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【連載】C-POPの歴史 第25回 マレーシアとシンガポールのC-POP・中編 (2000年代編)

中国、香港、台湾などで主に制作される中国語(広東語等含む)のポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、その歴史を、1920年代から最新の音楽まで100年の歴史を時代別に紹介する当連載。

前回は、国民の4分の1が中華系であるマレーシアと、4分の3が中華系であるシンガポールの20世紀のC-POPを紹介しました。1967年から2000年までのなかから、厳選した曲を紹介してますので、よければ音楽だけでも聴いてみてください。

さて今回は、前回に引き続き、2000年以降のマレーシア、シンガポールのC-POPがどのように進化していったのかを紹介したいと思います。今回は前・中・後編の中編ということで、2000〜2009年、C-POP的にはゴールデンエイジと目されるビッグアーティストを多数輩出した10年間のなかから素敵なアーティストを厳選して紹介します。


「無印良品」と、マレーシアアーティストの台湾定着

前回紹介した通り、特にマレーシアとシンガポールにおいて、シンガポールのMavis Hee(メイヴィス)の果たした役割が大きく、彼女の登場を境目に、シンガポール、マレーシア出身のアーティストが続々とC-POPの中心地である台湾に進出し始めました。

最初期のアーティストは無印良品です。マレーシア、イポー出身のシンガーソングライター、光良(Michael Wong)は、大きな夢を持ってクアラルンプールに上京します。そこで出会った品冠(Victor Wong)とコンビを組んで、1995年に無印良品(某メーカーと同じ名前ですが、光「良」と「品」冠という個人名に由来します)というユニットを組み、1996年には台湾進出します。彼らを台湾でデビューさせようとしたのが、メイヴィスを台湾に呼び寄せようとしたのと同じ、C-POP業界の大物、ジョナサン・リーでした。

掌心/無印良品(1995年(マレーシア発売)、1996年(台湾発売))

当時の台湾のMV(ミュジックビデオ)って、アーティストが俳優さながらに迫真の演技するケースが多いのですが、無印良品の2人もしっかりとそのマナーに乗っ取って演技をしています。

前回紹介したメイヴィスが、ジョナサン・リーのラブコールに対してシンガポールでの活動を続けたいという理由で固辞したのに対し、彼らにはそういうこだわりはなく、台湾で売れてやろうという気概に満ち溢れています。ジョナサンからすると無印良品は、売りやすい「良品」だったことでしょう。

やがてこの2人はユニットの解散を決意しますが、お互いのソロ活動でも成功を収めます。こうしてこの2人は、マレーシア出身で台湾で成功したごく最初期のアーティストとなりました。

疼你的責任/品冠(Victor Wong)(2001年)

良品の「品」、ヴィクター・ウォンはその優男のキャラを活かし、温かみのあるラブソングを歌う王道歌手。これは彼のソロデビューアルバムのなかからの一曲。すっかり台湾に馴染んでこのあと10枚ものソロアルバムを発表し、息の長い活動を行います。

相方の「良」、マイケル・ウォンも同じように優男ラブソング男としてデビューしました。

童話/光良(Michael Wong)(2005年)

彼の曲の中でも「童話」はとびきり有名な曲で、中華圏に赴任した日本人男性が、中国語を覚えて最初に披露するカラオケ(KTV)の定番曲です。サザンオールスターズのTSUNAMIみたいな曲ですね。

光良と品冠のソロデビューはちょうど世紀が切り替わる2001年。彼らは、シンガポール、マレーシア出身のアーティストがC-POPの中枢である台湾に進出するケースの口火を切りました。

さて、彼らのソロデビューの少し前、やはりマレーシア出身でソロデビューを果たした女性シンガーがいます。彼女の名前はフィッシュ・リョン(梁靜茹)、彼女の活躍はすでに19回で紹介しました。彼女を台湾に呼び寄せたのは、やはりジョナサン・リーでした。こうしてみるとジョナサンは、C-POP拡張期のキーパーソンで、C-POPを台湾・香港・中国にとどめず、マレーシアやシンガポールに広げようとしたことが明白です。

這一天(我們都健康年輕)/梁静茹(Fish Leong)(2001年)

フィッシュ・リョンは第19回で紹介した「勇気」が最も有名な曲ですが、同じ曲を紹介してもしょうがないので、違う曲を紹介しました。

彼女は他にも「暖暖」とか有名な曲が多く、この曲は彼女の初期のキャリアのなかではあまり目立った曲ではありません。だけどこの曲は彼女がはじめて自ら作曲に参加した曲だから選んでみました。なかなかいい曲じゃないですか。でも、これ以降、自作曲はほとんど作ってないんですよね。こんなにいい曲が作れるなら、彼女自身の作詞・作曲の曲、もっと聴きたかった気がします。

彼女はここまで紹介したシンガポール、マレーシア出身のアーティストのなかでも、最も台湾で成功したアーティストの1人です。レコードの総売り上げは2000万枚超。ラブソングの女王という異名もあったりします。

