【播磨国風土記】消された宇治天皇 (ウジノワキイラツコ)と讃岐の皇子神社、和邇氏と双方中円墳。 播磨国風土記の記述から考察する宇治天皇の悲劇と仁徳天皇の正体
こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。
今回は、播磨国風土記に記載がある宇治天皇(ウジノワキイラツコ)と讃岐との関係についての考察です。
応神天皇の没後、ウジノワキイラツコは即位し、現在の宇治上神社がある場所に宇治宮を構えていましたが、仁徳天皇の策略により、宇治川で暗殺され、残された皇子と母 (和邇氏)の一族は奈良県天理市の庵治から讃岐の地へ逃れたと推測されます。
ウジノワキイラツコ(応神天皇の皇子)を祀る代表的な神社は、京都府宇治市にある宇治神社と宇治上神社です。しかしながら、私が現地訪問も含め調査したところ讃岐の高松市には全国でも稀なウジノワキイラツコ(宇治天皇)を祀る神社が、4ヶ所もあります(小豆島/大島/庵治の皇子神社と鶴尾神社)。※小豆島の皇子神社の祭神は調査中
また、皇子神社から遠くない場所には、和邇氏が創建したと考えられる鰐河神社と和邇賀波神社があります。また、鶴尾神社の裏山の石清尾山古墳群には和邇氏との関係性が推進される全国でも珍しい双方中円墳が3基もあります(猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳)。
私は、仁徳天皇(巨勢氏の星川建彦)による宇治天皇(ウジノワキイラツコ)の暗殺後、現在の天理市庵治町にいた皇子(宇治天皇の子)と母(和邇氏の出身)、従者の和邇氏一行は讃岐へ逃れ、その土地にウジノワキイラツコを祀る神社を創建した。彼らはまた、和邇賀波神社、鰐河神社も創建した。石清尾山古墳群の双方中円墳(猫塚古墳、鏡塚、稲荷山北端古墳)は和邇氏が築造したのではないかと考えています。
・庵治(あじ)村誌

・高松市庵治町にある皇子神社。ウジノワキイラツコを祀る。



・国立ハンセン病療養所がある大島内にある皇子神社 (祭神はウジノワキイラツコ)



・ウジノワキイラツコの母は和邇氏の出身。香川県木田郡三木町にある鰐河神社と和邇賀波神社(わにかわじんじゃ)


・宇治天皇 (ウジノワキイラツコ)

宇治上神社 (宇治宮跡)、及び宇治神社以外で、菟道稚郎子 (ウジノワキイラツコ)を祀る神社は、全国的に見ても非常に珍しい。
・高松市庵治町 皇子神社 (祭神: ウジノワキイラツコ)
・高松市 大島 皇子神社(祭神: ウジノワキイラツコ)
・小豆島 皇子神社 (祭神: 調査中。元はウジノワキイラツコを祀っていたと考えられるが時代を経て祭神が変わった可能性がある)
・高松市 鶴尾神社 (祭神: ウジノワキイラツコ、応神天皇、神功皇后)


・鶴尾神社の祭神

著者のプロフィール
森啓成 (モリヨシナリ)
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。
その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。
現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。
【保有資格】
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
【メディア・研修実績】 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。
観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。
四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。
・香川県登録通訳案内士サイト
・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」



