【連載②】マッキンゼー流のロジックで、離職率60%の絶望施設を再生させた話【第1章】ロジックは「入職初日のLINE」の前に敗北した
著:高坂涼介(社会福祉法人いちご会)
介護職員の働きやすい職場環境づくり内閣総理大臣表彰及び厚生労働大臣表彰 厚生労働大臣奨励賞受賞・介護労働安定センター理事長表彰 最優秀賞(日本一)受賞
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「親の七光りが来るらしい」
僕が入社する前から、施設の中に噂が流れていた。
「理事長の息子が来るらしい」
そして、すぐにこう続いたのだという。
「介護も知らんくせに」
「どうせ親の七光りだろ」
正直、無理もない。
当時の社会福祉法人いちご会は、どこから見ても崩壊寸前だった。離職率は60.3%。1年間で、5人に3人が辞めていく計算だ。100床の特別養護老人ホームなのに、満床にならない。18億円をかけて建てた施設が、慢性的な赤字経営に陥っていた。
施設開設時、父は外部コンサルタントに約2,000万円を投じ、新卒70名を採用した。盤石の体制で出発したはずが、施設長と事務長によるパワハラが常態化し、職員の退職が相次いだ。
その後、パワハラ施設長と事務長が辞め、2018年に犬塚という施設長のもとで新体制を組んだ。
犬塚は、非常に優しく、常に人の話に耳を傾ける人物だった。
ただ、決断力に欠けた。
いつも決めるのは父の方で、犬塚は承認するだけだった。
犬塚の仕事ぶりは施設長としてはありえなかった。
職員が不足しているのに、自分は有給をすべて消化し、休日は連絡もつかない。
それでいて賞与は最高評価を受け取っていた。
そんなトップで、まともな組織になるわけがなかった。
――――――――――――――――――――
父からは、入社の話を受ける前に、施設の状況を少しだけ聞かされていた。
「今の施設長が、施設長を降りたいって言っている」
「入居率も悪いし、職員の入れ替わりが激しい」
「うまくいっていない」
それだけだった。
父の情報量は、いつもそんなものだ。
「なんとかなる」「大丈夫や」「向こうがしっかりしてくれる」――言葉は出てくるが、数字は出てこない。
入居率が「悪い」とは、具体的に何%なのか。
職員の入れ替わりが「激しい」とは、年間で何人辞めているのか。
そういう問いを父に向けても、答えは返ってこなかった。
(なら、自分で調べるしかない)
それが、入社前の僕の最初の仕事になった。
面接
2020年4月のある日、施設へ面接に向かった。
履歴書を書いたのは、新卒の時以来だった。
前日の夜、「あ、証明写真がいる」と気づいた。遅すぎる。
翌朝、施設へ向かう途中のドラッグストアに設置してある写真機に滑り込んだ。パチリ。乾かす間もなく、そのまま面接へ向かった。
これから働く施設の、しかも自分の父がトップを務める法人の面接に、20分前に撮った証明写真を持っていく男。それが僕だ。
施設に入ると、受付のスタッフがじっと僕を頭から足先まで見た。
「こいつか、理事長のボンボンは」という視線だということくらいは、さすがにわかる。
面接会場は、理事長室の小さな部屋だった。
父と、施設長の犬塚が座っていた。履歴書を渡すと、犬塚が食い入るように見た。
数秒の沈黙のあと、犬塚が父に言った。
「理事長、採用でいいんじゃないですか?」
「じゃあ、採用で」
以上。
おいおい。
それで終わりか。
僕の職歴も、医療・福祉業界の経験値も、マッキンゼーとのプロジェクトの話も、何も聞かれなかった。
まあ、息子だから当然といえば当然なのだが。
ただ、笑う気にもなれなかった。
面接室より先に、受付スタッフのあの目が頭に残っていた。
「こいつが理事長のボンボンか」という、あの目。あの目が、80人分ある。
ポストは「事務長」。
入社は5月中旬からとなった。
社会福祉法人会計という壁
入社までの間、まず財務諸表を取り寄せた。
父に電話して「過去の財務書類を持ってきてくれ」と頼んだ。数日後、書類が手元に届いた。
開いて、まず固まった。
見慣れない書類があった。「資金収支計算書」。
株式会社の財務諸表は見てきた。損益計算書、貸借対照表、キャッシュフロー計算書。
太陽薬品での実務と、マッキンゼーとのプロジェクトで、数字の読み方はそれなりに身についていた。
だが、社会福祉法人の会計は、まったく別物だった。
粗利額がどこにも載っていない。
「当期資金収支差額」という項目がある。
