【創作大賞2025応募作品】書くことで、私はあなたに触れていた
あらすじ:声にならないまま、あなたを愛した
編集者・風間瞬は、下北沢の小さな編集プロダクションで、静かに、しかし誠実に作家たちと向き合っていた。
ある日、持ち込み原稿として現れた若き女性作家・白石凛。
彼女の言葉には、誰にも届かぬ“祈り”のような痛みが宿っていた。
やがて、ふたりは“書くこと”と“読むこと”を通じて、互いの沈黙に触れ、声にならない感情を交わしていく。
だが創作の背後に潜む感情と、社会の視線が揺さぶりをかける。
“編集者と作家”という関係に留まらない想いは、
言葉にすれば壊れそうなほど脆く、美しかった。
「名前をつけずに、隣にいること」を選んだふたりが、最後に見つけたのは、言葉を超えた共鳴だった。
第1章:言葉の前で、呼吸が重なった日
小田急線の各駅停車が駅に滑り込む音とともに、下北沢の街が目覚める。
風間瞬は、改札を抜けた瞬間に胸の奥で何かがぴたりと静かに動き出したのを感じた。それは、微かな緊張感と、たしかに温度を持った期待とが混ざり合ったものだった。
駅前の雑踏は、朝の時間にしては賑やかだった。古着屋のシャッターが軋む音、ビラ配りの大学生の呼びかけ、どこからか流れてくるサックスの生演奏。雑多で自由、それでいて妙に整っている。これが下北沢という街の持つ“空気”なのだと、瞬はもう何度も感じてきた。
「ノワール編集室」は、その喧噪から少しだけ離れた、南口の古びたアパートの二階にある。かつてアパートの一室だった場所を改装した、小さな編集プロダクション。外階段をギシギシと軋ませながら上がり、引き戸を開けると、そこにはもう何年も変わらない風景があった。
コーヒーの香り、無造作に積まれたゲラの山、壁に貼られた各作家のスケジュール表。床はむき出しの木材のままで、ところどころに深く削れた傷がある。それは、この空間で積み重ねられてきた編集者と作家の戦いの軌跡そのものだった。
「おはようございます」
そう言って扉を開けると、デスクの向こうから、缶コーヒー片手に竹内が軽く手を振った。
「おー風間くん、おはよう。今日から白石凛さんが来るからね。あんたが担当だ。よろしく頼むよ」
風間はすぐに立ち止まり、姿勢を正した。
「……白石さん、というと……あの『境界線の花』を書かれた……?」
「ああ、そう。芥川賞候補にもなったじゃない。話題の新人作家。まだ一冊しか本は出してないけど、編集部内でもかなり注目されてるよ。なにせ……あの文体だからな」
竹内の言う「あの文体」は、まさに風間が感じていたものだった。
『境界線の花』それは、心の機微を鋭く描いた短編集で、どこか遠くで誰かが泣いているような、そんな静謐な痛みがページの奥からにじみ出ていた。とくにラストに収められた「水底の家族」という短編は、風間の胸に深く刺さっていた。
作者名を見たとき、意外だった。筆致は緻密で、年配の作家かと思ったのに、白石凛という名前と、写真に写った若い女性の姿に不意を突かれた。
きっと、実際に会ってみれば、また違った印象を受けるのだろう。
午後一時、白石凛は現れた。
風間がそれとすぐにわかったのは、彼女が扉を開けたとき、空気が一瞬変わったからだった。
白石凛は、控えめな服装をしていた。深い青色のワンピースに、白のカーディガン。装飾は一切なく、黒髪を後ろで一つに束ね、前髪は目にかからないように整えられている。無駄なものがひとつもない、まるで彼女の文章のような雰囲気だった。
「白石凛です。よろしくお願いします」
声は柔らかく、しかし言葉の輪郭ははっきりしていた。まるで、自分の文章のように、必要な言葉だけを選び抜いて、確実に届けるような話し方だった。
風間は少しだけ固くなっていた。相手が有名であることもあったが、それ以上に、その佇まいに、心のどこかを撫でられるような感覚があった。
「風間です。担当になります。よろしくお願いします。……あの、『境界線の花』、拝読しました。正直に言うと……読後に、静かな湖に沈んでいくような感覚になりました。呼吸するのを忘れてしまいそうで」
凛は、ほんのわずかに目を伏せ、そして微笑んだ。
だがその笑みは営業的でもなく、照れ隠しでもない。自分の作品が誰かに届いた、ということを、本当に純粋に受け止めた表情だった。
「ありがとうございます。……たぶん、いろいろご迷惑かけると思います。執筆、遅いですし、考えすぎる癖があるので……」