・全国通訳案内士登録証 英語

・全国通訳案内士登録証 中国語

・香川せとうち地域通訳案内士登録証 中国語

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1. 『播磨国風土記』における「宇治天皇」の記載
播磨国風土記における宇治天皇の記述は以下の通りです。
『播磨国風土記』揖保郡 大家里の原文と読み下し文
原文(漢文)
宇治天皇の御世、天皇病を発して、此處に坐しましき。天皇の詔(みことのり)りしたまはく、「吾(あ)、もし病愈(い)えなば、必ず此の処に宮を造らむ」とのりたまひき。天皇の病愈えぬ。天皇、かの誓(ちかひ)のごとく、賀古(かこ)の松原に宮を造りたまひき。故に、此の里を大家(おほやけ)といふ。
また、宇治天皇、賀古の川に在る鮎(あゆ)を食したまはざりき。故に、今に至るまで、此の鮎を食ふ者、口に厭(いと)はずといふことなし。
読み下し文(現代語に近い表記)
宇治天皇の御世に、天皇が病気になられて、この地にいらっしゃいました。天皇は詔(みことのり)で「もし私の病気が治ったなら、必ずこの場所に宮殿を造ろう」とおっしゃいました。天皇の病気は治りました。そこで天皇は、その誓いの通り、賀古の松原に宮殿を造られました。だから、この里を「大家(おおやけ)」といいます。
また、宇治天皇は、賀古の川にいる鮎を召し上がらなかったので、今に至るまで、この鮎を食べる者は、まずいと言うことがない、とされています。
意味と解釈
この記述は、地名の由来や伝説を伝える風土記の典型的な形式をとっています。
病気平癒と宮殿建立の誓い: 宇治天皇(応神天皇の皇子、菟道稚郎子)が病気になった際、「病が癒えたらここに宮を建てよう」と誓いを立てたという伝承です。病が治った後、天皇が宮を建てたことで、この地が「大家(おほやけ)」(=天皇や朝廷の公的な場所)と呼ばれるようになったと説明しています。
鮎(あゆ)に関する伝承: 宇治天皇が賀古の川の鮎を食べなかったという話も記されています。その結果、その川の鮎は誰もが美味しいと感じ、まずいという人がいない、という伝説が語られています。
これらの記述は、古代の天皇や皇子と特定の地域を結びつけることで、その土地の重要性や由緒を強調する目的があったと考えられます。また、人々の生活に密着した自然(この場合は鮎)にまつわる伝承を語ることで、地元の文化を伝えています。
記述に登場する地名の現在の比定地
『播磨国風土記』に記された地名と、現在の地名との対応は以下の通りです。
揖保郡(いぼぐん) 大家里(おおやけのさと): これは、現在の兵庫県たつの市揖保町の地域に比定されています。特に「大家」は古代の村名であり、現代の行政地名として「大家」という表記がそのまま残っているわけではありません。この地域には、大家の里があったとされる由緒ある神社などが存在しています。
賀古(かこ)の松原・賀古の川: これは、現在の兵庫県加古川市一帯の地名です。
「賀古の川」は、現在もその名で親しまれている加古川を指します。
「賀古の松原」は、現在の高砂市から加古川市にかけて広がる海岸沿いの松林を指します。 この記述から、宇治天皇が揖保郡(現在のたつの市)から東にある賀古の地(現在の加古川市)に宮殿を建てたという伝承が読み取れます。




