【連載】C-POPの歴史 第8回 80年代中国本土の音楽、あるいは中国本土最初のロッカー、崔健について
さて、C-POPの歴史と題して、第6回は香港、第7回は台湾の80年代の重要なトピックを、楽曲とともにざっくり振り返りました。
香港、台湾とくれば残りは中国本土ですよね。(中華人民共和国。以下中国本土と呼ばせていただきます)80年代の中国本土のポップスはどうだったのでしょうか。
中国本土のポップス、日の出前夜
80年代の中国本土のポップスは、30年とも40年とも言われる眠りから覚め、ようやく歩みを始めたところといったところです。この当時の代表的な歌手に李谷一がいます。代表曲を紹介します。
乡恋(Love for the hometown)/李谷一(1980年)
香港、台湾のヒット曲に比べて非常に遅くてもったりした曲ですが、これが80年代中国本土最大のヒット曲の一つです。中国人の心の奥底に流れている雄大なメロディを感じさせてくれます。中国本土において重要なのは、それまでポップスが禁止されていた時代もあったなかで、このようなポップスがつくられるようになったことです。当然ポップスに飢えていた国民はこの曲に飛びつきました。しかしながら、この曲を歌った李谷一は、政府から名指しで批判され、この曲をステージで歌うのを禁止されました。いやー、中国本土、厳しい。。
思えば李谷一は、1970年代にもオペラ歌手だった際に、文化大革命の影響で『修正主義者』と批判され、農村に労働者として送り込まれてしまいました。才能のある歌手なのに。
本当に苦労人で、壮絶な人生ではあったと思いますが、1983年に時の大臣が突然ステージでこの曲を歌い出し、それが衝撃だったようで、以降は歌唱禁止命令が解かれます。今となっては中国本土の歌謡シーンの伝説的な人物、レジェンドとされています。よかった。
难忘今宵(Tonight is Unforgettable)/李谷一(1984年)
そんな李谷一、こちらもめちゃくちゃ愛された曲。この曲はなかなかノスタルジックな仕上がりになってると思います。「今夜は忘れられない」というタイトルからは想像できないぐらい、詩を見ると祖国は素晴らしいとか愛国的なメッセージたっぷりではありますが、彼女の身にそれまで起こったことを考えると、この歌詞も致し方ないかなと思えます。
私はこの曲について、2017年に北京のアンビエントハウスの大家、Howie Leeがエディットしたバージョンがあるのですが、それが当時の雰囲気を残したまま、ちょっとだけ今っぽいアレンジになっていて好きです。原曲の味を消さないところにリスペクトを感じます。
难忘今宵(Howie Lee Edit)/Howie Lee(2017年)
こうしてよちよち歩きではありますが、中国本土にもポップスがやってきます。もちろん、香港、台湾と同じようにカバーソングもありました。では最後にジンギスカンの中国本土バージョンのカバーを聴いてもらいましょう。
成吉思汗/张蝶(1986年)
なんと言いますか、これを毎日自宅で大音量で流していたら奥さんに離婚されそうな楽曲ですね。私の個人的なプレイリストにも残念ながらこの曲は入ってません。たかがカバー、されどカバーという感じで、カバーするにもセンスは問われるんだなと思います。ただ、この頃は中国本土にも、ダンスミュージックを楽しむ余地はあったんだなというのは歴史的な証明として重要だと思います。
ここまで、どちらかと言えば香港、台湾に比べて音楽後進地としての中国本土を紹介しましたが、この地にもようやく革命がやってきます。そしてそれは、10億人のハートに届くかもしれない、とんでもない大砲だったのです。
中華人民共和国のポップスの日の出、崔健の登場
中華人民共和国の音楽業界にも革命家がやってきます。彼の名前は崔健。中国本土の北京では1989年に有名な天安門事件が起こり厳戒態勢が敷かれた年ですが、彼はこの国でなかば禁じられたロックを演奏しながら登場します。
新长征路上的摇滚/崔健(Cui Jian)(1989年)
なんの前知識もなくこの曲を聴けば、ちょっとキャッチーな、コミカルな歌? と思われそうです。ただ、これがそれまで海外の情報が制限され、それまでほとんどの国民がロックなんか聴いたことのない10億人の国民に届けられた、最初の中国本土の国民が自国で作った曲だと言われたら、捉え方も変わってきます。1980年には歌謡曲を歌ってステージを禁じられる歌手もいるなか、彼は天安門事件のあった1989年に堂々と自作のロックをステージで歌ってのけました。
