播磨国風土記に記載がある宇治天皇(応神天皇の皇子: ウジノワキイラツコ)の記述と仁徳天皇に関する一考察。 記紀とは違う歴史
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トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。
私は、現在、香川県在住です。播磨国風土記に記述がある宇治天皇 (応神天皇の皇子: ウジノワキイラツコ)の亡き後、皇子とその親族達が星川建彦の軍から逃れて奈良の庵治から瀬戸内海を渡り、讃岐の地にたどり着いた後の足跡を調査しています。
これまで、庵治の皇子神社、鶴尾神社、和爾賀波神社、大島、沙弥島を現地訪問してきました。
今回は、播磨国風土記の宇治天皇と仁徳天皇に関する一考察をお届けします。
考察
播磨国風土記に記述が残る宇治天皇(応神天皇の皇子:ウジノワキイラツコ)と仁徳天皇について考察する。
菟道稚郎子 (ウジノワキイラツコ) は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。
郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治にある。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。
中でも、父の応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。
ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。
これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている。
「日本書紀」に書かれているような兄弟の皇位譲り合いの美談は、実際問題として考えにくく、菟道稚郎子 (ウジノワキイラツコ) は応神天皇亡き後、宇治天皇として京都の宇治宮(宇治上神社)で即位したが、後に仁徳天皇となる人物との間に何らかの事件が起こり仁徳天皇が天皇となったと考えるのが自然だろう。
出雲口伝によると、当時、三韓征伐に功があった葛城(竹内)襲津彦の子孫の一族たちはウジノワキイラツコの天皇即位に不満を募らせていた。その不満分子をまとめあげたのが巨勢氏の星川建彦(後の仁徳天皇)だ。彼はクーデターを起こしウジノワキイラツコがいた宇治宮(現在の宇佐上神社と宇治神社)を南北から挟み撃ちにして攻め、実戦に慣れていなかったウジノワキイラツコを宇治川で溺死させた。
三韓征伐を成したのは神功皇后と葛城(竹内)襲津彦(そつひこ)で、その間に生まれた子は七才で夭折する。神功皇后は上毛野にいた豊玉姫の子孫にあたる竹葉瀬ノ君を養子にとり、後に応神天皇となった。だから、応神天皇とウジノワキイラツコは宇佐家の豊玉姫の血を引く。その為、月読を信仰した。
※ 神功皇后→新羅王子 天日槍(アメノヒボコ)、田道間守の子孫 。天日槍は新羅から渡来し、兵庫県出石(いずし)を拠点とした。出石神社の祭神は天日槍。神功皇后が三韓征伐した理由は、自分が新羅王の子孫であり、年貢を得る権利があると主張したためであり、葛城襲津彦(武内襲津彦)と共に百済、新羅を襲った。三韓征伐の後、年貢の米を保管したのが住吉大社。
※ 応神天皇→神功皇后と葛城(武内)襲津彦の間の子が夭折した為、上毛野国から秘密裏に竹葉瀬ノ君を養子として向かえ、即位させた。その理由は、新羅王の血を引く子でないと新羅が年貢を納めなくなる為。竹葉瀬ノ君は、豊玉姫の子の豊入来彦の子孫であるため、応神天皇が、宇佐神宮に祀られている。
飛鳥時代になってからウジノワキイラツコの母の出身家系である和迩(わに)氏の子孫の柿本人麻呂は宇治川での出来事を歌に詠み、その歌が残されている。和迩氏一族の中では、ウジノワキイラツコの悲劇が語り継がれていた。
柿本人麻呂の生涯を調べていくと讃岐を訪れており、その際に、水中に漂う死者を偲んで詠んだ歌が残っている。実際、坂出市の沙弥島には柿本人麻呂の歌碑が建立されている。
柿本人麻呂はウジノワキイラツコの惨劇を忘れられないようにする為、そして藤原不比等をはじめとする記紀の編者らから本当の歴史を消されないようにする為、歌に詠んで、残したと考えられる。
これらの歌を下記の記事に記した。柿本人麻呂が意図した内容とは違う解釈がなされている為、これらの歌は現在でも消されずに、残っている。
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仁徳天皇(巨勢氏の星川建彦)による宇治天皇(ウジノワキイラツコ)の暗殺後、現在の天理市庵治にいたウジノワキイラツコの皇子と従者の和邇氏一行は星川建彦一族に殺されると思い命からがら瀬戸内海を渡り、讃岐へ逃れ、そして、その土地にウジノワキイラツコを祀る神社を創建した。
京都の宇治上神社と宇治神社以外で、ウジノワキイラツコを祀る神社は全国でも非常に珍しいが、高松にはウジノワキイラツコを祀る皇子神社が複数残されている。
・京都の宇治上神社と天理市庵治町