「宇治天皇」とは:
この「宇治天皇」とは、一般的に応神天皇の皇子である菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)を指すとされています。
「天皇」表記の意味: 『古事記』や『日本書紀』では、菟道稚郎子(宇治天皇、ウジノワキイラツコ)は皇太子として記されながらも、最終的には皇位に就かずに亡くなった(または皇位を譲った)とされています。しかし、『播磨国風土記』のような地方の史料で彼が「天皇」という尊称で記されていることは、非常に重要な意味を持ちます。
これは、彼が一時的にでも実際に皇位に就いていた可能性、あるいは皇位に準ずるほどの強い政治的権力と地位を持っていた可能性を示唆しています。
もし彼が「天皇」であったとすれば、その後の死は単なる病死や自死ではなく、皇位を巡る政治的な対立や排除、すなわち「皇位争い」の結果であったという解釈を強く裏付ける根拠となり得ます。
2. 菟道稚郎子と仁徳天皇の皇位争い
菟道稚郎子と仁徳天皇(大雀命)の間の皇位継承は、古代史における大きな論点であり、単なる兄弟の譲り合いの美談としてだけでなく、皇位を巡る激しい争いであったという見方が有力です。
『日本書紀』の「美談」:
『日本書紀』では、応神天皇の皇太子であった菟道稚郎子が、兄の大雀命(後の仁徳天皇)に皇位を譲るために自ら命を絶ったという「美談」として描かれています。これは、兄弟間の高潔な譲位の精神や、天下の安定を願う高潔な人物像を示すものとされます。
『古事記』の簡潔な記述:
『古事記』では、両皇子が皇位を譲り合った後、菟道稚郎子が「早く崩りましぬ」(若くして亡くなった)と簡潔に記されており、自殺や皇位を譲るための具体的な死の描写はありません。この簡潔さが、後世の様々な解釈を生む余地を与えています。
「皇位争い」説の根拠:
『播磨国風土記』の「宇治天皇」表記: 上述の通り、彼が実際に天皇であった可能性を示唆し、その死が政争の結果であったことを強く示唆します。
史料批判の観点: 『日本書紀』が編纂された時代背景を考えると、天皇の権威を高め、仁徳天皇を「聖帝」として理想化する意図があった可能性が指摘されます。その場合、皇位を巡る血なまぐさい争いなどの不都合な事実が美化・隠蔽された可能性も考えられます。
当時の皇位継承の不安定性: 古代の皇位継承は、必ずしも父子相続が確立されておらず、兄弟間や有力豪族の意向が強く反映されることが珍しくありませんでした。応神天皇の時代も、複数の皇子が存在し、それぞれの背後には支持する豪族がいたと考えられ、皇位継承を巡る緊張関係は常に存在しました。
これらの点から、菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の死は、単なる兄弟愛の物語ではなく、当時の政治的な背景や皇位継承の厳しさを反映した、権力を巡る争いの結果であったという見方が有力です。
3. 菟道稚郎子の没年と母親、和邇氏(わにうじ)との関係
菟道稚郎子の没年:
菟道稚郎子の正確な没年は不明です。記紀の記述から、応神天皇の崩御後、仁徳天皇即位までの3年間の空位期間中に亡くなったとされていますが、具体的な西暦年は確定されていません。
菟道稚郎子と仁徳天皇の母親:
菟道稚郎子の母親は、和邇氏出身の宮主宅媛(みやぬしやかひめ)です(『古事記』では宮主矢河枝比売)。
仁徳天皇(大雀命)の母親は、仲姫命(なかつひめのみこと)です(『古事記』では中日売命)。
両者はともに応神天皇の皇子ですが、母親が異なる異母兄弟にあたります。
・応神天皇の皇后は、仲姫(仁徳天皇の母)、ウジノワキイラツコは母は、和邇氏出身の宮主宅媛。応神天皇はウジノワキイラツコを寵愛する。


和邇氏と菟道稚郎子:
菟道稚郎子の母親である宮主宅媛は、和邇氏の出身です。和邇氏は大和国(現在の奈良県)添上郡和珥郷を本拠地とする有力豪族であり、宮主宅媛が応神天皇の妃となったことで、和邇氏は皇室の外戚として強い影響力を持つようになりました。
このことから、菟道稚郎子と仁徳天皇の皇位争いは、単なる兄弟間の問題だけでなく、背後に控える和邇氏と他の有力豪族との間の勢力争いという側面も持っていたと考えられます。
4. 讃岐(香川県)における菟道稚郎子を祀る神社
讃岐(現在の香川県)の小豆島、庵治、大島に「皇子神社」があり、高松市の鶴尾神社でも菟道稚郎子を祀っているという事実は、非常に興味深い点です。菟道稚郎子を祀る神社は、その名の由来となった宇治(京都府宇治市)の宇治神社や宇治上神社以外では、全国的に見ても非常に稀です。
なぜ讃岐に菟道稚郎子を祀る神社が存在するのかについては、明確な史料が不足しているため推測となりますが、以下のような理由が考えられます。
水運・交通路との関連性:
古代において、瀬戸内海は畿内と西日本を結ぶ重要な交通路でした。和邇氏が水軍や外交に関わっていたように、皇族や有力豪族も水運を通じて各地と交流していました。
菟道稚郎子自身、あるいは彼を支持する勢力が、瀬戸内海の要衝である讃岐と何らかの形で関わりを持っていた可能性が考えられます。
菟道稚郎子亡き後、その皇子と母、和邇一族の讃岐への逃亡:
記紀に書かれた皇位の譲り合いの美談は考え難い。応神天皇は菟道稚郎子に皇位を継承させ宇治天皇として即位し、宇治に宮を構えた。しかしながら、兄の仁徳天皇は暗躍し、宇治宮を奇襲、宇治川に逃げた菟道稚郎子(宇治天皇、ウジノワキイラツコ)は乗った舟を激しく揺らされ川に落ちて溺死した。
当時は通い婚で、ウジノワキイラツコの皇子と母は、現在の奈良県天理市庵治町に住んでいたが、仁徳天皇らに殺されると考え、命からがら瀬戸内を渡り、讃岐へ逃れた。この皇子がいた場所は、皇子(おうじ)だったが、庵治(おうじ)に漢字を変えた。皇子一行は、まず、小豆島に立ち寄り、ウジノワキイラツコを祀る皇子神社を建てた。その後、庵治に移り、大島と庵治に皇子神社を建てた。
『播磨国風土記』の記述との関連性:
播磨と讃岐は瀬戸内海を挟んで近接しており、『播磨国風土記』に「宇治天皇」の記述があるように、この地域一帯に菟道稚郎子に関する伝承や信仰が広まっていた可能性も考えられます。
🔸宇治神社と奈良県天理市庵治(おうじ)町

