、アメリカのユダヤ教学生向けメディアや、同性愛を厳しく弾圧する一方で性別移行が幾らか支援されるイランでの語りなどがありましたので、一部をご紹介します。
まず、前者に掲載されている2人のトランスジェンダー / ノンバイナリー編集長による対談です。
2人は、「ジェンダーと移行に関する私たちの共有するトーラー(教え)(our shared Torah of gender and transition)」と表現しています。
歴史的に、物理的な神殿を失い離散(ディアスポラ)の歴史を歩んだユダヤ人にとって「トーラーこそがユダヤ人の祖国(居場所)である」という考え方に言及し、身体への違和を覚えるトランスにとっても、文章を書くことやテキストで表現することは、精神的な「居場所」になり得ると説明されています。
性別移行を、個人的かつ精神的な旅路と捉え、他者や神と共に自己を共創していくプロセスとして聖性を見出していると語られています。
他にも、「神が時に自らの姿を隠す(Hashem conceals Hashem’s self)」ことと、トランスジェンダー当事者が時に「(周囲から)見られたくない、隠れたい」と感じる複雑な心理を重ね合わせ、見られたくないという感情の中にも神の存在(神聖な一面)があるのではないかと重ねています。
さらに、ホルモン投与の時には友人が集まって歌を歌ったり、改名儀式はシナゴーク(会堂)で執り行われたりと、宗教全体の傾向の代表例ではないとしても、このコミュニティの肯定的な姿勢も描かれていることが分かります。
しかしながら、幼い頃から社会や家族・コミュニティから「内面化された恥」の存在も顧みられ、「恥」の意識をアンラーン(学びほぐす)する難しさについて、「頭の中で非常に大きく響くこの『内なる声』に対して、自分の存在を正当であると証明 (justify) しなければならないという強迫観念に、本当にひどく苦しんでいた」と語られるように、平坦な道のりではなかったことが窺われます。
この「内なる声」は、FtMが経験する声変わりの逸話とともに、「なぜトランスであることを(風邪と誤魔化して)取り繕おうとするのか」と問うてくることも紹介されています。
それらに対して、初期の活動家でもあるルー・サリヴァン(Lou Sullivan)の著作に触れながら、表現活動における誠実さについて語り合われています。
トランスジェンダー当事者は、社会から「まともで、受け入れられやすい存在」として見られたいという思いから、自らの性の悩みや欲望、不完全な部分を自己検閲(自ら隠蔽)してしまいがちだが、性的な欲求や弱さ、他者から愛されない不安などを包み隠さずユーモアを持って語ることは、自分自身を愛し、自己検閲に抵抗するための力強いエンパワーメントになると述べられています。
創世記におけるサラの高齢妊娠も、性別移行による身体の変化も、「一般的な身体のルールからは外れた変化」という共通点があるとして、これらを科学的・論理的に説明しようとするのではなく、妊娠を告げられたサラがアブラハムと笑ったように、ただその変化の驚きと喜びを受け入れることの豊かさを提示しています。
(Two Editors on Revelation and Transition - New Voices、2020年)
書くことが精神的な結節点となるというレッスンからは、作家 ジェイムズ・ジョイスについて、「書くこと」という特異な芸術的営み(サントーム)によって自身を守っていたのだという、ラカンの分析を思い出しました。
(Seminar XXIII: The Sinthome、1975年, pdf)
次に、イランのイスラーム教徒たちの語りです。報告では「自分が死んで、埋葬のために身体を洗われるとき、遺体洗浄人に、完全に(女性/男性の)身体を見てもらいたい」という希望が、性別適合手術を強く望む人たちに広く共有されているとしています。公的な法制度や社会的な権利の獲得だけでは満たされない、「死の瞬間には、本来のありのままの身体でありたい」という、実存的な身体への切望が示されています。
個別の例として、補足2でも触れた「自己を知ること」の宿題を臨床心理士から与えられた当事者が、「そんな時間はなかった。彼氏と過ごすので忙しかったから。料理をしたり、彼が好むスタイルに合うようにメイクをしたりしていた」と答えたことが挙げられています。医師から「彼に依存しすぎではないか」と指摘されても、動じずに「もちろん、本当に彼のことを愛しているのだから」と応じたというものがありました。
学術的・分析的な「深い自己反省」を求める臨床的なアプローチに対し、このクライアントは日常の人間関係や、パートナーとの具体的な関係性の中に自分の居場所と主体性を見出している差が露わになっています。
次に、前週は黒いチャドル(伝統的なムスリマのベール)を着用して現れた人が、次の週には軍服(男性装)を着て集会に現れ、メンバーからその理由を尋ねられた際の言葉が紹介されています。
「自分のことをMtFだと思っているし、適合手術も受けたい。でも、じっくり時間をかけるつもり。一度性別を変えてしまったら、自分のやりたい野心(仕事や目標)の一部が追求できなくなってしまうから」「いずれにせよ、男性装をしているときは男らしいことをするのが楽しいし、女性装をしているときは女性らしいことをするのが好きだ」
イラン社会における就業の現実(女性としての制約など)を冷静に計算し、社会的な生存やキャリアのために、衣服やジェンダーの「装い・習慣 (habit)」を戦略的かつ柔軟に使い分けている現実的な姿が描かれています。
つまり、「行為・身振りの主役 (Subject of Conduct)」として、自分の内面を深く掘り下げて、その自己分析結果を見せるよりも、日々の服装の選択,就職のための装いの変更,恋人との関係など、「社会の中でどう振る舞うか (conduct)」を通じて、現実を生き抜くため、極めて現実的・生存戦略的に自分のジェンダーを構築していると分析されています。
(「Scenes of Self-Conduct: Transnational Subjectivities from Tehran to Laplanche」『TSQ: Transgender Studies Quarterly』 - Trans Reads、2017年, pdf)
ただし、これらは世俗化の度合いは異なれど、アブラハムの宗教における伝統性や信仰と、所謂「トランスジェンダリズム」との併存や相互承認の試みという点で共通しており、ほかの在り方や地域(日本以外のアジア、アフリカ、中南米、島嶼部など)を含められていないことも、考慮が必要だと思っています。)
補足6: 『喪とメランコリー』を抱きしめる
(バトラーはフロイトの『喪とメランコリー』を読み解き、メランコリー(他者の喪失の否認と同一化)が、単なる病理ではなく「失われた、あるいは失われたことを認められない対象を、自我の内部に取り込むことによって初めて形成される」という条件を示していると主張しました。
(「Mourning and Melancholia」、1915-1917年, pdf)
(「Melancholy Gender / Refused Identification」、1995年, pdf)
本文中の「僕」と「君」の物語や、そこで語られた「共苦的な想像力」も、「失われた他者(ifの自分を含む)の苦痛や課題(痕跡)を、自らの エゴ(自我)の中に引き受ける」という点で、再解釈されたメランコリーの運動とも重なります。
さらに一歩進めるならば、『GIFT』は「無意識のメランコリー(抑圧・否認)」から「意識的な哀悼の作業(受容と表現)」への移行の歌としても読むことができます。
「本当の自分を見つけたい」「生まれた意味を知りたい」と内面で葛藤し、白黒の難題にぶち当たって迷っているという初期段階で始まりました。
転換点となったのが、自分のなかの「日陰(抑圧された部分)」にも相互に意味があると認め、「やさしい名前」を付けてあげたことです。これは、言葉にできなかった内なる喪失を、公的に(あるいは表現として)基礎づける作業と言えます。
「あなたからあなたへ最高の gift をありがとう」というライブでのセリフは、自分の中に抑圧されていた(いつか殺めた)「失われた自己」を認め、それを自ら悼み、「君」として抱きしめた(=自己の循環としての哀悼)瞬間を祝福しているとも解釈できるかと思います。
(「後期レヴィナスの倫理におけるクィアな人々への喪とその生存可能性の観点 ――バトラーとフロイトの喪の理論を介して――」『現象学と社会科学』第6号、2023年, pdf)
(※ ただしバトラーは、いくつかのレヴィナスの記述を明確に批難しています。レヴィナスがユダヤ教とキリスト教を倫理的関係の文化的条件とし、「アジアの無数の大衆」や「低開発諸民族」を脅威として語った箇所について、"with blatant racism" すなわち「露骨な人種差別を伴って」と記しています。レヴィナスのイスラエルを「専ら被迫害者」とする姿勢にも及んでおり、"implausible and outrageous account"「信じ難く、憤激を招く説明」と記しています。
その上で、バトラーは「顔」概念をさらに拡張すると宣言しています。
(「Giving an account of oneself」(邦題:『自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判』)、2005年, pdf)
(Levinas trahi? La réponse de Judith Butler - Le Monde、2013年)
日本語圏でも、レヴィナスの差別的な発言を指摘するものはあり、1945年の手記で同性愛者を「落ち目」や「病人」と形容したと書かれています。しかし、約40年経った1980年代後半には軟化したような発言(生殖や「有用性」の追求から距離を置き、セクシュアリティのイシューが「開拓すべき展望をいくつも開いている」と吐露)も行なっています。そのことについて論文では、性的マイノリティの人権擁護活動の先駆者であった医師 マグヌス・ヒルシュフェルトの研究所がナチスに真っ先に破壊された歴史的事実の認識や、エイズで他界したフーコーの存在などが関係にあったのではと推察を行なっています。
(「 エマニュエル・レヴィナス現象学におけるセクシュアルな自己変容記述の解明」、2020年, pdf))
無意識に抑圧された願望とは、フロイト的な文脈の解説では、 「本当は同性に性的な関心が向いているのに抑圧している」「異性の親への禁じられた欲望」といった、身体的・解剖学的な次元に基づいた原始的な欲動を指すことが多く、バトラーもここから異性愛規範における同性愛やホモフォビアなどについて考えを深めてきました。
そこから現在では、「人は他者に性的に惹かれるのが当然である」という規範(強制的性愛)についての検討が不十分だった、という点検が始まっています。
精神分析の基礎の段階でアセクシュアルの存在が理論的に否認(抹消)されていることを示した論文では、ジェンダー形成において同性愛への愛着が「排除(フォークロージャー)」され、それがメランコリー(喪失の取り込み)として自我を構成すると論じたバトラーの理論がアセクシュアルの存在を想定していないことを、以下のように指摘しています。
同性愛の排除 (Foreclosure) は、禁止されつつも「縁どり(存在の暗示)」を伴うため、「逆言説(反論や対抗する主張)」を立ち上げやすく、自己処罰に伴う攻撃性を政治的エネルギー(怒りや運動)へと転換しやすい。一方で、アセクシュアルの否認に適用される抹消 (Erasure) は「セクシュアリティの不在(欠如)」と見なされるため、そもそも失われるべき対象としての地位(存在)が与えられず、あらかじめ無きものとして扱われる。自己処罰の要素を伴わないため、メランコリーのような政治的エイジェンシー(能動的な抵抗の力)が生じにくいという特徴がある。
このような整理をした著者は、アセクシュアルによる撹乱の可能性について、「欠如」でなく「存在」として記述しなおすこと、「性交=性行為=愛」という単一の幻想に回収されない実践への注目、エース(Ace)という包括的(アンブレラ)な概念による多様化、「性的指向」と「恋愛的指向」を区別するなどの新しい概念の創造を提案しています。(Aro / Ace アンブレラ,スペクトラムの各語の取り組みもそうかと思われます。)
(「「メランコリー的ジェンダーと強制的性愛――アセクシュアルの「抹消」に関する理論的考察」『Gender and Sexuality』vol.15、115–137頁、2020年, pdf)
(Aromantic asexual - LGBTQIA+ Wiki)
(Aromantic spectrum - LGBTQIA+ Wiki)
(Asexual spectrum - LGBTQIA+ Wiki)
(Ace/ Aro Spectrum Definitions - oxford university lgbtq+ society)
トランジションの文脈でいうと、本稿の「インナーミズ」「インナーミスター」は、移行やクィアな在り方が難しい世の中における「追悼」について考えてきました。 「わがまま」「自室でやるべき趣味」といった社会の声を恐れ、それが抑圧されていることを公に嘆くことができない。社会では「いないもの」にされている。
要すれば、「僕」が魔法のボタンを脱構築して至った「社会からの抑圧による共苦」が出発点にあるのです。 詰まるところ、「君」(「インナーミスター」「インナーミズ」)は、好き勝手できるイマジナリーなファンタジーではなく、社会構築的な側面があります。(想像や "本質" に閉じた産物ではなく、言語や法やシステムから立ち現れている。)
「僕」と「君」のように主体が分裂しているのは、「社会の監視の目が緩まるあわいに、脳内で「もしも」を考えられたから ("The city goes to bed / And I can live inside my head")」という表面的な理由に留まりません。
性別二元論的な象徴界があるから、「僕」と「君」は隔てられ分割されました。 社会が設け、強調する差異(社会化やジェンダーロールといった外部要因)によって「僕」と「ifの自分」が区別されたために、二者となったのだと言い換えられます。 それらを乗り越えてまた出会うための「to trans」が必要となるわけです。
移行前の状況では、「君」は「僕」の内側で匿われているため、「「君」は『頭の中の存在』である(でも確かに存在している) ("I know it's only in my mind")」ことを一度認めます(幻想の横断)。しかし、そこで見切りをつけてしまわずに、「それでも私は言う。「僕ら / 私たち」のための道はあると("Still I say, there's a way for us")」と、地平線の先まで自分の荷物を背負って歩いていくこと(欲動,欠如の周囲を歩く)を、この人は肯定します。
(※本論からは一度離れますが、ミニ補足です。英語歌詞を引用したミュージカル曲(『レ・ミゼラブル』の『On My Own』)の演出には、フェミニズム的な批判もあるため掲載します。
たとえば、原作のバックストーリーが削減されており、視覚的演出(ソロ歌唱)においても大掛かりな舞台装置から切り離され、筋書きの中心から置き去りにされたキャラだというものです。
(The women of Les Miz - OUP Blog、2012年)
こうしたトロープは、「冷蔵庫の女」とも呼ばれ問題視されています。
(Women in Refrigerators - LBY3)
(映画の中で都合よく殺される女性キャラ『冷蔵庫の女』について考える。なぜ、「女が」「死ぬ」? - ヨガジャーナルオンライン、2023年)
その一方で、「悲劇のヒロイン」消費に与しない見方として、この曲を歌うキャラクター(エポニーヌ)が、物語の中で、男性装(benevolent patriarchy(温情的家父長制)の撹乱に通じそうです)をして銃撃戦に身を投じたように、社会の規範に対する強い抵抗と主体性を見出すものもあります。