これがプラスなのかマイナスなのか、どこで業績を判断すればいいのかが、最初はまるでわからなかった。
父に電話した。
「会計帳簿の見方がわからん。教えてくれ」
「俺もよくわからん!」
ガチャ切り寸前のテンションで言われた。
お前が立ち上げた法人だぞ。。。
これが、この施設に入ってから何度でも耳にすることになるフレーズの、最初の遭遇だった。
「知らない」
「わからない」
「自分じゃない」
この3つが、何を聞いても返ってくる。
――――――――――――――――――――
仕方なく、自分で調べた。
今のようにAIは無い時代・・・。
ネットで「社会福祉法人 会計 資金収支計算書」と打ち込んで、1つずつ読み込んだ。会計基準の解説サイト、厚生労働省のガイドライン、税理士のブログ。見つけられるものを全部読んだ。
1つ読むと、また別の疑問が出てくる。
「拠点区分」とは何か。「経常増減差額」は損益に相当するのか。「積立資産」はどう見ればいいのか。1つずつ、紐解いていった。
数日かけて、ようやく全体像が見えてきた。
赤字だった。
はっきりと、赤字だった。
採用手数料が異常に高い。
事業費も事務費も、規模に対して膨らみすぎている。入居率が低いまま固定費を垂れ流している状態だった。
父がよく口にしていた「いい会社だよ」という言葉が、頭をよぎった。
(どこがだよ)
入社前から、僕の仕事は始まっていた。
初日の朝
2020年5月、入社した日、日本全国に緊急事態宣言が発令されていた。
施設の入口には、大量の消毒液が並んでいた。職員はみなマスクをし、至る所を消毒していた。コロナ禍の真っ只中だ。
朝礼で自己紹介を済ませた。財務分析はすでに終えている。問題の輪郭は把握した。
「原因はここにある。対策はこうなる」という仮説まで、頭の中で組み上げていた。
朝礼が終わり、デスクへ向かう前に、施設の中を一度歩いてみようと思った。
廊下に出た。
すぐに気づいた。
職員が、挨拶をしない。
通りすがりに目が合う。でも、目をそらす。
足を止めない。会釈もない。
ただ、すり抜けるように通り過ぎる。
表情が、暗い。
笑顔がない、という言い方では足りない。笑おうとしていない。あるいは、もう笑い方を忘れたかのような顔で、廊下を歩いている。
疲れている。
まだ午前中だ。でも、夕方以降の顔をしている職員が、何人もいた。肩が落ちている。目に光がない。言葉数が少ない。
受付スタッフの「こいつが理事長のボンボンか」という目とは、違った。あれはまだ、警戒する元気がある顔だった。廊下の職員たちは、そういうエネルギーすら、残っていなかった。
(この施設は、病んでいる)
数字では見えなかった現実が、廊下を5分歩いただけで、全部わかった。
デスクに戻って、椅子に座った。
マッキンゼーと組んだ太陽薬品のプロジェクトでは、全国120店舗の人時を1分単位で設計してきた。あれに比べれば、80人の現場のデータを取ることは、準備運動に過ぎない。
そう思って、椅子に座っていた。
その5分後だった。
「もう無理です」
施設長が、僕のところへやって来た。気まずそうな顔をしていた。その手には、1台のスマートフォン。
「事務長、これ。労務担当者が『辞めます』って僕のスマホにLINE送って来たんだよ。3日前なんだけど、引き止めくれる?」
そこには、現場の悲鳴が映し出されていた。
「もう無理です」「やめます」「できません」
労務担当者から、施設長宛てに送られた、退職を伝えるLINE。
送信日時は3日前。短い文面。長い沈黙。
画面を見て、手が止まった。
十数年かけて磨いてきた経営理論が、何の役にも立たなかった。
――――――――――――――――――――
施設長から引き止めを頼まれたとき、正直、最初のスタンスは「辞めたいやつは辞めればいい」だった。代わりに誰かがやればいい、と前職では思っていた。
しかし、施設長は「知らない・わからない・できない」のスタンス。どうやら先月辞めたベテランの事務員が財務から労務までのすべてを一人で回しており、その仕事が丸ごと、今辞めようとしている職員のところへ降ってきたらしかった。
これは、「辞めればいい」で済む話ではなかった。
河村さんとの交渉
辞めようとしているのは、河村さんという事務員だった。まだ若い。入社から数年。前任の事務員が突然辞めたことで、財務も労務も経理も、全部が河村さん一人に降りかかっていた。
僕は河村さんのデスクへ行った。
「はじめまして、高坂です。これから一緒に頑張りましょう!」