・和邇氏の拠点である和邇下神社と庵治町

・天理市庵治町から中百舌鳥

・中百舌鳥と小豆島

・小豆島の皇子神社と高松市庵治町

・小豆島の皇子神社



・高松市庵治町の皇子神社。ウジノワキイラツコを祀る。

・庵治町の皇子神社と大島

高松市庵治町にある皇子神社のだんじりの意味
※【動画】庵治の船祭り。王之下だんじり。江の浦 練り。 この祭りのだんじりは、仁徳天皇の策略により、宇治川で乗っていた舟を激しく揺らされ川に落ち、溺死した宇治天皇(菟道稚郎子: ウジノワキイラツコ)が味わった恐怖を忘れぬよう後世に伝える為にその場面を再現していると考えられる。
・YouTube動画: 船祭りのだんじり
赤いタスキをつけた子供が激しく揺らされる。赤いタスキはウジノワキイラツコの血を表しているのではないか。この船祭りのだんじりは、ウジノワキイラツコで舟を激しく揺らされ川に落とされ溺死したウジノワキイラツコを表していると推測する。

・国立ハンセン病療養所がある大島


・大島の皇子神社 (祭神: ウジノワキイラツコ)


・高松市庵治(あじ)町の皇子神社と鶴尾神社

・鶴尾神社


5. 和邇氏と讃岐の和邇賀波神社、鰐河神社の関係
香川県木田郡三木町に存在する鰐河神社(わにかわじんじゃ)や和邇賀波神社(わにかわじんじゃ)が和邇氏によって創建された可能性については、有力な説として存在します。
神社名と氏族名の共通性: 神社名に「鰐(わに)」や「和邇(わに)」の文字が含まれている点が、直接的な関連性を示唆しています。ウジノワキイラツコの皇子と母(和邇氏)、和邇氏一行が奈良の庵治から讃岐に逃れてきてその一帯にウジノワキイラツコを祀る神社を創建したり、和邇氏がこれらの鰐河神社や和邇賀波神社を創建したのでしょう。
和邇氏の役割と活動範囲: 和邇氏は大和朝廷において水軍や外交を担う重要な氏族でした。瀬戸内海は古代の主要な交通・軍事ルートであり、和邇氏がその支配や安全のために、讃岐の要衝に自らの氏神や縁のある神を祀る神社を創建したり、既存の祭祀に関与したりした可能性は十分に考えられます。
水神信仰との結びつき: 「鰐」という字が使われる神社は、しばしば水神信仰と結びついています。和邇氏が水との関わりが深かったことを考えると、彼らが信仰していた水神としての「ワニ」が、これらの神社名や祭祀に反映されている可能性もあります。
これらの要素から、和邇氏が何らかの形でこれらの神社の創建や祭祀に関与した可能性は非常に高いと考えられています。
・高松市庵治町と和邇賀波神社