(Some Musicals Are More Feminist Than Others - Ms. Magazine、2012年)
(慈悲的性差別(ベネヴォレント・セクシズム)とは・意味 - IDEAS FOR GOOD)
(※ 著述家 ベサニー・ウェブスター(Bethany Webster)氏は、温情的("慈悲的")家父長制についての論考で、女性が過酷な家庭環境や社会で生き延びるために身につける「いい子 (Good Girl)」の仮面と、それを温存・利用しようとする社会構造「慈悲的家父長制 (Benevolent Patriarchy)」の相互作用を解き明かそうとしています。
「ルールに従い従順であれば、男性から保護や報酬が得られる」という約束は、女性の主体性を奪い、搾取し続けるための「幻想」に過ぎないと指摘します。 この「慈悲」の恩恵に与ることは、たとえその個人にとっての利益であったとしても、性差別の慣行や家父長制が温存され、より弱い立場の人や地球環境(他の生命)へと皺寄せが行くと著者は懸念を示します。
そのサイクルから脱却するためには、他者の承認を求める役割を手放し、健全な境界線を設定し、自分自身の怒りを受け入れることが必要だと説きます。
そしてその根本的な治療として、母親から無意識のうちに受け継がれた世代間の傷である「Mother Wound(母親の傷)」に向き合い、内なるトラウマを抱えたインナーチャイルドを癒すことを重要なステップとしています。(※ テナルディエ夫妻がこの例に当てはまるかは疑義がある一方で、原作でも舞台でも機能不全家族であったことは明らかです。)
論考の文中で、インナーチャイルドを癒すには、自分がかつて家族の「感情のゴミ捨て場」や「雑用係」などとして利用されていた現実を直視し、その喪失を深く嘆く(喪に服す)プロセスが必要だと書かれており、これは補足6や補足7で取り上げているフロイト,バトラー的な「喪」と「メランコリー」に通じる記述だと思います。 (The Illusion of Benevolent Patriarchy and The Good Girl - Bethany Webster)
(※ ウェブスターの議論には、自身が育った親子関係を母娘関係全般に一般化している、具体的な対処法に欠けるといった指摘が存在するのも事実です。(シスジェンダーの)娘の経験に限定され、息子(レミゼでいえば ガヴローシュ)やノンバイナリーの子など、他の親子関係は扱わないことへのコメントが書評などで見られます。
(Discovering the Inner Mother: A Guide to Healing the Mother Wound and Claiming Your Personal Power - Publishers Weekly、2020年)
(Discovering the Inner Mother: A Guide to Healing the Mother Wound and Claiming Your Personal Power - Anitra Gates、2020年)
母娘関係のみに帰着しない "Patriarchal Wound"と呼ぶべきだという意見もあります。
(Why the “Mother Wound” Term Wounds Mothers and Daughters - Rosjke Hasseldine、2021年)) )
さらに、男性学やクィア論の観点からは、エポニーヌが、ゲイやバイセクシュルの男性,および女性やLGBTQ当事者から特に強い共感を集めていることを調査した論文があります。異性愛男性キャラへの報われない愛がゲイ男性などの体験と重なるのみならず、第二部における主要な対立関係から周縁化されたアウトサイダーとしての立場が、共感や自己投影を齎すとされています。この曲のクライマックスにおけるベルティングやフェルマータが、感情の解放や自己の存在証明の役割を果たし、そうした共感にカタルシスを生んでいるとされています。
(「‘Not just for gays anymore’: men, masculinities and musical theatre」、2017年, pdf)
ここで、『GIFT』的な「僕」と「君」を足掛かりにするならば、以下の読み取りも可能かもしれません。 『On My Own』における「頭の中の存在」は「気休めの感傷」に留め置かれません。
(もちろん、マイノリティ・ストレス等から、想像界を結んで身を守ることは重要です。エポニーヌの立場における「もうどんな場所にいても / 光を感じれるよ」の「どんな場所」は過酷なストリートでした。
(LGBTQ学生が抱える困難 ダイバーシティ&インクルージョン研究 03 - 東京大学、2021年))
エポニーヌが想う「ifの自分」の成分は、家や友人,挨拶できる顔見知り ("face to say hello to",visagéité (顔貌性)に適応した visage(顔)) がいたはずの、没落して貧困にならなかった(もしくは「愛される・哀悼されうる資格」を見出だすことのできた)存在です。それを恵まれているように見える思慕の相手に「投影」しています。
(「顔と顔貌性」『日本社会情報学会 第22回全国大会』、2007年, pdf)
その後の『One Day More』でも、「What a life I might have known(何という人生を知ることになっていたかも知れないのに)」と仮定法過去完了を用いて、Counter-factual self(反事実的自己, ifの自分)が経験しているであろう人生に思いを馳せています。
ところが、最終的にはメタ認知から、その幻想は横断されて(死の)欲動に転じます。
もっとも、「街も樹もどこも他人ばかりよ」と絶唱されるように、他者からの承認(鏡)や、「顔」やケアのネットワークから排除されたことは、本人にとっては如何ともし難い苦痛だったと思われます。
(ゆえに、「道に迷えば 見つけてくれるわ」と、実の親子関係では中途だった、庇護されることへの未練(基本的信頼感の「欠如」)を想像で温めることや、革命の狼煙を上げた共同体にアンガジュマンすることが、ギリギリのサントーム(虐待サバイバーの行動ともとれますし、安易な美化や手放しの称揚はすべきでないですが……)だったと言えそうです。)
ここからの救い(エピローグやカテコ)についても補足7で検討します。
なお、歌詞中の「he is blind」についてですが、鏡像的な視線の不在を表す比喩と読める一方で、現在の障害学・包括的言語の観点から、「理解しない・気づかない状態」を blindness に結びつける表現として、エイブリズム的だという批判があります。
国連の障害包摂的言語指針は、“blind to criticism” のような比喩には注意を求めています。メリアム=ウェブスターも、知識や理解の欠如を blindness と結びつける比喩は、ときに攻撃的とみなされると注記しています。
(国連ジュネーブ事務局「Disability-Inclusive Language Guidelines」、2021年, pdf)
(「Blind Definition & Meaning - Merriam-Webster」、2026年)
『レ・ミゼラブル』は六月暴動(1832年のパリ蜂起)から着想を得ていますが、これは暴動や蜂起とある通り成功しない革命の試みでした(市民からすると「申し訳ないが騒ぎはNG」であり、約30時間で終結)。しかし、Abaissé(虐げられた人々)とその友(アライ)が反乱の声をあげる声のうねりは、16年後の1848年に起きた二月革命の伏線になったとも言われます。
(パリ6月暴動とラマルク将軍ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」 - 世界の童謡・民謡)
また、クィア理論の主要な源流であるフランス現代思想の担い手は、1968年の五月危機(五月革命)に影響を受けているとされることもあります。五月危機では、ド・ゴール政権に反発した3月の学生運動が、5月までに全国的なゼネスト(≒ 資本主義的な合理性(=成功の規範)に対する直接的な異議申し立て)に拡大しましたが、6月の総選挙では暴動の反動からか一転してド・ゴール派が圧勝しました。
(五月危機/五月革命 - 世界史の窓)
これらは、歴史学的な軸で言えば失敗に終わったと分類されますが、一方でその尺度で捉えきれないものが派生して生まれて現代に届いているとも言えます。ハルバースタムは『失敗のクィアアート (Queer Art of Failure)』で「失敗や敗北のほうが、成功や勝利よりもはるかに創造的で驚異的だ!」と主張しました。どちらの運動も、革命が結実すると避けがたい組織化や粛清,反革命からの防衛といった歴史上通ることになる道を踏むことなく、声やうねりだけが残響しました。その「創造的で驚異的」なものが、このnoteを動かしているのですから、本の主張にも頷かされます。
(失敗のクィアアート―反乱するアニメーション - 紀伊國屋書店ウェブストア)
思想史的には、五月革命のエネルギーを当時の構造主義で説明ですることに行き詰まった思想家たちは、「固定的な構造」から今回扱っているような「流動性、生成、欲望、差延」などを重視するポスト構造主義へと舵を切ることになります。
(「〈68年5月〉、哲学を解放する」『フランス哲学・思想研究』24、2019年, pdf)
また、伝統的な左翼政党であるフランス共産党(PCF)や労働組合は、自然発生的に立ち上がった学生や若者のエネルギーについていけず、むしろ運動を抑圧しようとしたとされます。
(Georges Marchais - Base de données des députés français depuis 1789 - Assemblée nationale)
これにより一部の思想家は、万国の労働者が団結するという従前の大きな物語の実現に失望を覚え、国家というマクロな対象だけでなく、日常のあらゆる場所に潜む「ミクロな権力」や「制度的抑圧」へと関心が向かうことになったと言われます。
(「集団、主体性、共同体をめぐって――68年5月とサルトル、ドゥルーズ=ガタリ、ブランショ」『フランス哲学・思想研究』24、2019年、pdf)
(「全共闘運動とフランス“68年5月”が提起した問題」『社会臨床雑誌』26巻1号、2018年, pdf)
五月革命に直接参加していた哲学者 ジャン=フランソワ・リオタールも、その不信から『ポストモダンの条件』などで多様な小さな物語の共存を肯定しました。
(Jean François Lyotard - Stanford Encyclopedia of Philosophy)
哲学者 ミシェル・フーコーなどが中心となって立ち上げた GIP(監獄情報グループ)は、この1970年代のフランスの世相を表しています。活動家の逮捕・収監が相次ぎ、刑務所内の劣悪な環境や不当な処遇に対する不満が高まっていました。受刑者によるハンガーストライキや暴動が頻発していましたが、当時の刑務所は外部から完全に遮断された「密室」であり、内部で何が起きているのかが社会に伝わりにくい状況でした。
こうした状況を打開するため、1971年2月に結成された GIP は、従来の「知識人が弱者を代弁する」というスタイルを拒否し、「当事者(受刑者)自身に語らせる」という手法を取ったほか、受刑者,元受刑者,その家族、さらには看守や弁護士,医師に対して極秘裏にアンケートを実施し、刑務所の衛生状態,医療,食事,暴力,面会の制限などの生々しい実態調査(情報収集)を行いました。
(「The Groupe d’information sur les prisons: The voice of prisoners? Or Foucault’s?」、2008年)
GIPは目的を「受刑者自身が声を上げるためのきっかけ作り」に置いていたため、1972年末、受刑者自身の手によって「受刑者行動委員会(CAP)」などの自主組織が結成されると、GIPは役割を終えたとして自ら解散しました。
(Manifesto of the Groupe d’Information sur les prisons (1971) - Viewpoint Magazine)
(「Années 70 : contestation de la prison : l’information est une arme」、1999年)
(「Foucault and the Prisons Information Group’s Counter-Subjectivation」、2026年)
また、フーコー自身がGIPの活動を通じて得た現場の知見や問題意識は、代表作『監獄の誕生――監視と処罰』(1975年)を執筆する大きな原動力となりました。
このnoteの表現でその功績を見るならば、「語りからの疎外」から回復するために「クオリアの主権」を行使し、情報やイメージの統制により管理する権力に対して対抗となる「情報のコモンズ」で応じたと言えそうです。
『消費社会の神話と構造』でも知られる哲学者 ジャン・ボードリヤールは、ラジオや新聞が学生運動を全国へ広げたため、一見するとメディアが革命に加担したように見えたとしたうえで、反対の読みを提示しました。メディアは運動を「公共的な出来事」として一般化することによって、運動の固有性を失わせた(モデルへと変換され、記号として中和された)と論じます。マスメディアを通じては、市井の人々の営みが spectacle(スペクタクル,見世物) にされてしまったというのです。
(「Requiem for the Media」、1972年, pdf)
ボードリヤールは、ここから論を発展させ、権力には「批判そのものを吸収し、中和し、回収する能力」があると考えるようになりました。
(「Jean Baudrillard and the Disappearance of Resistance: Indifferent Masses and the Implosion of the Social」、2026年)
今日的な話題で列挙すれば、「12. つくる責任 つかう責任」を訴えた SDGs をより消費を拡大するマーケティングに組み込んでいること(グリーンウォッシング)。過労死の告発をオフィスの消灯(個人デスク除く)の問題に矮小化すること。商業映画が時に行うメタ的なセルフ批評は売上増加を狙って作られること。“freedom is beautiful”とか言って自身に対して反対デモが起きている理由を、権威主義的な国にはない民主主義の美しさとしてすり替えることなどでしょう。ゲバラやバンクシーへのパッションだって、Tシャツにしたりオークションにしたりして待ち構える権力はびくともしません。
ピンクウォッシング(性的マイノリティや女性支援などの人権擁護を支持する姿勢を見せながら、実際には実質的な取り組みを行っていなかったり、別の不都合な問題から注意をそらしたりする表面的なイメージ戦略)にしても、この最たる例です。
だからこそ本noteでは、「ナラティブ型支配」の源泉である情報の囲い込みやナラティブの寡占を揺るがすために、「ぶっちゃけ」られた「情報のコモンズ」の発展(「クオリアの主権」の社会的な擁護)を唱えています。ボードリヤールの指摘するように、見目麗しいデコレーションで批判を吸収するにあたっては、不都合な真実の露呈がもっともそれを阻むからです。仮に「実はそんなことないですよ」というアピールを優位な立場の側が行うにしても、情報が出るいたちごっこの始まりに過ぎません。
管理の効率化を推し進めるために、規格やマニュアルなどから個別の属人性は取り除かれる方向にあり、無機質なものに統一されがちです。裏を返せば、一つの流出が、個人のバックグラウンドを明かさずに一気に意味を持つゲリラ的な戦略になります。