「……いや、辞めます」
歯切れよく、言われた。
辞めたい理由を聞いた。河村さんは答えてくれた。
「犬塚施設長が仕事をしないのに高給を取っていることが、気に入らない。手伝う、フォローするって言ったのに、何もしてくれない。丸投げされた。」
そして自分に降りかかってきた業務量が、自分のスペックを超えていると。
「わかりました」と僕は言った。
「2つ、約束します。犬塚に適正な仕事をさせる。あなたの事務作業を、僕が一緒にやる。だからとりあえず1ヶ月だけ待ってほしい。1ヶ月経っても変化が見えなければ、その時にもう一度話をしましょう」
河村さんは、少し考えてから、うなずいた。「……わかりました」
入社初日、デスクに座ってわずか5分後に、経営理論は棚に上げた。そんな1日だった。
1ヶ月で、動かす
「1ヶ月待ってくれ」と言った。約束は、守らなければならない。
翌日から、動いた。
まず手をつけたのは、勤怠管理だった。令和の時代にまさかの紙の出勤簿とハンコの施設だ。
月末の勤怠チェックに丸1日かかる。
残業申請書は手書きで、集計が合わない。
36協定の繰り越し処理まで発覚した。
河村さんの業務負荷の、相当な部分がここに集中していた。
数社のクラウド勤怠システムに問い合わせた。打ち合わせを重ね、見積もりを取り、1社に絞った。
目的は2つ。
サービス残業をなくすこと。
勤怠処理の時間を短くすること。
それだけだった。
犬塚との面談を設定した。
「施設長として、現状をどう変えたいと思っていますか?」と。
責めるためではない。
この人が何を考えているのかを、まず知りたかった。
犬塚は、丁寧に答えてくれた。
職員に休みをとってほしい。
現場のリーダーたちを育てたい。
施設全体の雰囲気をよくしたい。
言葉の中に、悪意はなかった。
理想はあった。
ただ、それを実現するための手が、動いていなかった。
そのギャップを、僕は静かに確認した。
「わかりました。一緒にやりましょう」
なんのために働くのか
定時は、8時30分から17時30分だった。
職員たちが出勤してくるのは、8時20分から25分ごろ。定時の5分前、10分前に来て、着替えてすぐ業務開始。
(終わってるな)
正直、そう思った。
余裕がない。準備がない。
前の日に翌日のことを考えていない。
だから、毎朝バタバタする。
バタバタするから、連絡ミスが起きる。
連絡ミスが起きるから、また誰かが残業する。
そのループが、ずっと続いていた。
僕は、7時30分には来ていた。
前日の夜に、翌日のスケジュールを組み立てておく。その確認と微調整を朝にやる。それから習慣にしている読書を30分。そうして8時30分を迎える。
帰りはだいたい20時から21時だった。
でも、前職に比べれば、信じられないくらい楽だった。
M&Aの修羅場の頃は、月の交通費が70万円。新幹線と飛行機で全国を飛び回り、日をまたいで仕事をしていた。それに比べれば、通勤距離も近く、移動もない。
「こんなに楽でいいのか」と、本気で思っていた。
ところが、職員たちの目には、僕が「そんなに働くの??」という存在に映っていたらしかった。
基準が、まるで違う。
そのギャップ自体が、この施設の問題の1つだった。
採用活動と並行して歩き回り、少しずつ見えてきたことがあった。
もう1つ、気づいたことがある。
この施設に根を張っていた空気は、5つだった。
1つ目。「仕事は、辛いもの。」
楽しんで働いている職員が、見当たらなかった。楽しいと思っていないから、工夫しない。工夫しないから、上手くならない。上手くならないから、また辛くなる。そのループが、ぐるぐると回っていた。
2つ目。「自分は悪くない。相手が悪い。会社が悪い。」
何か問題が起きると、責任の所在が「外」に向かった。自分の行動を振り返るより先に、誰かのせいにする。それが当たり前になっていた。
3つ目。「言っても無駄だから、言わない。」
これが、一番深刻だった。
問題に気づいていても、声を出さない。
出しても変わらないとわかっているから、最初から黙る。沈黙は、あきらめだった。
4つ目。「自分がやりたいことだけやる。」
チームで動くという感覚が希薄だった。自分のユニット、自分の担当。それ以外には、関わろうとしない。助け合いが、自然には起きない職場だった。
5つ目。「整理整頓ができていない。5Sが機能していない。教育の仕組みがない。」
書類の置き場が決まっていない。
備品が出しっぱなしになっている。