・鰐河神社と和邇賀波神社

・鰐河神社と和邇賀波神社の祭神は、鰐神の豊玉姫

宇佐神宮の祭神は、応神天皇、宗像三女神、神功皇后となっているが、豊国の宇佐家の姫だった豊玉姫も祀られている説がある。
下記の地図: ①は鰐河神社、②は高松市庵治町にある皇子神社、③は高松市川島東町にある皇子神社(祭神は調査中)

下記の③は、高松市川島東町にある皇子神社


下記の③は高松市川島東町の皇子神社、②は鶴尾神社

・高松市川島東町にある皇子神社

6. 和邇氏と双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)の関係
和邇氏と双方中円墳の最も顕著な関係は、代表的な双方中円墳が和邇氏の勢力範囲内に築造されているという点です。
櫛山古墳(くしやまこふん):
奈良県天理市に位置する全長約150メートルの大型古墳で、双方中円墳として広く知られています。 築造時期は4世紀末から5世紀初頭頃とされています。
この櫛山古墳が築造された地域は、まさに和邇氏の本拠地である和珥郷に近い場所に位置しています。このことから、櫛山古墳は和邇氏の大首長の墓である可能性が極めて高いと指摘されています。
和邇氏の墓制の特殊性: 櫛山古墳のような双方中円墳が和邇氏の本拠地近くに築造されたこと、また高松市の石清尾山古墳群に3基の双方中円墳的が見られることは、当時の和邇氏が、大和朝廷の中心的な勢力とは異なる、独自の権力基盤と葬送儀礼を持っていたことを示唆しています。
有力豪族の独自性: 当時、大和朝廷は前方後円墳を標準的な形式として全国に広めていましたが、和邇氏のような特に力を持った一部の有力豪族は、それに従わない独自の墳形を持つ古墳を築造していたと考えられます。これは、彼らが大王(天皇)に匹敵するか、それに次ぐほどの強い独立性を保持していた可能性を示唆します。
古墳文化の多様性: 双方中円墳の存在は、前方後円墳が全国に普及する以前、あるいはその過程において、古墳文化に多様な地域性や豪族の個性が反映されていたことを示す重要な証拠となります。
・天理市庵治町と櫛山古墳 (双方中円墳)

・高松市の石清尾山古墳群には、全国で5基しかない双方中円墳が3基もある(猫塚古墳、鏡塚古墳,稲荷山北端古墳)

・鶴尾神社と石清尾山古墳


・稲荷山北端古墳

7. 主な古墳の分類と築造時期
奈良県天理市の櫛山古墳(くしやまこふん):
分類: 双方中円墳
築造時期: 4世紀末から5世紀初頭頃。
特徴: 和邇氏の本拠地近郊に位置し、和邇氏の大首長の墓である可能性が高い
香川県高松市の石清尾山古墳群(いわせおやまこふんぐん):
高松市にある大規模な積石塚古墳群です。
讃岐国(香川県)の有力豪族によって築造されたものと考えられています。
この古墳群には、以下の古墳が含まれます。
猫塚古墳(ねこづかこふん):
分類: 双方中円墳
築造時期: 4世紀前半。
鏡塚古墳(かがみづかこふん):
分類: 双方中円墳
築造時期: 古墳時代前期の末から中期初頭(4世紀後半から5世紀初頭頃)。
稲荷山北端古墳(いなりやまほくたんこふん):
分類: 双方中円墳
築造時期: 古墳時代中期(5世紀前半頃)。
双方中円墳の共通性: 地理的に離れた大和(和邇氏本拠地)と讃岐(石清尾山古墳群)で、同じ時期に双方中円墳という稀な墳形が見られることは、当時の大和政権を巡る政治情勢や、各地域豪族間の連携など、より広範な視点から考察されるべき重要なテーマです。
以上