そうして「情報のコモンズ」が充実すると、情報の囲い込みのもとでは生まれなかった競合や代替案の提案が育ちやすくなります。その競合や代替案がカウンターナラティブを提示する際、ヘゲモニー的なナラティブは相対化されます。これが「ナラティブリアリズム」の外へ出る想像力を喚起し、投資家市民としてヘゲモニックなナラティブに一蓮托生していたところから他の選択肢が生まれ得ます。
これが良い方に作用すれば、競争の軸(政党や企業だけでなく言説も含め)が、「デコられた鉄の檻」に付された装飾の魅力度プレゼンから、他者への「共苦的な想像力」(鉄の檻のNPCに思えていた人、「顔」を奪われ「植民地化」された人々に向けて、傷つきやすさを抱えたActorとして再発見する「Actor AU的な連帯」の基盤)が重視される新しい価値観との親和性へと切り替わっていくことが、希望的観測ではありますが考えられます(デコと実体との乖離がどのみち漏れることによる「軸のシフト」)。
哲学者 リチャード・ローティは、政治学者 ジュディス・シュクラーの言葉を紹介する形で、「リベラルとは、残酷さこそが人間にとって最悪のことだと考える人々のことである」とのこしていますが、まさに残酷さ(マイノリティ、労働、アニマルウェルフェア、環境 etc……にまつわる)に向き合いそれを低減しようする軸が、このシフトによって、「飾るだけで示せたデコの軸」に代わって力を持って機能し得る(冷笑的な人にとっても新たなナラティブの投資先になる)と考えてもよいかもしれません。
(「Contingency, Irony, and Solidarity」、1989年, pdf)
もっとも、シュクラー的な恐怖のリベラリズム(超訳するなら……「理想の正義を作る前に、まずは現実の不正義や残虐さ、恐怖(不安をもたらし自由を破壊してしまう)を避けることから始めよう」)や基本的人権などは、殊更新しい価値観ではありません。それを覆い隠すナラティブの魔力を相対化する新たな脱構築が求められるといえます。
(『Ordinary Vices』Harvard University Press、1984年 )
ミニ補足終わり。)
長くなりましたが、話を戻させていただきます🙇 幻想の横断をした道程を前に進めていくことで、『GIFT』で考察した「君」が現実の世界に質量を持ち、世界の光を浴びていくことが叶うのだと思います。
これは社会を、単に成長に不可避の去勢を強いる冷徹な存在(伝統的な通解)と見做して終わるのではなく、補足2で考えた「to trans」(システムや規範との間で交渉し、決定を保留し、変容し続けること)のスピリットを抱き、そこで新たな立ち回りを発明していると解釈できるでしょう。
前置詞「against」 には、「〜に反対(反発)して / 〜に寄りかかって」という表裏があるように、社会からの規範の圧を「壁からの圧迫感」と「壁があるから手を付いて立てる」という二つの間の階調で捉えて、社会はその動的な対象や場 (in which) だと、この人は領解しました。 「against ぶち当たった壁」とも言うべきような、壁やその前での葛藤があるからこそ、自己の輪郭がおぼろげながら浮かんできたんです。
(「The Psychic Life of Power: Theories in Subjection」、1997年, pdf)
(「Against the Bedrock: Gender-Affirming Therapies, Transgender Psychoanalysis, and a Case for Confusing the Sexes」、2022年, pdf)
これは本文のシチュエーションにおける「僕」と「君」に限ったことではありません。
もし社会に「ニューロアーキー」や「アマトノーマティヴィティ」に代表されるような象徴界の法が存在しなければ、主体はそもそも「しっくりこなさ(分裂)」や違和感を、覚えることがありませんでした。
社会のシステム(法)が「まともであれ(白黒つけろ)」と要請してくるからこそ、その摩擦によって、社会に適応しようとする仮面(ペルソナ=僕)の裏に、抑圧され、生きられなかった可能性(シャドウ=君)が「結果的に誕生させられてしまう」のです。
きっとこれは、今回の例に登場した人物に限定された話ではないと、ここまで多岐にわたった語りから思わされます。)
補足7: 『去勢』と『サントーム』、『享楽』についての比較検討
(本文中で「『僕』と『君』は、社会のファルス的な権力からの『去勢』を免れる」と表現したことについて、少し理論的な補助線を引いておきたいと思います。というのも、伝統的な(古典的な)ラカン精神分析の文脈において、「去勢を免れる(欠如を認めない)」という状態は、現実を否認した精神病や倒錯の構造として、しばしば否定的な文脈(病理化)で語られてきた歴史があるからです。しかし、近年のクィア・ラカン派の臨床的知見や、ここまで辿ってきた『GIFT』の歌詞の構造を照らし合わせると、この「去勢の回避」は、単なる現実逃避とは全く異なる、極めて切実で創造的なプロセスとして浮かび上がってきます。
まず、社会(大文字の他者)が人間に要求する「去勢」とは何かを考えてみます。それは、歌詞の中で「『白か黒で 答えろ』という難題を突きつけられ」と歌われている状況そのものです。「男か女か」「定型か非定型か」「社会のルールに従うか否か」という、既存の二元論的な枠組み(ファルス的権力)に自分を当てはめ、割り切れない自分の一部を切り捨てること。これこそが、社会が強要してくる「規範的な去勢」だと言えます。
しかし、クィア・ラカン派の精神分析家 パトリシア・ゲロヴィッチ氏らが指摘するように、そもそもこの「白黒の二元論」という基準自体が、人間の多様な性を測るには欠陥だらけの「エラー」を含んでいます。トランスジェンダーやニューロクィアの人々が直面し、時に拒絶しているのは、痛みや欠如そのものではなく、この社会が押し付けてくる「エラーを含んだルール(偽の去勢)」なのです。
この点について、哲学者 スラヴォイ・ジジェク氏は、トランスジェンダーの人々のことを安易に「サントーム(精神病を回避するための人工的な結び目)」と呼ぶことには、その存在を矮小化しかねないとして慎重な姿勢を見せています。その代わりジジェクは、彼らが「社会の標準的な主体よりも、さらに急進的に『主体性の行き詰まり』を引き受けている」として、その実存的な態度を高く評価しています。
(「Reply To My Critics, Part Two」 - The Philosophical Salon、2016年)
ただし一方で、ジジェクがトランス主体について大きな権威をもって語りながら、トランス研究者や活動家の声、とりわけトランス・オブ・カラー批評や植民地主義・人種化された性別二元制の文脈を取り込んでいないという、2016年時点の批判も存在します。
(Žižek’s Trans/gender Trouble - Los Angeles Review of Books、2016年)
これらを踏まえたうえで、やはり、GIマイノリティが直面するメンタルヘルスの悪化や高い希死念慮(過去1年で4〜5割!)といった切実なデータ(生死の境界線)を鑑みれば、マイノリティが社会のルールから外れた場所で、精神の空中分解を防ぐために独自の「結び目」を作ることは、決して病理的な意味での精神病の回避などではなく、文字通りの「サバイバル(生存戦略)」として極めてリアルな響きを持っています。
ジジェクが称賛した「行き詰まりの引き受け」と、ゲロヴィッチが肯定した「生存戦略としてのサントーム」は、当事者の過酷な現実において重なり合うと考えます。
(「From Recognition to Rights: Suicidal Risk and Protective Factors Among Trans and Gender Diverse Youth in Japan」、2025年)
(「Transgender Psychoanalysis: A Lacanian Perspective on Sexual Difference」、2017年)
この懸命なサバイバルの様子は、『GIFT』の「僕」の姿と見事に一致します。「白黒」の既製服がどうしても着られない「僕」は、壁の前で迷い、もがきながらも、自分の内側にいる「君(生きられなかったもう一つの可能性)」を消滅させないために、自らの血肉を使って「やさしい名前(独自の色)」を編み出します。
社会の暴力的な去勢(白黒での切り捨て)を免れた代わりに、自らの手で「サントーム(創造的な結び目)」を作り出し、それを「一番きれいな色 (gift)」として、内なる「君」へと贈与する。彼らは現実の痛みから逃げたのではなく、社会の "当たり前"(二元論)を迂回し、自分自身をこの世界に繋ぎ止めるための命綱を、互いに手渡し合っているのだと解釈できます。
そして、このクィア・ラカン的なロジックを通すことで、曲の大団円を飾る「ラララ」の大合唱の真意にたどり着くことができると考えます。
「君」と「僕」は、既存の「白・黒」という言葉(象徴界)での解決を保留し、痛みを伴う現実を「僕ら」として丸ごと抱きしめました。それだけに、その死の淵を生き延び、自己統合(サントームによる結び直し)を果たした後には、既存の言葉の枠組みでは決して表現しきれない過剰な生の実感と喜び(非全の享楽)が、言葉を超えた声(意味になる前の、純粋な音響的・肉体的な響き(余剰))となって、祝祭のように溢れ出しているのです。
ラカンは、部分欲動を定義する4つの対象に基づいたものとして『対象a』を提示した。すなわち、吸うことの失われた対象としての『乳房』(口唇欲動)、排泄の対象としての『糞便』(肛門欲動)、そして欲望を引き起こす対象としての『声』(喚起欲動)と『視線』(視覚欲動)である。
Gherovici, Transgender Psychoanalysis, p.154、試訳
この記述を考えれば、「ラララ」というハミングは、特定の社会的意味(白か黒かといった言語的意味)を持たない、「純粋な声」として扱うことができるのではないでしょうか。
社会から「選ばれる者」として認められる(=ファルスを「持つ (Having)」)ことに固執するのをやめ、独自の「やさしい名前」を名乗り、お互いを讃え合うこと。これは、移行のプロセスが、何かを所有する経験ではなく、他ならぬ自分自身として存在すること (Being) の切実な戦略であるという分析とも平仄が合います。
(「Transgender Psychoanalysis: Lacan, sex, and sinthomes」 - Public Seminar、2019年)
さて、この「行き詰まり(社会との摩耗)を引き受ける」という行為について、本稿の『GIFT』の物語(「僕」が内なる「君」の痛みを引き受けること)と、先行するラカン派の臨床的解釈とを比較したとき、「他者の享楽 (英: jouissance of the Other, 仏: jouissance de l'Autre)」の扱いにおいて、理論的な差異(独自解釈)が生じているため、ここで整合性を確認しておきたいと思います。
以後、本稿における各用語の主な説明は、ウェブ上で参照できる1996年の辞書を参照しています。
例えば、「extimacy」(エクスティマシー;仏 extimité)の項目で、エクスティミテは内/外の対立を揺さぶる語であり、現実界は内にも外にもあり、他者は「私にとって奇妙でありながら、私の中心にある」と整理されています。
さらに同書の「Other」項目では、大文字の他者 (Grand Autre) は同一化できない根源的他者性であり、言語・法・象徴界と結びつくと説明されています。
また、対象aは、象徴界が現実界に導入されたあとに残る残余であり、享楽の余剰として説明されています。
(「An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis」、1996年, pdf)
(※ 追加的に extimacy / extimité について。親密さの意味を持つインティマシー(英: intimacy, 仏: intimité)が、ラテン語で「最も内側の」「最も深い」を意味する形容詞 "intimus"("in" の最上級にあたる言葉)に由来していることをもじって、ラテン語で「最も外側の」を意味する "extimus"("ex" の最上級)という言葉と、先述の "intimité" を掛け合わせて作られた言葉です。
ラカンは、「自分にとって最も親密で、最も内奥にあると思われるもの(欲望や無意識など)が、実は自分自身にとっては外的なもの(他者の視線や言語など)によって構成されている」という精神分析的な逆説を説明するために、この言葉を造り出しました。
(Extimity Jacques-Alain Miller - the symptom 9)
現在では、この言葉は精神分析の枠を超え、SNSなどで「自分の極めてプライベートな領域(親密な部分)を、あえてインターネットなどの公共の場(外部)にさらけ出す行為や心理」(「自己確認、内的自己の受容、社会的絆の形成を目的とする、自己の親密な部分の公的開示」)を説明する社会学的な用語としても使われています。
(「Intimacy in social media: A theoretical analysis of extimacy」、2025年))
解釈を比較するにあたって、まず、ゲロヴィッチ(および臨床心理士 オレン・ゴズラン(Oren Gozlan)氏ら)のトランスジェンダー臨床における「他者の享楽」の標準的な位置づけを確認します。
この文脈では、「大文字の他者(親の無意識的な投影や、社会の強固なジェンダー規範)」が、主体(当事者)の身体を自らの享楽の対象として息苦しいほどに包み込んでいる状態を指します。この状態において、主体は「他者の享楽に呑み込まれ、自分が消滅してしまう」という圧倒的な不安を経験します。
ラカン派の精神分析において、人間が最も恐れるのは「何かを失うこと(欠如)」ではなく、むしろ他者が自分に密着しすぎる「欠如がなくなってしまうこと(=欠如の欠如)」こそが、究極の「不安」をもたらすと考えられます。したがって、ゲロヴィッチのモデルにおける身体的トランジション(手術や移行)は、この「外部からの侵入的な他者の享楽」に対して境界線を引く(切断 = cutを行う)ことによる、防衛的・主体化の行為として理論化されます。
一方、本稿で展開している「他者の享楽」のロジックは、この「切断(防衛)」のフェーズからさらに一歩踏み込み、内なる他者(ifの自分である「君」)の痛みを「引き受ける(享受する)」という異なる向きを持っています。
ここでの理論的な問いは、「自分自身の内面にある『君』を、『他者』として扱うことが成立するのか?」という点にあります。
【「君」は小文字の他者か、大文字の他者か?】
もし「君」が、単なる「なりたかった完璧な理想の自分」という鏡像的な双子に過ぎないなら、「小文字の他者 (autre)」に留まり、そこに「他者の享楽」を見出すことはできません。それどころか、従来的な枠組みでは、主体を欺くような想像界の産物や、一時的なコーピング術だなどと丸められていたかもしれません。
ラカンの「シェーマL」に倣うなら、それは他者からの承認を気にする自意識のループ、すなわち「想像的対角線の罠(𝑎-𝑎′)」に囚われた状態であり、そこで交わされる言葉は「空虚なパロール(発話)」にしかなりえないとされます。
しかし、本稿における「一人のニューロクィアのGI当事者」にとっての「君」は、単なる理想像ではありませんし、完璧に他者を想像することについて、その不可能性を認めたとしても成立するものです。
それは、「もし望んだ性別で生まれていたとしても、社会規範(ファルス秩序)との間に必然的に生じたであろう『しっくりこなさ』や『痛み』」を体現する存在です。
1988年のラカン研究の表現を借りると、「僕」が「選ばれる者」という社会的な自我の鎧を手放し、「自我の不在」へと踏み込むとき、この想像的な障壁は突破されます。自我(𝑎)への執着を捨てることで初めて、主体(𝑆)は自らの内奥にあるエクスティミテ(大文字の他者 𝐴、「君」)と直接結びつきます。それを不気味なものと断罪するのではなく、むしろ「共苦的な連帯」をもちかけることで、そこに本質的な「充実したパロール」を立ち上げることができるでしょう。
