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【高松市】石清尾山古墳群の双方中円墳を築造したのは菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子一族の和邇氏か? 全国でも珍しい応神天皇の皇太子 菟道稚郎子が高松市内に3ヵ所と小豆島に祀られている謎!

こんにちは。

トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。

今回は、日本に数基しかない双方中円墳の築造者と全国でも珍しい応神天皇皇太子の菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)が高松市内3ヵ所と小豆島に祀られていることについての考察です。

ぜひ最後までお付き合いください。




著者のプロフィール



森啓成 (モリヨシナリ)

ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント

神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。

大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。

その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。

アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。

現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。

【保有資格】

  • 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級

  • 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級

  • ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド

【メディア・研修実績】
香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。

観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。

四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。


・香川県登録通訳案内士サイト


・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」


・全国通訳案内士登録証 英語

・全国通訳案内士登録証 中国語

・香川せとうち地域通訳案内士登録証 中国語

・四国遍路通訳ガイド協会会員証




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全国でも珍しい双方中円墳が高松市の石清尾山古墳群に三基もある!


石清尾山古墳群とは?


石清尾山古墳群は、高松市の中心部の琴電瓦町駅から徒歩1時間くらい、栗林公園の西側に位置する約200基ほどの古墳を有する古墳群である。全国に5基程度しかない珍しい双方中円墳が3基もある。

🔹石清尾山古墳群(いわせおやまこふんぐん)は、香川県高松市峰山町、室町、宮脇町、西春日町、鶴市町、西宝町にわたる石清尾山塊上に所在する積石塚を特色とする古墳群。国の史跡に指定されている。

本古墳群は、高松市街地にある標高約232メートルの石清尾山丘陵上に所在し、200基を超える円墳や積石塚や盛土墳が築造されている。

積石塚は3世紀から5世紀のものである。

5世紀末頃から約100年ほどの間、この地で古墳は造られなくなり、横穴式石室を有する盛土墳が造られるのは6世紀後半から7世紀前半にかけてである。

1934年(昭和9年)1月に積石塚の石船塚(いわふねづか)が単独で国の史跡に指定。

1985年(昭和60年)7月に周辺の古墳が追加指定され、史跡の指定名称が「石清尾山古墳群」に変更された。

この時指定されたのは積石塚の北大塚古墳、北大塚東古墳、北大塚西古墳、鏡塚古墳、小塚古墳、姫塚古墳、猫塚古墳、石清尾山9号墳、盛土墳の石清尾山2号墳、石清尾山13号墳である。

さらに東南の尾根上にある鶴尾神社4号墳(積石塚の前方後円墳)の確認調査が1981年(昭和56年)に行われ、1989年(平成元年)8月に追加指定された。

以上により、国の史跡「石清尾山古墳群」は積石塚10基、盛土墳2基の計12基となった。

2018年10月には稲荷山地区にある4基の古墳(稲荷山姫塚古墳、稲荷山北端古墳、稲荷山南塚古墳、稲荷山南塚北古墳)が追加指定された。

稲荷山北端古墳は類例の少ない双方中円墳である。

🔹規模・形状

墳丘の形状は多様である。

積石塚のうち猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳が双方中円墳、北大塚東古墳が方墳、稲荷山南塚北古墳が円墳、その他は前方後円墳である。

墳丘はどれも安山岩を積み上げて構築されている。





全国でも珍しい応神天皇皇子の菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)を祀る高松市と小豆島の神社!


応神天皇の皇太子 菟道稚郎子を祀る神社は全国でも珍しく、京都府宇治市の宇治神社、宇治上神社で祀られている。


菟道稚郎子の母親は和邇氏

宮主宅媛 (みやぬしやかひめ)

記・紀にみえる応神天皇の妃。

和邇(わに)氏の祖である日触使主(ひふれのおみ)の娘。

応神天皇2年妃となり、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、矢田皇女、雌鳥(めとりの)皇女を生んだという。

「古事記」では宮主矢河枝比売(やかわえひめ)。



🔹八田皇女 (矢田皇女)



和珥氏とは?

和珥氏(わにうじ)は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。

🔹勢力範囲

和珥氏は、奈良盆地東北部一帯に広く勢力を持った。

その本拠地は大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市和爾町・櫟本町付近)と添下郡で、後漢中平年間(184年 - 189年)の紀年銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳を含む櫟本古墳群はこの一族の墓所と推定されている。

年代や規模の観点から、最初期の東大寺山古墳が彦国葺命の、赤土山古墳が大口納命の墓と推定されるが、和邇下神社古墳は規模から見て武振熊命の墓とは考え難いと指摘されている。

🔹全盛期

和珥氏は大和朝廷の外征に参軍し軍事的な業績を上げたと『播磨国風土記』や『新撰姓氏録』から推定されている。

記紀記述の内で、史実性の高い天皇に葛城氏が后妃を出したころ和珥氏一族が孝安天皇、開化天皇に后妃2人を入れ、葛城氏の没落後に多くの天皇に11人の后妃を出し、勢力を広げた。

6世紀頃に春日氏、小野朝臣、粟田朝臣、柿本朝臣、大宅真人、櫟井朝臣など別姓を名乗るころから和珥春日氏が和珥氏の中心となり、そのころに和珥春日氏から春日氏に改姓すると見る説がある。

🔹春日氏の衰退

春日氏となって後に蘇我氏が勢力を伸ばすと、春日氏は急速に政治勢力として衰退し、表面から消え、他の分岐した小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏などが、各方面で活躍する。



消された和邇氏のルーツ



応神天皇とは?



応神天皇(200年〜310年) 3世紀〜4世紀初め

※日本書紀によれば、応神天皇は、200年生まれ、310年没となっている。応神天皇の在任期間や年齢など諸説あり、はっきりと分かっていない。






菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)とは?




菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ)

生年不詳 - 壬申年

記紀等に伝わる古代日本の皇族。

第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇の異母弟。

菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。

郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。

郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。

中でも、父 応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。

ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。

『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。

これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。


🔹名称

表記は以下のように文書によって異なる。本項では「莵道稚郎子」に統一して解説する。

宇遅能和紀郎子 - 『古事記』

菟道稚郎子皇子 - 『日本書紀』

宇治若郎子 - 『山城国風土記』逸文

宇治稚郎 - 『日本後紀』

菟道稚郎子 - 『日本後紀』逸文

宇治稚彦皇子 - 『続日本後紀』

兎道稚郎皇子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」

兎遅稚郎子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」

菟道稚郎皇子 - 『延喜式』諸陵寮

これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇」も菟道稚郎子を指した表記と指摘される。

🔹「ウジ」について

名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている。

『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。

なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。

地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。

しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている。

現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている。

実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている。

なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある。


🔹「イラツコ」について

「イラツコ(郎子)」は、名前に付される敬称である。史書に「郎女(いらつめ/いらつひめ)」は頻出するが(『古事記』で43名)、「郎子」が使われたのは『古事記』では莵道稚郎子含め4名のみで、一般に使われる「命(みこと)」や「王(おう/みこ/おおきみ)」のいずれでもない特異性が指摘される。

「郎子」の用法の性格には、愛称とする説と「郎女」の対とする説がある。

「郎女」の多くが皇女に用いられていることから「郎子」も皇子を指したものという見方が強いが、菟道稚郎子以外の3名はいずれも「王」とも表記されており、皇位継承者に付される「命」ではなく「王」に近い用法と考えられている。

なお、「郎子」の前の「ワキ」は「若(わか)」の転訛とされる。

🔹系譜

古事記・日本書紀

(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇と和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である。

同母妹には矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女/八田若郎女:仁徳天皇皇后)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)がいる。

応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)は異母兄にあたる。

また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹の小甂媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。

なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。



菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)を祀る高松市内と小豆島の神社



🔹高松市庵治の皇子神社









🔹高松市大島の皇子神社


国立ハンセン病療養所がある瀬戸内に浮かぶ島 大島にウジノワキイラツコを祀る皇子神社がある。






🔹高松市西春日町の鶴尾神社




🔹小豆島の皇子神社



石清尾山古墳群に双方中円墳は3基ある!



双方中円墳とは?







猫塚古墳  


時期: 古墳時代前期(4世紀前半)





鏡塚古墳


時期: 古墳時代前期(4世紀前半)





稲荷山北端古墳


時期: 古墳時代前期




鶴尾神社の位置



書籍 出雲の旧家に伝わる口伝書




高松市庵治町の皇子神社のだんじりの由来


応神天皇の跡継ぎとして宇治の菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ) が選ばれたことに、葛城にいた葛城襲津彦一族の星川建彦(後の仁徳天皇)は大いに不満を持った。

星川建彦は、策略を練り、現在の宇治神社辺りに宮を構えていた宇治大君(菟道稚郎子)に奇襲をかけ、逃げるウジノワキイラツコを宇治川の舟上から揺らして落とし溺死させた。

高松市庵治町の皇子神社のだんじりは、このときの様子を後世に伝えるために行われているが、本当の由来は隠されている。

ウジノワキイラツコ亡き後、奈良県天理市皇子にいたウジノワキイラツコの皇子一族の和邇氏は、自分らも身の危険を感じ、殺されると思い大和川を下り瀬戸内海から小豆島を経由して、現在の高松市庵治にたどり着いた。

奈良県のウジノワキイラツコの皇子と祖母方の和邇氏一族がいた皇子(おうじ)村は、漢字を変え庵治(おうじ)とした。たどり着いた讃岐の地は庵治(おうじ)から訛り、庵治(あじ)と呼ばれた。そして、ウジノワキイラツコの皇子と一族は、父のウジノワキイラツコを祀るため、庵治の江の浦に皇子神社を建てた。周辺の小豆島や大島にもウジノワキイラツコを祀る皇子神社がある。


🔹宇治神社と天理市庵治(おうじ)の位置関係


奈良県天理市庵治町 → 宇治川 → 大阪湾 → 瀬戸内海 → 小豆島 → 香川県高松市庵治町





考察


応神天皇亡き後、皇子のウジノワキイラツコは、宇治天皇(播磨国風土記)として即位し、宇治に宮を構えた。

竹内宿禰の子孫 葛城襲津彦一族の星川建彦(後に仁徳天皇として即位)は、宇治天皇(ウジノワキイラツコ)を宇治川で暗殺した。

元は和邇氏である柿本人麿は後世に、この事件のことを歌に詠んでいる。

菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子が奈良県天理市の皇子(現在は庵治:おうじ)から瀬戸内海を渡り、香川県高松市の庵治(あじ)に逃れてきた。


🔹和邇氏

菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)は、応神天皇の皇子で、母は和邇氏。

菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子は奈良県天理市の皇子に住んでいた。

奈良県天理市の辺りは、和邇氏の一族が住んでいた場所。

赤土山古墳 → 和邇氏の古墳

双方中円墳の櫛山古墳 → 和邇氏の築造ではないか。

菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子一族は、讃岐に逃れ、ウジノワキイラツコを祀る皇子神社を創建した。

一族の者たちは、ウジノワキイラツコの皇子や一族の長の墓を石清尾山に築造した。それらが、双方中円墳の猫塚古墳や鏡塚古墳、稲荷山北端古墳であろう。



奈良県天理市庵治町と櫛山古墳



櫛山古墳と赤土山古墳





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