「そういうところも、文章に出ていると感じました。繊細で、でも……芯のようなものもある。そういう人だって、勝手に思ってました」
沈黙が少しだけ流れる。
風間は、ふと思い出したように手帳を取り出し、日程を確認した。
「今日は……まだご予定、ありますか?」
「いえ。今日は、編集部を見てから帰るだけのつもりでした」
「もしよければ、このあと、打ち合わせがてら喫茶店へ行きませんか。静かでいい場所があるんです。この辺り……そうですね、“コリドー”という店なんですけど」
「“コリドー”…ですか」
凛はその言葉の響きを確かめるように小さく口にしてから、静かに頷いた。
「……行きたいです。そういう場所で話すほうが、たぶん、私、話しやすいので」
それは、編集者としての誘いに対する返答でありながら、どこかで人としての一歩にも感じられた。
編集部を出た二人は、細い路地を歩いた。午後の光が商店街の端に差し込んで、路面に柔らかな陰影を落としていた。古本屋の軒先に並ぶ背表紙、古着屋のハンガーが揺れる金属音、ギターの弦を調律する路上ミュージシャンの手。
そのすべてが、風間の中で音楽のように溶け合っていた。そしてその横に、黙って歩く白石凛がいた。
“コリドー”は、古い洋館風の建物を改装した喫茶店で、内装はアンティークの家具で統一されている。重厚な木のテーブルと、少しだけ色あせたベルベットのソファ。壁には万年筆の絵が飾られ、静かにジャズが流れていた。
二人は向かい合って席に着き、それぞれブレンドコーヒーを注文した。
蒸気が立ちのぼり、カップの縁がほのかに曇る。
「こういう店、好きです」
凛がぽつりと言った。風間は頷いた。
「僕も、落ち着くので。ここ、前にある作家さんとよく来ていたんです。……その人、今はもう……書いてないんですけど」
ふと風間の目に、遠い記憶のようなものが浮かんでいた。凛はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。代わりに、ゆっくりと口を開いた。
「今日、ここに来るまでは、正直、不安でした。自分の文章を、どう読まれているのか。どう扱われるのか。でも……風間さんの言葉を聞いて、少し安心しました」
「ありがとうございます。でも、それは僕も同じです。白石さんと向き合うのは、少し怖くて。でも……今は、会えてよかったと思っています」
その言葉に、凛は何も返さなかった。ただ、小さく目を伏せて、指でカップの縁をなぞった。
その沈黙には、余白があった。
言葉にならない何かが、そっとそこにあった。
まだ始まっていない物語の、その最初の1ページの、ほんの端の、そのまた端。
二人の間に流れる沈黙は、重たくもなく、軽薄でもなかった。
風間瞬は、白石凛の視線が、店内の装飾品の一つひとつを丁寧になぞっていくのを感じていた。壁の古いタイプライターのモチーフ、天井の影を揺らすアンティークランプ、窓辺に飾られたドライフラワーのリース。
「コリドー」の空間は、どこか凛の文章に似ていた。主張しすぎず、それでいて繊細な輪郭を持ち、見つめれば見つめるほど深さを増していく。風間はそれに気づき、胸の内で一人、小さく笑った。
「白石さんは……普段、どこで執筆されてるんですか?」
問いかけると、凛は少しだけ考えてから答えた。
「家ですね。自宅のリビングに、机を置いて。……書くときは、部屋のカーテン全部閉めるんです。真っ暗な中で、画面の光だけ見ていたいから」
風間は頷いた。その光景が、まるで写真のように頭に浮かんだ。
静かな部屋。カーテンの隙間から漏れるわずかな街灯の光。そして、白いノートパソコンの画面に照らされた凛の横顔。
「その方が集中できるんですね」
「はい。でも……たまに、沈みすぎることもあります。言葉が深い場所に沈んでいって、気づいたら浮かんでこなくなってることもあって……」
凛は、かすかに唇を引き結んだ。
その一瞬の表情の変化が、風間には痛いほど伝わってきた。彼女にとって“書く”という行為は、単なる創作ではなく、自らを削りながら何かを掘り起こす儀式のようなものなのだと。
「そういうとき、どうしてますか? 無理に書き続ける? それとも、距離を置く?」
風間の質問に、凛は意外にも、はっきりとした答えを返した。
「書きます。止めると、戻って来られなくなる気がするから。たとえ文章がめちゃくちゃでも、とにかく……つなぎとめるように書いてます。言葉にすがってる、って感じです」