你要的愛/戴佩妮(Penny Tai)(2001年)

今回紹介しているアーティストはトップアーティストばかりですが、そんなトップアーティストに劣らない魅力を放っているのが戴佩妮(ペニー・ダイ)だと思います。シンガーソングライターとして全曲の作詞・作曲を手がけるアーティストにして、その表現力は素晴らしく、クオリティだけならひょっとすると誰よりもいいかもしれません。

C-POP界で最も権威のある金曲獎(Golden Melody Awards)でも常連で、最も多くの賞を受賞した女性歌手という称号があります。C-POPには多数のバラードがありますが、彼女のバラードは他とは少し違う魅力があります。この曲は2000年代台湾、華流を代表するテレビドラマ、『流星花園』の挿入歌でもあります。日本のドラマでもそうなんですけど、タイアップが決まってる主題歌より作品を盛り上げる役割を持った挿入歌の方が良いというケースが多々ありまして、この曲も素晴らしい挿入歌だと思います。

ペニー・ダイはその後、佛跳牆(Buddha Jump)というバンドを組んだりして、自らの音楽道を突き進んでいます。

シンガポールのJJ Lin(林俊傑)がC-POP市場を席巻する

さて、マレーシアがフィッシュに良品なら、シンガポールは何はなくてもJJでしょう。当連載では22回に登場したJJは、シンガポール出身のシンガーソングライター。彼もまた、台湾・そして中華圏全域で大成功した数少ないシンガポール出身のミュージシャンです。

JJ Linは「行走的CD(歩くCD)」などという異名で呼ばれ、つまりはヒットソングの申し子のような存在です。そんな彼は2003年にデビューし、親しみやすい彼の曲は瞬く間に中華圏全域でヒットします。

豆漿油條/JJ Lin(林俊傑)(2004年)

JJ Linも、かつて紹介した「江南」が代表曲ですが、同じ曲を紹介してもしかたないので、ちょっと面白い曲を選んでみました。

豆漿油條は、英題はPerfect Matchというタイトルで、和訳するなら「ごはんとみそ汁」、「柿の種とピーナッツ」、つまりは最強の組み合わせってところでしょうか。豆漿は「無調整豆乳」で、味付けなしのもののほかに、甘いものやしょっぱいものもあります。一方、油條は中華風揚げパンで、揚麩や揚げパンに似たメニューです(Wikipedia)。この二つは中華圏における朝ごはんの定番メニューで、そのぐらい相性ぴったりな2人だねって話。どうやら色白な彼女が豆漿、おどけた自分が油條だそうです。なんかファニー(笑)。

中華圏の人にとってこの二つは長らく理想の組み合わせであり、この曲はそんな身近な食文化を題材にした爽やかなラブソング。MVの、今よりかなり若いJJにも注目。

台湾のソウルフード、豆漿と油條(AI制作イラスト)

JJは1981年生まれで23歳の時にデビューし、一気にC-POP界の大スターに上り詰めました。現在45歳というのは、昔から売れているからか思ったより若いなという印象です。ちなみに今回の記事の表紙のイラストはAI制作のJJ。少し美化されすぎてる気もしますが、当たらずとも遠からず。

超快感/孫燕姿(Stefanie Sun)(2000年)

この時期のシンガポール出身男性アーティストがJJなら、女性は孫燕姿(ステファニー・スン)ではないでしょうか。シンガポールで学生バンドのヴォーカルをしていたスンは、そのまま地元シンガポールの音楽学校に進学します。そんな彼女は、たまたま仕事でシンガポールに来ていたワーナーミュージック台湾の会長の目に止まり、台湾デビューが決定しました。シンデレラガールだったんですね。

スンはヴィジュアルのイメージや普段の振る舞いから、明るく元気な曲が似合うように思いますが、当時の売れ線はスローバラードだったため、初期は特にバラードの曲をたくさん発表しています。そんな中デビューアルバムの一曲目に配されたこの曲は、日本車のスバル・インプレッサという車のCMのために作られた爽やかな曲で、彼女の明るいパーソナリティを十分に活かした楽曲だと思います。元気な彼女とドライブに行きたいな!

沙灘/蔡健雅(Tanya Chua)(2003年)

蔡健雅(タニア・チュア)についても第19回でじっくり紹介したのでさらっと紹介しますが、シンガポール出身で地元でデビューし、英語のアルバム、中国語のアルバムと交互に発売していましたが、やがてその活動が台湾音楽界の目に触れ台湾進出。当時の女性歌手では珍しく、自作自演歌手、つまりシンガーソングライターでした。この曲は、第10回で台湾音楽のクオリティを上げたアーティストとして紹介したデイヴィッド・タオの同名曲のカバーです。

タニア・チュアに象徴的ですが、マレーシア、シンガポールのアーティストは自分で作詞作曲ができるプロ志向の人が多いように思います。マレーシアやシンガポールは比較的音楽教育がしっかり存在し、アーティストだけではなく作曲家や編曲家なども多く台湾に進出しています。有名な裏方ではMac Chew(マレーシア)、Terence Teo(シンガポール)など。マレーシアやシンガポールは、アーティストという意味でも、作曲家など制作人という意味でも、C-POP界にとってなくてはならない人材排出国となっています。

ここで紹介した彼ら、彼女らは、台湾のジョリン・ツァイ、五月天、ジェイ・チョウのような台湾C-POP黄金世代と同世代にあたり、時代のラッキーにも助けられ、多くのアーティストが現在までトップスターの地位にとどまっていいます。

では、マレーシアとシンガポールには独自市場はなかったの?

