【徳島秘話】徳島藩 碁浦御番所があった番所は? 測量中の伊能忠敬は鳴門のどこに上陸したか?
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トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。
今回は碁浦御番所があった番所と周辺の石碑についてです。
江戸時代、阿波と讃岐の国境にあった碁浦御番所は、200年以上に渡り禄持ちの八田家が御番所役人を世襲していました。
この御番所には、測量中の伊能忠敬や久米通賢、四国遍路途中の松浦武四郎 (北海道の名付け親、アイヌ文化研究家)らも訪れています。
・『碁浦御番所 八田家文書』

・現在の鳴門市北灘町碁浦にあった碁浦御番所。国道11号線建設の為取り壊された。

・碁浦御番所で使われていた三ツ道具

・碁浦御番所の跡地は?
・番所跡探訪記

・碁浦御番所跡地

・下記地図の黄色の丸部分辺りに碁浦御番所があった。




・碁浦にある伊能忠敬上陸地点。1808年、測量中の伊能忠敬と案内役をしていた久米通賢は鳴門市北灘町碁浦漁港に上陸した。

・碁浦御番所 八田家文書: 伊能忠敬が来る際、三つ道具を飾り置くようにとの通達

・碁浦漁港

・史跡 碁浦御番所跡の碑 (大須駐車場)

・史跡 碁浦御番所跡の碑は下記地図の黄色部分の大須駐車場にある。

・江戸時代に測量の為、鳴門に上陸した伊能忠敬。日本全国を測量した伊能忠敬を顕彰する石碑「伊能忠敬 阿波国再入国地点」が鳴門市北灘町大須の大須駐車場に設置されている。




・大坂口御番所と隠れキリシタン: フィリピンへ渡った高山右近
・大坂口御番所跡地訪問記
徳島県鳴門市碁浦の位置

香川県と徳島県の県境
🔸白の点線が徳島と香川の県境





・徳島県と香川県の県境

『角川日本地名大辞典』の碁浦御番所に関する記述

碁浦番所【ごのうらばんしょ】
現在の鳴門市北灘町碁浦にあった番所。
海岸線沿いの陸路の讃岐と阿波の境目に当たる。
西の小碁浦は讃岐,東の大碁浦は阿波に属す。
番所役人は八田家が代々勤め,天正13年(1585年),讃岐と阿波の国境を決定する折,重要な役割を果たした。
当時の模様は「碁浦邑御番人 庄屋 八田孫太夫 先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖 八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出二而御境之儀此方于者西坪ヶ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史 上巻)とある。
海岸沿いの陸路の境にある碁浦番所は,旅人・商人等の検分に当たった。
番所跡は,国道11号建設のため埋め立てられ,現在は道路となっている。
出典:角川日本地名大辞典
江戸時代の古文書の記述部分
当時の模様は「碁浦邑御番人 庄屋 八田孫太夫 先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖 八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出二而御境之儀此方于者西坪ヶ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史上)とある。
現代語訳
当時の様子は『碁浦村御番人 庄屋 八田孫太夫 先祖覚書』に次のように記されています。 「……阿波の国の境界線を決める際の証人として、私の先祖である八田孫兵衛が高松へ出向いた時のことです。御上使様 (徳川幕府からの使者)がお見えになり、境界について問われた際、『(徳島藩側としては)西坪ヶ谷筋の尾根の切れ目を境とすべきである』と申し上げました」
1641年、生駒家改易後の阿波と讃岐の国境争議: 阿波側証人 八田孫兵衛の主張は? 八田孫太夫の先祖覚え書きから読み解く国境決定の経緯
豊臣秀吉の四国平定時の高松とは現在の古高松(屋島の辺り)
1585年当時の高松城 (喜岡城)は、現在の屋島駅から南に徒歩5分の喜岡寺の境内にありました。
・屋島駅から徒歩5分

・高松城跡の碑

・北灘町碁浦から喜岡寺は約38Km

・喜岡寺から高松城(玉藻城)は車で17分


・喜岡寺の山門


1585年(天正13年)当時の讃岐国の情勢と、国境策定の交渉が行われた「高松」の場所について整理いたします。
1585年の讃岐領主
1585年の四国征伐後、讃岐国(現在の香川県)の領主となったのは仙石秀久(せんごく ひでひさ)です。
仙石秀久は、秀吉の四国攻めにおいて宇喜多秀家らと共に讃岐へ侵攻し、その論功行賞として讃岐一国(約10万石)を与えられました。
一方、阿波国(現在の徳島県)は同じ1585年に蜂須賀家政に与えられており、この二人の新領主の間で国境画定の必要が生じました。
喜岡城(古高松)の状況:
喜岡城は現在の高松市高松町(古高松地区)にあり、高松頼邑(たかまつ よりむら)が守っていましたが、1585年の四国攻めで落城しました。
仙石秀久はこの喜岡城攻略に加わっていましたが、入封後の本拠地は「聖通寺城(宇多津)」、あるいはその後に築かれた「高松城(現在の玉藻公園)」のいずれかとされています。
・喜岡寺(きおかじ)
喜岡寺の境内はかつて高松城(別名:喜岡城)の本丸であった。この高松城は現在の高松城(別名:玉藻城)とは別の城であるが、玉藻城の名前はこの「高松」を引き継いだものであり、この一帯は現・高松市の地名のルーツでもある。
以上