(「ラカンのシェーマLについて」『高知大学学術研究報告 人文科学編 巻 37, p. 69-73, 』、1988年, pdf)
(「自我への執着を手放す」ことが契機となるのは、大乗仏教における無我・空性の議論的な表現です。さらに翻案を進めるなら、固定的な自他の把握を離れたところに慈悲が成立するという「空と慈悲」の関係や、『維摩経』以来の「衆生病めば菩薩も病む」という大悲、天台教学の「同体大悲」と重ねることもできるでしょう。如来蔵・仏性の語彙を採れば、そこに「内在する仏性」を見いだすという表現も可能になるかと思います。
(「空と慈悲」『哲學研究』47巻12号、1987年)
(「大乗仏教における空性と慈悲――その関係、機能と実践の一断面」『哲學研究』587号、2009年, pdf)
(「『摩訶止観』病患境――『病』と『疾』」『印度學佛教學研究』61巻1号、2012年, pdf))
ここで、歌詞考察に立ち返って、Mr.Children と同じく TOY'S FACTORY に所属する BUMP OF CHICKENの『真っ赤な空を見ただろうか』(2006年)のパッセージを読んでみます。「ひとりがふたつ」という、うってつけのテーマです。
ひとりがふたつだったから
見られる怖さが生まれたよ
ひとりがふたつだったから
見つめる強さも生まれるよ
理屈ばかり こねまわして
すっかり冷めた胸の奥が
ただ一度の微笑みで
こんなに見事に燃えるとは
ふたりがひとつだったなら
出会う日など来なかっただろう
ここまでの文脈に合わせて、あえて主体の分裂による他者(エクスティミテ)の享楽の二面性(飲み込まれる・見られる怖さと、見つめ返す主体性。連帯した強さとノンバーバルな燃え)という解釈を取ってみます。
自我の分裂による鏡像段階 (𝑎−𝑎′) の恐怖・不気味さから、自我の防衛を捨て、主体 (𝑆) として見つめ返す主体性の獲得・共苦的な連帯へと移行し、 虚しいシニフィアンの空転(空しいパロール)から、「充実したパロール」による享楽(燃え)への転換が起きたからこそ、 主体の分裂 (Spaltung) という痛みがなければ、自己の深淵(君)と出会い、接ぎ木し直すという救い(再会)もなかったという至高の肯定に至ったと言い換えることができます。
すると、ふたり(「僕」と「君」)は社会の理屈(二元論でのそれぞれのジェンダーロール等)によって分裂していますが、もしそうした摩擦がなければ、ずっとひとつのままであって、出会う日(『GIFT』で描かれる再会のシーン)は訪れなかったということになります。
『GIFT』のMVでは「虹」がテーマになっていることに触れましたが、さらに深掘りするのなら、「虹 = 🏳️🌈」の連想に留まらないと考えられます。映像中では分光器や湯気が冷やされてできた露など多くのモチーフを使用していますが、どれも「日光,水,空気」の相互作用を表象しています。これは理科的な裏読みではなく、実際にMV中でも学校の黒板に、水文学的な水循環の視点(蒸発,大気)や、主虹と副虹の中心的な角度(42°と51°)がはっきり書かれています。水は、主に三相(氷、液体の水、水蒸気)を取りますが、どれか一つが本当の姿(「我」)というわけではありません。空気や日光の熱などとの関係性によって、ある意味、「縁起」「構築主義」のように決まります。また「振り注ぐ日差し」には、ほぼあらゆる可視光の波長(きれいな色)が「互いを讃え合って」(打ち消すことのない低いコヒーレンスで)存在しています。私たちがそれを、水や分光器に通すことで、屈折率の違いからはじめて虹(差異のグラデーション)に分化するのです。
(「The coherence time of sunlight in the context of natural and artificial light-harvesting」、2022年, pdf)
(「Spatial coherence of sunlight and its implications for light management in photovoltaics」、2015年)
この『GIFT』の学校のシーンからも影響を受けて、考えてみます。
仮に「君」が理想のジェンダー像の範疇に留まっているなら小文字の他者ですが、実際は社会化(ジェンダー化)の過程で分割させられ、公に弔うことができなかった・時間を過ごせなかった「もう一つの主体」であり、「僕」の移行の過程で、その「あり得たもう一つ」と再び出会い、接ぎ木しながら社会のなかで振る舞い経験していきます。
少し回り道かもしれませんが、「違う状況に置かれた自分」を雛形にして、そこに身を置くことを考えるには、演技論がヒントになるかと思います。これは、当事者の行いが「演技」だとか論うものでは全くなく、ケースが持つリアリティを、現代的な演技論が語る「嘘のない瞬間を身体で行うこと」と照らし合わせて表したいと思ったものです。
古くから演劇は、物故した登場人物が舞台上にいることが不自然でないものとして受け入れられてきました。
カーテンコールにおける非全の祝祭では、法や,時間の矢(過去→未来)による線引きが一時停止します。
(文芸批評家 ミハイル・バフチン風に言えば、「カーニヴァル化では、遠く隔てられ、確定された過去に属していた人物が、現在の親しい接触圏へ移される」「人々のあいだの距離が停止される」でしょうか。
(『Problems of Dostoevsky's Poetics』、原著: 1963年 英訳: 1984年, pdf))
そこでは、生者(社会で生き残った者)と死者(社会から消された者)が手を繋ぎ和解 (GhostingのEmbodiment, Empowerment) する光景や、その手前のエピローグ(たとえば『民衆の歌』)で「彼ら夢見た明日が来るよ」などと皆で声を上げ歌う光景が、クィアというよりも「ハイカルチャー」なメディアとして拍手や地明かり(「振り注ぐ日差し」)とともに受容されてきました。
(「ハイ・カルチャー/ポピュラー・カルチャーにおけるヘゲモニーの転換と領有に関する一考察」、2003年, pdf)
(「Dance Curtain Calls: Problematizing the Ends of Dances」、2014年, pdf)
(「The Semiotics of Curtain Calls」、2008年)
ラカンの「性化の公式」において、左側の論理とは「全て(全)を支配するルールがあるが、そのルールから免除される『特権的な例外』が存在する」という構造です。日常では原則となっているこの論理も、劇の最後には一時打止めになります。
観客も、客席という安全地帯からの「特権的な例外」の模倣(ファルスを持っているかのように振る舞う。対象化して評論する立場になろうとする。他者の享楽を理解不能として切断・防衛する。)から降り、非全の立場(「性化の公式」の右側)に感情を委ねていることもあると言えます。
言い換えるなら、安全な批評家ポジションで腕組みをしているうちは、$${ \Phi(x) }$$(ここでは劇中・作中のルール)に縛られない $${ \exists x \neg \Phi(x) }$$ の例外的なポジションに仮想的に居座ることができます。これはファルス的な論理では、皆が目指すべき高みでありながら、現実では言葉を使い始めた(象徴界に入った)時点で誰も到達し得ないとされる地位です。
その高み(呑まれない立ち位置)が仮想的に得られるのは心地よいかもしれませんが、劇の $${ \Phi(x) }$$ は感情を後ろの席まで伝わるように表現したり急に歌い出したりと、現実世界の法とは異なります。このことと、その $${ \Phi(x) }$$ のあったかもしれない権威や整合性すらも、最後には、境界線が溶けるようなカタルシスを優先しそのために打ち捨てられる(相対化される)ことが、演劇(とりわけミュージカル)に対する冷笑の正体と考えられそうです。
しかし、今はエピローグやカーテンコールについて前向きな考察しています。ここでは、第四の壁や劇中の法が取り払われて、絶対的な法は存在せず( $${ \neg \forall x \Phi(x) }$$ / $${ \overline{\forall x} \Phi x }$$ )また、腕組みポジションも実在しないこと( $${ \neg \exists x \neg \Phi(x) }$$ / $${ \overline{\exists x} \overline{\Phi x} }$$ )が顕わになります。
これがファルス的な論理にないもの(非全の立場)であるため、カテコにはクィアネスが内包されているのではないかということをお伝えしたかったです。
(「‘There’s No Such Thing as a Sexual Relationship’: Existence and the Formulas of Sexuation」、1991年, pdf)
(Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation - Lacanian Ink、1995年)
そして最後の合唱では、エンディングまで生きられなかった者を、心の中に取り込んで共に闘う「メランコリー的同一化」(『民衆の歌』の「列に入れよ 我らの味方に」,『GIFT』の「君の分まで持つよ / だからそばにいてよ」)と、その喪失を認めて嘆く「哀悼」(「屍越えて 拓け」,『GIFT』の「それでもまた走っていく 走っていくよ」)をして、志半ばだったその先へと進むこと(「そうさ明日が」、『GIFT』の「「まだ 歩き続けたい」と返事が聞こえたよ」)。
(「Do You Hear the People Sing?: Musical Aesthetics and French Nationalism in Alain Boubil and Claude-Michel Schonberg's Adaptation of Victor Hugo's Les Misérables」、2017年、※原文ママ。一般的な表記はアラン・ブーブリル(Alain Boublil)氏と、ウムラウトありのクロード=ミシェル・シェーンベルク(Claude-Michel Schönberg)氏)
(「Doing the Time Warp: Queer Temporalities and Musical Theater」、2013年, pdf)
こう聞くと、押し殺されてきた主体(「君」)が、「僕」の身体を借りてこの世に息を吹き返すためのヒントとして、こうした役と生身の関係における「哀悼」の話が、自ずと浮上したように思えます。
ここで演技メソッドの一つであるチャバック・テクニックを引くと、人間は、悲劇的な状況にあってもただ悲しみに暮れるだけでなく、そこから這い上がろう・生き延びようと闘う(to win, to survive)と説かれます。この基礎に立って、想定される疑問について考えてみます。
「君」を小文字の他者とする見解では、性別違和を、想像界に生じる「裂け目」(身体像の統一性の喪失)から、象徴化も想像化もできない生々しい肉体や呼びかけの圧迫感(現実界の深淵)が立ち現れてしまった状態と捉え、そこから「僕」が自己イメージを取り戻すための術として、想像の「君」を召喚していると考えるのかもしれません。
(「Horsexe: Essay on Transsexuality」、1989年, pdf)
(「Transgender Embodiment: A Lacanian Approach」、2018年)
ですが、歌詞の新解釈で読んだ通り、「君」とは想像界のベールを守るための静止した記号ではありません。「to trans」とある通り、それは動的な存在です。
確かにあり得た世界線(想像のコントロールが及ばない社会の設定)において、外の世界や他者に働きかけ、傷を具体的な「行動(アクション)」へと変換しながら、何とか生き延びようとしている主体だからです。
「僕」が移行を進めて、「君」が経験したであろう状況に近づくほど、「君」の行動や心の動きを辿る精度が上がっていきます。そうすると、望んだ性別で生まれたとてどのみち藻掻いていた「君」として生きることに、行動や反応の面で、漸近していきます。そして、同じように近い摩擦を経験していく(「君の分まで持つよ」)のです。
そこでの「君」は「可哀想な『僕』」を救ってくれる、いわゆるマニック・ピクシー・ドリームな癒しとしてのソックパペット(靴下人形、「お人形」)や現実逃避ではなく、むしろそうした自己憐憫を排して、どうしようもない環境で傷つきながらも生き抜こうとする一人の主体のエネルギーだと言えます。
(「The Manic Pixie Dream Girl in US YA Fiction: Introducing a Narrative Model」、2021年)
「僕」の身体の延長線上ではありますが、「君」として生きていくことに近づいているわけです。
「君」に対する理解の精度が、移行の過程で高まっていくのは、チャバックの「12のステップ」で言うところの、準備にあたる1から11ステップに相当するかもしれません。そして、最後の12ステップ目では、それら準備を手放すことを求めます。「今、その瞬間を生きる」ためには、観念や記号から出て、外部との相互作用に身を任せることが重要だと言うのです。
(Ivana Chubbuck’s 10 Performance Tips for Actors - Spotlight)
(「被害者」をやめる方法 痛みを力に変える12のステップ - じんぶん堂 powered by 好書好日、2026年)
(※「痛みを力に変える」と云うと些か自助・自己啓発的な響きがありますが、「サントーム」的な解釈をすると、そこだけに回収されない理解ができるかと思います。)
本文中の表現にあった「『君』の人生を『僕』に接ぎ木する」あるいは「『君』が『外の光』を浴びられるように先導する」の意味するところは、「僕」が「僕」の頭の中だけで、イメージ(想像界)を捏ねくり回していただけでは到達できなかった実地の感覚に、ついに足を踏み入れたということだと思います。
「ぶち当たった壁」に代表される社会や他者とのアクチュアルな関わりを通じて、「グジャグジャ」になった「gift」を交換し、「グジャグジャ」であること自体に意味を見出す。「君が喜んだ姿をイメージ」するだけでなく、同時に「僕」と「君」との間で、ひかり輝く「gift」の贈与も遂行されている。
本稿を貫く、社会との摩擦からの創発というテーマを一身に引き受けているのが、この「君」との動的な入り組みなのです。
このことは、同じくよく知られた演技論のマイズナーテクニックにおける、二項対立的な表現も可能かもしれません。そこでは、予定調和ではなく「真実に生きる (Living Truthfully)」ことを目的として、「示すこと (Indicating)」ではなく「行うことのリアリティ (the Reality of Doing)」を訓練されると言われます。
たとえば、相手の話を聴く場面があったとして、「示す」は 「私はあなたの話を真剣に聴いていますよ」と伝えるために、記号的に大袈裟に頷いたり目を見開いたりすること、「行う」は現実でそうするように、相手が次に何を言うのか、本当に好奇心を持って耳を傾けることだというように区別されます。
(About Meisner - Meisner International)
(Doing—Not Acting—Will Make You Great - Backstage、2018年)
このnoteの文中で、デトランスフォビアを防ぐためなどで、分かりやすい「トランスの物語」に自身を当てはめる重力があるという話が何度か出てきました。これは俗語的なニュアンスでの「演技」に該当しますが、「示す」か「行う」かでいうと、圧倒的に「示す」です。
これは、社会的必要性や切り抜けるための実用性から出ているものであり、演技の巧拙の文脈とは全く関係ないでしょう。