この曲は歌詞があるのでリンクを貼っておきます。この曲調は中国本土の兵士が行進するマーチとロックを混ぜたような曲で、曲の中でも長距離を行進する兵士のようなイメージが歌われています。歌詞の最後には大胆にも毛沢東の名前まで登場します。これ、愛国的な曲にも聴こえるし、逆にそんな中国政府への皮肉にも聴こえるし。聴く人にとって解釈の分かれる曲だと思います。
一无所有/崔健(Cui Jian)(1989年)
これは1989年に音源化されますが、実際に1986年の段階でイベント会場で歌っていたという情報があり、先ほどの曲より古くから存在すると思われます。彼の初期のトレードマークとして、赤い鉢巻を目に巻いて、周囲が見えない状態で演奏や歌唱をしていました。目を隠した状態で「俺には何もない」と必死に歌う崔健。それは中国本土の国民の気持ちを代弁したものかもしれません。とにかくロックなんか聴いたことがないような中国国民も含め、多くの国民が彼の歌に夢中になりました。
この曲については幸いなことに、日本語に意訳してくれてる方がいらっしゃいますのでリンクを貼っておきます。「何も持ってない」というタイトルと、目隠しされた青年。彼が目隠しに使っている鉢巻は赤い色。なぜ彼の鉢巻は中国のイメージカラーである赤なのか。意味を考えようと思えば様々な解釈が可能です。
崔健(Cui Jian)が中国社会に仕掛けた巧妙な作戦とは?
さて、ここでC-POP史上最大の謎が登場します。
Q.なぜ、ここまでの中国本土ではまったく存在しなかったロックが崔健によって突然歌われたのか?
Q.彼がロックという音楽を通して伝えたかったことはなんだったのか?
Q.これまでさまざまな形で言論統制を行なってきた中国政府はややもすると危険な存在でもある崔健の音楽活動を、結果的に許したのはなぜだったのか?
そこでまずは崔健の人生を生い立ちから考えてみましょう。1961年、崔健は北京で空軍の楽隊メンバーだった父と中央政府の歌舞団のメンバーだった母の間で生まれます。つまり、崔健は中国本土の音楽ファミリーに生まれました。そして彼には、音楽や文学について学ぶ機会がたくさんありました。彼の幼少期は文化大革命という時期に相当し、知識人は弾圧され農村や山に送られてしまうという時代だったのです。崔健もそうされるかもしれないと睨んだ父親は、崔健にトランペットを習わせ、北京の芸術団体に入れるようにトレーニングをしました。もともとずば抜けた音楽的才能のあった崔健は、紆余曲折あって、1981年に北京交響楽団に加わります。
一方、改革開放を経て、大国の首都北京には大使館で働く人々や外資系企業の職員など、外国人が増加しました。ホテルにも外国人の商用利用者が増えつつあります。彼らに目をつけた北京交響楽団のメンバーは、バンドを組んでホテルで演奏することを思いつきました。このメンバーの中に、崔健も加わります。この頃には崔健の演奏テクニックは交響楽団の中でも一目置かれた存在になっていました。また、崔健の英語の発声は非常にうまかったという伝記も残っています。こうして外国人の前で演奏する機会が格段に増えた崔健のバンドは、そのうちバンドのレパートリーに、ビートルズやポール・サイモンのカバーなど洋楽のカバーを歌うようになりました。交響楽団がなぜロックのカバーバンドをやるのか詳しいところはわかりませんが、まあウケが良かったでしょう。
1986年には先ほど紹介した自作の「一无所有」が演奏されました。このあと、何度もテレビやイベントを通じて「一无所有」は演奏されます。1988年にはソウルオリンピック前夜の特別番組として全国ネットの番組で披露されます。それまで中国に存在しなかったロックが生まれた背景には、彼の音楽的才能と、外国人相手の演奏の日々が組み合わさったことで生まれたようです。なおこの時期には崔健と同様に北京にもいくつかのロックバンドが登場しましたが、少なくても80年代の間に音源としてオリジナルのロックの曲を録音したバンドはいませんでした。
この段階では、政府はジャズに変わる進歩的な音楽の形がロックという音楽なのかな? といった認識でしょうか。とにかく彼の曲がこの時点で問題になることはありませんでした。