新しく入った職員に、誰が何を教えるかが決まっていない。
目に見えるものが整っていない職場は、目に見えないものも整っていない。
この5つは、バラバラに見えて、1本の根でつながっている。
「言っても無駄」と思うから黙る。
黙るから問題が放置される。
放置されるから「仕事は辛いもの」が常識になる。そういう職場では、誰も掃除しなくなる。
すべては、「聴く仕組みがない」という1点から来ていた。
声が届かなければ、人は黙る。
黙ると、組織は腐る。
これが、離職率60.3%の正体だった。
僕の最初の1ヶ月の仕事の中身は、ざっとこういうことだった。
業務時間内は、採用活動がほぼメインだった。
Indeedと契約し、採用の業者と戦略を立て、求人を出し始めた。
ハローワークの求人票も書き直した。
ホームページは2016年から更新が止まっていた。それも着手した。
紹介会社、派遣会社に手当たり次第、求人の依頼を入れた。
河村さんとの勤怠処理も、並行して続けた。
業務時間外は、会社の分析だった。
財務書類をひたすら読んだ。
どこが崩れているのかを、数字で確認した。
これだけのことを同時に動かしながら、「こんなに楽でいいのか」と本気で思っていた。
前職がどれだけ異常だったか、ということでもある。
1ヶ月が経った。
河村さんに、進捗を報告した。
「クラウド勤怠は来月から稼働します。犬塚さんとも話しました。まだ全部じゃないですが、動いてます」
河村さんは、少し間を置いた。
「……わかりました。もう少し、見てみます」
ホッとした。
でも、それ以上に気づいたことがあった。
この1ヶ月間、僕がやっていたのは、データを集めることではなかった。
目の前の人の悲鳴に、1つずつ応えることだった。
「なぜ、人は辞めるのか」
その夜、自宅に戻って机に向かった。今日を振り返った。
LINEで届いた悲鳴のこと。河村さんの顔のこと。受付スタッフのあの目のこと。
前職の僕がやってきた仕事は、「人をどう配置するか」だった。
ここでこれから始まる仕事は、「人がなぜ立っていられないのか」だった。
それは、まったく別の問題だった。
人を再配置する力では、人が立っていられない理由は変えられない。人時を最適化する力では、明日もここに来ようと思える気持ちは生まれない。そのことに、初日のたった数時間で気づかされた。
その夜、弟に電話した。
「どうだった?」と弟が聞いた。
「めちゃくちゃな会社だよ。こんなにひどい会社、初めてだ」
それだけ言った。弟は笑った。
おそらく、入社した自分への報告というより、言葉に出して確かめたかったんだと思う。めちゃくちゃだ、と言葉にした瞬間、ある種の覚悟が、固まった気がした。
手帳に1行、書いた。
「歩く」
データを集めに行くのではない。人を、見にいく。そこから始めなければ、この現場では何も変えられない。
1年後に知った、離職率60.3%
入職初日、数字の上で「離職率が高い」ことはわかっていた。でも、具体的な数字は知らなかった。父の「うまくいっていない」という言葉と、廊下で見た暗い顔が、「ここはひどい」という感覚を作っていた。
そして1年後、坂本先生の大学院で研究発表の資料を作っていた。
テーマは「いちご会の組織改革」。
そのとき、初めてちゃんと離職率を計算してみた。
電卓を叩いて、手が止まった。
60.3%。
業界平均は14.9%。平均の4倍だ。
この数字は、現場の悲鳴の量だった。「もう無理です」と送った人が、過去4年間で何十人もいたということだ。送ることすらできずに、黙って去った人が、さらにその何倍もいたということだ。
パソコンの前で、しばらく動けなかった。経営陣に対して怒りが湧いてきた。
入職から1年間、数字を知らないまま、ただ目の前のことを動かしていた。その1年の意味が、この数字と重なった。
あの廊下を、最初に歩いたときのことを思い出した。挨拶しない職員。目をそらす職員。暗い表情。疲れた顔。あれは、60.3%が作り出した風景だった。
施設長の気まずそうな顔も、受付スタッフのあの視線も、河村さんの「辞めます」という即答も。
すべては、この数字の中に、すでに含まれていた。それを、僕は1年後に初めて、数字として確認した。
研究発表の場で、僕はこの数字を出した。
会場が、静かになった。
そして、仲間の一人が言った。
「すごい会社だね……まあ、介護は離職率高いもんね」
哀れみだった。
慰めのつもりで言ってくれているのはわかる。でも正直、「そういうもんだ」で片付けられた気がして、ちょっとムッとした。