しかし、そうする必要がない「君」も、同様に「示す」ための掲示物に過ぎなかったのなら、「小文字の他者」だという謂れも理解できます。けれども「君」は、チャバックで見た通り「環境でリアルに闘い、生き抜こうとする主体」(ただ耐え忍ぶのではなく、欠如の周りを周回しながら生きるエネルギーを燃やす「欲動」)です。
さらに、マイズナー的に言うならば、「真実に生きることを、その場その場で行なっている」という存在です。「君」は、その存在を示すために他者や社会に対して分かりやすい記号を纏っていた防衛的なものから、その瞬間瞬間でのインタラクションによって「君」が顕現(真実の表出に素直)し、この世界に息吹が感じられるものへとなっていきます。
さらに、マイズナーで説明されるほかの二項対立も見ていきます。
「In Your Head vs. Focused on Your Partner」(頭の中 vs. 相手に集中する)では、意識を向ける対象について、「自分の頭の中」から出て("Get out of your head")、「パートナー」へ移すことを求められます。「頭の中に囚われている状態」とは、自分がどう見えているか不安になったり、次の台詞を考えていたりする、自意識過剰な(雑念のある)状態です。
(Intermediate Meisner - RADA)
当事者がマスキングを強迫的に反復する「多重化」は、これに近いために不安や疲労が生じやすいのかもしれないと考えられます。
そこで挫けてしまわずに、意識を外側(他者や社会)にも向けていくことで、「君」はイメージに安住するお人形であることなく、「to trans」における相互作用に開かれたもう一つの実存として活動していきます。
「Thinking vs. Impulsive Responding」(思考 vs. 衝動的な反応)は、反応の起点についての軸です。前者は「ここでこう動いた方が効果的だろう」という知的な計算や計画、後者は相手のトーンや表情を見た瞬間に、体や心が反射的に動いてしまう不確定な衝動を指します。マイズナーでは、計算された演技は観客を冷めさせ、衝動による反応だけが観客を惹きつけると考えられます。
(What is the difference between Method and Meisner? - The Impulse Company)
これを援用すると、「君」は、思考で拵えた幻想のキャラ化などではなくなります。むしろ、その瞬間瞬間の「外部からの刺激(摩擦)」に反応して、衝動(生の感覚)や心で生きているから「君」がいるんだという説明が補強されます。
準備可能な空想や設定に生きている(どうすれば周囲を納得させられるか計算する)か、社会との摩擦をライブ的に引き受け実践している(自分が自分として即興的に振る舞っている)かの対立軸と捉えてもいいかもしれません。
徐々に「君」と外に連れ立って、現実の社会に出て、他者と関わり、壁にぶち当たり、摩擦を起こす。
そうやって試行錯誤していくうちに、演技論でいうところの「頭で考えた設定(示すこと)」を抜け出し、その瞬間その瞬間の衝動で「リアルに生きている(行うことのリアリティ/真実に生きる)」状態になっていく。
歌詞解釈に出てきた「だからそばにいてよ」という想いは、「外部にアイデンティティを提示するため」でなく、「ifの痛みも引き受けて生きるため」の接続として申し出ています。
このように考えると、現実で「真実に生きる」とは、「僕」の世界線(と身体)で「君」の足跡を訪ねること。すると、「君」は水平に手を繋いだ戦友として、「シェルター」から顔を出し、「学部」で学び、僕と「贈与」しあえる。
なので、「『君』は想像界のガワに過ぎず、それを自己像のために提示しているのだ」という伝統的にはあり得る"診断"では、「その状況状況において「君」と繋がりながら真実に生きる」という、「僕」がどの世界線でも行ったであろう動的な営みを、自己満足や「印象操作」としてしか理解できないことになってしまいます。
これでは、理論の争い以前に、トランスに限らず一人一人が行っている、社会という舞台で「傷とともに舞う」ことを全く讃えられていないのではないでしょうか。
それならばこそ、「一番きれいな色」の綺麗さは、何かのインジケーター(社会から与えられる綺麗さの尺)が指し示してくれたこと (Indicating、「選ばれる者」) が根拠ではありません。「君とだから探せたよ 僕の方こそありがとう」と思える「果てしない旅路」を経て、心のなかで輝きを放っている (Doing、「やさしい名前」をつける) こと自体に由来しているのです。
現代演技論と「to trans」のリアリティが、「他者との深い関わり合い」や「今この瞬間(Kairos / カイロス)に留まること」で共鳴することは、評価できると思います。
それと同時に、度々指摘がなされるように、演劇等の現場がインクルーシブなものであるとは限らないことにも、注意が必要と思います。
指導の枠組みや理論をクィア・リーディングのために換骨奪胎したいのであれば、字数を割いても、その指導の功罪に触れるべきだと感じました。
実例が記されている論文があります。
ワークショップ内で、男女の受講生が、マイズナーの基礎として知られる「レペティション(反復)エクササイズ」を行っていました。この演習は、相手(の顔)を観察して得た衝動(インパルス)に素直に従うことを目的とします。
二人が沈黙や緊張の中で互いの出方を探り合っていた際、指導者(講師)がしびれを切らし、男性生徒に対して「彼女にキスしたければ、キスしなさい!」と指示しました。
著者らは、この指示が「自発的な衝動に従う」というマイズナーの建前の影で、社会的に刷り込まれた「男性がリードし、女性がそれを受け入れる」という異性愛規範的なジェンダー・ロール(役割)を強制的にあてはめてしまったと指摘します。
指導を口実とした、インティマシー・コーディネーション(同意)やバウンダリーについての重大な問題です。
(「‘Acting in the Real World’: Acting Methodologies, Power and Gender」、2018年)
(「Prioritizing Mental Health and Ethical Pedagogy in Higher Education Actor Training Programs」、2025年)
結果として、生徒それぞれの真の衝動や主体性は奪われ、周囲にいたクィアな受講生も、自分たちがこの規範的な枠組みから疎外されていることを痛感させられる結果となったと述懐されています。
その弁によれば、レペティション本来の魅力(ゴールを決めず、今この瞬間の関係性に集中すること)は、「クィア・テンポラリティ」的な性質を持っていることです。しかし、指導者が介入してヘテロ規範的なストーリー(例:ラブシーン的な展開)に無理やり着地させようとすることで、この豊かな時間が台無しになってしまいます。
(「If you want to kiss her, kiss her! Gender and queer time in modern Meisner training」、2020年)
こうした現場で発生する権力勾配(俳優側が心理的・身体的に無防備な状態(ヴァルネラビリティ)を要請される)ことを批判した、演劇研究家 ローズマリー・マレイグ(Rosemary Malague)氏の著書『An Actress Prepares: Women and “the Method”』では、以下のような問題提起が行われています。
(『An Actress Prepares: Women and “the Method"』、2013年, pdf)
・女性生徒が指導者の叱責によって涙を流すことが「才能の兆候」とみなされるなど、女性の感情の表出や脆弱さが家父長制的な枠組みの中で消費されている
・リアリズム演劇では、女性キャラクターはしばしば「男性主人公をサポートする存在」や「美的な装飾」、あるいは「被害者」として描かれるほか、メソッド演技の訓練では、俳優自身の肉体や経験を役に同化させることが求められるため、女性の生徒がステレオタイプ化された役柄(例:「服を脱いで泣く」ような役)を演じる際、自己の尊厳を保ちながら演じることができるのか、あるいはそのプロセス自体が女性を抑圧することになるのか
・「従来の基準に沿った美しさや細さ」を持っているかどうかで配役(タイプキャスト)が決定されがちである
マイズナーが強調する「本能」や「直感」についても、純粋なものではなく、社会的な学習やジェンダー規範によってあらかじめ条件づけられており、批判的な思考(知性に裏打ちされた主体性)を遮断して、丸腰の「本能」だけで反応しようとすると、結果として社会的に刷り込まれた受動的で従順な像を無意識に再現してしまうリスクが生じると批判しています。
同様に、「知性による防御」を禁じられている状況下では、弱い立場にある生徒は不快な状況や個人的な境界線を侵す言葉や観察に対しても、即座に感情を開放して反応することを求められ、教室内での心理的な負担や一種のハラスメントを容認・誘発する構造になり得ると指摘されています。
(「Acknowledging Trauma/Rethinking Affective Memory: Background, Method, and Challenge for Contemporary Actor Training」、2003年)
そのように防御を制限された権力勾配の下流で、俳優自身の過去のトラウマや強烈な感情体験を追体験する感情記憶(アフェクティブ・メモリー)を求められることは、心理的に脆弱な状態での孤立を招きかねません。
(エモーショナル・メモリー/フィジカル・メモリー - オーガニック・アートマイムJIDAI の「身体」「表現」考、2016年)
そうした指導の下に稽古を積むことは、デローリング(役を脱ぐ)が不十分(ロールコンフュージョン,役割混乱)になりかねず、外部のサポートの重要性が叫ばれつつあります。
補足7では、ラカンの「芸術家はつねに精神分析家に先行し、芸術家が道を開くところで精神分析家は心理学者を演じてはならない」やフロイトの「創作家は精神生活について、科学がまだ利用していない源泉から知を得ている」よろしく、表現や芸術から学ぶことを意識してきました。
(Hommage fait à Marguerite Duras, du ravissement de Lol V. Stein - No Subject、1966年、仏語)
(「Delusions and Dreams in Jensen’s Gradiva」, p. 8, 1906−1907年, pdf)
(Delusions and Dreams in Jensen’s Gradiva - Freud Museum London、1922年)
ラカンにおいて、文字の実践は無意識の働きと交わり、芸術作品には、対象を〈物〉の尊厳にまで高める昇華が関わるとされるからです。
(「Le Séminaire, livre VII: L’éthique de la psychanalyse」、1959-1960年, pdf)
ただし、今になってはもはや、この矢印は一方通行ではなく、演技論に精神医学を援用するアプローチが誕生しています。
2023年の論文、「Whatever It Takes」(手段を選ばず)では、題名の通り、演劇が内包する課題について、ドラマセラピー(演劇療法)の理論や技術(トラウマインフォームド・アプローチなど)をどのように応用できるかを模索しています。
ドラマセラピーでは、クライアントが感情に圧倒されないように「一歩引いた視点(思考と感情のバランス)」を保つ技術(美的距離)を用います。演技においては、個人的なトラウマに深く入り込みすぎるのを防ぎ、安全な距離を保ちながら表現を行うための安全弁です。(メソッドやテクニックが唱える二項対立を脱構築しているともいえます。)
論文では、役に入ることだけでなく、「役から安全に抜け出すこと」の重要性が強調されています。
具体的には、演技終了後に自分の身体を揺さぶって役を落とす「シェイク・イット・オフ (shake it off)」や、自分の普段の名前を声に出してキャラクターとの違いを認識する言語的デロールメント、呼吸と身体の動きを用いた「ステップアウト法」などが提案されています。
(「Whatever It Takes: A Literature Review Exploring the Psychological Cost of Actor Training and How Drama Therapy Can Help」、2023年, pdf)
(Flashdance スタッフインタビュー デローリングマネージャー - Seiren Musical Project、2024年)
こうした代替的・ケア的な実践は拡がりつつも、未だに主流である演劇界の旧来的慣行に対して、著者は舞台芸術家 ウタ・ハーゲンのアプローチに可能性を見出しています。
ハーゲンは、指導者が絶対的な権力を持ち、生徒の心理を操作するような指導スタイルを強く拒絶しました。
演技を「規律ある(再現可能な)具体的な技術(クラフト)」として扱い、生徒を自立した大人のプロフェッショナルとして尊重したことによって、適切なバウンダリーが生まれて搾取から身を守りやすくなった、と評価されています。
(What is the Uta Hagen Technique? - Acting Magazine、2025年)
(『Respect for Acting』、1973年)
また、転移・代入 (Transference) という自分自身の具体的な記憶や人間関係を役の状況に置き換える技術を引用し、これを活用することで、たとえ脚本が周縁化されたキャラクターを一面化して描いていたとしても、俳優自身の知性と人間性をもって、役に「多面性と尊厳」を吹き込むことが可能になると綴っています。
(『A Challenge for the Actor』- Google Books プレビュー、1991年)
最後に著者は、本noteの本文でも活躍した、スタニスラフスキー理論の根幹にある「マジック・イフ」を用いて、「もしも、俳優の訓練プロセスがジェンダーの抑圧やバイアスから完全に解放されたら、どのような表現や教育が可能になるだろうか」という問いを立て、現状維持に甘んじるのではなく、変革の可能性を模索するツールとしてこの概念を再定義しています。「知性」を捨てるのでもなく、単に演技の技術を学ぶだけでもなく、自分たちが置かれている表現の構造やバイアスを分析できる「理論的思考力」を同時に身につけることが不可欠であると主張しています。
著者は最後まで「メソッド演技やスタニスラフスキーの技術そのものを捨てるべきではない」という立場を貫きます。これらの技術は本来、俳優に自立した表現力を与える強力なシステムであり、適切に指導されれば俳優を抑圧するのではなく、むしろ自立させ、力を与えるもの(エンパワーメント)になり得るとして、家父長制的な歴史や慣習からメソッド演技の技術を「解きほぐし、奪還する」ことこそが、未来の俳優教育の課題であると結んでいます。
別の論文になりますが、近年の演劇界では「ジェンダー・インクルーシブ・キャスティング」(gender-inclusive casting) や「ジェンダー・コンシャス・キャスティング」(gender-conscious casting) と呼ばれる取り組みが見られます。
先に問題点が取り沙汰された「タイプキャスティング」は、ジェンダーや体型のみならず「人種」の観点でも火種となりますが、1950年代頃から一致を前提としないキャスティングが見られると記されているように、比較的前進してきたといえます。(ただしマジョリティ文化への同化や文化の"上下関係"(構造的人種差別)、バックラッシュは現在進行の課題です。さらに、身体障がいをもつ俳優が演技・発声・身体訓練から排除される過程(エイブリズム)、障害者役の類型化を指摘する論文があるなど、ジェンダーの"問題"だと固定化せず、多角的な(あるいは交差性を持ち得るという)視点が肝要です。