・天理市庵治町と高松市庵治町

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私は現在、香川県に住んでおり、このウジノワキイラツコの皇子一行の足跡について調査している。
高松市の庵治にある皇子神社では、ウジノワキイラツコを祀る。元々、この神社は高台でなく浜辺に近い場所に創建された。
・庵治の皇子神社。元は海辺の近くにあったが、江戸時代に高松藩主 松平頼重の治世のとき現在の地に移された。

・庵治村誌

庵治村誌を調べていくと、国立ハンセン病療養所がある大島にも皇子神社があり、ウジノワキイラツコを祀っている。
実は、私は、瀬戸内国際芸術祭の公式ガイドをしていた関係でこの大島には何度も訪れている。この大島もそうだが、小豆島や庵治、石清尾山の麓にもウジノワキイラツコを祀る神社があり偶然とは考えにくい。


高松市にある鶴尾神社もウジノワキイラツコを祀る。

・高松市春日西町にある鶴尾神社を訪問。


訪問時に確認したが、祭神は応神天皇 (養子。宇佐家の豊玉姫の血を引く竹葉瀬ノ君)、神功皇后 (応神天皇の義母)、ウジノワキイラツコ(応神天皇の皇子)となっている。

・鶴尾神社の裏は石清尾山古墳群となっており、200基以上の古墳がある、

・小豆島にも皇子神社がある。

高松市の庵治で行われる船祭りのだんじりは、宇治川で船を激しく揺らされて溺れさせられたウジノワキイラツコの恐怖と苦しみを忘れないようにする為に再現されるようになったと考えられる。赤いタスキはウジノワキイラツコの血を表す。
この祭りでは少年たちが乗っているだんじりが激しく揺らされる。見ていても恐怖を感じるくらい揺らされ、地面に垂直に立てられる。これは、ウジノワキイラツコが宇治川で船が船頭により揺らされ転覆した様子を再現していると考えられる。現在では元来のいわれは封印されている。


だんじりの動画
庵治の皇子神社と木田郡の鰐河神社。鰐河神社のすぐ近くに和邇賀波神社がある。神社の名称に、そのまま鰐をつけるのはあまりにもあからさまに和爾氏との関係を表している。

ウジノワキイラツコの皇子一行は和邇賀波神社、鰐河神社も創建したと考えられる。
また、鶴尾神社の裏山の石清尾山古墳群には日本に五基しかない双方中円墳が三基もある (猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳)。これらの古墳も、和邇氏一族が築造したのではないか。奈良の和邇氏一族の拠点にも双方中円墳の楠山古墳がある。

鰐河神社の祭神は豊玉姫と応神天皇、和爾賀波神社の祭神は豊玉姫である。宇佐神宮の祭神は応神天皇だが、実は豊玉姫も祀られていると言われる。
鰐河神社と和爾賀波(わにかわ)神社と名付けられたのは、ウジノワキイラツコの皇子一行の中には和爾氏と応神天皇に仕えていた者たちも混ざっていたのだろう。高松市の鶴尾神社も応神天皇とウジノワキイラツコ、神功皇后を祭神とする。竹葉瀬ノ君である応神天皇、その皇子のウジノワキイラツコは宇佐家の豊玉姫の血をひき、月を信仰していた。宇佐家のうさは兎(うさぎ)を表す。宇治神社には兎の姿が多く見られる。高松市の庵治の船祭りは、満月の夜に行われる。
ウジノワキイラツコの死により、応神王朝は滅んだが、記紀は天皇家を万世一系とする方針だった為、この巨勢氏の星川建彦への王朝交代を隠して編集された。
星川建彦の即位により、巨勢氏(こせし)は後に大雀臣(おおさざきのおみ)へと名前を変えた。
・宇治神社の見返り兎