(介護だから仕方ない、って誰が決めたんだ)
僕は、続きを出した。
同じ施設の、1年後の数字だ。
離職率、22.5%。
1年間で、30名を新規採用。採用した30名のうち、1年未満での退職者は、ゼロ。
発表が終わったあと、会場が、また静かになった。今度は、種類が違った。
「え、1年でそこまで変わるの?」
「採用した人が誰も辞めていない?」
「何をやったの?」
「介護で、それが起きるの?」
「哀れみ」が「驚き」に変わった瞬間が、はっきりわかった。
そのとき確信した。
「介護は離職率が高くて仕方ない」は、嘘だ。
仕方ないんじゃない。変えてこなかっただけだ。
あなたの施設も、同じだ。
「うちは特殊だから」「うちの職員は難しいから」
その言葉は、僕も何度か聞いた。
でも、60.3%が9.1%になった施設は、特別な施設ではなかった。
特別なことをしたわけでもなかった。
ただ、変えることをやめなかっただけだ。
あなたの現場に、LINEで「もう無理です」と送った人がいる。その人は、今もそこにいるかもしれない。
だとすれば、この本は、その人のために書かれている。
そのとき、確信した。
「介護は離職率が高いのは仕方がない」は、嘘だ。
仕方ないのではない。変えていない、だけだ。
入職初日の廊下に戻ろう。
挨拶しない職員、目をそらす職員、暗い表情、疲れた顔。
あの風景は、「介護業界の宿命」などではなかった。
変えられるものだった。
次の章では、その1年間に何をやったのかを書く。
僕は画面から目を上げて、施設長に「やってみます」と答えた時、頭の中では別のことを考えていた。
僕がここに持ってきた武器の何が、この現場で使えるのか。
そして、何が、使えないのか。
その仕分けが、介護人生の最初の仕事になった。
河村さんに「1ヶ月待ってくれ」と言った。これは、今日の、僕の唯一の約束だ。約束は、守る。
その夜の手帳には、2行目が加わった。
「人を削らない」
前職の僕は、「人をどこから減らすか」を考えるのが仕事だった。この仕事に、その思考はいらない。逆だ。一人ひとりの存在を、まず認めることから始める仕事だ。
人を削るのではない。
人を、一人ひとり、灯すのだ。
それぞれの人の中に、消えかけている灯火がある。消えないように手をかざし、芯の位置をそっと直し、もう一度、明かりを取り戻す。
それが、この職場での、僕の本当の仕事なんだろう、と。
手帳に、3行目を書き足した。
「灯す」
ただ、暗い話だけではない。
最初のリーダー会議で、こんなことがあった。
僕が提案を出した。
施設の問題点の整理と、最初の手をいくつか並べた。資料はシンプルにした。
長い説明はしなかった。
「こういうことをやっていきたい。一緒にやってほしい」とだけ、言った。
部屋が、しん、とした。
いつもの沈黙だ、と思った。
そのとき、一人のリーダーが言った。
「とりあえず、やってみてから考えればいいじゃん!」
静かな部屋に、その一言が落ちた。
以前、「この人は伸びる」と直感した、2人のうちの一人だった。
全員ではなかった。
他のリーダーたちは、まだ様子を見ていた。
でも、一人が言えば、空気が変わる。
「やってみみよう」という言葉は、その場にいた全員が聞いた。
それだけで、十分だった。
一人いれば、始められる。
この施設に来て、初めて「ここには可能性がある」と思った瞬間だった。
正直に言う。
入職してから数ヶ月で「変わった、成長した」と感じた職員は、一人もいなかった。
それが、普通だ。
人は、数ヶ月でそう簡単に変わらない。
変えようとした側が焦るだけで、現場はそのペースでは動かない。
それでも、歩き回りながら、僕には2人だけ、確信に近い感覚を持てた職員がいた。
この人は、きっと伸びる。この人なら、僕の改革についてきてくれる。
そういう目をしている、という直感だった。
一方、苦労した職員は、めちゃくちゃいた。
河村さんも、その一人だった。初日の「辞めます」は序章に過ぎなかった。
一番厄介だったのは、施設長だった。そして幹部の2人も。それから正直に書くと理事長も、だった。
助けを求めてきた父が、改革の壁になる。
それが、どういうことか。その話は、第5章に取っておく。
翌日から、僕は、この3つの言葉「歩く」「灯す」「人を削らない」を手掛かりに、80人の現場へ歩き始めた。
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