(「Pierre Bourdieu and actor training: Towards decolonising and decentering actor training pedagogies」、2022年)
(「The 19 Percent: Disability and Actor Training in Higher Education」、2013年))
(またエイブリズムは、発音アクセントの矯正にも潜んでいるかと思います。標準的なアクセントを持つ人はそのことが意識されずに役作りが可能な一方で、そうでない人は本人のバックグラウンドが望むと望まざるとによらず明らかになり、そのレンズを通して役の表現も見られかねません。"透明になれる" マジョリティとの構造的な差が浮き彫りになります。
(「De-Colonizing Listening: Toward an Equitable Approach to Speech Training for the Actor」『 Voice and Speech Review 13(3)』、2019年)
分かりやすい格差として、配信内で特定の方言を含めて話すキャラクターが、他の人のそれと被ることから「標準語」に矯正するよう要請されたと主張したとされる事例があります。実態はともかく、「共通語」やそれに近い地域語では被っていることは当然であり、このような指導は考えにくいものです。「標準語」を「上り」とし、そこから離れるにつれて「下り」として、後者を「矯正」の対象とする標準語イデオロギー(これも規範性(ノーマティヴィティ))が見受けられます。
(よくある質問 - 金魚坂めいろ 保管庫)
(資料2 リーク画像・公式による説明文 - 金魚坂めいろ 保管庫)
(#3235. 標準語イデオロギー,標準化イデオロギー - hellog~英語史ブログ、2018年))
「ノントラディショナル・キャスティング」の一例として、2014年に「人種」やジェンダー,外見を配役の基準としないキャスティングで実施された研究公演では、200名以上の観客を動員したとされます。その時のことをまとめた論文では、「観劇中にキャストの『タイプ』について全く気にならなかった」という観客のフィードバックから、外見やジェンダーの固定観念に頼らなくとも観客を惹きつける演劇表現が可能であることが実証されたとしています。
(一方で、脚本や演出の権利者と交渉が必要になった場合に難航するケース(「レプリカ版」などの同一性保持)があり、今もなお桎梏も残されていると説明されています。)
(「Once on This Island: An Exploration of Non-Traditional Casting」、2014年, pdf)
(SHOW ME THE MONEY - Anna Sahlstrom.com – Creating My Own Reality、2014年)
次は、ノルウェーの大学での探究的実践の成果を報告する論文からです。自分とは異なるジェンダーのために書かれた楽曲を歌う「ジェンダーベンド(配役・歌唱の転換)」を通じて、楽曲解釈の新たな可能性(現代では疑問視される伝統的な描かれ方を相対視する)が広がったとしています。
また、歌手の姿を見ずに歌声だけを聴き、ジェンダーを予想するタスクでは、多くの学生が予想を誤る結果となり、学生たちも視覚的バイアスに頼ってきたことが浮き彫りになりました。
こうした新しい認識の可能性を、教室のメンバーで開いた上で、あるFtM当事者の例が紹介されています。
以前は「女性的であること」を強要される高音域での歌唱にジェンダー・ディスフォリアを感じていましたが、そのプロジェクトを通じて、「高音(声変わり後の裏声)で歌うこと」を「芸術的な選択肢の一つ」として捉え直すことができ、以前避けていた女性キャラクターのナンバーにも自主的に取り組めるようになったとされています。
このように実践的なリサーチをしたこの論文の結論として、著者らは従来の「ジェンダーを固定化した歌唱指導」から、個人の内面に寄り添った「柔軟で多角的な指導」へと移行することの重要性を述べています。
(「Voice and Gender in Contemporary Musical Theater Education: An Exploratory Practice Study」、2025年)
さらに、現在の状況を不適切な指導からの転換期にあると位置づけて、伝統的な「師匠と見習い」の関係に基づく一方向的な指導法を問い直すため、以下の実践的項目を導入している論文があります。
位置性(Positionality)の問い直し:
「自身の背景(人種、階級、ジェンダーなど)が自らの知識や教育法にどのようなバイアスを与えているか」を指導者自身が認識する。
(ポジショナリティの相違を超えた共通の了解や協働はいかに可能なのか? - じんぶん堂 powered by 好書好日、2024年)
葛藤的合意(Conflictual Consensus):
教室内での単なる表面的な調和ではなく、違いや対立(dissent)を認め合いながら、平等や自由といった価値観において合意を形成していく。
脆弱性と取り組む(Rumbling with Vulnerability):
指導者が自身の「不完全さ」や「無知」を隠さず率直に示すことで、学生との間に誠実さと信頼に基づく対話を生み出す。
具体的な2つの事例も紹介されています。
俳優から指導者に転身したガレスさんは、実録演劇の演出を任された際、学生と面会する前に「人種・民族プロフィールのリスト」を渡され、それを基に配役を決めるよう求められ、強い精神的葛藤(人種的バイアスへの加担に対する懸念)を抱きます。
著者とのチュートリアルを経て、ガレスは稽古場で自身の「白人・労働者階級・ウェールズ出身」という位置性を率直に開示し、自身の戸惑いを学生に伝えました(脆弱性の開示)。
これにより、緊張が高まっていた稽古場に対話が生まれ、学生たち自身が人種やジェンダーの問題意識を持った(color and gender conscious)キャスティングを主体的に選択し、強固なアンサンブルが形成されました。
ついで、感情表現に優れる一方で、身体的な課題から舞台戦闘の試験に不合格となり、強い恥の意識と「自分は業界に向いていないのではないか」という不安を抱えていたペニさんの事例が書かれています。
著者はペニの日常の動作の観察から、DCD(発達性協調運動障害)の可能性を察知し、専門の支援機関へ繋ぎました。同時に、身体訓練として失敗することが前提となる「鈴木メソッド」を導入しました。
(鈴木メソッド - artscape、2024年)
その結果、 「決して完璧には成功しない訓練」をあえて行うことで、「失敗」の意味が、個人の尊厳を損なう「恥」から、学びのプロセスにおける「前向きなステップ」へと再定義され、自己の身体に対する信頼と強さを回復しました。
(「Vulnerability in a crisis: Pedagogy, critical reflection and positionality in actor training」、2020年, pdf)
指導者が新たに取り入れたこれらのステップは、note本文で提案された「メタ治療同盟」の心得を補ってくれます。伝統的に上位にあるとされる存在が相手と水平な位置に降りて、自身も率直な開示を行うことが、デタントされケア的な伴走を持続可能なものにすると言えます。
『GIFT』の「ケース」で言うところの「君」が手の届かない偶像から、「僕」と手を取り合う戦友の位置に降りてきて邂逅できたのも、広い意味で「メタ治療同盟」的な枠組みなのかもしれません。
さて、ここまで、女性俳優が歴史的な周縁化を稽古や役として再演させられることを権力行使やバイアスの点から問題視した論文や、クィア・テンポラリティが同意を形骸化する異性愛規範(「キスせよ」)によって唾棄されてしまった事例などを紹介してきました。こうした問題が一朝一夕で解決しないのは、「P.S.」で見てきた他の懸案と同じく、その根深さと相まって固定され、人口に膾炙した旧い認識(「ナラティブリアリズム」)によると言えるかもしれません。
そうした中でも、その糸口となり得るこうしたより良い未来への希求 (to trans) の流れがあるからこそ、本補足で各理論を説明に使うことができているのだと思いました。
理論には、解きほぐされ、エンパワーメントできるポテンシャルがあるからこそ、それを用いて「君」に血が通うリアルなサバイバルが可能となっているのだと考えます。
言ってしまえば、メソッド演技などをローカライズした「芝居の神さま」は、旧態依然の「ナラティブ型支配」です(神さまという比喩が導く権威性・普遍性(宗教観によりますが)によって疑うことを妨げている)。
ところが、毒を含むものがあっても、薬の部分だけ抜き出してパッチワークにする。知性を、外部からの侵入に対する防衛 (cut) や分析ひいては連帯に用いる。そうした営みは、マイノリティがぶち当たった壁で迷いながらも編み出してきた、切実なサバイバル術と呼応しているのではないでしょうか。
「P.S.」では、「お約束」と生身の摩擦について問題意識を持ってきましたが、演技論についての留意事項を考えていると、図らずもここに行き着きました。
『GIFT』を底本とした本文中の「ニューロクィアの架空ケーススタディ」では、カモフラージュや同化労働といった「示す演技」による摩耗(バーンアウト)が深刻でした。そこから社会規範との安全な距離を回復し、自己を変容させつつも核は守るためのアイデアや取り組みを、演劇におけるクィアな実践から参照することができました。
摩擦が外部からも分かりやすく表面化しやすい例は、恐らくこれら表現や接客業の分野なのかと思います。ですが、他の分野にも表面化しにくい(むしろ「語りからの疎外」で抑制されている)摩擦があることは、想像(や共苦)に難くありません。
閑話休題します。ここまで「君」が小文字の他者ではないと示すための遠征でした。
つまり、この「君」は象徴界(白黒の二元論)と例の「against」の関係にありながら、そこには決して収まりきれない「現実界の残余(=象徴化できない苦痛や違和感)」になります。
主体のもっとも内側にあるにもかかわらず、主体にとって最も異質でコントロール不可能なもの。これは「エクスティミテ(extimité:外密・外立)」と呼ばれます。最も内なる異物(エクスティミテ)であるからこそ、この内なる「君」は一種の「大文字の他者」として機能し、その痛みを引き受ける理論は十分に成立し得ると考えます。
【防衛から「享受(非全の享楽)」への転換】
ゲロヴィッチは初期〜中期ラカンの枠組みを用いて「他者の享楽」をパラノイア的な侵入(防衛すべきもの)として扱っています。快感原則の制御が効かないために、主体を引き裂くトラウマ的な過剰さ(死の欲動)という理解に近いと考えられます。
(「The Enigma of the "Death Drive"」『Death and Desire: Psychoanalytic Theory in Lacan's Return to Freud』、1991年, pdf)
これに対して、「僕」と「君」の物語では、後期ラカン(『アンコール』等)に見られる「非全 (pas-tout) の享楽 / もう一つの享楽」の文脈へと接続を試みています。
社会が強要する「白か黒で答えろ」というファルス的権力(偽の去勢)を拒絶し、そこからの「切断」を果たした領域で、「僕」と「君」は言葉(シニフィアン)を超えた「ラララ」という合唱(対象aと響き合う声)において響き合います。これは、ファルス関数に縛られない(非全の)主体がアクセスできる、言葉で分節化しきれない過剰な身体的・実存的な至福と苦痛(ラカンがルネサンス期のベルニーニ彫刻に見出した、「聖テレジアの法悦」のようなもの)としての「他者の(/ もう一つの)享楽」の定義に合致していると言えるでしょう。
(「Livre XX: Encore」、フランス語、1972-1973年)
16世紀スペインの神秘家であるアビラのテレサ(イエズスの聖テレジア、Teresa de Ávila)の著作『自叙伝』(別名『わが生命の書』、『生命の書』)には、このような著述があります。
さて、私は金の長い矢を手にした天使を見ました。その矢の先に少し火がついていたように思われます。彼は、時々それを私の心臓を通して臓腑にまで刺しこみました、そして矢をぬく時、いっしょに私の臓腑も持ち去ったかのようで、私を神の大いなる愛にすっかり燃え上らせて行きました。痛みは激しくて、先に申しましたあのうめき声を私に発しさせました。しかし、この苦しみのもたらす快さはあまりにも強度なので、霊魂は、もうこの苦しみが終わることも欲(のぞ)まなければ、神以下のもので満足することも欲しません。これは肉体的な苦しみではありません。霊的のものです。とはいえ、肉体もいくぶん、時には相当多くさえ、これにあずかります。これは神と霊魂との間のきわめて快い愛の交換で、私は、私の言葉に信をおかぬ人々に、このお恵みを味わわせてくださるよう、主の御憐れみに切願しております。
29-13
このお恵みが続いた幾日か、私はほとんど無我夢中のようになっていました。私は何も見ず、何も聞かず、ただ私の苦悩を味わっていたいと思いました。なぜなら、それは私にとって、この世のあらゆる光栄にまさる光栄でしたから。……
29-14
(聖テレジアのエクスタシー - 河原道三のホームページ)
ラカン理論において、享楽は「ファルス的享楽」(言葉で記述可能であり、象徴界の法に制限された、有限の享楽)と、それから溢れ出る「他者の享楽」(言葉では言い尽くせない、無限で、境界線を用いた全体化に抵抗する享楽)に大別されます。テレジアが「霊的であると同時に肉体もあずかる」と語る法外な感覚、言葉による分節化をすり抜ける激しい体験(苦痛と不可分な法悦)は、まさに象徴界(言語)の外部、あるいは現実界 (Réel) に触れる「他者の享楽」のあり方を的確に記述していると言えます。
2023年の論文では、この経験について、「『柔弱な女』の経験は、スュラン自身にとって、けっして自己と峻別される他者の経験ではなかった。それは彼自身の経験だった。神学的な学知よりも経験と愛による知に重きを置く女たちの語りは彼自身のことばにも浸潤している。」と説明されています。
伝統的に男性的・正統的とされる「学知・思弁的な学識」と対置され、低く見られていた「言葉にならない涙や感覚的味わいに満ちた『柔弱さ』」の発露だと考えられています。
17世紀フランスの神秘主義者 ジャン=ジョゼフ・スュランは当初、自身の身体的体験を、男性の神学者たちから軽蔑されていた「柔弱な女(femmelette)」の涙や感情と区別して自己弁護しようとします。しかし、論文著者が指摘するように、スュラン自身が「女性(他者)の言葉に浸潤され、自らもそれを生きて」いたというのです。
(ジャン=ジョゼフ・スュラン 一七世紀フランス神秘主義の光芒 - UTokyo BiblioPlaza)
(神秘主義研究の新地平 ――身体、女性、霊のことば――、2023年, pdf)
ララングについても、関連する記述が見つかります。
通常の知の基準ではたしかに『無能』のしるしであるほかないこの呻きは、しかし、それ自体が霊的な知を証する別様のことばである。『それは、深い孤独の中で/直接に悟った/平和と愛との/完璧な知であった/それはあまりにも密かなことだったから/私は口ごもるばかり/一切の知を超えて』
十字架のヨハネ『暗夜』
論文では、「霊のことばは『言葉に表せない呻き』として聞かれる。それは、分節化されず、必ずしも何事かを意味しないことばである。それゆえ、霊のことばは逆説的にも身体のことばである。」と説明され、意味の外側で機能する(語り得ぬ現実界の存在を示唆する)ことばのあることが、神秘主義的な体験として記されています。