さて、どんな物事にも大きな物語と、小さな物語があります。大きな物語としては、「2000年代前後にマレーシア、シンガポールのアーティストたちはこぞって台湾に進出した」ですが、小さな物語として、地元に残ったアーティストにもいいアーティストは存在しました。例えばマレーシアのミクスチャーバンド、ManHanD(慢行)がそれに当たります。

準時收聽/ManHanD(慢行)(2007年)

ManHanD(慢行)は、バンド=ロックという印象からはほど遠く、Hip Hop、R&B、C-POP、広東ポップなどさまざまな要素を飲み込んだ意欲的なバンドと言えるでしょう。慢行=減速(中国語圏の道路標識でよく見る)という名前から類推されるように、大人な楽曲を発表しています。

彼らは現在も活動を続けています(Instagram)が、活動歴がまとまった、いわゆるオフィシャルのバイオグラフィなどが存在しません。唯一活動歴がまとまっているのがWikipediaに比べるとやや信用度の落ちる百度百科なのですが、これによると彼らは広東語を駆使し、6人のメンバー(女性ヴォーカル、男性ヴォーカル兼ギター、DJ&スクラッチ、3MC)がいるそうです。しかし最近の写真によるとメンバーは4人になったり5人になったりしています。活動の履歴や現状について詳しい事情を知る方は連絡ください。

慢游世界/ManHanD(慢行)(2009年)

香港というのは、中華圏3地域(香港、台湾、中国本土)のなかで最も大人な音楽が生まれている地域だと私は評価していますが、それは広東語の持つ響きに影響しているのかもしれません。このバンドの大きな魅力の一つに、広東語のヴォーカルとラップが挙げられ、それが、「慢行」(ゆっくり)というイメージにハマっています。

彼らがクアラルンプールを中心に活動していることは確認できますが、百度百科のページがあるということは中国本土でも人気があるのかもしれません。ちなみに彼らが所属しているレコード会社(レーベル)はSuper Red Recordsという会社のようで、オフィシャルサイトを見ると他にもC-POPアーティストが所属しているようです。この時代のマレーシアにもオリジナルのC-POPアーティストがたくさんいることを証明してくれていますね。

その後のマレーシアとシンガポールの微妙な差

さて、マレーシアはManHanD(慢行)のように地元に足を据えて中国語で音楽活動をする人が、絶対数は少ないながらも以降に引き継がれていったようです。人口の4分の1しか中国系がいないにも関わらず、人数こそ他国と比べると少ないもののしっかりと後の世代に引き継がれていきました。

一方、シンガポールはタニア・チュアの世代以降、By2などのデビューもありましたが、全体としては少し勢いが落ち着いた印象です。英語で歌うアーティストが増え、C-POPアーティストは相対的に減りました。

この違いは、2カ国の公用語と、それぞれの言語教育や生活様式の違いもあるように思います。シンガポールは英語・中国語(マンダリン)・マレー語・タミル語の4ヶ国語を公用語としつつも、人々は英語で日常生活を送る人が圧倒的に多く、中国語教育は行うもののそれぞれの方言の存在については無視されマンダリンが教えられたため、マンダリンを覚えても家で福建語を話すおじいちゃんとは通じ合えない、などのトラブルが起き、結果として使い勝手の良い英語がより使われるようになりました。

一方、マレーシアの公用語はマレー語だけで中国語は準公用語扱いですが、政府や市民社会がマレー語への統一を徹底せず、中国語が逆に生き残った印象です。中華系マレー人からすると、地元のマレー語で歌を歌うより中国語で歌ったほうが世界中に(少なくても他の中華圏に)広がるメリットがあることもあり、以降も絶対数としては少なくてもアーティストは生まれ続けました。

まとめ

今回はマレーシア、シンガポールの2000年代のアーティスト、曲を紹介しましたが、最後のManHanD(慢行)がなければ本当に台湾の記事のようですよね。マレーシアやシンガポールは、台湾とは切っても切れない国です。

2000年代はなんというか、今からみると牧歌的な時代でカラオケ全盛期としてカラオケ映えする曲が多いですが、2010年代に入ると一気にインターネットの洗礼を受けた世代が台頭します。その台風の目は、マレーシア生まれのある個性的な人物でした。一方、しばらく劣勢だったシンガポールでは、直近の2020年代にC-POPの巻き返しが起きます。その中心にいたのは、コワモテなラッパーでした。

そのあたりは、次回、全中後編の後編で一気に紹介しましょう。次回もお楽しみに!


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