・宇治神社の兎。

・鶴尾神社、猫塚古墳

・宇治神社、宇治上神社、宇治川

播磨国風土記
応神天皇
応神天皇の皇子(ウジノワキイラツコ)
雌鳥皇女(めとりのひめみこ): ウジノワキイラツコの同母妹
星川建彦 (仁徳天皇) 巨勢(こせ)氏
古代の豪族。
武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫。「新撰姓氏録」によれば,応神天皇のとき皇太子大鷦鷯(おおさざきの)尊(のちの仁徳天皇)にかわって御膳をつかさどり,大雀臣(おおさざきのおみ)の氏姓をあたえられた。雀部朝臣(さざきべのあそん)の祖とされる。名は建日子とも。
ウジノワキイラツコの母親:宮主宅媛 (渡来系の和迩氏)
宮主宅媛(みやぬしやかひめ)
応神天皇の妃。
和珥(わに)氏の祖,日触使主(ひふれのおみ)の娘。応神天皇2年妃となり,菟道稚郎子(うじのわきいらつこ),矢田皇女,雌鳥(めとりの)皇女を生んだという。「古事記」では宮主矢河枝比売(やかわえひめ)。
『播磨国風土記』揖保郡 大家里の原文と読み下し文

原文(漢文)
宇治天皇の御世、天皇病を発して、此處に坐しましき。天皇の詔(みことのり)りしたまはく、「吾(あ)、もし病愈(い)えなば、必ず此の処に宮を造らむ」とのりたまひき。天皇の病愈えぬ。天皇、かの誓(ちかひ)のごとく、賀古(かこ)の松原に宮を造りたまひき。故に、此の里を大家(おほやけ)といふ。
また、宇治天皇、賀古の川に在る鮎(あゆ)を食したまはざりき。故に、今に至るまで、此の鮎を食ふ者、口に厭(いと)はずといふことなし。
読み下し文(現代語に近い表記)
宇治天皇の御世に、天皇が病気になられて、この地にいらっしゃいました。天皇は詔(みことのり)で「もし私の病気が治ったなら、必ずこの場所に宮殿を造ろう」とおっしゃいました。天皇の病気は治りました。そこで天皇は、その誓いの通り、賀古の松原に宮殿を造られました。だから、この里を「大家(おおやけ)」といいます。
また、宇治天皇は、賀古の川にいる鮎を召し上がらなかったので、今に至るまで、この鮎を食べる者は、まずいと言うことがない、とされています。
意味と解釈
この記述は、地名の由来や伝説を伝える風土記の典型的な形式をとっています。
病気平癒と宮殿建立の誓い: 宇治天皇(応神天皇の皇子、菟道稚郎子)が病気になった際、「病が癒えたらここに宮を建てよう」と誓いを立てたという伝承です。病が治った後、天皇が宮を建てたことで、この地が「大家(おほやけ)」(=天皇や朝廷の公的な場所)と呼ばれるようになったと説明しています。
鮎(あゆ)に関する伝承: 宇治天皇が賀古の川の鮎を食べなかったという話も記されています。その結果、その川の鮎は誰もが美味しいと感じ、まずいという人がいない、という伝説が語られています。
記述に登場する地名の現在の比定地
『播磨国風土記』に記された地名と、現在の地名との対応は以下の通りです。
揖保郡(いぼぐん) 大家里(おおやけのさと): これは、現在の兵庫県たつの市揖保町の地域に比定されています。特に「大家」は古代の村名であり、現代の行政地名として「大家」という表記がそのまま残っているわけではありません。この地域には、大家の里があったとされる由緒ある神社などが存在しています。
賀古(かこ)の松原・賀古の川: これは、現在の兵庫県加古川市一帯の地名です。
「賀古の川」は、現在もその名で親しまれている加古川を指します。
「賀古の松原」は、現在の高砂市から加古川市にかけて広がる海岸沿いの松林を指します。 この記述から、宇治天皇が揖保郡(現在のたつの市)から東にある賀古の地(現在の加古川市)に宮殿を建てたという伝承が読み取れます。




鶴尾神社
鰐河神社
和爾賀波神社
著者のプロフィール
森啓成 (モリヨシナリ)
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。
その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。
現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。
【保有資格】
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
【メディア・研修実績】 香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載、瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。
観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。
四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。
・香川県登録通訳案内士サイト
・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」

・全国通訳案内士登録証 英語

・全国通訳案内士登録証 中国語

・香川せとうち地域通訳案内士登録証 中国語

・四国遍路通訳ガイド協会会員証