しかし、時代が進むにつれて、近代的・合理的な自律的主体(「ファルス的秩序」を内面化した主体)は、自己の境界を安定させるために、その境界を脅かす非合理なもの(身体性、他者の享楽)を自己の外側に位置づけ、制御できないものを排除・他者化していくことが「悪魔祓い」として正当化されてきました。
倫理学者 キャロル・ギリガン氏が行ったコールバーグ批判もこの系譜に含めることができるかもしれません。道徳性発達理論が男性以外を排除した縦断研究から導かれたことに触れながら、理論が抽象的な原理と形式的な手続のみ(白か黒かのルール)を高い道徳が備える判断基準とし、そこに具体的な関係性やニーズを補って考える判断(ケアの倫理)を、発達上の不足(いわば "劣った道徳")と見做すことに異を唱えてきたことが知られています。
(ジャック・デリダのいうファロゴセントリズムの通り、近代の合理性は普遍を標榜しながら、こうした排除や序列化が半ば公然と行われてきたのだと思われます。
(※なお、デリダがニーチェの執筆を「女性の手」と評価したことなど、いくつかのメタファーに対して、読み違えと「女性」の簒奪があるという批判も存在します。
(「Nietzsche's Woman: The Poststructuralist Attempt To Do Away with Women」、1988年)))
(『In a Different Voice: Women’s Conceptions of Self and of Morality』、1977年, pdf)
(「モダニティとフェミニズム:ポストモダン・フェミニズムのジレンマ」、1996年, pdf)
念のためですが、後年のギリガンは、すべての女性がケアを重視するわけでも、ケアが女性だけに限られるわけでもないこと、ケアは自分自身と他者を気遣う「人間の能力」であることを明言しています。
(『The Ethic of Care』、2013年, pdf)
ギリガンが、臨床心理学者 ジェシカ・エディ(Jessica Eddy)氏らとともに開発した「リスニングガイド」という質的調査の手法では、一般的な「データをカテゴライズ(コーディング)する」手法とは異なり、語り手の言葉の裏にあるメッセージや葛藤の背景にある社会構造に、インタビュイーが謙虚に耳を澄ませること (Listening) が求められます。
具体的には以下のように、3つの聞き取りが提案されています。
プロット(筋書き)を聴く[Listening for the Plot]
目的: 全体的な風景(物語のプロット、主なテーマ、欠落している要素)を把握する。
注目点: 「感情のホットスポット(感情が高ぶる場面)」「象徴的な比喩」「語りの途切れや矛盾」。また、「研究者自身がその語りを聞いてどう感じたか(自己反省性)」も記録する。
第2の聴き取り:「私(I)」の声を聴く[Listening for the 'I' / I Poem]
目的: 話者の第一人称(「私」「I」)の発話を抽出し、連想の論理や無意識のパターンを可視化する。
手法: テキストから「I + 動詞」のフレーズのみを順番に抜き出し、「Iポエム(私ポエム)」を作成する。
第3の聴き取り:対位法的な声を聴く[Listening for Contrapuntal Voices]
目的: 心の中に共存する複数の声(ポリフォニー/多声性)とその響き合い(調和や不協和音)を聴き取る。
分析: 例えば怒りの声が前面に出ることで、傷つきやすい「脆い声」が消されてしまうプロセスなどを可視化します。
(「Listening as a path to psychological discovery: an introduction to the Listening Guide」、2018年)
改めて『GIFT』の思考実験でいえば、この3つはこのように対応できるかと思います。
まず、自分やその内側(ミクロ),周囲(メゾ),社会(マクロ)を繋ぐ、摩擦と心象風景のプロットがありました。さらに「他人だと"変"?」の章でも取り上げた、「自分の胸に聞くと / 「まだ 歩き続けたい」と返事が聞こえたよ」は、まさに掻き消されそうな一人称の声を聴き取った(ケアの)シーンです。「僕」と「君」は、社会によって(立場も)分断された複数の主体ですが、これがポリフォニーとしての性質を持ちます。
リスニングガイドの研究動向を調査した論文でも、「恐れる『私』の声」(不安や自分の弱さを抱える声)と「理想化された『あなた』の声」(自分ではなく「他者からの視点や期待」を説明する際に現れる声)というような多声性が報告されているとしています。
(「リスニングガイドを研究法として採用した臨床心理学研究の動向と課題」、2024年, pdf)
『GIFT』のシミュレーションでいうところの、不安を抱えながらも顔を出して外の光を浴びようとする「君」の声と、シスノーマティヴィティやニューロアーキーのなかで藻掻くように生きようとしてきた「僕」の声の葛藤は、語りの分かりやすさからは「グジャグジャ」に思えるかもしれません。ですがギリガンは、受動的にデータを見るのではなく、能動的に応答する関係性 (responsive relationship) の中でこそ真実(「一番きれいな色」)が発見されるとします。孤立(アトム化)した個人を前提とする自律の理解や、無味乾燥な普遍性を善としてきた「客観性」の概念が問い直されつつあるとされます。
(「Revisiting ‘In a Different Voice’」、2017年, pdf)
「なぜ家父長制は温存されるのか?」という疑問に答えるなかで、ギリガンは、ジェンダー二元論が少女の「知る力」と少年の「ケアする力」を妨げ、人間の能力を思考/感情、精神/身体、自己/関係の二項対立に分断すると述べています。そうした二元論と序列が、人間の関係能力,関係の破綻を修復する能力,不正に抵抗する能力を損なうと論じています。
(『Why Does Patriarchy Persist?』、2017年, pdf)
本note における他者の享楽や embodiment(身体化)の扱いは、こうした「法悦」やケア、相互性の側面が、排除されてきた歴史に抗って、それらの地位を回復・復権し、「僕」と「君」の物語として受け取ろうと試みているものだと言えます。
もちろん、この解釈はゲロヴィッチの理論を否定するものではありません。ゲロヴィッチ自身も著書『Please Select Your Gender』などにおいて、身体変容を単なる外科的処置ではなく、より広く「享楽を調整する行為」「身体を取り戻す(embodiment の)試み」「性差の記号化の失敗に対する主体ごとの解決(サントーム)」として読んでいます。移行とは享楽を調整し身体を回復する試みであり、トランス経験はシスジェンダーの経験と断絶したものではなく、誰にとっても身体経験と身体の輪郭にはズレ(乖離)があるという論旨で説明されています。
(Please Select Your Gender: From the Invention of Hysteria to the Democratizing of Transgenderism -Karnac Books、2010年)
本稿の「僕」と「君」の対話は、外部の圧力から身を守る「切断(防衛)」を経た後に、自らの内なる異質さ(エクスティミテ)を「享楽の調整(サントーム)」として抱きしめ直すという、クィア・ラカン的で創造的なプロセスの内景を描き出しているのだと言えます。
さて、本文で紹介したインタビューで、桜井さんが「そう。あの、ラララとか。みんなで歌う部分は、最後に付け足したのかな? それ以外はすんなりいきましたね。」と述べている箇所がありました。文字通り読めば、「ラララのところ」はすんなりと行かなかったということになります。
(Mr.Children、NHK 北京オリンピック放送テーマソング「GIFT」特集 INTERVIEW - BARKS、2008年)
パラノイア的なメタ読みをすると、「みんなで歌う」用にいい歌詞が思い浮かばなかったということですけれど、修復的に読むのであれば、言葉がすんなり行かなかった過程があるからこそ、意味に定義されない現実の響きが、ついに産声を上げたとも言えるのではないでしょうか。
それは、ラカンが晩年に「ララング (lalangue)」として言葉の響きそのものや、そこから感じられる質感を重視していたことを思い起こさせます。
ラカンの「ララング」とは、言語学者 フェルディナン・ド・ソシュールが構築した「秩序ある記号の体系(ラング)」の対極にあるものとされることもありますが、そうでなく、先行したソシュール自身が言語の限界や不可能性を見据えたその深淵において、すでに予感され、書き付けられていた「言語のもう一つの姿(現実界)」であるとする立場もあります。
(「ラングとララング -ソシュールとラカンにおける言語概念と記号の恣意性」、1999年, pdf)
「ぶち当たった壁(不可能性)」の前での "もがき" から生まれる「僕」と「君」の「ラララ」は、まさにララングではないでしょうか。Aメロで問われた「本当の自分」や「生まれた意味」の答えは、脱文脈な形而上の言葉で伝達可能なもの(エンコードできるメッセージ)ではないからこそ(だから歌詞がすんなり決まらなかった)、答えはそこから溢れ出た「ラララ」「(何色とはいえない)色」「gift」として表れたのだと思います。)
補足8: 「トランスセクシュアル」の異なる立場とEFs
(トランス当事者が、「投資消費化する言論空間」において、自身に否定的な言説よりは温情主義的な理解であっても、一応は肯定的な言説に投資する選択は、生存戦略として半ば自然なこととして説明しました。
ただし、「トランスジェンダー」からの切り離しを明言した上で、ジェンダー・クリティカル(ジェンダー懐疑派)的な立場を取る人もいます。
その代表例として知られる、イギリスの物理教師 デビー・ヘイトン(Debbie Hayton)氏は、ホルモン治療や手術は身体を変えたが性別そのものを変えたわけではなく、移行は心理的苦痛を軽減する一時的・緩和的な手段だった、と回想しています。
(Transition is not the Solution: a Personal Testimony - Debbie Hayton、2021年)
英国議会へ提出した意見書では、性自認は客観的に立証できる法的基準ではないこと、シスジェンダーと同一に扱えないことを述べています。その一方で、トランス当事者には差別からの保護が必要であること、性別規範に従わない服装や表現を法的に保護することを同時に提案しています。
(「Written evidence submitted by Dr Deborah Hayton」、2020年)
ヘイトンは、現在では初期研究の恣意性が明らかになりトランスジェンダーと区別されている、「オートガイネフィリア(自己女性化愛好症、AGP)」を自己説明に用いていますが、それに対して、ある書評はその一般化を懸念しています。
さらにその書評では、「男性は思考優先、女性は感情優先」といった、古いジェンダー・ステレオタイプに依存した記述や、ノンバイナリーなどの多様なアイデンティティをインターネットの流行として片付ける姿勢が批判されています。
加えて、ヘイトンは「理性や科学」を重視すると主張しながらも、自身に反対する活動家を「暴徒」や「アルファベット・マフィア」と呼び、自陣営を「理性的で平凡な人々」と位置づけることで、結果的に対立を煽っているとも指摘されています。
(Transsexual apostate by Debbie Hayton review: how not to have a helpful conversation about trans rights - London Evening Standard、2024年)
このような態度を「respectability politics(わきまえの政治)」と呼んだ記事では、その定義を「マジョリティの価値観やルールに従って『おとなしく・ちゃんとした』振る舞いをすることで、社会から受け入れてもらおうとする態度」として、その基準に合わせられない、あるいは合わせようとしない他の当事者(マイノリティ)の攻撃・排除に加担しているのではないかと疑問視しています。
(Gender Recognition or Reaction - Anticapitalist Resistance、2022年)
「わきまえ」の一例としてこんなことを思い出しました。MtFの保守系動画配信者 ブレア・ホワイト(Blaire White)氏 と、米国の政治活動家・元共和党上院候補 ローレン・ウィツキー(Lauren Witzke)氏 が同席した、2021年3月のオンライン討論です。ホワイトが、“I’m probably the most vocal anti-children transitioning person on the internet.”(「私はインターネット上でも、子どものトランジションに最も声高に反対している人間の一人だと思う」)と、自分が保守派と同じ側に立っている旨を述べたところ、ウィツキーが遮って、“The best thing you can do for us is grow out your moustache and tell people not to live like you.”(「私たちのためにあなたができる一番のことは、口ひげを伸ばして、人々にあなたのような生き方をするなと言うことだ」)と主張しました。
(Trans Republican hit with disgusting transphobia by fellow conservative in ‘painful’ exchange - PinkNews、2021年)
このことからも「弁えたら受け入れてもらえる」と期待することは、一縷の望みなことがわかります。その図式は必ずしも成立しないどころか、同化労働と同じく際限のない割譲となりかねません。
そもそものAGPの話に戻ります。設計者である性科学者 レイ・ブランチャード(Ray Blanchard)氏がトランス女性のAGP判定に用いた質問票を、出生時女性向けに改変した Autogynephilia Scale for Women (ASW) を作成し調査した、内科医 チャールズ・モーザー (Charles Moser)氏の研究結果を概観します。
回答が得られた29人中27人、約93%が、女性である自己の姿や身体に関係する性的興奮を少なくとも一項目で一度以上回答したとされます。より厳しい基準、項目について頻繁な興奮を回答した者は29人中8人と約28%に達しました。
例を挙げると、「他人が自分を特にセクシーで、魅力的で、たまらないと思っていると想像すること」には、全体の約86%の25人(たまに19人 + 頻繁に6人)が経験ありと、「ロマンチックな夜のため、あるいはセックスパートナーに会うことを期待して、ランジェリーやセクシーな服を着ること」には、全体の約76%にあたる22人(たまに14人 + 頻繁に8人)が経験ありと回答しました。
自分の身体のあることや、望んだように装えていることに肯定的な気持ちが湧く(気分が上がったり安心したりの)感覚であろうとも、ブランチャードの基準では、いずれもAGPと分類されるような行いです。
このことから、女性に傾向的に認められるとされる自己身体への性的感情と、トランス女性についてAGPと呼ばれてきた経験との境界が不明確であり、トランス女性の場合だけを特別な性的倒錯として分類できるのかという疑問が強まりました。
(「Autogynephilia in Women」、2009年)
補足1で名前が挙がったセラーノは、ブランチャードのAGP理論に代わるものとして、「身体化ファンタジー(Embodiment Fantasies: EFs)」モデルを提唱しています。その説明によれば、これはトランス女性に限らず、シスジェンダーの女性や男性、あるいはトランス男性(MEFs: 男性身体化ファンタジー)など、特定の属性に限らず広く共通して見られる自然な現象だとされます。