しばらくの沈黙。風間は、自分の胸の内で何かが疼くのを感じた。それは“感動”というありきたりなものではない。もっと原始的で、人と人との心が接触したときにしか起きない、静かな衝撃だった。
「……すごいです、白石さん。そういう風に書いてるって、読む側にも伝わってると思います。痛みとか、孤独とか。誰かの心の奥に、ちゃんと届くように」
凛は、まっすぐに風間を見つめた。
はじめて目が合ったときよりも、その視線は少しだけ長く、そして深かった。
「そうだと……いいんですけど」
その声には、わずかに揺れるような震えがあった。
自信と不安、期待と恐れすべてが入り混じった、まるでまだ熟しきらない果実のような、未完成のまま差し出された心の一部。
コーヒーの香りが再び立ちのぼり、ソファのクッションがわずかに沈む音がした。
風間は手帳を開き、これからの打ち合わせ予定を確認した。
「次作について、出版社からは“長編”で……という希望があるみたいです。ただ、テーマについては白石さんの自由にしていいと。ノワールも、それを尊重する方針です」
「長編……」
凛は小さくつぶやいた。
その言葉が、口の中でゆっくりと形を持っていくように。
「いま、いくつか断片的なモチーフはあるんです。人の声が聞こえすぎる女の子の話とか、言葉を失った男の話とか。でも、それを一本にまとめるには、何か核みたいなものが……まだ、見つかっていなくて」
「“核”って、白石さんにとってはどんなものですか?」
凛はしばらく考えてから、まっすぐ答えた。
「“誰かの痛みを、自分のことのように感じる瞬間”……かもしれません。小説って、突き詰めるとそこに行き着く気がするんです。誰かの物語を読んでいるのに、途中から自分の物語になる……あの瞬間を、書きたいって思ってます」
風間は、その言葉に圧倒されていた。
それはまだ荒削りで、形にもなっていない。けれど、確実に彼女の中に「物語の核」が芽吹いている。彼女の目には、それが見えている。
編集者として、その芽をどう守り、どう育てていくのか風間は初めて“担当する”ということの重みを、真正面から受け止めた気がした。
「じゃあ……その“誰かの痛み”を、一緒に見つけていきましょう。僕にできること、全部やります」
そう言ったとき、凛は少しだけ目を見開いた。そして初めて、ほんの少しだけ深く笑った。
「……風間さん、ほんとにまっすぐですね」
「え、そうですか? よく“気を遣いすぎる”とは言われるんですけど……」
「いえ、そうじゃなくて。ちゃんと……真ん中を見て話してくれてるっていうか。言葉の真ん中を」
風間は言葉に詰まり、頬をかすかに赤らめた。
こんな風に“言葉の核心”を掴まれることは、編集者としても、人としても、ほとんどなかった。
気づけば、夕方の光が店内に差し込み、カップの影を長く落としていた。
街の喧騒はどこか遠くに引いていき、コリドーの空気は、穏やかな波紋のように二人を包んでいた。
「今日は……ありがとうございました。思っていたよりも、いろんなことを話してしまいました」
凛が言ったその声には、ほんの少しの柔らかさが宿っていた。
「いえ、こちらこそ。お話できて、嬉しかったです」
扉を開けて外に出ると、空が群青色に染まり始めていた。下北沢の街は、夜に向かう準備を始めていた。ネオン、夕餉の匂い、音楽、カップルの笑い声。すべてが混ざり合い、日常という名の風景が目の前に広がっていた。
駅までの道すがら、二人はほとんど言葉を交わさなかった。だが、それが不思議と心地よかった。無理に埋める必要のない静けさが、そこにはあった。
この一日で、何が変わったのかそれを言葉にするにはまだ早すぎた。
けれど確実に、何かが動き出していた。編集者と作家、それ以上でも以下でもない二人の間に、名前のつかない何かが。
風間は、ホームで電車を待ちながら、ふと携帯を開いた。
メールには、凛からの短いメッセージが届いていた。
⸻
「今日はありがとうございました。
あの喫茶店、また行けたらうれしいです」
⸻
風間は、その一文を何度も読み返した。
返信の言葉を打つ前に、しばらく指を止め、そしてそっと、短く返した。
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「こちらこそ。今度は、僕のおすすめの本も持っていきますね」
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電車の音がホームに響く。