1989年3月には「一无所有」、「新长征路上的摇滚」を含むアルバムがリリースされます。これは特に首都北京の若者の間では一大センセーションとなりました。
さて、1989年6月には、さらなる改革開放を訴えて天安門前で抗議活動を行う北京の学生に対して、武力行使が行われ、少なくても300人以上の学生が命を落としています。これがいわゆる天安門事件です。一説には、抗議の学生は「一无所有」を合唱していたのことです。学生はおそらく「何も持たない」という曲名から、規制の多い中国を揶揄しようとしたのでしょう。
ただ、崔健は本当に中国政府を批判する意図でこれらの楽曲を作ったのでしょうか。どうも謎に包まれています。歌詞を紐解いても謎が残るばかりです。私は中国語が読めないので翻訳サイトを通して歌詞をイメージしているのですが、いくつもの解釈が可能な歌詞です。歌詞は実に難解で、文学的とも言えます。ここに、北京の名家に生まれた崔健の文才ぶりが垣間見れます。「一无所有」に関して言えば、曲の中で登場するあなた、わたしを誰に設定するかでかなり意味が変わってきます。解釈によってはそれはいつ結婚してくれるかと相手に迫る男女の歌にも聞こえます(たとえばこのような和訳)。一方で、あなたを共産党の指導者と読み替えたらどうでしょう。国外のジャーナリストは実際この曲を聴いて、政府への批判を暗に含んでいるのではないかと邪推しましたが、何度歌詞を読み返しても確信にはいたりません。一方、恋愛の歌として聴くと、別の政治的なメッセージが浮かびあがります。主人公(わたし)はあなたに対して、「何も持ってない」と笑います。しかしどうでしょう。そもそも共産主義とは究極の平等主義だったはずですが、この恋愛において主人公は所有物が問われ、結婚やおつきあいに不適当だと言われています。つまりこの曲は資本主義化、西洋化する中国を懸念してる、という解釈も可能です。
マーチ風の「新长征路上的摇滚」についても非常にややこしい歌詞です。マーチ風の曲で中国の軍拡を批判してると受け取ることも可能ですが、自分が歩むロックへの道を行進に例えて、小さな一歩を踏み出してる(そんな私をぜひ応援してください毛首席)という謙虚な歌詞にも聴こえます。
ここまで考えても確信が持てないということは、崔健はこれらの歌詞を、いくつかの多重な解釈が可能な歌詞にしたと考えるのが自然ではないでしょうか。崔健は実に頭がよく、何通りかに解釈できる曲を散りばめたことで、自分が政府の批判の的になることを避けつつ、時代の荒波に立ち向かう若者の気持ちを労ったのです。これこそが、崔健がやりたかったことなのではないでしょうか。
さて最後に紹介する崔健の曲1980年代の曲ではないですが、この回は崔健の回とも言えるのでここで取り上げます。
飞了/崔健(Cui Jian)(1994年)
红旗下的蛋/崔健(Cui Jian)(1994年)
これらの曲はBalls Under The Red Flag(赤い旗の下の卵)という実にかっこいいアルバムの中の曲たちです。飞了はMVなどもネットで見れるので、よければ観てみてください。ステージの奈落で演奏する崔健はなかなかかっこいいですよ。MVでは、ステージ場で中国の伝統的な芸能が行われていますが、崔健のバンドはステージ下の奈落で、ロックを奏でています。自分の置かれた状況を示しているとも考えられます。
90年代といえば世界的にはオルタナティブロックの時代ですが、崔健は世界的な潮流も意識してか、かなりオルタナティブな出来になってると思われます。これらの曲を聴いてる時に、ふと、崔健のすべての曲が持つ共通のメッセージが降りてきたのです。どうも崔健はすべての曲を通じて、中国の、一般の国民に対してメッセージを発信しているようです。赤い旗の元にいる、卵のように割れやすい国民に。つまりこれらの楽曲は、というか崔健の曲はすべて、偉大なアニメーターの映画と同じタイトルにするなら、「君たちはどう生きるか」ということを問うてるように感じます。ひたすら小さな私たちに向かって問いかけてるように感じるのです。主役はあくまで政府や社会なんてものではなく、あなたですよ、と訴えているように感じます。しかしこれも、多様な解釈が可能な崔健の曲の一解釈にすぎません。
みなさんはどう感じましたか?
崔健について書くには下記noteなど大変参考になりました。よければご確認ください。
これにて80年代までのC-POPがまとまりました。次回は90年代の香港からお伝えしたいと思います。