ここで性的ファンタジーが主な念頭にあるのは、多くの人が自分の身体や感覚を最も強くイメージする(身体化する)領域の一つであり、深い喜びと結びつきやすいとされるからです。
丁寧に言うならば、自らの(ジェンダー化された)身体を肯定的に感じ、その在り方にフィットしたいという、無意識の身体化欲求(ファンタジー)を、多くの人(マジョリティ側に近い人も)が大なり小なり持っているだろうという説明です。自分の身体に愛着を持ち、その性別として魅力的にありたいと願う(「いつもイメージ、今日もこれからもイメージしながら」)のは、ジェンダーを持つ主体として自然な欲求であることを訴えています。
「すべての人」という括りでは、アジェンダーや,ジェンダーアパセティック(自身のジェンダーアイデンティティがそこまで重要でないなど),クォイジェンダー(ジェンダーという概念にそこまで実感がわかないなど),クエスチョニング,ジェンダー・フルイド等、もしくはラベルがなくても、そうした欲求に関心や執着のない人の存在を不可視化しかねないため、一般化にあたっては留意が必要だと思います。
また、ジェンダーマイノリティにおける多様なロールモデルがまだまだ不足していることなども足踏みになっているかとは思いますが、ともかくEFsは、一部の属性に限った話でなく広く共有された感覚だという言明なのだと考えられます。
(Gender Apathetic - LGBTQIA+ Wiki)
(Quoigender - LGBTQIA+ Wiki)
(The Rise of Transgender and Gender Diverse Representation in the Media: Impacts on the Population、2019年)
EFsは特定の属性に対象が制限されないため、理論の射程を応用すれば、マジョリティの「修復的読解」に援用することもできると考えました。
シスヘテロ・定型的な恋愛や性関係ならびにジェンダー表現は、「チャームド・サークル」内で大きな居場所がある一方で、社会学などからは「ロマンティックなステレオタイプを『嘘くさい』『健康的でない』と批判・忌避する文化的資本を持った人であっても、本人の恋愛体験に目を向けると、驚くほどロマンティックなスクリプトに沿った行動をとっている」というような冷めた言行不一致の指摘に遭うこともあります。
(Consuming the Romantic Utopia: Love and the Cultural Contradictions of Capitalism、1998年)
ところが、この拡張したEFsなどを通すと、その「矛盾」に異なる見方が成り立ちます。
デート代,ファッション,プレゼント,駆け引き,結婚式……、それらは単なる交際費や被服費ではなく、「私が望む 女性/男性 としてこの世界に存在してよいという証明書」を発行してもらうための「ジェンダーアファーメーションの維持費」であり、相手は自分のアイデンティティを映し出してくれる「鏡」でもあると捉え直すこともできるのです。
(「Clothing and Self Concept in Cisgender and Transgender Individuals」、2022年, pdf)
恋愛的パートナーがいるノンバイナリーについての調査では、パートナーからの日常的な肯定(マイクロアファメーション)や、能動的な学習・擁護は、社会的な否定(偏見・差別,マイクロアグレッションなど)に曝されやすいノンバイナリー当事者にとって、自己の存在価値や関係性への安心感(「自分は愛されるに値する人間だ」という実感など)を補強する防御壁・安全基地となって機能していることが示されました。
(「Romantic Partners’ Affirmations of Nonbinary Trans Individuals」、2018年)
「自分の身体とジェンダー像を近接させ、他者からそのように扱われたい」という欲求は、このようにシスにもクィアにも、傾向としては広範に認められる根源的なものであり、そこに払われるコストは、非合理的と切って捨てることはできない実存的な営みとも言えるように思います。
マジョリティ的な恋愛と広義の性別移行は、一見すると別々の事柄です。たしかに「チャームド・サークル」の内と外にあることからも同列には語ることはできません。けれどそれは、社会構造や「ナラティブリアリズム」の壁に隔てられた人工的な後景のせいであって、本当は両者は通底する欲求を抱きしめて もがいているところで合致すると思えたとき、立場を超えた共苦的な双方向性(紐帯)を模索するきっかけになるかと思います。
論文の説明に戻ると、シスジェンダーの人も自分の性別で性的なことにエンゲージメントするファンタジーを抱くことが、社会通念上 自然とされるのと同じように、トランスジェンダーの人も「無意識の性」の立場から性的なファンタジーを抱くことはその一環だと言われます。
性別移行前、あるいは移行の初期段階にあるトランスにとって、自身の望む身体を想像することは、性別違和からくる精神的苦痛(補足6で考えた嘆けない「喪」)を和らげるための対処メカニズムや、自己のジェンダーの在り方を安全なサンドボックスで探求する手段(外部での安全な探索をするにはシスと比べると制約を伴いやすい)(いわゆる"女装"段階など)として機能します。そのうちAGP的な文脈で語られるものは、その過程でのカタルシスが切り取られたものだという主張です。
(※ サンドボックスは、必ずしも一人きりの空間を指すわけではなく、補足7で心理療法と演技論の交流を見たように、複数人の(時に非GI当事者を交えた)セキュアなセッションで試されることがあります。ナラティブ・セラピーやダンスセラピーが、当事者のジェンダーの探求や再構成に寄与した事例が報告されています。そこでは、すべてをジェンダー化された問題に帰する「悪魔物語」から離れた包括的な統合も見られ、全般的には漸次的なウェルビーイングの向上が認められると記されています。
(「Embodying Identity: A Qualitative Case Study of Dance/Movement Therapy for People Transitioning Genders」、2010年, pdf)
(「Under the Skin: Barriers and Opportunities for Dance Movement Therapy & Art Psychotherapy with LGBT+ Clients」、2019年, pdf)
(「An Instrumental Case Study on the Relationship of a Transgender Male in Recovery from Psychosis Working with a Cisgender Therapist: A Cross-Cultural Perspective」、2018年, pdf)
小児科医 ドナルド・ウィニコットは、大人であっても、外の世界(義務や現実)と内の世界(本能や幻想)に挟まれた「創造的に生き、文化を楽しむための中間領域」に、精神的健康の核心があると見出し、可能性空間(潜在空間)と名付けました。ここまで演技論的な説明を通じた他者や環境との相互作用や、探求としてのサンドボックスなどを考えてきましたが、それらはこの空間での煌めきなのかもしれません。
ウィニコットは、可能性空間がないケースでは、大人の生活は「社会のルールや外的な現実に機械的に適応するだけ(行動主義的生き方)」か、「自分の殻に閉じこもる(内的な妄想・引きこもり)」の二極化に陥ってしまうと論じました。それを回避するべく、可能性空間を広げて「外側の世界」と「内側の自分」を調和させ、「生きている実感 (enjoyment of living)」を得る方法を模索しました。その結果、以下の3つが重要視されます。
・「信頼できる他者」との関係(失敗に怯えない安全な人間関係)を築く
・「役に立たないこと(生産性に捕らわれない遊び)」を自分に許す
・芸術や文化(作品)を感情が揺さぶられ耕される「安全なクッション」にする
クィア・リーディングという試みが、単なる知的遊戯でないのは、この3つ目とも関わり合うからかもしれません。マイノリティが、自分のための移行対象(乳幼児にとってのブランケットなど)を、マジョリティ向けに用意された "ブランケット" を改造することで手編みしているとも言えます。
(「The Location of Cultural Experience」「The Place Where We Live」『Playing and Reality』、1971年, pdf)
(※ 潜在空間は Potential Space の訳で、Latent Spaceの方とは異なります。もしその比喩で言うならば、ガチガチのアラインメント税を調整したり、GRPOによるエントロピーの過度な低下を防止するために新たなデータを取り入れたり合成データを生み出したり (Self-Play) するのに相当するのかもしれません。
(「Training Language Models to Follow Instructions with Human Feedback」、2022年, pdf)
(「Understanding the Effects of RLHF on LLM Generalisation and Diversity」、2024年)
(「DAPO: An Open-Source LLM Reinforcement Learning System at Scale」、2025年)
(「Beyond Pass@1: Self-Play with Variational Problem Synthesis Sustains RLVR」、2026年)
(「DeepSeek-R1: Incentivizing Reasoning Capability in LLMs via Reinforcement Learning」、2025年))
なお、ウィニコットの母親像には、いくつかの批判があります。母性と自己犠牲を女性の自然な能力として扱っていること。母親が一人の主体というより、乳児を支える環境や機能として描かれること。男性的要素を「すること doing」、女性的要素を「あること being」と対応させたこと。母と子の関係が先にあり、父の役割は母のために環境を処理することと、「母・子・父」の図式に限定して固定化したことなどです。(ウィニコットに限った話ではないですが……)
(「Rereading Winnicott’s ‘Primary Maternal Preoccupation’」、2012年)
(「Winnicott, Participation and Gender」、2004年))
ジェンダーの探究は、トランスに限らず、より一般化された経験として話すことができると考えられます。望むジェンダーや身体の在り様に近づけている (Embodiment) ことや、信頼関係のなかで肯定されることは、それなりに多くの人にとってユーフォリアをもたらし得るものです。
これまでAGP理論では、移行が進むとAGPによる興奮が減少する現象をうまく説明できませんでした。しかし、セラーノのモデルでは、移行によって法悦からの「日常化(脱神秘化)」が起きるため(本文風に言えば、垂直の偶像から水平の戦友になるというのが近いでしょうか)、それを特別なファンタジーとして捉える必要がなくなり、結果として興奮やファンタジーの頻度が自然に減少すると説明されます。
その上で、AGP理論は、「男性は能動的な性的主体であり、女性は受動的な性的客体である」という、いわゆる「男性の眼差し (Male Gaze) 」に基づいており、「女性らしさ=男性を好むこと」「男性らしさ=女性を好むこと」という異性愛規範的かつ本質主義的な前提に依存しており、これに当てはまらない多様なセクシュアリティや、女性的な立ち位置における自分のための主体性を「異常」として排除しようとしていると分析されています。(その結果、ブランチャードの分類ではAGP以外を「同性愛型トランスセクシャル」とカテゴライズしたり、アセクシュアルの当事者をAGPに分類したりと混乱が見られます。)
(「Autogynephilia: A scientific review, feminist analysis, and alternative ‘embodiment fantasies’ model」、2020年))
補足終わり。
▼調査はこちらから▼
ココまでありがとうございます
noteの本論中で、ラカンがクィア理論やフェミニズムから、(家父長制的なミソジニーや病理化、異性愛中心主義的な側面などを)批判されてきたことに触れましたが、バトラーもその批判的引用を行い、議論を分岐・発展させてきた一人であり、プレシアドも精神分析は「マイノリティを異常者として扱った歴史や植民地主義に基づく性の科学」を自己批判できるかと問うてきた人物です。
(Psychoanalytic Feminism - Stanford Encyclopedia of Philosophy)
(あなたがたに話す私はモンスター - 一般社団法人法政大学出版局)
(※ このモンスターについて、プレシアドは、トランスを精神疾患や性別違和として診断してきた精神分析家の集会へ、その診断対象とされた側から報告するという意味だと考えられます。観察され,分類され,診断されてきた対象が、知識を生産する話者へ転じた姿です。後のインタビューでは、怪物を「対抗する専門的発言者」として用いたと説明しています。
(PAUL B. PRECIADO - Mouvement.net、2026年)
歴史学者 スーザン・ストライカー(Susan Stryker)氏は、1990年代、自らに向けられてきた「怪物」「不自然な存在」という呼称を捉え直し、既成の「自然な身体」や「正当な人間」という観念を問い返す力として再領有しました。
「自然な身体」と「人工的な身体」の序列への反論を行い、トランスの身体だけが医学や言語や社会制度によって作られているのではなく、シスジェンダーの身体や人格もまた、命名,規範,医療,教育などを通じて成立していると論じます。
さらに、ジェンダー規範に適合しなければ、社会的に生存可能な主体として認められないという状況から生じる怒りを、新しい自己のあり方と政治的行動を成立させる力へ転じようと主張しています。
(「My Words to Victor Frankenstein Above the Village of Chamounix: Performing Transgender Rage」、1994年, pdf))
サイボーグ・フェミニズムでも知られる学者 ダナ・ハラウェイ氏は、モンスター (monster)という言葉が、「示す/証明する (demonstrate/signify)」と同じ語源(ラテン語の monstrare)を持つことに着目しました。モンスターとは、既存の秩序や分類の限界を「示し」、異議を唱える記号的な存在であり、そうしたはみ出し者やハイブリッドな存在が、支配的なシステム(人間中心主義や自然の資源化)を攪乱し、人間と非人間が新たにつながり直す「再生 (Regeneration)」の政治をもたらす展望にまでリンクさせています。
(「The Promises of Monsters: A Regenerative Politics for Inappropriate/d Others」、1992年, pdf)
こうして振り返ると、この度のリーディング、規範に抗ってきた多くの声があるから、その声を借りて私も書けているのだと思いました。
本稿のアイデアや視座に関しても、@ralrel の協力を受けています。
謙虚な気持ちになると同時に、世の中は捨てたものじゃないとも思える熱い気持ちも湧き上がってくるのを感じます。
そんな気持ちも乗った追伸があるからこそ、『GIFT』の新解釈を、有り体の自己啓発で終わらせないための熱量が注がれたように思います。
ココまでお付き合いくださり、ほんっとにありがとうございます🥹 ステキなことが訪れますように🫶