風間は電車に乗り込み、ドアが閉まる前に、下北沢の夜景を一度だけ振り返った。
物語はまだ、ほんの始まりの、扉の前にすぎなかった。
風間瞬が電車に揺られながら携帯を握っていたその頃、白石凛は一人で駅前の書店に立ち寄っていた。
彼女にとって、書店という場所は“空気の浄化装置”のようなものだった。人混みの中にいても、背表紙の並ぶ静けさの中に入ると、呼吸が整う気がする。まるで、本の群れに守られているような感覚。
薄暗くなったガラス越しに、街灯の光が差し込んでいた。時間は午後六時を回っていた。
彼女は文芸書の棚をゆっくりと歩いた。ふと、ある文庫本を手に取った。それは数年前にベストセラーになった恋愛小説だったが、彼女はそれをまだ読んだことがなかった。
なぜ読まなかったのかたぶん、“恋”という言葉に、どこかで怖れを抱いていたから。
書き手でありながら、恋愛というものに関しては、常に一歩引いてしまう自分がいた。
物語の中で人が傷つくことには耐えられるのに、現実で自分が傷つくことには、とても脆い。
だからこそ、物語を書いてきたのかもしれない。
書店を出ると、空気がひやりと冷たかった。
風間といた「コリドー」の店内が心地よすぎたせいか、現実の空気がやけに乾いて感じられた。
風間瞬。
口に出さず、その名前を心の中で繰り返す。
誠実で、少し緊張しがちで、けれど一言一言をとても大事にして話す人。
言葉を仕事にしている編集者の中には、ときに“文章”を軽く扱う人間もいる。自分の言葉で、作家を追い詰めるような人もいた。
でも彼は違った。
“言葉の真ん中”を見てくれる人だった。
ふと、凛はスマートフォンを取り出し、メールの送信履歴をもう一度見た。
「また、あの喫茶店に行けたらうれしいです」あまりに素直すぎるその一文に、自分でも少し驚いていた。
だが、風間から返ってきた「今度は、僕のおすすめの本も持っていきますね」というメッセージに、胸の奥に小さな熱を感じた。
“おすすめの本”。
その一冊に、彼がどんな思いを込めてくるのか、少し気になった。いや、それ以上に、彼が自分のことを「知ろうとしてくれている」という、その姿勢が嬉しかった。
その夜、凛は帰宅してすぐに、机に向かった。
部屋のカーテンを閉め、照明を最小限に落とし、MacBookの電源を入れる。
文章のファイルを開いた。まだタイトルも決まっていない。書きかけの長編の冒頭。
以前までは、“読者”の存在をぼんやりと意識していたが、今はふと、風間瞬という具体的な誰かの顔が浮かんだ。
彼に読まれることを想像するだけで、言葉の選び方が変わる。
その事実が、少しこわい。けれど、それ以上に嬉しい。
自分の文章が、誰かのために変化する可能性を持っている。その予感が、静かに彼女の胸を熱くした。
一方その頃、風間もまた自室で、凛の作品を再読していた。
『境界線の花』。発行部数はまだ少ないが、ネットではじわじわと感想が広がっている。
中でも彼が何度も読み返しているのは、やはり「水底の家族」だった。
溺れていく母と、それを岸からただ見つめる少女。少女が助けようとしたのは、母なのか、それとも過去の自分自身だったのか。
答えのない物語だったが、何度読んでも心に棘のように引っかかる。
風間はそのページを閉じ、棚から一冊の本を取り出した。
それは、彼が高校生のときに何度も読んだ村上春樹の短編集だった。
初めて「小説の余白」というものを知った作品だ。何も言っていないのに、言いすぎてしまう。誰も泣いていないのに、泣いてしまう。
「……これ、持っていこうかな」
独り言のように呟いたあと、彼はその本を丁寧に封筒に入れた。
付箋には「これは“余白”の美しさの本です。ぜひ読んでみてください。」と書き添えた。
まるで、中学生のような手紙のようだったが、それでよかった。変に大人ぶった言葉では、彼女には届かない気がした。
夜は更けていた。
下北沢の街も、人の声が遠のき、夜行バスの通過音だけが聞こえていた。
二人は、まだほんの数時間前に出会ったばかり。
でも、互いの中に“言葉”でしか生きられない共鳴を見つけかけている。
編集者と作家。
その関係は、やがて仕事という枠を超え、別の意味を持ち始める。
ただ、その未来を知る者は、まだどこにもいなかった。
そして風間瞬と白石凛の物語は、静かに、しかし確実に「書き始められて」いた。
⸻
-完-
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